第51話 不確定要素

 パラディの背にまたがったまま、カヤノツチは天井を見上げ、言葉にならない唸りを上げた。二人の姿は子を亡くし、悲嘆に暮れる夫婦のようで、部屋の中には重苦しい空気が充満している。


 喉元に込み上げてくる辛辣な言葉を、カヤノツチはグッと飲み込んだ。


「止めてくれんかのう……そのような物欲しそうな顔でパラディを見るのは」


 ジーンは百合子と顔を見合わせると、済まなそうに気弱に笑った。


「この駄犬だけんまで、しんみりするじゃろうが」


 駄犬などと言われてパラディも心外だろうが、今や主人あるじとなった御仁ごじんを振り落とすような、信義に背くことはしない。


 ふんぞり返って腕組みしている小さな主人あるじは鼻にしわを寄せ、つっけんどんな態度を示す。


「辛気くさくてかなわん。わしは帰る」


 時間は絶対に立ち止まらない。振り返ったところで、あっという間に過去になる。速度を上げ遠ざかる情景は、美しく尊く、そして切なく感じてしまうもの。


 別れ際はどうしたって「あともうちょっと」などと言って、終わりの時間を先延ばししたくなるのが人情だ。


「まだ、会う機会はあるでしょう?」


 すがるような目で訴えてくる百合子に、ジーンは少し考えてから、言葉を選びながら答える。


「難しい質問だな。ある、とは断定できない。――僕らの存在が、いつまで維持されるか。それは不確定要素だし、砂時計のように視認できるものではないからね」


「つまり……明日、その日が来るかもしれないのね……なら、次の約束はするべきではないわね」


 覚えのない責め苦を感じるのは何故だろうか。カヤノツチは胸中で「わしが悪いのか?」とぶうたれた。


 百合子はしゃがみこみ、パラディの澄んだ瞳を覗き込む。


「これが……最後かもしれないから」


 と言って、パラディの首に両手を回し、暖かな毛皮に顔を埋めた。


「今まで本当にありがとう。もし、私が子供を授かる機会があったとしたら、あなたのような子が欲しいわ。本当よ? いい子にして、末長く可愛がっていただくのよ。元気でね、パラディ」


 百合子が立ち上がるのと同時に、瞑目していたカヤノツチは、目尻のキュッと上がった大きな目を見開いて言った。


「十日後の夜、迎えに参る」


「はい。承知しております」


 ゆるりと快諾するジーンに、カヤノツチは「うむ」とだけ返すと、別れの挨拶のつもりか、手をひらひらと振って寝室に入っていった。


「さて、と」


 寝室の入り口を凝視する百合子に、ジーンは声を掛けた。


「今夜はお説教だから」


 そこでジーンを遮るように、百合子は胸元をぎゅっと握ると、思い詰めた表情で言葉を吐いた。


「私……行ってくる」


 止める暇もなかった。


 百合子はカヤノツチたちの後を追うように、寝室へ駆け込んだ。


 一人残された部屋の中で、ジーンは目を細め振り返ると、窓の向こうに広がる暗夜に視線が吸い寄せられた。


 しばらくして、カヤノツチの素っ頓狂な短い叫びが聞こえたものだから、ジーンは寝室の方へ視線を戻し、神妙な顔つきで耳を澄ます。


 会話を聞き取ることは叶わず、寝室に行くべきか足踏みしている間に、窓の開く音が聞こえた。


「行ったか?」


 ポツリとジーンがつぶやくと、宴のあとのような静けさが訪れた。


 すぐに百合子は寝室の入り口に現れ、苦笑して見せたまま立ち尽くしている。気の抜けた感情が、するりと百合子の唇からこぼれた。


「――行ってしまったわね」


 その言葉に安堵の息を漏らし、ジーンは微笑んだ。


「今日が最後だとは限らないよ。迎えの日まで待っていれば、きっと会えるさ」


 ジーンの穏やかな声と前向きな言葉に、百合子の顔に悲しげな笑みが浮かんだ。


「そうね。信じるものは救われるそうだし」


「へえ、そんな考え方があるんだ。面白いね」


「こんな時まで茶化さないで」


「前向きでいいんじゃない? まあ、他に出来ることもなさそうだし」


 笑って見せたが、ジーンは軽く説教をするつもりでいた。ところが、しんみりとは違う、妙に落ち着いた様子の百合子に戸惑い、何も言えなかった。


 その夜、二人が話し合ったことは、その日を迎えるまで、ジーンの力を無駄に消耗することがないように、互いに気をつけること。


 百合子の指の傷を癒したくらいでは、ジーンの命が極端に短くなることはないだろうが、一秒でも長く、そう思えば、些細なことが重要になってくる。


 先に寝ると言って、寝室に行ってしまった百合子の背中を見送った後、ジーンは居間のソファに座り込んだ。


 ソファに背を預け、天井を見上げ、ゆっくりと目を閉じる。


「あぁ……もやもやする」


 溜息交じりに、独り言を呟いた。


 アモルの策略は失敗したわけだが、あっさりと終わったことに、疑問符が頭に浮かんでくる。続きがあるような気がして、起こり得る出来事を想像してみるものの、どれもしっくりこない。


 古い壁時計の秒針が刻む音が、クイズの答えをジーンに迫ってくる。


「何が足りないんだ?」


 ソファから体を離し、ジーンは髪を両手でかき乱しながら、短い唸りを口から漏らした。


 パンタシアンとの約束どおり、一言も話さずイラクサを編んでいた百合子に、ジーンは一種の違和感を感じていたことに気づく。


 足りないピースは、百合子だと仮定した瞬間に、ある一つの答えにたどり着いた。

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