第3話 王国


 デートの日、私は黄色のカーディガンに紺のチノパンを履いていった。それは私のお気に入りの格好だった。自転車でリズの住むアパート前まで行くと、ちょうど彼が出てきたところだった。彼は相変わらず黒一色の格好をしている。「今日も黒なのね」と言うと、「黒しかないんだよね」と彼は笑った。


 暖かな春の日差しに包まれて、私たちは街を自転車で滑ってゆく。顔が合えばわけもなく笑い合った。それはとても幸せなことだった。角を曲がると下り坂にさしかかり、その先には見渡す限りの水平線が街を越えて伸びていた。


 リズはブレーキをかけずに一気に下ってゆく。私は「待ってよー!」と慌ててリズを追いかけた。リズは一瞬こっちを見て「早く来いよー」と言った。そのまま呑気に両手を放しさえする。リズの高らかな笑い声が切る風に混じって聞こえてきた。私は「もー!」と怒りながら、でもそれを楽しんでいた。このまま風に運ばれて飛べるんじゃないかしら。水平線を見つめればそんな気になった。その時はリズと一緒に、二人きりで誰も知らない世界へ行くの。そこで旅をして愛し合う。それは素敵な妄想だった。でも、本気になれば叶えられそうな夢の気もした。



 美術館は坂を下ってしばらく海沿いを走ったところにあった。海に面して地中海のように白一色の巨大な箱が建っていた。それはモダニズム建築に特有のシンプルな外観だった。中に入れば、丸天井に吹き抜けのエントランスホールが出迎えた。入り口でチケットを渡し、リズが先立ってカーブを描く階段を上ってゆく。


 定期的に開かれる美大生の作品展覧会は二階に上がって奥にあった。そのフロアに足を踏み入れると、彫刻から絵画まで様々な作品を楽しむことができた。学生らしい人が数人、作品を鑑賞しているのを見かけた。


「リズの作品はどれ?」

「ぼくのはこの次だよ」


 そう言ってリズが案内してくれた先には、一際大きくスペースをとって、平面的に展示されているミニチュアの街があった。その展示ケースの中には、大小様々な建物が円形状に配置されていて、その中心には円いドームを構えた宮殿が建っていた。しかもそれはすべて透明なガラスでできていた。建物も通りをゆく人も街路樹もみんな澄んだガラスでできていた。作品名を見れば、それは『ガラスの王国』だった。


 私はその作品における世界観の純度に驚いた。それは少しでも突けば一息にすべてが瓦解してしまうような危うさがあった。それでも丁寧に一つ一つが時間をかけて作りこまれているのがわかる。というのも、そこに暮らす人の表情までもが読み取れるからだ。ただ、その透明さのゆえにそこで暮らすどの人にも寂しさがつきまとっていた。人だけではない。建物も木々もそのどれもが影に深い孤独をたたえていた。


 改めてリズを見つめる。リズは私を見つめ返して笑った。今まで意識したことはなかったけれど、改めてよく見ると、彼の笑顔にはいつも影がつきまとっていた。決して辺りを照らす光だけではない。彼の笑顔には誰にも見せない暗い部分が潜んでいる。


 私は狂おしい気持ちに駆られた。ああ、知りたい。あなたのすべてを。裏側をひっくり返して見てみたい。でもきっと、ちょっとでもこじ開けようとすれば、この王国のように彼の心は崩れ落ちてしまうだろう。それはもどかしい一方で、いっそう私を惹きつけるのだった。


「ぼくは毎晩、この王国に閉じこめられる夢を見るんだ。はじめはなんて美しい世界だろうって王国を成すいちいちに見惚れるんだけど、夜が来て辺りが暗くなると、急に怖くなるんだ。ぼくの立てる些細な足音一つが、王国のすべてに凛と響き渡って、ぼくの心までその響きで満たしてしまうんだ。そこでいつも目を覚ます。そんでハルのことを想う。いつかハルとここに来られたなら、ぼくはこの王国の夜も怖くないと思うんだ」


 私は微笑んで、そっと彼の隣に立ち、手を握った。

「私もこの国を訪ねてみたいな」

「いつか連れてきてやるよ」

 それは二人だけの秘密の約束だった。



 それから常設の展示を一通り見た後、私たちは併設する喫茶店へと足を運んだ。そこは絶景のオーシャンビューが望める上品な喫茶店だった。「お煙草は吸われますか?」とスーツのベストを着た女性店員が落ち着いたトーンで聞いてきた。リズは「喫煙席で」と答えた。


