第4話 死神ジーン

「じゃあ、始めましょうか?」


 何かやましいことでも想像したのだろうか。百合子は赤面し、うつむいた。


 反対に、寝転んでいる死神の爽やかな笑顔が弾ける。


「僕は最初からクライマックスでも構いませんよ」


――異性の体に興味を持つことは自然なこと。生物の神秘に触れたくなるのも自然の摂理。


 百合子は顔をぶるぶると横に振ると、緩んだ表情を引き締めた。


「いきなり最終局面なんて、大人のすることじゃありません」


「ふうん」


「そう――過程を楽しむことも、大切、なんだから……恐らくですが」


 持てる知識を総動員して出した、百合子なりの回答だった。


 涅槃仏のように寝そべっている死神は、それはもう愉快そうに処女を眺めている。


 注がれる熱い視線と、望まぬ会話の流れを断ち切きりたい。百合子は咳払いを一つして、解けないテストの問題に頭を悩ます学生のように、上を向いたり下を向いたりしている。


 悩んでいる自分を隠す余裕もなかった。


 黙っている隣の死神は、高みの見物に微笑んだままだ。


 過程をすっ飛ばして、言葉どおりに最終工程に取り掛かれば、外見だけでなく百合子は女として覚醒するかもしれない。


 だが、自立した女性でありながら、精神的にどこか幼さを残す彼女に林檎を渡す時は、まだずっと先になるだろう。


「百合子さん?」


 急かされたことにイラっとした百合子は、ニヤけた涅槃仏となった死神をきつく睨んだ。かと思うと、ある言葉が頭にポンと浮かんできた。


「名前――神様にお名前を聞くのは、失礼なことかもしれないけど」


 遠慮がちに、百合子は言葉を継いだ。


「名前は必要だもの。違う?」


 榛色の瞳が一番輝いたのは、この時だったかもしれない。


「いいですね。では、僕に新しい名前をください」


「はっ? あなた、名前がないの?」


「ありますよ。教えませんけど」


 死神の笑顔は子供のように無邪気だったが、百合子は目を真ん丸にして、


「意味が分からないわ……教えないって、どういうこと?」


「僕は究極の媚薬をプレゼントしたでしょう? だから今度は、あなたの番です。新たな生を僕に授けると思って。どうです?」


――そりゃあ、神社に行って手を合わせれば、お賽銭を投げるし……でも、名前をくださいって、犬や猫じゃないのよ! 


