第57話 良き日である

 パラディの遠吠えは一本の矢のように、前を行くジーンと百合子の背中から胸を貫き、そのまま空へと吸い込まれていった。


 死神に育てられた心優しき魔獣の瞳には、振り返った二人の寂しげに笑う姿が写り込んでいる。あのような顔を見せられたら、とぼとぼと石段を登っていくしかなかった。


 その姿は、雨に濡れそぼい、裏路地を彷徨う野良犬のようで頼りない。


「世話が焼けるのう……」


 そう呟くと、カヤノツチはパラディの背にまたがったまま、相棒の垂れた耳に、その小さな口を近づけて言った。


「こればかりは誰にも止める事はできぬ。分かるな? ともに、お前の主人あるじを最後まで見送ろうぞ」


 頭では理解していても、一段一段、登るごとに、とりわけジーンとの今日までの出来事が、綺羅星きらぼしのごとく胸の内で輝いてくる。


 信じたくない事実を覗くように、パラディは二人を見上げた。


 階段は終わりに近づいていた。


 百合子は純白のドレスの上に、金糸銀糸の刺繍が見事な黒引きを羽織っている。神聖な領域に入るための宝具ではないのか、と見間違うほど、優美さの中に厳かな神聖さを誇っていた。


 横に並ぶは、職務を放棄し現世で初恋を実らせた死神。彼もまた、一人永らえた女を迎えに来た時と同じく、銀髪がよく映える真っ白な燕尾服で終焉を迎えようとしている。


 二人の足元が薄っすらと透け始め、まるで粉砕した銀粉が舞うようにきらめいて見える。二人の昇華する時が、すぐそこに来ているのだろう。


 最後の石段を登りきると、カグツチがまつられているやしろから、双子の少年が氷上を滑るように現れた。


 少年の顔立ちに、時折、少女のような面ざしが揺れる、世にも美しい双子である。


 どちらも黒髪を真ん中で両サイドに分け、耳の位置に髪で輪っかを作り、濃い紫の組紐で結んでいる。聖徳太子の両隣にいたと言われたら、納得してしまうかもしれない。


 写し鏡のような二人は、髪型も身につけるものも全て同じ。だが、実際に見分けるのは簡単だ。


 目を閉じているか、開けているか。一人は瞑目したまま、穏やかに微笑んでいる。もう片方は、冷然とした鈍い光を瞳に宿した、無愛想な面構え。


 双子は同時に全く同じ仕草で、細い腰を折ると優雅にお辞儀した。


 最初に口を開いたのは、目を閉じている方だった。


「お待ちしておりました。わたくしどもは、カグツチ様の使いの者にございます。今宵は、もしや、のこともありますゆえ、二重の結界を張らせていただきました。人払いは完璧でございます」


