鎌倉桜草子

オボロツキーヨ

八重一重(やえひとえ)

 鎌倉の港、和賀江島わかえしまに伊豆大島から大舟が入ってくる。

金襴の海がまぶしく揺らぐ。

笹の葉のような小船が港を忙しく行きかう。


 和賀江島は伊豆国から運ばれた、たくさんの石を積み重ねて造られた港。

遥か遠く南宋からも舟がやって来た。


 八重やえ桐ヶ谷きりがやつの家を飛び出した。

明るい春の日差しが降り注ぐ材木座ざいもくざ海岸から、

荷下ろしの様子を目を細めて眺める。

港には人が溢れている。

太陽に焼かれて黒光りした肌の船乗りとふんどし一丁の人足にんそくたちの怒声が響く。

八重にとっては、慣れた港の喧騒けんそうだった。


 喧騒が止んだ頃、八重は小走りで港へ向かう。

ついに待ち人に会える。

 

 八重は一人で陶然として港に立っていた。

今朝は新しい赤い小袖を着て、念入りに長い髪をいてある。

砂浜を歩きやすいようにと、小袖の裾を短くたくしあげていた。

白いふくらはぎは瑞々みずみずしい色香に満ちている。

体も頬もふっくらとして、匂いたつような桜色に染まっている。


 地元の船乗りや人足たちは幼い頃から八重をよく知っていて、

美しい娘となった八重をまぶしそうに、物欲しそうに見つめる。

綺麗になった、おれの嫁になれと軽口をたたくやからも多い。

そんな時、八重は嫣然えんぜんと微笑みを返した。

父親は材木座の座の顔役で、和賀江島の荒くれ者たちを束ねる大親分。

本気で八重を口説く度胸のある者など、誰一人いない。


 八重は潤んだ大きな目を凝らして大舟を見上げた。

艶やかな黒髪をなびかせた若衆が手を振っている。

白い歯が夜光貝のように光った。

手には大事そうに布袋を持っている。

若衆は船から下りると駆け寄ってきた。


「久しぶり。元気にしていた。会いたかった。

これ、お土産の大島桜。この桜、すごく綺麗だから八重に見せたくて、やっと苗を持ってきたよ」

涼やかな眼差しで見つめられると嬉しくて足が震え、涙が溢れそうになる。


一重ひとえねえさん、おかえり。

ずっと鎌倉に居るの。これ、いつ咲くの」


小さな布袋はずっしりと重い。

八重は両手で受け取り覗き込む。

土に植えられた一尺ほどの頼りない、小さな苗が入っている。


「ふふ、楽しみにしていてね。

大島桜はすぐに大きくなるけど、いつ咲くか、わからない。

これから一緒に植えよう。

二人の桜だからたきぎにしたら駄目だよ」


 なんて優しい笑顔。

一重ねえさんの吐く息の匂いまで好き。

今夜からしばらく桐ヶ谷の家に泊まって、わたしと一つのしとねで眠る。

本当は離れて暮らすのは嫌。

いつも一緒にいたい。

 