 腹の中でそう思ったが、あのように真っ直ぐな瞳を向けられてしまうと、無下にするわけにもいかない。


 唇を尖らせ考えてはいるが、交際経験もなく異性の友人がいるわけでもない彼女には、参考となるような人物も名前も思い浮かぶはずもなく。


――現実の中で名前が見つからないのであれば。


 好きな映画や小説の物語を覗いてみる。ここにきて、持て余す時間を費やし続けた、数々の映画で観たロマンスのシーンが活きてくる。


 煌めくように思い浮かんだのは、かつて憧れた映画スターだった。


 先程までの憂鬱そうだった百合子の顔が、一転し輝いている。


「ジーン」


「ジーン?」


「どうかしら? 響きもいいでしょ? 素敵じゃない?」


 思いついた自分最高、と言わんばかりのテンションと反対に、死神は浮かない顔でねた口ぶり。


「初恋の人と同じ名前だったら、僕は嫌ですよ」


「違うわ。外国の俳優の名前よ。私、ファンだったの」


 現世に舞い降りた名無しの死神に笑みが戻る。

 百合子は胸に手を当て、安堵の表情を見せた。


 ホッとする間も許さないとばかりに、白い死神は、次の要求を突きつける。


「早速ですが、練習をしましょう」  


 胡散臭いものを売りつけられているような、そんな気分になった。


「練習? なんの?」


 死神の目元に、微かな笑みが覗いた。


 怠惰な姿勢を正した死神の半身が、百合子の両目に飛び込んできた。


 腰までシーツが掛かっているから大丈夫、とは言い難い光景である。これほど間近に、生の男の体を見たことがない。目をそらしもしたが、好奇心の方には抗えない。


 そんな処女の気苦労を知ってか知らずか、死神は真剣な眼差しを送る。


「簡単なことです」


「簡単?」


「そう簡単。互いの名前を呼びあう練習です」


「そ、そういうことは日々の生活の中で、自然と呼び合うものじゃないの?」


「屁理屈は結構。僕の名前を呼ぶまで、今日はベッドから出られませんよ」


 そう言って、死神はニヤッと笑った。


 何故、一事が万事、この男の要求に従わなければいけないのだ。と百合子は内心で憤慨している。


 まともに取り合わず、跳ね除けてしまえばいい。ところが抗い難い魅力を感じているから、受け入れてしまう。


 死神の顔は、完全に勝利者のそれだった。目が泳いでいる百合子との他愛ないやりとりを、どう見ても心底楽しんでいるとしか思えない。


「はい、どうぞ。どうしました?」


「いいわ……言うわよ」


「いつでもどうぞ」


 ゴクリと唾を飲み込み深呼吸。覚悟を決めてはみたが、内から漏れてくる自信のなさに声が震える。


「……ジーン、さん?」


 異性に向かって、名前を呼び捨てする日が来るとは思っていなかった。実際、呼び捨てにはできなかった。


 上目遣いで、神の反応を伺ってみる。


「なんだか、他人行儀ですね」


「そ、そんなこと言われても……」


「少し意地悪だったかな」


 死神は眉根を寄せたまま、申し訳なさそうに笑った。


 付き合い始めの男女でも、互いの名前を呼び合うようになるには時間がかかるもの。恋愛偏差値が底辺の百合子には、魔法でも掛からなければクリアできる気がしなかった。


「僕の名前を呼ぶことに、あなたが臆する必要などありません。僕はあなたのものなんですから」


 と言い切ると、一呼吸おいて言った。


「あなたは僕のものでもあります。お忘れなく」


 上から言われたのはしゃくに触ったが、またしても死神の言葉は、百合子のハートを焦がすのに十分な甘さがあった。


「それに」


 百合子は目をパチパチさせながら、おうむ返しに聞いた。


「そ、それに?」


「そんなに端っこに座っていたら、ベッドから落ちてしまいますよ」


 そう言われて、百合子は肩越しに後ろを見てみる。狭いベッドの上であることを忘れ、物理的な距離を取りすぎていたらしい。


 赤ん坊がハイハイをするように、慌てて四つんばになり端っこから逃れると、今度は目の前に男の顔があった。


「言ったでしょ? 僕は優しいです、って」


 天使のように優しい笑顔と声に、百合子はムッとしながら座り直した。


「また、そんな顔をする。子供じゃないんですから。ノリでいいから言ってみてください」


「海苔? ……神様を呼び捨てに出来るほど、私は若くはないのだけれど」


「また、そんなおかしな言い訳を」


「何もおかしくはないわ」


 クソ真面目な顔で、百合子が言い放つものだから、死神は腹を抱え、声を上げて笑い始めた。


「そんなにおかしい? あなた、失礼だわ」


 百合子が不愉快そうに呟くと、死神は笑いを堪えながら、


「僕は一応、敬意を払って話しているつもりですが、あなたは最初から、僕を友人のように話してくれていますよね?」


 愉快そうに笑っている死神の言葉に、血の気が引いていく。しかし、負けず嫌いの性格が、百合子の背中を押した。


「それは失礼しました。でも、あなただって、私に敬語を使って距離を置いてますし、私の名前を一度も呼んでいないじゃありませんか。違います?」


 死神が目を丸くしたのを見て、百合子は勝利を確信し、思わず口元に笑みが浮かんだ。


 しかし。


 死神は百合子の言葉にゆっくりと頷きながら、


「確かに、おっしゃるとおりだ」


 透き通るような銀色の髪をかき上げると、死神は百合子を指差した。


「じゃあ、ここからは僕も変わるとしようか」


 藪をつついて蛇を出す。百合子の顔から微笑みは消え去った。


「百合子。僕の名前を呼んでみてよ」


 慇懃無礼だった丁寧さは消え、より男を感じる言葉遣いに、百合子は目を見開きながら息を吸い込んだ。


 同時に、この死神の生来の魅力が放たれたように感じてしまうのが、また悔しい。完全な敗北感に、百合子は顔をしかめた。


「恥ずかしい?」


「いいえ、別に……。恥ずかしいだなんて……私を幾つだと思っているの」


「恥ずかしいと感じるのは、君が僕を意識しているからであって、年齢は関係ないだろ? なんでも歳のせいにして誤魔化さないこと」


 思わず言葉に詰まった。

 心の中を覗かれたようで、恥ずかしさが先行する。


「大丈夫」


 そう言って、目の前にいる死神は、百合子の顔を両手で包み込むと、


「僕は君に若さを与え、君は僕に名前をくれた。お互い欲しいものを与えあったわけだ。名前くらい呼び合うさ」


 胸の内に、小さいけれども温かい何かが、ぽんと芽生えた。


 今度は目を見ながら「……ジーン」 と囁くように名前を口にした。


 「よく出来ました」と、死神は満面の笑みで応えた。

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