第43話 死神兄弟

 公園を横切って帰っていく死神と老婆。二人の足元には、影を引きずるように濃い闇が広がっていた。

 

 見送るカヤノツチの黒髪と一緒に、山吹色のリボンが夜風に揺れている。公園全体に、夜のとばりが下りる中、この幼女の周囲だけは温かい光で満ちていた。


 カヤノツチは鼻を鳴らし「やれやれ」とぼやく。


 傍に座るパラディを一見すると、魔獣は二人の残像でも追うように、じっと暗闇を見つめている。


 新しい主人あるじとなったカヤノツチは、自分の三倍はありそうな大きな体のパラディの首に両手を回した。


 パラディは首を左右に振りながら、低い唸り声を上げる。


「死神の魔獣ともあろう者が、そんな声を出すでない」


 銀色にも見える灰色の毛皮に、顔を埋めるように頬を寄せると、ポツリと言った。

 

「ほんに、せんないことよ」

 

 切ないうなり声は風にき消され、静寂の訪れと共に、蝋燭の炎が消え入るように、全てが暗闇の中に吸い込まれていった。




 ジーンは国道でタクシーを拾い、さめざめと泣く百合子を無理やり乗せた。ドライバーには痴話喧嘩に見えたらしく、心配そうにバックミラーでチラチラと覗いてくる。


 ジーンは人気ひとけのない歩道を、百合子は時々、追い越していく車を。それぞれ違う、でも同じ無機質な景色をぼんやりと眺めていた。


 後々のことを考えれば、悪い話ではない。


 共に暮らした日々の中で築いた繋がりを断ち切ることが、これほど胸を締め付けるとは、百合子は知らなかった。


「あの方なら……大事にしてくれるさ」


 ジーンが呟いた後、ほんの少しの沈黙が訪れた。


 百合子は鼻をすすりながら、ジーンの横顔に話しかける。


「そうかもしれないけれど……私、寂しくてたまらないのよ」


 ジーンは百合子に笑ってみせると「うん……」とだけ、かすれた声で答えた。


 帰宅してみれば、居間の電気がついている。


 玄関で二人は顔を見合わせ、互いに誰が来ているのかピンときた。


 当然、ジーンは心の内で舌打ちした。


 消していたはずの照明の光が、廊下まで漏れている。


「悪いね……」


 玄関を上がりながら、ジーンが百合子に苦笑した。


 玄居間の扉の手前で一度立ち止まり、中からバカ笑いが聞こえてくる。


 ジーンのこめかみが、ピクッと動いた。


 開けてみれば案の定、兄二人がテレビを見ながら、ソファでくつろいでいた。


「何やってんですか」


 ジーンの声にスペースが満面の笑顔を向け、二人に手を振っている。


「いやね、呼ばれてないけど、お邪魔しちゃったよ」


 アモルは無表情でジーンを見遣った後、背後で会釈する百合子に目を止めた。気づいたジーンは、露骨に嫌そうな目つきを送る。


「不法侵入で警察に連絡しますよ」


「そりゃいいけどさ。困るのは君たちの方なんじゃないのかね、弟くん?」


 怒らせようとしているのか、いつもよりも好戦的なスペースの態度に、ジーンは昔のことを思い出した。


 スペースのことは好きだし、いい兄だと思っている。一方で、大人しく真面目なジーンをからかって楽しむ傾向があるのは頂けない。


 大人になってからのジーンの強みの一つは、嫌なことは適度に聞き流し、相手に笑顔で返す余裕を持ち合わせていること。だが、飲み込めないことだって当然ある。


 銀髪であることを、子供っぽい言い回しで、よくスペースにからかわれたものだ。時々、大人になってからも、思い出したように言ってくるから始末に負えない。


 悪意がないことはジーンも承知しているが、冥府の悪童たちから散々からかわれ、イジメのネタにされた髪色に関しては、兄だからこそ口にして欲しくなかった。


「ジーン?」


 百合子の不安そうな声に、ジーンはハッとして振り向き、苦笑してみせる。


 スペースは挨拶もせずに、ジーンの背後に見える百合子に話しかけた。


「まだ、こいつを助けたいと思わないの?」