 しとねの上では生まれたままの姿で眠る。一重ねえさんはいつも男の格好をして、胸にさらしを巻いているからほどいてあげる。

ねえさんは恥ずかしそうに笑う。

滑らかな肌や、柔らかな胸のふくらみを感じながら眠るのが好き。

一重ねえさんは舟乗りだから黒く焼けた肌だけど、お尻とお腹は白い。

秘密の桜貝に触れると、震えて変な声を上げる。

わたしも仕返しされて、最後には叫んでしまう。

散々ふざけて汗まみれになるから、父さんがくれた絹のはぎれで、

お互いの体中の汗を丁寧にぬぐいあう。

そして体が冷えないように抱き合って眠る。

甘い吐息と潮の香りがする肌。

くすぐったくまとわりつく絹糸のような髪の一本まで、

一重ねえさんは、わたしだけのもの。



「また背が高くなったね。美丈夫な若衆に見えた。短い袴が似合っているね」

わたしは、手を伸ばして少しとがり気味のあごに触れた。

ねえさんが、わたしの手を握る。


 二人で手をつないで材木座海岸を歩いていると、

急に強い風が吹いてきた。

牙のような白い波が寄せては返して、襲いかかろうとする。

強い風に舞い上がった砂が容赦なく、目や口に飛びこんでくる。

急に何故、こんなに風は荒れ狂うのかしら。


嗚呼ああ、目が痛い、何も見えない」


一重ねえさんが抱きしめて風から守ってくれた。

しばらくすると風は弱くなった。


「八重、目を見せて。まばたきしないで」

顔をしかめて恐る恐る目を開ける。

ねえさんの形のいい唇から真っ赤な楕円形の舌が覗いている。

目玉についた砂を、舌先でチロリと舐めてくれた。

ちょっと痛くて怖いけど、気持ちがいい。


「ありがとう。そういえば、いつか八雲神社へお参りに行った時も、

目に入った虫を舌で舐めて取ってくれたね」


「八重は、いつも玻璃はりの玉みたいに、きらきら光る大きな目を見開いて、

ぼんやりと何かを見ている。

だから、羽虫も吸い寄せられて飛び込んでくるのよ。

姉妹なのに、あたしは細い目なのに、全然似ていないものね」


 ぼんやりとしているのは、一重ねえさんに見とれているから。

ねえさんとわたしは腹違いの姉妹。

ねえさんは、父さんが宴に呼んだ流浪の傀儡女くぐつめと戯れて生まれた子だという。

すぐに父さんの弟分で伊豆大島に暮らす船乗りにもらわれた。

その二年後、わたしが生まれた。


 一重ねえさんが初めて舟に乗ってやって来た時、まだお互い幼かった。

痩せていて真っ黒な顔で短い髪をしていたから、ずっと男の子だと思っていた。

しなやかな長い手足の美しい男の子。わたしの初恋だった。




 また、強い風が吹く。


「風は嫌い。船を転覆させて、あたしを海の底に沈めた」

「え、何を言っているの。泳ぎが得意なのに、沈むなんて」


そっと唇をふさがれた。

一重ねえさんの唇は桜の花びらのように、ふわりと冷たい。


 ふと気づくと、いつの間にか、わたしの柔かいはずの手は、

硬くしわだらけになっている。

一重ねえさんに負けないくらい艶やかだった自慢の黒髪が、

白く見えるのは砂をかぶったせい。

 

 そういえば、わたしは歳をとった。

一重ねえさんは、大島桜を持って来てくれた帰りに、

大舟が嵐に遭って沈んでしまった。

まだ一七だった。

悲しくて涙も出なかった。

 

 でも、寂しくない。

一重ねえさんの大島桜が毎年春に花を咲かせてくれるから。

一生懸命、桜を守ってきた。

今年も美しく咲いてくれた。

桜はいいな。

何十年経っても、何度も美しい花を咲かせる。

桐ヶ谷の皆が鎌倉一の見事な桜だと誉めてくれる。

それに皆、とても不思議な桜だと気づきはじめた。

一枝に八重の花びらの桜と一重の花びらの桜が、寄り添うように一緒に咲いている。

だから八重一重やえひとえという名で呼ばれる。

わたしとねえさんの奇跡の桜。


 だけど、やっぱり生身の一重ねえさんと、もっと一緒にいたかった。

もっと抱き合いたかった。


 まだ、あどけない少年が砂浜を走って来た。


「あ、こんな所にいた。八重婆ちゃん起きてよ。

もうすぐ八重一重を見に、家に征夷大将軍の足利尊氏が来るよ。

天子さまのいる都の御所に八重一重を植えるんだって」


 白髪の老女は材木座海岸の砂浜で、埋もれるようにうずくまり、

もう動かない。





鎌倉桜・・・桐ヶ谷(別名・八重一重、御車返し)

たきぎ用に植えられた大島桜が、鎌倉桐ヶ谷で突然変異したとされている。

後に足利尊氏によって京都御所の左近の桜として植えられたという。  (了)




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