第3話 甘い生活

 リズミカルにペダルを踏む百合子。


 傍にある深い緑色のベルベットが張られた二人掛けのソファに、無防備な寝息をたてながら居眠りしている銀髪の青年がいた。


 ミシンの音が止んだ。

 時計の秒針が、やたらと部屋で響く。


 壁時計を見ると、もう昼時を越えていた。


「よっこいしょ」


 椅子から下りてソファに近づく。ぐっすりと眠り込んでいる死神の寝顔を見ると、雲の上を歩いているような心地よさを感じる。


 死神の体を軽くゆすりながら、


「ジーン、起きてちょうだい」


 くしゃくしゃになった銀髪が動いた。


 うつぶせのまま気だるそうに、「おはよう」と死神が答えた。少し顔を上げ重そうな瞼で、だらけた笑顔をみせる。


 百合子はソファの横を通り過ぎながら、寝起きの死神には目もくれない。


「すぐに、お昼の支度をするわ」


 すっかり人妻のような口ぶりである。

 死神も、まんざらではない顔で百合子を目で追う。


 新月の夜に現れ、老婆を迎えにきた死神が、今ではジーンと名付けられ、東京の隅っこで暮らしている。


 あの夜から二週間が経ち、二人は新しい年を迎えていた。


 老婆、もとい妙齢の女と鎌を持たぬ死神の新生活を語り出す前に、百合子がこの世に戻ってきた時の話をしよう。


 目覚めた時、初めに瞳に映ったのは死神ジーンの寝顔だった。

 思わず目を細め、うっとりしたのも束の間。


 老眼鏡がなくとも、鮮明に世界を映し出す両目に歓喜した。初めて来た部屋を見るように、辺りをぐるりと見渡してみる。


 目に留まったのは、ご丁寧にハンガーに掛けられた燕尾服その他一式。一緒に吊るされ、悪目立ちしている古いコートに眉を寄せる。


「あっ」


 まさか、と恐る恐る布団の中を覗く。

 直視は避けたが、恐らく隣の死神は裸であると推察する。


 視線は自然と下へ落ちていく。


 いつもの着古したパジャマを身につけていることを確認し、神に祈りを捧げるほど安堵する。


 眠っている死神の銀髪に触ろうとして、自然と手が伸びる。指先に触れる感触は本物だ。


 銀髪に触れた自分の指先を見ると、なめらかな爪、そして白く瑞々しい手があった。


 明らかに老婆のそれとは違う身体の変貌ぶりに、百合子は驚嘆の声を小さく上げる。


 即座にベッドから体を起こすことが可能となった若い体もそうだ。顔から首、胸。そして、腰から足先まで、隅々までうっとりとしながら、指先で確認してみる。


 これほどまで、自分の体を愛おしく思ったことはあっただろうか。


 かつての外見に抱いた強い劣等感は何だったのか。絶望を抱くほど醜くはなかった、そんな当たり前の事実に胸が詰まる。


 常に今が一番、若い瞬間であり美しい時だ。


 そう思うことが出来ていれば、全てを諦め、ただ老いていくだけとなった長い年月も、もっと有意義な時間になったかもしれない。


 今は、このありえない奇跡に遭遇し、心が踊る感覚に酔っていた。


 新しい朝の窓からは、太陽が見え隠れする曇天の空が見える。


 窓際に放置された小さなツリーが目に映った途端、引き潮が波を沖へ連れて帰るように、先ほどまでの嬉々とした感情は現実に引き戻された。


――罰当たり。


 そんな言葉が、頭をぎる。


 人知を超えた所業に恐れを抱かないわけではないが、それでも、滑らかになった自分の腕をさすっていると、単純に女としての喜びの方が優ってしまう。


 胸を弾ませ、ある種の興奮状態になっていると。


「きれいですよ」


 ふいの褒め言葉。

 慈愛を含んだその声に、耳がくすぐられる。


 声の主に目をやると、もちろん同じベッドに寝ていた死神がいる。何故だか嬉しそうな、寝ぼけ眼の死神と目が合う。


 面映ゆい。

 顔が自然にニヤけてしまう。


 異性から外見の賞賛を得るという事態は、百合子にとって事件である。喉を撫でられている猫になったようで、その心地よさに脳がとろけそうだ。


 素直に反応すればいいものを、感情を隠してしまう悪習が百合子には染み付いている。


「――それはどうも。おかげさまで体はどこも痛くないし、身軽だし。悪くないわ」


「それは上々。ちなみに、今の自分が何歳か分かりますか?」


