第28話 丘を越えて その1

 握る手は、胸の奥まで染み渡るほど温かく、百合子は浮ついた足取りで砂丘を下り終わった。


 すると、急にウルサが立ち止まる。


 百合子は手を握ったまま、ウルサの真剣な眼差しを覗き込んだ。


「どうしたの?」


 ウルサは、じっと空を見上げていた。


 何かを確信したのか、コクリと頷く。すぐにきびすを返し、百合子が来た道の方角へ、行き先を変えた。


 ウルサは瞬きもせずに、今下りてきたばかりの砂丘を登り始める。思わぬ方向転換に、百合子は足をよろめかせながら、無心に歩き出したウルサに声を掛けた。


「ねえ、ウルサ」


「なんです?」


「また戻るの? 途中でジーン、あ、いえ。リアンノンとは会っていないのだけど」


 スペースに放り出された地点から、とりあえず歩いてきた道のりに、彼がいなかったのは確かである。でも、ウルサは迷うことなく、その道に戻ろうとしている。


「ウルサが勘違いしている、ということないかしら?」


 ケーキを手づかみで食べていた砂丘のてっぺんまで戻ってくると、ウルサは百合子の問いに立ち止まった。


 「ありません」


 そう言い切ったウルサの表情から、真意は読み取れない。


 ウルサは百合子から視線を外し、顔を真っ直ぐ向き直すと、砂丘の上からずっと遠くを指差して言った。


「いますよ、リアンノン様は。あの小さな砂丘の向こう側で、あなたをお待ちになっています」


 ウルサの指す方に、百合子は目を凝らしてみる。


「あの砂丘の向こうに?」


「そうです。僕を信じて、あの砂丘までお行きなさい」


 百合子はびっくりして、とらえどころのないウルサの顔を覗き込む。


 人間同士であれば躊躇ちゅうちょするような沈黙や否定、突然の行動変更に慣れるのは容易ではない。彼らの行動基本は、自分自身が軸であり、自分で決めたことに、他者を介入させないからだ。


「一緒に行ってくれるんじゃないの?」


 ウルサは百合子の手をスッと離すと、その場に膝を抱えて座り込んでしまった。訳が分からない百合子は、彼の機嫌を確かめようと隣に腰を下ろしかけたが、ウルサがそれを許さなかった。


 ただ真っ直ぐ、ジーンがいるであろう遠くの丘を見つめたまま、ウルサは予言書でも読むように粛々と話し始めた。


「座っている暇はありませんよ。早くお行きなさい。しばらくの間、リアンノン様は、あの丘の向こうで休まれていることでしょう。しかし、星は時間と共に動くものです。あなたがもたついている間に、出会う機会を失いかねません。あなたが探しているものは、すぐそこにあるのです。僕のご機嫌とりをしている時間など、どこにもないのです」


 百合子は中腰の姿勢から立ち上がり、ウルサが見ている方角に目を据えた。何かを言い掛けたが思い留まり、座り込むウルサの横から斜面を下り始めた。


 砂丘を下り元来た道へ歩き始めたところで、別れを惜しむように、ゆっくりと振り返った。


 愛らしい案内人へ感謝の意を込め、出来る限りの笑顔を送る。


 ウルサは飛び上がるように立ち上がり、先ほどまでの無表情とは打って変わり、破顔して両手を振っているのが見える。


 最後に元気なウルサを見て、心の底からホッとする。あとは迎えにいくだけ。


 目標に向かって歩き出した百合子は、もう前しか見ていない。


 夜空いっぱいに響くウルサのエールを背中で受けながら、湧き上がる思いと一緒に、一歩一歩進んでいく。


「大丈夫です! あなたならきっと会えます!」


 明確な目的と到達すべき場所が分かった今、誰もいない箱庭を歩くことも喜びに変わっていく。負荷でしかなかった足元の砂でさえ、急げと言わんばかりに軽く感じる。


 裸足で歩く道のりは痛みを伴い、疲労から歩みはもつれる。肉体から聞こえる悲鳴も、ウルサがいた砂丘も遥か遠くに存在し、内にある歓喜を力に変えながら行くべき道を歩いた。


