11. 中宮の向こうへ
木々の間から、岩山を背にした木の社が見え始めたとき、杏子は思わず立ち止まった。
「中宮に行くのが、怖いですか?」
すこし前を歩いていた宮司が、笑顔で振り返る。
「大丈夫ですよ。あの岩山は梛神社の聖域ですからね。あなたにも見えるでしょう? 神が喜んでおられるのが」
岩山から黒雲が湧き出るような錯覚に、杏子はめまいがした。
このままじゃ、また気を失ってしまう。そう思った杏子は、とっさに自分の腕に爪を立てた。
(痛っ……)
痛みに意識を集中させて感覚を鈍らせると、杏子は自分の力に
(何も見えない。何も見えない)
こうなったら梶原との約束など、棚上げにしてしまえばいい。
「あなたが来てから、山の神が騒がしいのです。こんなに狂おしいほどの渇望を、神が示されるのは初めてです」
宮司は、真剣な眼差しで山を見上げる。
「あなたは、何を言っているの?」
「後でちゃんと説明します。とにかく中へ入りましょう」
宮司は杏子の腕をつかむと、中宮の前まで引っぱって行く。
社の扉にかかっていた南京錠は、宮司が手を触れただけでパカリと外れた。
杏子は、大介と梶原の姿をさがした。この辺りにいるはずなのに、ふたりとも姿が見えない。
洞窟の中に入る、絶好のチャンスを失う訳にはいかなかったが、正直なところ、ひとりでは心細かった。
「さあ、行きましょう」
グイッと引っ張られて、杏子が社の中に入ると、宮司はさらに奥の壁を押している。
「何をしているの?」
そう言ってふと横を見た杏子は、社の中央にあるさい銭箱を見て息を飲んだ。さい銭箱だと思っていたものは、天井にある滑車で桶を上げ下げする、井戸のようなものだった。しかし、のぞいて見る限り、かなり深いが水があるようには見えない。
「それは、御供物を下ろすためのものですよ」
宮司は社の壁の半分を、まるでドアのように開きながらそう言った。
「ここから先は真の聖域です。暗いから気をつけて下さい」
ドアの向こうには、闇が広がっていた。遊園地にあるアトラクションの入口のようにも見えるが、その先にある闇が普通ではなかった。
(何かがいる……)
全身が粟立つような恐怖が、杏子にまとわりついてくる。
宮司が小さな明かりをつけて、岩をくり抜いた階段を下って行く。腕をつかまれたままの杏子も、引っ張られるように階段に足をかける。
杏子は、宮司の手を振り払って逃げ出したかったけれど、この先にいるはずの理恵を思い出して踏みとどまった。
(こうなったら、神様でも何でも会ってやろうじゃないの!)
今度こそ本当に開き直った杏子は、宮司について階段を下りて行った。
狭い階段を抜けると、広い洞窟が口を開けた。宮司の持つライトに照らされたごつごつした岩肌は、進むにつれ鍾乳洞のような滑らかなものに変わっていった。
ドク、ドク、ドク
奥に進むにつれ、杏子は自分の鼓動が大きくなっていくのを感じていた。
「わかりますか?」
宮司が立ち止まり、杏子に振り返る。
力に蓋をしていても、大蛇がのたうつような気配を感じる。
宮司は、神が喜んでいると言ったけれど、杏子には、自由を求めて暴れたがっているように思えた。
「あなた方は、神を封じているの?」
「とんでもない。わたしたちは祖先から受け継いだ通りに、神を祀っているだけです。この神は荒々しく、世に災いをもたらす神なのです。祀りごとをおろそかにすれば、大変なことになります」
「そうかしら? あたしには、そうは思えないわ」
杏子は厳しい目で宮司を見上げた。
「今まで、ずっと夢だと思っていたけど、あたし、子供の頃に龍神と会ったことがあるの。あれが本当に神様なのだとしたら、もっと冷厳で、ずっと自由だったわ」
宮司の目に、驚愕の光がよぎる。
「やはり、あなたは特別な人だったのですね」
「そうじゃないわ。無知な子供たちが、入ってはいけない森に入ってしまっただけよ。そこで会った龍神はあたしたちには冷たかったけど、龍神にとってはすべてが平等だからだったのよね。人間のための神様じゃないから、人間のせいで自然や生き物が被害を受けることに、怒っていたのよ。こんなところに繋がれてるのは、とても神とは言えないわ。あなたの祖先は、人間の都合で神を利用していたんじゃないの?」
杏子に言葉に、宮司は笑みを浮かべた。
「人が、神を利用することなど出来ません。わたしたちはただ、荒ぶる神霊を祀るだけです。ご覧なさい、これが梛神社の御神体です」
鍾乳石の壁に祭壇のようなものがあり、その上に、白くて丸い石が乗っていた。
「遥か古代から、たくさんの娘が神の怒りを鎮めるために、神妻としてこの聖域に送られてきました。しかし、近頃は儀式そのものが形式的なものになり、そのせいか、いくら怒りを鎮めようとしても、神は神妻を受け取らなくなってしまいました。でも、あなたならきっと、神は受け取って下さるでしょう」
宮司は祭壇に向き直ると、呪文のような言葉を唱えはじめた。岩肌に反響する呪文だか
「お連れの方には、わたしからちゃんと説明しておきますから、安心してください」
宮司は杏子に一礼をすると、そのまま元来た方へ戻ってゆく。
待ってと叫ぼうとしたけれど、金縛りにあったように、口も体も動かない。
そのうち、宮司の持つライトの光は遠くなり、あたりが暗闇に包まれた頃、遠くから扉が閉まるような音が聞こえて来た。
(ちょっとぉ、マジやばいじゃないのぉ!)
杏子は声を出せないまま、中宮にいるはずだった大介と梶原に怒りを向けた。
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