少しだけ彼を見習って

 どれくらい経っただろう。

 眠っていたんじゃないかと思うくらいの時間、彼は私の上にいた。

 私以上に心音を刻みながら、耳まで赤くなった彼の顔が、とても愛おしい。


「……あ……あの」


 もう一度、私は彼の唇を塞いだ。

 彼の口は弁明のためじゃなくて、私を満足させるためにある。

 それをわからせてあげるのも、きっと彼女としての役目だから。


 彼の戸惑いが、迷いが、遠慮がちな唇から伝わってくる。

 恐れることなんてないって、もっと強く押さえつけてあげる。

 男はオオカミだなんてよく言うけれど、こんなに臆病で優しいオオカミなんて、こっちから食べてやる。


 されるがままの彼を、私は本能のままに貪る。

 君はもう私のものだ。

 彼の心の奥底に、深々と刻みつける。



「ぷはっ……ま、万華鏡さん、じ、時間がっ!」


 男の子らしく力づくで私を引き離して、彼はどうでもいいことを口にした。

 時計は6時を指している。


「いいじゃない、せっかくの初デートよ? しかも彼女の家でファーストキスとか、余裕でフルコンボじゃん」

「いえ、その……家族が心配するので……ああっ!」


 物足りない気持ちのまま、私より門限の方が大事か、なんて考えてたら、彼は立て続けに大声を上げた。


「今度はなに?」

「万華鏡さん、問題集!」


 身体を起こすと、テーブルの上にある問題集にコップの麦茶がぶっかかっていた。

 彼に押し倒されたときにでも倒れたんだろう。 


「よっしゃ! これで提出しない言い訳ができたわね!」

「え、ええっ!? でも、テストは……」

「別にいいじゃない、どうせいつも通りの点数よ。タオル取ってくるから待ってて」


 待っててと言われて、座ったままの体勢で動かない彼。よく躾けられた犬みたい。

 ついついからかいたくなってしまう、私はダメな飼い主だ。


「私がいなくなったからって、タンスの中とか、勝手に覗いちゃダメだからね?」

「のっ、覗きませんよ!」


 真面目な彼のことだから、きっと本当に覗かないんだろう。事を済ませたら素知らぬ顔で元に戻せばいいだけなのに。

 思春期女子の部屋に思春期男子を一人残して、私は部屋を出た。



「さーて、タオルタオル……ん?」


 ポケットに入れっぱなしのスマホのバイブレーション。そういや、学校から帰ってきてもマナーモードのままだったっけ。いつもはすぐ解除するんだけど、今日は特別な日だったから。

 通知の内容は、いつもと同じ。

 たたたん、といつもと同じ返信をして、私はタオルを持って部屋に戻った。



「おかえりなさい、万華鏡さん」

「ただいまー」


 彼は私を出迎えた。私が出て行ったときと全く同じ体勢で、微動だにせず。真面目というか、なんというか。


「あれ? ってか湖夏君、時間いいの?」

「え? ……ああっ!!」

「ごめんごめん、先に帰らせとけばよかったわね」

「い、いえ、僕も気づきませんでした。では、今日はこれで失礼します」


 名残惜しさとか、そういうものを一切感じさせずに、彼は慌ただしく荷物をまとめ始めた。そっか、本当に帰っちゃうのか。もうちょっとくらい、居てくれたっていいのに。


「ねえ、湖夏君」

「は、はい?」


 彼は学生鞄に筆箱を入れる途中の格好で静止した。


「湖夏君ってさ、愚痴とか言わないの? なんかあったら相談乗るよ? 私はきみの彼女だから」

「ありがとうございます。でも、どうせなら楽しい話をしたいですから」

「ドラマとかでもあるでしょ、仕事終わりに飲み屋で知り合いに駄弁るシーン。上司がどうだのクライアントがどうだの。湖夏くんは嫌いな子とかいないの?」

「ええと、ドラマはあまり見ないのでわかりませんけど……波長が合わないと感じることはあります。でも、お互い様ですから。一方的に嫌うのは、道理が違うかなって」


 好きとか嫌いとか、感情っていうのは、なんとなく感じるもので、理屈は後からついてくるんだと思っていた。湖夏くんは違うんだ。


「それに……」

「それに?」

「悪口って、悪いことですよね?」


 湖夏くんは子供のような純粋な瞳で、そんな幼稚なことを言ってのける。


「真面目ね、ほんと。それで世の中上手く回ってるんだからいいのよ」

「必要悪、ですか……」


 なにか難しいことを考え始めそうな彼に、私はスマホの画面を見せた。

 湖夏くんの手から滑り落ちた筆箱が、カバンの底に落ちる音がした。


「私くらいの超絶美少女になると、この美貌に嫉妬するヤツやら、フラれた恨みをぶちまけるヤツやら、そういうのがわらわら沸いてくるわけよ。それを私に報告してくるヤツもね」


 学校の裏掲示板、そのスクリーンショット。

 今日の話題は、男の趣味が悪いとか、そんな話だ。

 人を嫌いにならない湖夏くんからすれば、信じられない光景だろう。


「善意か悪意かしらないけど、参っちゃうわよねー」

「……万華鏡さんは、その……ずっと、一人で耐えてきたんですか?」

「ううん。私も友達やら親やらに愚痴りまくってるしね。もう慣れちゃったわ」

「……そう、ですか」

「ただ、まあ、そういうのにね。ちょっと疲れちゃってさ。だから私、湖夏君を選んだのよ」


 悪口は悪いことと言い切れる、気真面目で優しい彼。嫌いな人がいないとまで豪語するとは思わなかったけど。


「あの時は、消去法で選んだように見えたかな? 違うよ。隠したってバレバレなのに、湖夏君がいつまでも告白してくれないから、仕方なくこっちから声をかけたんだからね」

「ご、ごめんなさい……でも、だって、僕には高嶺の花だと――」


 今日が初めてなのに、これでもう三回目だ。

 三回目だけど、彼は初々しくて可愛らしい反応。これは私がちゃんとリードしてあげないといけないな。


「君にゾッコンとか、メロメロとか、そういう感じじゃなくて悪いね。運命みたいなロマンチックなものに惹かれたわけじゃないから」


 湖夏くんは、首を横に振った。


「いいえ。嬉しいです。盲目的に愛を語られるより、ずっと」

「……ふふ、そっか。湖夏君はそういうタイプだろうね、うん」



 片付けをして、帰る支度を整えて。

 少しだけ素直になった私は、彼が行ってしまう前に、もう一度、心を重ねた。

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