「煙草、吸うんだね」


 席につくなり胸ポケットから煙草を取り出すリズに私は尋ねた。リズは少し苦い表情をした後、赤い煙草ケースを見せてきた。「ポールモール」と彼は呟いた。


「母さんがよく吸っててさ、ぼくも手放せなくなっちゃって。一回止めようとしたけど、やっぱ無理だった」


 そう言って彼はあまり美味しくなさそうに煙を吸った。


「リズのお母さんってどんな人なんだろう」


 すると彼は一瞬、固まった。それからすぐに取り繕うように「ああ、いい人だよ」と答えた。その一瞬の間が、私の胸に引っかかった。そこには何かを拒絶するような表情があった。例えば、思い出したくない過去とか。


 彼はまだ吸う余地のある煙草を少し苛立ったように灰皿にこすりつけた。私はそのこすりつけられる煙草をじっと眺めていた。煙草はじゅっと音を立てて陶器に押しつけられた。


「ハル、どうした?」


 遠くで声が響く。でもその声と私との間には何重ものフィルターがかかっているような気がした。その靄のかかったような声を私はどこか知らない世界から響いてくるように聞いた。


「ハル、大丈夫か?」


 私は灰皿にある煙草の吸殻に釘づけになった。目の前に甦るのは暗い部屋にいたことと、熱い煙草を太腿の裏に押しつけられる痛み、そして笑う父の顔だった。私は耳に悲鳴を聞いた。でもそれはよく聞けば、自分の喉から発せられたものだった。泣き叫ぶ声が耳に貼りついて取れない。それはずっと鳴りつづけた。


 我に返れば辺りはしんとしていた。喫茶店にいた他の客が怪訝そうにこちらを見ている。目の前ではリズが怯えながらも心配した表情で私の顔をのぞきこんでいる。私は急に胃がむかむかしてくるのを感じた。駄目だ、このままここにいられない。だけど、どこにゆけばいい? 私には逃げる場所がない。どこにも行き場がない。だから耐えるしかない。苦しいけど今を耐えるしかない。私はまた喚きたい気分に駆られる。


「ごめん、ちょっと気分が悪くなっちゃって」


 やっとのことで絞り出した言葉は少しかすれていた。リズは「風に当たろう」と私の肩を抱き、喫茶店の外へと連れ出してくれた。



 木でできたテラスのフェンスに依りかかり、私は頬杖を突く。顔を上げれば沈みゆく夕日が海原に煌めいてまぶしい。頬を撫でる涼しい風が髪を揺らす。私はそのまま、隣にいるリズの肩に依りかかった。彼はうしろに手を回してすぐに私の肩を抱いてくれた。私の気持ちはようやく落ち着いてきて、今ではリズの隣で海を眺められるこの一時に幸せを感じられる。リズは海の彼方を目を細めてずっと見ていた。その横顔は哀しげで美しかった。


 幸せであればあるほど私は不幸せになってゆく。今この時、こうして二人きりで海に沈む夕日を眺められるのも、決して永遠ではない。私は過去の傷を克服することのできていないまま、彼の隣にいる。背中に刻まれた刺青を黙ったまま、彼の隣にいる。私は彼を騙して、彼の隣で幸せに浸っている。いつかはこの刺青のことを打ち明けなければならない。それがたとえ私たちの最期になろうとも、私はリズには嘘を吐きたくない。


 一陣の風が吹いた。潮気をよく含んだそれは夜気を滲ませて吹き過ぎていった。リズは静かに私に顔を近づけてきた。私もそれに答える。そのまま私たちは唇を重ねた。それはとても長かったようにも思えるし、短かったようにも思える。リズが照れて笑うから、私も照れて笑う。今度は、もっと深く口づけを交わす。リズの手が私の背を撫でる。このまま、私はリズに身を委ねたかった。無茶苦茶にされても構わない。たくさんキスをして愛し合いたかった。でも、そうすればこの背中の刺青がバレて、リズは離れていってしまう。私のもどかしい気持ちに反して、リズはいっそう強く私を求めてくる。


 カモメの鳴く声が金切声のように響いて、遠くの淡い夕闇へと消えて行った。灯台が明かりを灯し、彼方では汽笛が鳴る。


「寒いね」と私は言った。

「僕の家に来る?」


 それはさりげない誘いだった。私はうつむいて暗い水面を眺めた。


「うん」


 リズは私の肩に自分のコートをかけてくれた。しばらく歩いて不意に、私は立ちどまり、数歩先で振り返るリズの瞳をまっすぐに見つめた。


「あのね、リズの家に着いたら、聞いて欲しいことがあるの」


 リズは笑って「何?」と言った。でもすぐに、私の真剣さを見て、リズも真剣な顔つきになった。リズは「うん、何でも聞くよ」と私の手を取った。私たちは路面に設置された淡い街路灯を頼りに、肩を並べて歩いた。

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