 死神はベッドから出る様子もなく、ゆったりと、そして、にこやかに続ける。


「媚薬を飲む時、在りし日の自分が頭に浮かんできたでしょう? それが今のあなたですよ」


 小瓶を手にした時から頭の片隅に立っていた、悲しい顔の女。


「二十六歳の――私?」


「なるほど。今の百合子さんは妙齢の乙女ってわけだ」


「どうかしら」


「つれないなあ。言葉どおり、素直に受け取って頂きたいものです」


「見た目はともかく、私自身は九十歳のお婆ちゃんよ」


 死神はゆっくりと体を反転し、仰向けになった。両腕を頭の後ろで組み、天井を見つめながら、のんびりとした口調で、


「それを言われると、僕もアレですけどね」


「あなたは何歳? 神様だもの千年は超えてる? お誕生日はいつ?」


 瞳を爛々とさせて、死神の顔を覗きこむ百合子。


 人生二週目の成人した女とは思えない幼い質問に、死神は気の抜けた笑いを浮かべた。


「どうだっていいでしょ、僕の歳なんて」


「あら、ケチね。教えてくれたっていいじゃない」


「僕らの業界にも、いろいろ守秘義務ってやつがあるんです」


 現代的な言い回しに、百合子は口を開き目を丸くした。こんな面白そうな話を聞く機会など、二度とめぐってこないだろう。


「大丈夫よ! 私の口は固いから!」


「困ったお嬢さんだ。これは秘密ですよ? 二百五十歳、くらいかな。父や兄達に比べれば――」


 言いかけた途中で死神は口をつぐんだが、女の耳は聞き逃さなかった。


「そう? あなた――ご家族がいるのね?」


 百合子は更に大きく目を見開いた。


「僕の身上なんぞ、人間のあなたにとってどうでもいいことです」


 死神は瞳を閉じた。

 話すつもりはないらしい。


 問いただすのは野暮か、と考えたが、こう言う時は知りたいという女の欲が勝つ。


「何か問題でも?」


 真剣な眼差しを送ってくる百合子をチラリと見ると「なんでもありませんよ」と言って、死神は得意の微笑みで答えた。


 それっきり、会話が途切れる。


 死神は何も感じていないような顔で天井を、いやくうを見つめていた。百合子は百合子で困り顔のまま、口を尖らせ黙り込んでいる。


 互いが口を閉ざし、漂ってくる息苦しさ。


 その内、百合子は神であれなんであれ、男とベッドにいる事実に動揺し始めた。沈黙は緊張を増長していく。


 耐えられなくなった百合子が、先に口を開く。

 騒めく胸の嵐をなだめるよう。


「――それにしても、いいものね」


「何がです?」


 死神が不思議そうに、百合子を横目で見る。


「同居人がいるっていうのも悪くない、そう思ったの」


 不服そうに死神が答える。


「ああ、同居人、ですか。僕は彼氏のつもりなんですけどね」


 年齢イコール彼氏いない歴の百合子。ちらりと死神を見ると目が合ってしまい、思わず息を飲みこんだ。


 彼女の様子が面白かったのか、死神の顔に笑みが戻る。そして「だって」と百合子の顔の真ん中を指差して言った。


「僕を選んだのはあなたでしょ?」


 百合子は何度か瞬きし、首をブルブルと横に振った。


「ちょっと待ってちょうだい。べ、別に、私はあなたを選んだわけじゃないわ。私が選んだのは――」


 少しだけ早口だった。


 百合子が言葉につまったところで、死神はゆっくりと上半身を起こした。笑顔を保ったまま、百合子の頬を人差し指で優しくつつく。


 触れられた頬が熱くなる。


「昨日の夜、僕が話したこと、忘れちゃいました?」


 忘れるはずがない。

 全ての申し出が、百合子の覚悟を後押ししたと言っていい。


「覚えて、ますけど……」


 言った端から頬が上気していく。


 死神は一つ一つの単語を意味あるものとして、ゆっくりと語りかけてくる。


「この世界で二人が共に過ごせる時間には限りがあります」


 心地よい音楽を聴くように、百合子は目を閉じ、その声に耳をかたむけた。肩の力は抜けていくのに、鼓動は高まってゆく。


「さて、何から始めましょうか」


 年の差、百六十歳。

 こうして二人の甘くて、ちょっと切ない日々が始まった。

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