2. 猫と青年


 杏子と大介を乗せた天王寺の車は、幹線道路から離れ、住宅街に入って行った。

 しばらくして白いアパートを見つけると、二台の車は小さな駐車場に静かに入って行った。


 天王寺の部下たちが二階へ上がり、左端の部屋のドアを開けるのを、杏子たちは車の中から見ていた。


「カギ、かかってないのかな?」


 助手席に座った大介が、驚いたようにつぶやくと、部下がひとり報告に下りてきた。


「中には誰もいません。部屋の中を確認しますか?」


 天王寺は部下に向かってうなずくと、隣に座る杏子に振り返る。


「一緒に、部屋をあらためてください」

「わかりました」



 部下たちを玄関先に残したまま、杏子と大介は、天王寺の後について部屋の中に入って行った。


「うわぁ、なんか荒らされたって感じっすね」


 思わず大介がそう言ってしまうほど、部屋の中は荒れていた。

 あちこちに物が散乱した部屋の隅には、ネコのエサ入れも転がっていた。

 杏子は静かにしゃがみ込むと、ネコのエサ入れに手をふれた。すると、めまいがするほどたくさんの映像が、杏子の中に流れ込んできた。


 膝を抱いて座る淋しそうな青年。ビルの屋上。交差する人影。それは、思いもかけぬほど多彩な内容だった。


 ずいぶん長いな、と大介が感じるほど、杏子は目を閉じたままじっとしていたが、やがて目を開くと、不思議そうな眼差しを天王寺に向けた。


「天王寺さんは、この部屋に住んでいる青年をご存知ですね?」


 杏子がそう言うと、天王寺の表情がわずかに揺れるのがわかった。


「はい。ここに住んでいるのは、わたしの弟です。弟と言っても、彼は父の愛人の子供で、会ったのも一度か二度くらいですが」


「えっ、それじゃ、その弟さんがネコをさらったんですか?」


 大介は驚いて、天王寺と杏子の顔を見比べたが、天王寺は大介に冷たい視線を送っただけで何も言わなかった。


「弟さんは、ネコと一緒に逃げているようです。まだ、そんなに遠くには行ってないわ。でも彼は、誰かに追われています。あなたじゃない、別の誰かです。心当たりはありますか?」


「いいえ、ありません」


 天王寺は首を振り、杏子を見つめた。


「あなたには、誰が弟を追っているのか、わかるのですか?」


 クールな天王寺の表情に、わずかに熱がこもる。


「いいえ。あたしにわかるのは、この部屋に入って来たのが、スーツ姿の男ふたりだということと、弟さんがビルの屋上のような場所で人影を見たことくらいです」


「ビルの……屋上?」


「もちろん、追われている事と関係があるかどうかはわかりません。ただ、あたしが見たものは、弟さんの心に強く残っている事だと思うんです。もし、調べることが出来るなら、追われている原因を調べた方がいいと思います」


「わかりました」


 天王寺は、玄関先に待たせていた部下に歩み寄り、何か指示を出している。


「なんか、ヤバそうな展開になって来ましたね。杏子さん、体調の方は大丈夫ですか?」


「大丈夫よ。それより大介くん、夕方からバイトじゃなかった? ここはいいから、早く行きなさいよ」


「いえ、バイトは休むって連絡入れました。こんな所に、杏子さんをひとりで置いて行くわけにはいきませんよ!」


 大介は怒ったように反論する。


「休むって、そんな事してたら、またクビになっちゃうじゃない! 今ならまだ大丈夫でしょ、行きなさいよ」


「もう連絡入れちゃったからダメです」

「まったくもう、頭痛がひどくなったじゃない!」


 杏子は頭を抱えた。


 そこへ、天王寺が戻って来た。


「部下が、弟の勤務先に連絡を取っています。ビルメンテナンスの会社で清掃のアルバイトをしていたようなので、担当したビルで何かあったのかも知れません。椎名さんには、引き続き弟の居場所をさがして頂きたいのですが」