 自然の摂理が存在しない、この砂漠の世界はどこまで行っても明けることはないのだろう。大きな満月も地平線に落ちることなく、百合子の行方を見定めているようだ。


 遠くに見えた目標の砂丘が遂に眼前に現れ、それはなだらかに横たわっていた。


「これを超えれば」


 砂丘を見上げてみると、思ったよりも高いことに気づいた。


「……少し、休憩しましょう。歩き続けたんだもの。そう、少しだけね」


 有り得ないほどの大きな満月に見守られ、よろよろと腰を下ろした。疲れた体を支えるように両手を砂地につき、足を投げ出してみる。


 肉体は正直である。体の中に意識を傾けてみれば、水も油も何もかもが足りないと感じた。「少しだけ」と呟き、目を閉じようとした時、背後から叫ぶ声がした。


「おい! お前! ウチを壊す気か! どけ!」


 少し甲高い老人の声にびっくりして、百合子は辺りを見回してみるが、それらしき人物はいない。


「馬鹿者! ワシはここじゃ! お前が座っている場所はウチの玄関である! いいから、どけと言っておる!」


 百合子は小さき者の住処すみかの軒先に、偶然座り込んでしまったということだ。急いで腰を上げ、少し前に移動したところで大きく振り返った。


 砂の中から顔を出していたのは、声からは想像できない、耳が大きく縦に伸びた、小さな狐のような小動物だった。


 怒っているのだろうか。目をとんがらせて百合子を威嚇しているようだが、その姿は返って愛らしい。


 外見は可愛くとも、声から察するに年長者である。百合子は彼の尊厳を傷つけないよう、敬う気持ちを心に留めて、まず謝罪することにした。


「ごめんなさい。あなたの家だったのですね。知らずに座り込んでしまいました」


「……まあ、いいわ。お前は他所者だな。どっから来た」


「東京です」


 小さき者は大きな耳に掛かった砂を振り払おうと、頭を激しく振っている。スッキリしてから、百合子の答えに耳をピンと立てた。


「トウキョウ? なんじゃそれは……知らんな」


 ウルサと違って、百合子のことは全く知らないようだ。


 百合子はフサフサの毛皮に触れてみたくて、少しずつ老人に近づいていく。相手も警戒している様子だが、逃げる風でもないので、座ったまま足をずらしながら、手の届く位置まで近づくことに成功した。


「私は百合子と言います。あなたのお名前を聞いても?」


 老人は上目遣いで睨みを利かせ、声も不機嫌そうだ。


「ワシの名前? そんなもの聞いてどうする? お前にはやるべきことがあるから、ここにいるのではないのか?」


 何も知らないようで、要点をつかれた百合子は目を丸くした。確かに、そのために休むことなく歩き続け、ここまで戻ってきた。この丘を越えた向こう側には、ジーンがいるのだから。


「ええ、おっしゃる通りです。でも、少しくらい、お話をする時間はあります」


 まだ百合子を不審そうに見ているものの、ここまでの彼女の言動は及第点に値したらしい。


「アウローラ」


「素敵なお名前ですね。よろしく、アウローラ」


 何やら立派な名前を持つ、この大きな耳のモフモフは名前を褒められ、ぱっちりと黒目がちな愛らしい目を開き、嬉しそうだ。


「お前さん、ずいぶん遠くから来た様子じゃが、他に誰かに会ったかね?」


「ええ、このずっと向こうの砂丘で、ウルサという名前の可愛い男の子に会いましたよ」


「ああ、あのこまっしゃくれた坊主か」


「ご存知で?」


「もちろん。あやつは夜の道案内が役割だからな。ワシもたまに世話になる」


 この世界は、スペースが作った箱庭だと思っていた。しかし、ウルサには役割があるし、アウローラが長いこと住んでいるということは、この砂漠はスペースの私物ではないらしい。


 では、どこなのか。


「ウルサは北斗七星じゃ。他に六人の仲間がおるようじゃが、ワシは他の奴には会ったことがない」


「北斗七星……なるほど、そうでしたか。ウルサは星の子だったのですね」


 アウローラの話に耳を傾けながら、僕を信じて、と言ったウルサの言葉を思い出し、この丘の向こう側にはジーンがいるのだ、と改めて胸が熱くなった。


 関心しながら聞いている百合子を前に、老人は機嫌が良くなったのだろう。この世界のことを話し始めた。興味深い話題ではあるが、少し長くなりそうなので、百合子は苦笑しながら頷いた。

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