 死神は人の話を最後まで聞かないやつが多い。百合子の答えも待たずに、アモルがソファから立ち上がった。


 途中で会話を阻まれたスペースが悪態をつく中、我が道を行くアモルはジーンに歩み寄った。


 口数の少ない長男が何を言い出すのか、と場に緊張が走る。


「単刀直入に言う。スペースの申し出を受けてはくれないだろうか?」


 何かを懇願するアモルを見るのは、ジーンもスペースも初めてだった。


 しかし、末っ子は頑固だった。

 アモルの目を見据えて「お断りします」と言い切った。


 百合子は家族間に割って入るのは気が引けたが、当事者の一人として、ジーンの背中に問いかける。

 

「どういうこと? 説明してくれない?」


 間髪入れずに、快く返事をしたのはスペースだった。


「いいよ」


 我が家のように足を投げ出し、ゆったりとソファに座り、にんまりと笑っているスペースを、ジーンが鬼の形相でにらんだ。


 睨まれても、話すのがスペースである。


「大した話じゃないんだ。要はさ、リアが君にしたように、俺とアモルがフランマを行使することで、弟を救ってやろうぜ、って話。もちろん、協力してくれるよね?」


 百合子には返す言葉が見つからない。


「君はすぐにでも冥府に連行しなきゃいけないし。我が弟には、俺らが持つ媚薬をちょびっと飲ませたいのよ。それとも、君は自分の方が大事なの?」


 正論を振りかざしてくるスペースの目は、獲物の兎を射程距離に捉えたハンターのように鋭い。今夜のスペースは、容赦無く意地悪だ。


「でも、私たちは」


 当然のように、百合子の言葉は遮られた。


「もうすぐ二人の命の火は消えちゃうのにさ、形だけの結婚式を挙げるんだってね。悲恋にも程があるんじゃないの? 時として神様って残酷なのよね」


 スペースはテレビのリモコンをテーブルから取り上げると「邪魔」と呟き、テレビを消した。


 静かすぎるほどの部屋の中で、スペースだけが変わらずしゃべり続ける。


「君はリアのことを愛しているだろうから、俺たちに手を貸してくれるに違いない、と期待してたんだわ。ところがさ、これだもん」


 二人は沈黙を守ったまま、ぶちまけられる正論の暴力をその身に受けていた。


「君が選んだのは自分の欲望の方だった、っていうね。本当にこれでいいと思ってる? もう十分、楽しんだろ」


 自分はひどいことをしている、と百合子は嘆きながら、ジーンと一秒たりとも離れたくない、と同時に思った。


どうしても、答えが見つからない。


「耳を貸す必要はないよ。これは僕らで決めたことなんだから」


 この優しさに、自分がどれほど甘えているか頭で分かっていても、内に灯った恋する激情は、百合子の手に負えるものではなくなっていた。


 ジーンも百合子も言葉を失ったように何も言い返さないし、地蔵のように固まっている。スペースがいくら煽ってみたところで、会話にならない。


「おーい、黙秘権執行ですかー。ここは彫刻の森ですかー? ちぇっ、やな空気、作りやがって」


 同じく黙っていた長兄を見上げて、スペースが言った。 


「アモル、お前もなんか言えよ。俺ばっか悪者になってるじゃん」


 静かに黙ってスペースの話を聞いていたアモルは、悩ましげな目線をジーンに送りながら、


「スペース……仕事に戻るぞ」とだけ言った。


 スペースは漫画のように、ずるっと体を傾けると、今日一番の大きな声で叫んだ。


「えええええ!」


「うるさい」


 まるで、家出寸前の妻を引き止めようとする必死な夫のように、スペースはアモルにすがりつき、早口でまくしたてる。


「ちょ、待って、待って! 何も決まっていないのに? おかしいだろ? 今! 今、こいつを説得しなきゃ、来週だか再来週からは、俺たち二人兄弟になっちゃうよ? いいの? ねえ、いいの?」

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