第三章、その六

 そこにはあの夜と同じく、煌々と輝く満月の光を一面に浴びた、鏡のような泉が広がっていた。


「──鞠緒まりお、いないのか。鞠緒!」


 しかし返ってくるのは、夜風に揺れるさざ波の音ばかり。

 考えてみればこんなところに鞠緒がいるなんて、何の確証もなかったのだ。そもそも彼とあの少女が同一人物とは決まったわけでもなく、今もどこかでただ予定通りに、巫女姫の儀式とやらを滞りなく行っているだけなのかもしれなかった。

「そうだよ。だいいちあの『伝承』自体も、叔父さんの創作でっちあげかもしれないんだしな」

『小説家とは、嘘をつくのが商売なのである』──たしかあの『壊れたスピーカー』が、そういったことを言っていたはずだ。彼にしては、的を射たいいセリフである。

 では座敷牢へと帰って、とっとと寝ることにでもいたしますか。


「ん? あれは……」


 奇妙なものが目に入った。夜間はいつも閉ざされているはずの、食糧庫の頑丈なる金属製の扉が、開きっぱなしになっていたのだ。

「まあ、在庫はすでに尽きたそうだし、『自給自足』宣言もしたことだしで、閉めきっている必要もなくなったってわけかな」

 何となく興味が湧き、僕はごく自然に、そちらへと足を向けてしまう。

 鉄の扉をくぐるとどうやらその内部は、天然の鍾乳洞のようなものをそのまま利用しているみたいであった。

 岩壁に手をつけて暗闇の中をゆっくりと進んでいくと、だんだんと気温が下がっていくのを、肌で感じ始める。

「……『氷室』、か」

 行き止まりの岩壁には、入口と同じような鉄の扉があつらえられていた。

「さすがにここは閉められているか。鍵は──おお、いた開いた」

 重くてぶ厚い扉をきしませながら開ききると、貯蔵庫だと思われる肌寒いほど冷えきった広々とした空間は、仄暗い蝋燭の明かりに包まれていた。

 いやむしろ、変なコントラストがついて、全然わかりにくいんですけど。吊された肉の塊なんて、大きな影になっていて、何だか不気味だし──って、『肉の塊』?

「何だよ、肉あるじゃん。やっぱり何らかの理由があって、あんな変な『非常事態イマージェンシー・体制フォーメーション』なんかを──いてっ」

 上のほうばかり見ながら歩き回っていたら、何かに蹴つまずいてこけそうになった。

「何だこれ、白木の……箱?」

 薄闇の中に浮かび上がる、白くて大きな直方体。そう、ちょうど成年男子が一人分、すっぽりと収まるぐらいの寸法の。

「これってまさか、棺桶──か?」

 しかもこの数は何だ。ざっと見渡しても、二、三十個はあるぞ。何でそんなに必要なんだ。まるでこれからそれだけの人数が、死んでしまうのを予定しているみたいではないか。

 しかも二、三十って、ちょうど僕も含めた招待客の人数と、同じくらいだったりして……。

 しかし驚くのはまだ早かった。だんだんと暗闇に目が慣れるにつれ、不吉な考えが脳裏を支配していく。

 何だかこの吊されている肉塊って、女性の体のシルエットにしか見えないんだけど。

 しかもそれは一つ二つの数ではなかった。おそらくは全部で十四、五体あまり。少し数が足りないが、徐々に姿を消していった女中さんたちの顔が、なぜだか目に浮かんできた。

「まさか、まさか、許斐このみ氏の言っていたことって……」


 そのときである、『音』が聞こえてきたのは。


 それは何か水浸しのボロ布を無理やりすり潰したり引きちぎったりするかのような、不快極まるものであった。

 目を凝らせば、一番奥の壁際の白木の箱の前にかがみ込んでいる、一つの人影が見えた。

「誰だ! そこで何をやっているんだ⁉」


 淡い蝋燭の光の中で、ゆっくりと振り返る小柄な体躯。

「鞠緒?」


 薄闇を切り裂くように煌めく、黄金きん色の縦虹彩の瞳。

「──え」


 違うのか、鞠緒じゃないのか?

