第17話 水面下
王都デグレードから東に数十キロメートル。
人口800人ほどの小さな村、フーナプラーナは簡易な柵に囲まれた農業を生業にしているのどかな村だ。
良く晴れた心地よい空のもと、低空飛行の首飾りをさげ、王都の外城壁を飛び立ったベトールは、濃紺のマントをなびかせ、シアとともにフーナプラーナの村に降り立った。
二人は、村の中心にほど近い広場で、村の様子を見回した。
「相変わらず、上空の防御がスカスカの村ね。簡易結界すら張ってないなんて……」
シアはそう言って厳しい顔をする。
「シアさん、まずは村長のところにご挨拶に行きましょう」
ベトールは苦笑して言った。
そして、広場から延びるダートな小道を会合所へと向かう。
フーナプラーナの会合所は、役所のような働きをする場所だ。
そこでは村長を中心に、村人の代表十数人で村の自治を行っている。
広場からすぐのところにある会合所は、平屋づくりの簡素なもので、横張の木の外壁が経年劣化でところどころ傷んでいる。
その入り口の木の扉の前、ベトールが扉を開けようとドアノブに手をかけた。その途端、内側から勢いよく扉が開いた。
「うわっと!」
ベトールは、驚いて半歩後ろに下がった。
出てきたのは二十歳前後の若い女性だ。
「あ!す、すみま!……せん」
そう言って、ベトールとその後ろにいるシアを見て驚いた顔をし、慌てて頭を深々と下げた。
女性はこげ茶色の短い髪に、バンダナ風の布を頭に巻き、ベージュのシャツに茶のズボンという動きやすそうな格好をしている。
女性は横の壁に張り付くように、扉の前を開けた。そして気まずそうな顔をする。
「ベトール、早く入りましょう」
シアが、少しイラついたように言った。
「あ、はい」
ベトールはそう言うと、軽くその女性に微笑んで、建物の中に入った。
窓から差し込む自然光だけを光源にしている室内。
中は、ただ大きな部屋が一つあるだけで、仕切りも何もなく、いくつかの机が並んでいるだけだ。
その机に向かって仕事をしていた数人の村人が、突然入って来たベトールとシアを見て、驚いた顔をした。
そのうちの一人が焦ったように立ち上がった。
「こ、これはこれは、魔道士様。ようこそフーナプラーナへ。……お待ちしておりました」
その男は30代前半くらいの見た目で、がっしりとした体形に、白いシャツと青黒いズボンという恰好だ。そして緊張に顔をこわばらせ、足早に机の前から入り口に立つ二人の前にやってきた。
「村長のモロウさんは、いらっしゃいますか?」
ベトールは、その男に尋ねた。
「わ、私が村長のモロウです」
男は、強張った顔のまま、軽く頭を下げた。
「あ、すみません。(思ってたより若い人だった……)」
ベトールは苦笑いをして続けて言った。
「私は、魔道院獣魔課のベトールと申します。こっちは同じ獣魔課のシア。今日は、昨日ご連絡をした件で伺いました」
「た、立ち話もなんですから、どうぞこちらへ……」
モロウは引きつった笑みを浮かべたまま、入り口から入って右側の窓際にある応接セットに案内をした。
会合所内にピリピリした雰囲気が漂う。
先ほど入り口で会った女性がエプロンを着け、長椅子に座った二人の前にお茶を出した。
緊張しているのか、心なしかその手元が震えている。
二人の向かい側に座ったモロウも、緊張した様子でズボンのポケットからハンカチを取り出し、こめかみのあたりを拭った。
ベトールが穏やかに言う。
「用件は昨日、呪符通信で送った通り、魔道院の獣魔課では、この辺りから東の“カロの森”の入り口までの範囲で魔物の調査を行うことになりまして、その詰所として、会合所の部屋の一つをお借りしようと考えていたのですが……――」ベトールは部屋を見回した。「――会合所は、この部屋一部屋だけなんですね」そう言って苦笑いをする。
