高村光太郎とかいう真性のサイコパス



大澤:物語のほうに現実を持ちこむはどんどんやっていくといいんですけれど、逆はわりと歪みの温床になりやすいかな。現実に物語を持ちこむべきではない。


籠原:私は「現実に物語を持ち込むべきではない」とは決して思いませんね。物語世界の――フィクショナブルで圧倒的な重力が存在しているからこそ、私たちは目の前にいる何でもないひとりの人間を運命の恋人と思い込める。もちろんそれは単に錯覚に過ぎないと言ってしまって構わないでしょうが、そうした錯覚なしに人間が結ばれることのほうが少ないだろうと思います。結局のところ私たちは虚構の力――宗教もまた虚構なのですが――が存在しなければ生きていけないのではないか。いっときの惚れた腫れたな感情を斬り捨てるのは簡単ですが、私は質の良いセックスには常にファンタジーの要素があると感じています。


大澤:でもほら、物語のフィルターを通しちゃっている人って、もう現実の人間の言葉が届かなくなっちゃうじゃないですか。わたしもよくあるんですけれど、たぶん見た目から受ける印象と実際の中身の乖離のせいかな? なんか完全にその人の物語のフィルターを通してわたしのことを見ていて、実際のわたしがなにを言ったところでもう無駄みたいな。そうなるともうそれ以上の関係性の構築できないですから、幻想のわたしとよろしくやっといてくれみたいになっちゃいますよね。


籠原:それは正確には現実対物語の対立ではなく、言うなれば、現実と等間隔の物語A対物語Bという対立ではないでしょうか。いかなる人間もその人自身のフィルタを通してしか世界を観ないでしょうし。それ自体は大した問題ではないと思いますね。我々だって相手に対して実は同じことをしているわけですから。自分の言葉が受け取られたいように受け取られなかったというだけでは……ぶっちゃけ、何とも言えませんよね。「そうだね受け取られたいなら次はもっと受け取られやすい言葉を選ぼうね」という風にしか私たちは言えないのでは。(後記――もしかして大澤さんはジョジョ第六部のマックイイーンみたいな奴を念頭に置いているのでしょうか。そういう例外的狂気を過度に一般化する癖をまずやめろ)


大澤:うーん、あの強固な物語フィルターはそういう一般論に回収できる感じではないんだけれども、まあこれも具体的な個別ケースを知らないと共有できないだろうから仕方ないかもしれませんね。個人的な経験よりは、むしろ文芸作品とかで提示したほうが分かりがいいかな。ほら、高村光太郎の『智恵子抄』とかめっちゃ怖くないですか? わたしあれたぶん中学生くらいのときに読んだんですけど、もう本当にこわくって、サイコスリラーですよ。智恵子がひとりの女性として扱われずに、高村の理想を押し付けられた偶像になっちゃってますよね。そりゃあ気を狂わせるくらいしかないですよあんなの。で、死んでまでそれを崇高で高潔なものに作り替えられてしまうんだから、天性のサイコパスがひとりの平凡でおっとりとした女性をその魂まで徹底的に食い物にするホラーですよ、『智恵子抄』。


籠原:『智恵子抄』が実はもの凄くドSなお話だ、という意見には同意できます。「俺の腕の中で女の子が壊れているのをただ見つめていたい」みたいな、お前それは業が深すぎるだろwwと言いたくなるやばさを感じますよね。そしてこの手のパターンは文学史的には王道と呼んでいいほど多いです。古井由吉『杳子』は大澤さんが『智恵子抄』に感じた恐怖感をさらに鮮明にした小説で、主人公の言動が明らかに統合失調症のヒロインを追い詰めているのです。「病人相手なら絶対避けるべき言動100選」を上から実行していく感、おまけに彼にその自覚はない。ちなみに村上春樹『ノルウェイの森』もこの系譜に連なると思いますね。この点で言えば島尾敏雄『死の棘』はスリリングな変化球で、谷崎的な「女に振り回されて壊れたい」と高村的な「女の壊れる様を見たい」が同居しながら反転し続ける作品と言えるでしょう。


大澤:あ、村上春樹もね、よくある。普通に引くみたいなの。なんだったかのエッセイかなんかで「我々は多かれ少なかれみんな金を払って女を買っているのだ」みたいなこと書いてて、あ、こいつしょーもねーやつだなみたいに思ったことあります。


籠原:エッセイではなく『回転木馬のデッドヒート』収録「雨やどり」です。でも、そうですか?「誰だって、男は少なからず女を買っているのだ」という主張は昭和時代においてはわりと真なのかもしれませんし、むしろよく指摘できたとフェミニズム的に褒めていいくらいだと思うんですけど(私が褒めるわけではない!)


大澤:あ、そうそれ。うーん、たんに時代性を共有してないからってだけかもしれませんね。「は? なにそんな当たり前のことをさもなにか新しい事実を指摘しているみたいなドヤ顔で言ってんだ?」みたいな感情だったかも。


籠原:私は逆に「へえ、昔はそうだったんだ」みたいな感想でした。ひるがえって現代は男性が女性を買うだけの時代ではありませんからね。要するに男性が女性を買うのと同じくらいに女性も男性を買っているから、お互い様になって誰も不満を抱いていない世の中じゃないかと思うんです。なので自分の人生が不幸であることを社会のせいにするSNSの言論には、全くリアリティを感じません。母親面をした奴らが好き勝手に余計なお世話を言うだけ。


大澤:あのね、わたし今日『智恵子抄』持ってきてるんだけど、もうちょっと高村光太郎の話してもいい?


籠原:いいよ(笑)


大澤:あのね、やっぱすごいよこいつ。智恵子が「東京に空がない」と言うのを「あどけない」と愛おしんだり「智恵子は貧におどろかない」って誇らしげに書いていたりはするんだけれど、それは高村の示したい女性像であって、とてもじゃないけれど具体的な智恵子像とは思えないですよね。生身の人間としての智恵子がまったく見えてこない。あ、これもすごい。ちょっと引用しますね。



 >智恵子よ

 >夕食の台所が如何に寂しからうとも

 >石炭は焚かう



大澤:この「」とか、とくにヤバい。


籠原:おお。智恵子が光太郎に想われていたくらいに誰かに想われたら、それは女冥利に尽きるというものかもしれません(しみじみ)


大澤:断絶だ(真顔) 智恵子って芸術家でもないし泥をこねもしない、実際の生活のあるひとりの女性のはずなんですけれども、そういう側面はまったく見えてこないですよね。高村が智恵子のそういう実際の人間としての側面をどう見ていたのかっていのが、まったくもって謎い。「ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり」とか、もう完全にヤバいじゃないですか。智恵子見てないですよ。理想の女性を智恵子に求めて、求めるばかりで受け入れ方はさっぱり知らなくて、美意識の名のもとに自分に都合のいい理想の女に仕立て上げちゃっているんじゃないかって、そういう気配が。


籠原:智恵子が芸術家ではないというのは明らかに史実に反しています。彼女は芸術家として活動しているし光太郎もそのことを無視していません。ポストトゥルースやめろ。でもこんな風に女性に幻想を抱く光太郎は可愛いですよねえ。私はあまり生身のありのままの自分を見てほしいという欲望はないんです。むしろ個人的にはマゾッホ『聖母』における次の文言に共感するんですよ。「私を愛しているのならば、私のなかの神をあがめなさい」。これ私にはすごく分かる気持ちですね。その意味で少し高村光太郎のことが愛おしくなってきました(笑)


大澤:断絶だ(真顔)


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