 それから、もう一人が沈黙を破った。


「兄者」


 どうやら、仏頂面の方が弟らしい。


 兄は笑みを保ったまま、弟の声のする方へ顔を傾け、了承するように小さく頷いた。


 すると、双子は舞うように、おもむろに手のひらを天に向け、両腕を高く掲げると、体の前で大きな円を描き始めた。


 腕の動きに合わせて、大きな燃え盛る車輪が大きく口を開けて現れる。漆黒の闇の中で、その輪は燦然と輝く太陽に似ていた。


 双子は輪の横に、仲良く二人して並んだ。近寄りがたい空気を振りまいている弟が、死装束の二人に向かって抑揚なく言った。


「どうぞ、中へお入りください。カグツチ様がお待ちです」


 兄の方は、ずっと目を閉じている。張り付いたような微笑みが、今度は言いようのない不安を煽るものに変わっていた。


「差し出がましいようですが、急がれた方がよろしいか、と」


 かしずく奇妙な双子の横を通り、輪の前に立ってみたが。意識に植え付けられた炎は熱い、という概念を捨てることが出来ず、なかなかその一歩を踏み出せないでいる。


 双子が「はよう、はよう」と急かしてくるのは、いただけない。


 百合子は覚悟を決め、ジーンの手を強く握り直すと、おっかなびっくりしながら、火焔かえんの中へ足を踏み入れた。


「きたな小僧ども」


 赤々と燃え上がる輪の中心から、低音の効いた男の声が二人の耳に飛び込んできた。ジーンと百合子は不思議そうに、辺りを見渡してみるが、そこには何もない。


 神の領域に相応しい、虚空こくうの世界だった。


 最後に、パラディが体を震わせながら中に入ると、炎の輪は空間に溶けていき、最後には消滅してしまった。


 声の主を一同がきょろきょろと探していると、霧が晴れるように、人が横たわっている影が浮かび上がってきた。


 黒光りする瓦で出来たような長椅子に、男が涅槃仏のように寝そべっている。ニコリともせず、不遜な表情で男は呟くように言った。


「カヤノツチ」


「おお、これは。失礼いたしました」


 言うが早いかカヤノツチはパラディの背から飛び降りると、あたふたと前に進み出た。


「例の死神と屍人か?」


 ジーンと百合子はじっと耳を傾け、男の次の言葉を待っていた。


 待たせることも気にならないようで、男はただじっと二人の顔を見つめている。


「はい。さようでございます」


 男に即答すると、カヤノツチは二人に顔を向け、ひそひそ声で男を紹介した。


「カグツチ様である。今宵の式を取り計らってくださる、お方じゃ」


 ジーンが静とするなら、神の名を持つ男の容貌は明らかに、動だった。


 双子のように両耳のところで髪を結ってはいないが、白い上下に分かれた衣服に、首から血のように赤い勾玉の首飾り、という姿は日本神話の神々そのもの。だが。


「悪いね。髪も結っていなくて。風呂上がりなもんでね」


 その言い様に、カヤノツチはカグツチを二度見する。


 カグツチは長く艶やかな黒髪をかき上げながら「なるほどね」と、ジーンと百合子のつま先から頭まで、ゆっくりと視線を流す。


 形だけとは言え、これは一応、婚礼の式のはず。この妙に艶っぽい神様は、本当に式を挙げてくれるのか心配になってくる。


 ジーンと百合子は互いに顔を見合わせ、以心伝心。とりあえず、頭でも下げておくか、となり、二人して腰をかがめようとすると、カグツチが笑いを含んだ声で叫んだ。


「しゃらくせえ。時間はねぇぞ。いくつか尋ねる。完結に答えろよ」


  二人はまたしても顔を見合わせ、不可解なやりとりに眉を寄せた。


「正解も不正解もない。ただ、頭に浮かんだことをそのまま嘘偽りなく答えればいい」


「はい」


 申し合わせたように、声が合わさった。それがちょっと可笑しくて、二人はクスクスと笑った。


「ほう、余裕あるじゃねぇか」


 カグツチは体を起こし、ゆっくりと片足ずつ地に下ろすと、長椅子を立ち上がった。横になっていた時には、割りかし大男に見えたが、実際には百合子よりほんの少し背が高いくらいだろう。