「えぇ、そうなのです……。ですので連絡を受けて、他に適した部屋が無いか急ぎ検討したのですが、当村に1軒だけ民宿がありますので、その一部屋をお借りするというのはどうかなと思いまして……」
モロウは苦笑いをして言った。
シアが、「はぁ」とため息をつくと、不機嫌そうにつぶやいた。
「民宿ですか……」
「シアさん。小さな村ですし、他に選択肢がないのであれば、そうしませんか?」
ベトールのその言葉に、シアは腕を組んで難しい顔をした。
「……では村の中に、他にどこか適した場所はありませんか?空き家でも構いません。もちろん使用料はお支払いいたします」
シアが言う。
「そ、そうですね……」
モロウは視線を逸らし、考えたようなそぶりを見せ、続けて言った。
「この村は建物自体が少なくて、空き家となるとちょっと思い浮かばないですね。……ただ、東の柵のすぐ近くに、今は使われていない小屋はあるのですが……」
モロウは言葉尻を濁し、困った顔をして頭をかいた。
「そこは、我々の詰所として使えそうですか?」
シアが訊ねる。
「うーん、どうでしょう。何分しばらく放置されていたので、だいぶ傷みが激しいというか……」
「構いません」
シアがきつい顔をして言った。
その様子にベトールが苦笑いをする。
「で、では、その小屋にご案内しますね。まずは見ていただいて、それからお決めになられても……」
モロウはそう言うと、冷や汗の混じる引きつった笑みを浮かべ、立ち上がった。
ベトールとシアが、モロウとともに外に出ると、会合所の周囲には村人が十数人、野次馬のように集まっていた。
皆、ベトールとシアを物珍しそうに見ている。
「な、なんでしょうか?」
その視線に気づいたベトールが、モロウにつぶやくように言った。
「す、すみません。この村には魔道士様は、めったに来ないものですから。それに、魔道院の、しかも“上紺”の魔道士様となれば、皆、一目見てみたいようでして……」
モロウはそう言って申し訳なさそうに頭を下げた。
「モロウさん。早く案内してください」
シアは、村人の視線など気にも留めず、きつい表情で言った。
「は、はい」
モロウは焦ったように返事をした。
村の外れ、村の中心から伸びる小道沿いにその小屋はあった。
小屋の周囲は畑と荒地、そして小道の先に東側の柵の簡易な門が見える。
小屋は、屋根は半分傾き、壁板がところどころ朽ちて抜け落ちている。
「やはり、相当傷みは激しいようですね」
モロウが小屋の様子を見て言った。
「シアさん、どうしますか?この小屋なら、すぐ村の外に出られますし、周囲の家からも離れていますから、場所は申し分ないですが……」
「そうね」
シアは腕組みをし、手を顎に当てて少し考えるように小屋を見た。
「こ、こちらでよろしいんですか?」
モロウは小屋から二人を振り返り、”こんなボロ小屋を借りるのか?”というような驚いた顔をして言った。
シアがモロウに言う。
「この小屋の持ち主はどなたですか?」
「あ……。この小屋は昔、エミューリアのお爺さんが使っていたもので……。今は、持ち主はエミューリアということになるでしょうか」
「エミューリアさん?」
ベトールが言った。
「先ほどお二人にお茶をお出しした、あの女性です」
「そう」
シアはそう頷くと、小屋の前に立ち、上から下まで一通り眺めた。
そしてモロウに向いて言う。
「では、そのエミューリアさんに、しばらく獣魔課でこの小屋をお借りするとお伝えください」
「わ、わかりました。では、一応本人に確認を……」
モロウは焦って答えた。
「そうですね。シアさん。エミューリアさんに許可をもらいましょう」
ベトールの言葉に、モロウは軽く頷き、
「では、呼んできますので、少々お待ちを」
そう言って、モロウは慌てたように会合所に走っていった。
シアとベトールは、モロウが戻ってくるまでの間、小屋とその周囲を見渡していた。