 けれどもその肩のあたりまでしかないしろがね色の髪の毛も、一糸まとわぬほっそりとした丸みやおうとつのない白磁の裸身も、けして少女のものでなく、あの見慣れた少年そのものであった。

 僕は知らず知らずのうちに、少年のすぐ面前に立ちつくしていた。

 しかし彼は僕のことなぞには何の興味もないように、ただ無心に『食事』を再開する。


 そう。目の前の白木の棺桶の中身である、某大学本格同好会の会長の、『なれの果て』を、メインディッシュとして。


 次々と手づかみで、あるいは鋭い犬歯けんしによって、男の体が無造作に解体ばらされていく。

 そして少年のいまだ幼く中性的で華奢な肢体は、返り血と肉片とによって、またたく間に真紅へと染め上げられてしまうのであった。

 しかし僕はまるで魂を握られたかのように、彼の姿から目を離すことができなくなってしまっていた。


 ──なぜなら、その少年は、美しかったから。


 たしかに人の屍肉を喰らうその姿は、まさに浅ましき悪鬼そのものであったが、陶器のように白く穢れなき素肌や月の雫のごときつやめくしろがね色の髪の毛は、血だまりの中にあってなお妖しい色香を深めていき、人形みたいに端整な顔の中では人にはありえない縦虹彩の黄金きん色の双眸が、血汁を浴びるほどに生き生きと煌めきを増していったのだ。


 まさしくそれは、この上もなく禍々しくもありながら、真に純粋な者だけが持ち得る、至高の清麗さすらも醸し出していた。


 僕はもはや言葉もなく、ただ目の前の光景を凝視し続けた。

 するとふいにそのとき、『少年』が立ち上がった。

 血肉まみれの裸身のすべてを、さらけ出すようにして。

「鞠緒……なのか?」


 しかしその桃花の唇は、けしてほころぼうとはしなかった。──言葉を海底の魔女に奪われてしまった、哀れなる『人魚姫』そのままに。


「お、おまえ!」

 少年の両の太ももを絡みつくように流れ落ちていく、幾筋かのくれない色の軌跡。

 まさにその瞬間とき。先ほど目にしたばかりのあの伝承そのままの光景が、僕のほんのすぐ目と鼻の先で展開されていったのだ。


 ──仄かなる明かりのもと、その少年のいまだ性的に未分化な中性的で幼い肢体が、文字通りの『月のしるし』とともになまめかしく丸みをおび始め、腰はくびれ、乳房はふくらみ、更には『満月つき巫女みこ』の証しであるしろがね の髪が、滝に水落つように伸び始めていくのであった──。


「鞠緒……おまえは……いったい」

 そこにたたずんでいたのはもはや、自分のよく知る幼く無邪気な『少年』ではなく、まさにあの夢の中に訪れていた、月の妖精のような『少女』そのものであった。

 呆然と立ちつくす僕の背中へと回される両腕。しなだれかかってくる白磁の肢体。迫りくる縦虹彩の黄金の瞳。そして押しつけられる朱色に染まった唇。

「うぐっ!」

 差し込まれ、僕の口腔なかをのたくっていく、生暖かい舌──人間ひとの血と肉とを、存分に味わせながら。

「──やめろ! もうたくさんだ!」

 その華奢な体を力まかせに突き飛ばし、口の中のものを必死に吐き出しながら、僕は叫んだ。

 尻餅をついたままきょとんとした表情で、あどけなく首をかしげる『少女』。


「おまえは鞠緒なんかじゃない! あの夢の中で会っていた少女でもない! ただの『人喰いのバケモノ』だ!」


 その瞬間、少女の瞳が驚愕に見開かれた。

 ──あたかも、王子様の裏切りを知らされた、『人魚姫』のように。

 涙に潤んだ黄金の双眸。哀しみに歪む物言わぬ唇。すがりつくようにのばされるか細い両腕。

 しかし僕は彼女のすべてを拒絶し、踵を返して駆け出した。

 そのときの僕を支配していたのは、恐怖よりもむしろ混乱であった。


 ──いったいこれは何なのだ。何で僕がこんな目に遭うのだ。


 記憶を失い右も左もわからない状態だというのに、さらに現実と夢幻ゆめまぼろしの区別もつかないような、でたらめきわまる世界に放り込まれてしまうなんて。

 今や無力そのもののこの僕に、いったい何をやらせようとしているのだ⁉


 お願いだ、ここいらで僕を降ろさせてくれ。もうこんな馬鹿げたミステリィごっこに、付き合う余裕なぞは無いのだから!

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