 鷹揚おうような態度、よく通る低い声、そして切れ長の力がこもった双眸そうぼうは、小柄なカグツチを大きく見せている。


「んで? 今更、契りを結びたがる理由は?」


 ジーンからすれば、幾度となく聞かれた質問だ。


「彼女の花嫁姿を見たかったからです」


「それだけ?」


「はい」


「ほーん。で、そっちの娘は。百合子と言ったか。お前はどうだ」


 カグツチは顎で百合子の方に、質問を振る。


「私は……一生一代の晴れ姿を……彼に見せたくて」


 それを聞いたカグツチは額に手を当てて、天上の神々に届きそうなほど、豪快に笑い声を上げた。


「なんというか。最後の最後に、ずいぶん小さな願望じゃねぇか。ウケるわぁ」


 正解も不正解もないとは言われたが、笑い飛ばされるほどの答えではないだろう。二人は困惑している。


「…………」


「そんな顔をするな。今日は良き日である。それは間違いないのだろう?」


「はい。そう信じています」


 ジーンは百合子に微笑んで見せると、はっきりとそう答えた。


「迷いがねぇな。いいんじゃないか? んじゃ、苦楽を共にし、互いに敬愛を忘れず、仲睦まじくな。っていうか、もう夫婦みたいなもんだろ」


「……カグツチ様?」


 カヤノツチがわなわなと身震いしていると、声まで震えてきた。


 三三九度も宴会場も二次会もない。ジーンと百合子の結婚式は、カグツチの静かな一言で終わりを告げた。


「以上だ」


 二人が思い描いていたような、厳かで感動の結婚式ではなかったかもしれない。だが、カグツチの言葉は、紛れもなく新郎新婦へ贈られた、祝いの詞だった。


 ふいに虚空は破れ、一同は、夜の帳と星の瞬きに満ちた社の前に戻っている。輪の外で待っていた双子が、待っていましたとばかりに、カグツチに駆け寄ってきた。


 銀色の煌めきは、遂には二人の腰あたりまで上がってきている。


 百合子はジーンと向き合い、必死に何かを伝えようとしている。唇の動きでジーンは理解したのだろう。スッと百合子の頬にキスをすると、目を細めて同じ言葉を口にした。


 煌めきが体を覆い始めると同時に、糸の切れた風船が空に昇っていくように、二人は天へと向かって浮き上がっていった。


 手を取り合い、地を見下ろすジーンと百合子は、これ以上ないほど嬉しそうに笑っている。


 パラディは見送りの歌を捧げ、一度だけ遠吠えを夜空に轟かせた。


 カグツチは目に涙をいっぱいに溜め、肩で息をしながら呟く声も震えている。


「ああ……もう……行ってしまうのか? もう? 本当に? のう……早すぎるのではないか?」


 遠ざかる二人は徐々に人としての輪郭を失い、星屑に変わっていく。


 主人を失った黒引きが風に舞い、羽毛のようにふわふわと宙を漂いながら空から降りてきた。カグツチが高く上げた両手に、吸い込まれるように飛び込んでくる。


「お前もまた、役目を果たしたんだな」


 地上に戻ってきた黒引きを見て、カヤノツチの悲嘆のボルテージは一気に高まった。


「もう会えぬのか! もう会えぬのか! またわしは一人になるのか! おーい! 答えてくれー!」


「うっるせぇなぁ、カヤノツチ。静かに見送ってやれ。幸せそうな顔してるだろうが」


「ジーン……百合子ぉ……」


 カグツチに豪快に笑われながら、カヤノツチは二人の名前を初めて口にしたのを最後に、さめざめと泣き始め、二人が新しい星になるのを見送った。




 ちょうど同じ時、音も光もない暗がりの中、月光を背にした二人の男の姿があった。漆黒の髪に黒の燕尾服の姿は、闇に溶け込んでしまいそうだ。


「おい、何してる?」


「はい、はーい。回収ね。今、行こうと思ってたんだよ」


「蕎麦屋の出前か。時間を無駄にするな」


 返答がないことに、オールバックの男が、鋭い視線で振り返ってみると。


「なんだ、お前、泣いているのか?」


 言い当てられた癖っ毛の男が、怒声を上げる。


「うるせぇよ! 今から行くって言ってんだろうが!」


「アレは持ってるだろうな」


「ああ……アモル」


「なんだ?」


「ありがと……な」


「気持ち悪い。早く行け」


 神妙な顔をしていた半目の男が、急に活気付いた。


「カカカカカカ! やっぱ、お兄ちゃんだよなーと思ってさ!」


「……スペース、いいから早く行け」


「ああ、行くとも! 新婚さん、いらっしゃい! 丁重におもてなしするぜ!」


 そう言って、最高のウインクを長兄に投げると、二つの流星を追いかけ、スペースは飛ぶように夜空を駆けていった。


 残されたアモルは、何かを思い出したのか、フッと笑い、ネクタイを緩めながらポツリと呟く。


「自己犠牲、か」


 足元には、点滅する東京の灯りが広がっている。気に留めたこともない眼下の光が、今夜は不思議と好ましく思えてくる。


 最後の祝福が間に合うように、後は祈るだけ。


 アモルは空を見上げ、珍しく嬉しそうな表情を覗かせた。


「まあ、俺は鬼ではないからな」

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