村に“上紺”の魔道士が来ているという噂が広まったのか、十数人の村人が遠巻きにシアとベトールの様子を見ている。
「なんか……、かなり視線を感じますね」
ベトールが苦笑して言った。
「これだから田舎は。“上紺”の何が珍しいのかしら」
シアは、身に着けていた濃紺のマントを翻して言った。
「まぁ、今はデグレード国内には“上紺”の魔道士は50人ほどしかいませんからね。そのうちの20人ほどが魔道院所属で、25人ほどが軍の魔道隊所属ですから、王都ではよく見かけますけど、他から見たら珍しいのかもしれませんよ」
ベトールが苦笑して言った。
少しの間、小屋の前で待っていると、モロウとエミューリアが小道を小屋に向けて走ってくるのが見えた。
「あ、シアさん。来たみたいですよ」
ベトールは、裏手に回って小屋の様子を見ていたシアを呼んだ。
その間にも、野次馬の村人は増え、結構な人数が遠巻きに小屋を囲んでいた。
「お待たせしてすみません」
モロウが息を切らせてそう言うと、頭を下げた。
隣でエミューリアも息を切らせている。
「エミューリアさん、お呼びしてすみません」
ベトールが言った。
「い、いえ」
相当急いできたのか、エミューリアは肩を上下に揺らし、少し驚いた顔をしてベトールを見た。
そして息を整えるように、大きく深呼吸すると言った。
「そ、その小屋を使いたいと伺いましたが……」
「ええ」
シアが小屋の前から、エミューリアを横目に見て頷いた。
「あの……。その小屋、相当オンボロですよ。雨が降ったら雨漏りもひどいですし……。とても魔道士様にお貸しするなど……」
エミューリアは困ったように言った。
「修復すれば、問題はないでしょう」
その言葉にエミューリアの顔が曇る。
「で、ですが、私どもには小屋を修理するだけの費用が……」
「修復はこちらで行います。それなら構わないでしょう?返却時に原状に戻せというのでしたら、またこの状態に戻してお返ししますけど」
シアはそう言うと、小屋に一歩近づいた。
エミューリアは、こわばった表情で小屋とシアを見て言った。
「ただ放置しているだけの小屋ですから、魔道士様方でご自由に使っていただいて構わないです……。それに、直していただけるのならありがたいお話です」
シアとエミューリアの会話を、モロウは不安な表情を浮かべ様子を見ていた。
ベトールがエミューリアの近くに寄って言う。
「エミューリアさん、ご厚意ありがとうございます。では、こちらで自由に使わせていただきますね」
そしてにっこりと微笑んだ。
「は、はい……」
ベトールの笑顔に、エミューリアは思わず恥ずかしそうに返事をした。
不意に、小屋を地面から光が包んだ。
モロウとエミューリアが、ハッと驚いて小屋を見た。
周囲にいた野次馬たちも、一様に驚いたように小屋を見ている。
小屋の前、両手を広げたシアが、何やら呪文を唱えていた。
その足元には、大きな魔法の円を描いた紋様が浮かぶ。
その光の魔法円が、小屋を包んで光っていた。
「す、すごい!修復の中級魔法、しかも甲か……」
モロウが目を見開いて言った。
「こ、これが……魔法……」
エミューリアも、驚いた顔をしてつぶやいた。
「あぁ。シアさんは中級魔法が使えますから、これくらいなら簡単かと」
ベトールがそう言いながらシアを振り向く。
シアは呪文を唱え終えると、右手を高く上げた。
その瞬間、足元にあった小屋を包んでいる魔法円は、一気に小屋の屋根より高く上昇し、そして光の粒となって消えた。
光の消えた小屋は、傾きが直り、朽ちていた壁板もきれいに修復されている。
その様子は、まるで今し方完成したかのような佇まいだ。
周囲にいた野次馬たちの感嘆の声が漏れる。
「エミューリアさん、中も改変して構いませんか?」
小屋の前からシアがエミューリアを見て言った。
「は、はい!」
エミューリアは驚いた顔のまま返事をした。
