black trunk

めめ

トランクにて

 目を覚ますと、私は暗闇の中で横たわっていた。

 身動きがとれないほど狭く、かといって息苦しいさを感じるわけでもない謎の空間。身を起こそうとしたけれど、私の頭の直径と天井の高さが同じようで、結局横になったまま過ごすことにした。

 そういえば、頭がひどく痛む。心臓か何かが埋まっているみたいに、どくんどくんと痛みを放出している。

 私は、なぜこんなところに閉じ込められているのだろう。たしか、朝のランニングの途中だったはずだ。川沿いに設置された遊歩道を軽く走り、腕時計の短針が八を指したあたりで回れ右をした。右手から左手に移動した川を眺めながら、家に向かってまた走り出した。その後大きな通りに出たところまでは覚えている。

 いつも信号待ちをしている歩道のそばに、見慣れない黒塗りの乗用車が止まっていた。その前を通って道を渡ろうとしたところで、私の意識は途絶えたのだ。

 全身に寒気が走った。

 私は、きっと誘拐されたのだろう。車の前を通るとき、後ろから鈍器か何かで殴られ、そのままトランクに放り込まれたのだ。

 いったい、犯人の目的は何なのだろうか。人の恨みを買うような仕事をした覚えはないし、特に裕福なわけでもない。小さなアパートで細々と独りで暮らしていて、両親とも疎遠になっていた。私を誘拐したところで身代金のあてはつかないし、身を売れるほど若くもない。

 快楽目的の犯行とも考えられる。人を誘拐して山奥の小屋などで死ぬまで暴行を続けたり、このまま駐車場に放置してその様子を観察したり。後者はなるべく味わいたくない。このままトランクの中で少しずつ息苦しくなっていき、飢えを感じながら死んでいくくらいなら、まだ前者の方が人間らしい死に方だ。どちらも避けたいのだけれど。


 と、トランクの外から音楽が聞こえてくる。車の板金越しだからはっきりと聞こえないが、どこかで聞き覚えのある曲だ。

 誰かが車の近くにいるのだ。曲の音量がだんだん大きくなっているから、すぐそこを歩いている人が流しているはずだ。

 助けてと叫ぼうとしたところで、私は息をのんだ。もしかしたら、私を運んでいる犯人が車から降りて休憩でもしているのかもしれない。もしそこにいるのが犯人なら、助けを呼ぼうと叫んだところで無駄であるし、抵抗したと見なされこの場で殺されてしまう可能性だってある。

 だが、誘拐犯は移動中に車から降りるものだろうか。なるべく移動時間は短くしたいはずだし、休憩なら運転席に座ったままでもできる。トランクのことが心配なら一度開いて私の様子を確認する方が手っ取り早い。音楽を流して目立つのも、犯人にとって不利益なことだ。

 まだ音楽は流れている。そこにいるのが犯人だとしても、どうせ殺されるのなら賭けに出るべきだ。私はそう判断し、覚悟を決めた。

「助けて! 誰か! ここです、トランクの中です! 助けてください!」

 そう、叫んだはずだった。しかし、私の声は発せられていない。代わりに、少し荒い息が鼻からひゅーひゅーと漏れるだけだった。

 腕が動かせなかったから触れなくて気づかなかったのだが、どうやら私は口をガムテープで塞がれているらしい。今が冬じゃなくてよかったなと思った。冬になると、毎年私は鼻炎をこじらせる。もし今が夏でなかったら、鼻呼吸ができず五分ももたなかっただろう。そんなことを考えているうちに、音楽は私から遠のいて行ってしまった。

 右頬がちくりとした。何かが刺さったような、鋭い物が肌に触れる感覚だった。

 トランクの中に、木の枝のようなものが残っている。犯人は、やはり山小屋で私を殺すつもりなのだろうか。きっと、そこを下見しに訪れた際履いていた靴をここに入れていたのだろう。

 こんどは左頬がちくりとした。どうやら、犯人は掃除が苦手であるらしい。なので、私は男による犯行だと推測した。

 低い天井を見つめながら、犯人について考えてみる。世の中の男が皆掃除をしないという固定概念を持っているわけではないが、私みたいな女を誘拐して得をするのは男、その中でも私より年上の人に限られてくる。私は職場で若い方でもないし、整った顔を持ち合わせてもいない。もっと若い子はたくさんいるだろうに、その中で私を選んだのだから、私も若い方に含まれる。なら、自然と私より年上の人による犯行となるわけだ。なにも若さにこだわって誘拐しているとは限らないが、他に理由が思い浮かばない。私は、妄想の中で、若い子に含まれたことを少しだけ嬉しく思ってしまった。


 暗闇を一点だけ見つめていると、不思議なことに、そこが段々明るく見えてくる。今の私の目がちょうどそのような状態で、天井の中心に微かな光を感じている。

 光は生きているかのように右や左へ動き、大きくなったり小さくなったりを繰り返した。が、私に構ってもらえないのを不満に感じたのか、すぐにどこかへ消えてしまった。一瞬、あれが希望という光で、もし捕まえたら何かここから逃げるヒントを与えてくれるのではと思った。私を哀れに思った妖精が姿を現したのだという、我ながら子供心溢れる妄想だった。光を追い続けた私は瞬きを忘れており、なんだか目がごわごわしている。

 光が消えてしまった今、もう助からないのではないかと思うようになってきた。

 自分が殺される様を想像すると、やはりそれを避けたいという本能が立ち上がろうとする。けれど今の私にはどうしようもなくて、その時を待つしかないのだ。

 両親の顔が見たい、という思いが頭をよぎった。子供のころから親不孝で、大人になった今もそれは変わらない。連絡もとらず、周りが家庭を築き始めてもそれを気に留めることもなく、孫の顔どころか旦那すら見せていない。私は独り身なのだから。