「わかりました。弟さんの持ち物を、ひとつ借りますね」


 杏子はそう言うと、タンスの上に倒れていた白いフォトフレームを手に取った。 まだ中学生くらいの男の子と、その母親らしい女性が並んでいる写真が入っている。

 天王寺は小さくうなずくと、先に立って部屋を出て行った。



「弟さんは、自転車で移動してるみたいね。はっきりとした場所はわからないけど、西に向かっているみたい」


 杏子の言葉で、車は西へ向かって走りはじめた。もう一台の車は、ビルメンテナンスの会社へ向かったのか、途中で見えなくなった。


「弟の名前は、天王寺瞬てんのうじしゅんといいます。たしか、わたしより七つ年下でしたから、今は二五歳だと思います」


 後部座席に杏子と並んで座る天王寺は、ポツリとつぶやくように弟の話をはじめた。


「椎名さんは、もうご存知かも知れませんが、わたしの父は反社会的組織、つまり、ヤクザの組長でした。弟は、そんな父を嫌っていました。弟の母親が亡くなったとき、父は弟を引き取ろうとしましたが、当時高校生だった弟は、父から逃げ出しました。もちろん、わたしが父の後継者になったとき、正式に組は解散しました。今は何ひとつ恥じることのない一企業ですが、それでもまだ弟は、天王寺の世話にはなりたくないようです。そんな弟が、どうしてわたしのネコを連れ出したのか、まったくわかりません。わたしに対する、嫌がらせなのかもしれませんね」


「弟さんの家や仕事先を把握しているのは、お父さんのご意志ですか?」


「ええ。父は最後まで、弟を気にかけていましたからね。一応、居場所はわかるようにしていました」


「そうですか……。あの、弟さんと会ったのはいつ頃ですか?」


「弟に初めて会ったのは、たぶん、わたしが中学生くらいの頃だと思います。二度目は、彼の母親の葬儀の時ですから、十年前くらいですね」


「そうですか。天王寺さんが中学生の頃なら、弟さんはかなり小さいですよね?」

「ええ。たぶん、小学校低学年くらいだったと思います」

「ですよね……」


 頭の中に流れ込んできた映像の中に、芝生の庭で泣いている小さな男の子がいた。転んでケガでもしたのだろう。泣いている男の子に歩み寄り、面倒くさそうに絆創膏を貼ってあげていた無表情な少年は、もしかしたら中学時代の天王寺だったのかも知れない。


 そこにどんな感情があるのかは分からないけれど、瞬にとっては、きっと忘れられない思い出のひとつなのだ。


「杏子さん、なんか引っかかるんですか?」


 助手席で聞いていた大介が、口を挟んだ。


「ううん。引っかかるって言うか、あたしが見た瞬くんは、とても大人しそうな青年だったのよ。ネコにエサをやりながら膝を抱えている姿は、とても淋しそうだったわ」


 瞬は嫌がらせのためにネコを連れ出すような人間ではないと、杏子は言いたいのだろう。二度しか弟に会っていない天王寺と、杏子が感じた人物像が一致しないのは、無理もないことなのだ。


 その時、天王寺のスマホが鳴った。短い受け答えをした後、天王寺は杏子に向き直った。


「弟が担当したビルで、最近飛び降り自殺があったようです」

「飛び降り自殺?」


「ええ。たぶん弟の見た人影は、その人物だったのでしょう。いや……自殺を目撃したくらいじゃ、追われるはずはないな」


 天王寺は目を細めた。その刃を思わせる瞳に、杏子はハッと目を見開き、大介は叫んだ。


「それってまさか、自殺を装った殺人だったかも知れないって事ですか?」

「そういう事だろう」


 天王寺は平然と答える。


「それじゃ瞬くんは、口封じに殺されるかもしれないじゃない!」


 杏子は、瞬の部屋から持ち出したフォトフレームを持つ手に、ギュッと力を込めた。


「こんな時に……まったく、役に立たないんだからぁ」


 いつもだって穴だらけの力なのに、今日はいつもよりずっと見えない。人の命がかかっているかも知れないのに。

 杏子は情けない思いで、もう一度目を閉じた。


「いた! 公園にいるわ。大きな池がある公園。どこだったかしら、行ったことがあるわ」

「西の方なら、井の頭公園じゃないっすか?」

「そうよ、井の頭公園だわ。行って!」


 杏子の叫びで、運転手はスピードを上げた。

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