 きっと、私はこのまま殺され、殺されたことを誰にも知られないまま山かどこかに埋められる。死ぬことよりも、死んだことに気づかれない方が悲しいのだと、始めて感じた。額に湧いた汗が耳の中まで流れた。それは、妄想の中で土に埋められた私の身体のように、ひんやりとしていた。

 私の喉元まで、何かが上がってくる。それは吐き気であり、嗚咽であり、後悔であり、孤独だった。涙は出ない。ただ、咳き込むように、喉の何かを吐き出したい。

 見えない何かに圧迫されているような不快感が、喉の奥を漂う。もし吐き出せたのなら、それはどのような姿をしているのだろう。昨晩食べたものかもしれないし、形などない助けを求める叫びかもしれない。両親への謝罪かもしれないし、ただの泣き声かもしれない。そのどれもが叶わないという現実が、さらに喉を圧迫する。数秒、呼吸すらできなくなった。

 その時だった。頭が、ごとりと揺れた。

 トランクの天井は、私の頭と同じ高さのはずである。自分の意志で動かすことができないほど密着していたのに、なぜか頭がぐらぐらと揺れている。車が、再び走り始めたのだ。

 もう助かる道はないのだと思った。なぜトランクは中から開けることができないのだろうと、車を設計した顔も知らない誰かを恨んだ。


 何時間ここに閉じ込められているのか、時計なしでは分からない。

 半日が過ぎたように思えるし、まだ一時間だという気もする。退屈な時間で長く感じているのか、緊張のせいでほんの刹那に感じているのか、それすらも分からない。

 もう諦めよう。そう思った時、ふと微かに音楽が聞こえた気がした。

 今、近くを誰かが歩いている。つまり、車は停止している。目的地に着いた犯人が私を殺すためにトランクから出そうとしているのではと思ったけれど、運転席のドアが開閉する音は聞こえなかった。つまり、そこにいるのは犯人ではない。

 叫ぶなら今しかない。緊張で火照った頬がちくりとする。暗闇の中で、小さな希望の光が見えた気がした。

 再び、喉に何かがこみ上げてくる。それは先ほどより強い吐き気を催したが、声を出すため必死にこらえた。

「助けて! 誰か! 誰か!」

 やはり声にならない。喉を動かした拍子に、頬の汗がどっと耳の中へ流れ込む。無駄な努力だと私を嘲笑うように冷たいものだった。

 それでも、私は諦めない。これが私に与えられた最後のチャンスだと自分に言い聞かせ、もう一度喉に力を込める。乾燥した喉に、裂けるような痛みが走る。

「誰か! 聞こえないの!? 助けて! そこにいるんでしょう!?」

 ごとりと、頭が揺れる。犯人が再び車を走らせたらしい。

 いけない。今誰にも気づいてもらえなければ、私はこのまま殺されてしまう。もともと小さかった音楽が、さらに小さく遠のいてゆく。恐怖が胸に突き刺さり、痛みが私の中を駆け回る。喉はもう限界だ。呼吸をしようとしても、何も肺を満たさない。トランクの酸素は枯れ、代わりに残酷な現実だけが満たされる。もう、呼吸をすることも叶わない。


 いやだ、殺されたくない! まだ死にたくない! もし生きて帰れたら、すぐに実家に帰ってたくさん親孝行をするから! 血眼になって旦那を探して、孫の顔だって見せるから! だから、今ここで死にたくない。死にたくない! お願い、誰か、誰か......助けて............助け........................て........................。






 白衣を着た男が、ベッドの枕元に置かれたラジカセの電源を切った。ベッドには、頭の右に大きな痣のある女が安らかな眠りについている。

「脳死は、いくつかの項目により判定されます。まず、深い昏睡状態にあるかを顔に刺激を与えることで判定します。右頬と左頬をピンで刺激しましたが、反応は見られませんでした」

 ベッドを挟んで、老夫婦が男の話に身を乗り出して聞き入っている。

「次に、瞳孔の散大と固定を、瞳孔に光を当てて観察します。こちらも、反応は見られませんでした」

 男が、胸ポケットから取り出したライトを机に置く。

「そして脳幹反射の消失を判断するため、様々なストレスを与えます。気管内にカテーテルを挿入しましたが、咳き込むことはありませんでした。角膜を綿で刺激したのですがこちらも反射はなく、瞬きしません。耳の中に冷たい水を入れても目が動くことはなく、顔を左右に振っても眼球が反応しませんでした。胸に痛みを与えても瞳孔が大きくならないので、反射は消失したと判断されます」

 老婦が、女の手を強く握る。

「脳波が検出されず、自発呼吸も停止しています。我々は五、六時間の間隔を挟み一連の検査を繰り返しましたが、どれも反応が見られませんでした。また、本人がよく聞いていたという曲を流すと反応するという事例があったのですが、それも今回は反応がありませんでした。彼女は、脳死だと判定されます」

 椅子に腰かけていた皺の深い男が、膝から崩れ落ちた。

 ひどい嗚咽とともに、老婦が口を開く。

「この子はもうずっと前から連絡をよこさなくて、最近どんな音楽を聞いているのか分からず、学生の頃聞いていたカセットをかき集めてきたんです。とてもいい子でした。昔から手がかからなくて。それで、いつの間にか私たちから遠のいてしまった。それが、まさかこんなことになるなんて......」




『今朝八時過ぎに、「バイクに乗っていて女の人を撥ねてしまった。頭を強く打ったようで動かない」という通報があり、女性は病院に搬送されましたが、その後死亡が確認されました。警察は、路上駐車していた車により見通しが悪く、女性が車道を横断しようとしたところ事故に遭ったとみて、捜査を進めています』

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