シアはその返事を聞くと、小屋の戸を開けて中に入って行った。
「す、すごいですね……。小屋があっという間に新築みたいに……」
小屋を見て、呆然とした顔のエミューリアはつぶやくように言った。
「そうですか?」
ベトールは、取り立てて珍しいものでもないというような顔をしている。
「さすがは魔道院の魔道士様。緑属帯とはまるでレベルが違う……」
モロウも、驚いた顔のまま言った。
小屋の入り口の戸から、フラッシュのような光が漏れる。
中でシアが何やら魔法を使っているようだ。
「あぁ……。シアさん、結構中も改変してるみたいですね」
ベトールはその光の様子を見て、苦笑いをして言った。
エミューリアは、小屋の近くに寄って真剣なまなざしで小屋を見ている。
「ベトール様、それにしてもなぜこの村に、魔道院の魔道士様が詰所を?魔物の調査はそれほど大掛かりなものなのですか?」
モロウが不思議そうな顔をして問う。
「そうですね。獣魔課では国内で出現している魔物を一通りは把握しているのですが、何しろ10年ほど前の資料でして。それで再調査をすることになったのです(表向きは……)。期間は予定では2週間以内を目標にしていますが、さて、どうなるか……」
ベトールは曇った顔をした。
「もしかして、先日のシオウルの魔物の王都強襲と何か関係があったりしますか?」
モロウが何か察したように言う。
「うーん、直接的には関係ありませんが、シオウルの魔物の中にはフーナプラーナ周辺で出現している魔物と同型もいますからね。それに普段、攻撃的ではない魔物でも、何かのはずみで凶暴化することはありますから、再度魔物を調査して、特性を把握しておこうということですよ」
「ふむ……」
「モロウさん。最近、この辺りで変わった魔物を見かけたり、もしくは所属のはっきりしない魔道士が現れたりしませんでしたか?」
「所属のはっきりしない?」
モロウは訝しげな顔をした。
「えぇ」
ベトールはそう頷くと、辺りを見回した。
エミューリアと、距離を置いて小屋を囲んでいる野次馬たちは、シアの使っている魔法から発せられる光を興味深く見ている。
ベトールは小声で言った。
「例えば、モロウさん。あなたは魔道階位“上赤”レベルに匹敵するほどの魔力をお持ちじゃないですか?でも軍の魔道隊や、魔道院、そのほかの民間の魔道組織のどこにも所属していない。それに魔道院の魔道士登録もされていませんよね?」
その言葉に、モロウは驚いて顔を引きつらせて言った。
「ど、どうしてそれを……」
「シアさんが魔法を使った時の反応ですよ。修復魔法だというのはこの状況なら誰でも推測できますが、あなたは“中級修復魔法の甲”だと言った」
「う……」
「多少魔法に詳しければ、魔法紋を見ただけで初級か中級かくらいの区別はつきます。ですが、さらにその中の細分である甲乙丙丁までは、さすがにわかりませんよ、普通」
ベトールはそう言うとニコッと笑った。そして続けて言う。
「別に魔道士登録は義務ではありませんけど、モロウさんくらい強い魔力の持ち主がなぜ、とは思いますけどね」
「ははは……。はぐれ魔道士ですか……」
モロウは気まずそうにつぶやいて笑った。
「……(はぐれ魔道……。魔道院で使われている、未登録の強い魔道士を指して言う隠語だ。なぜ知っているんだろう?)」
ベトールは顔色変えることなく微笑んだが、モロウのその反応に懐疑心を抱いた。
「ベトール!何をしているの?」
シアが小屋から顔のぞかせ、きつい口調で言った。
「は、はい!すみません。聞き取り調査です!」
ベトールは、シアを向いて声を張って言った。
シアが小屋からベトールの方に歩いてくる。
そして、まとめた金色の髪を直して言った。
「私は魔道院に戻ります。明日は別の者をこちらに向かわせるので、あとは頼みましたよ」
「は、はい」
ベトールは苦笑して言った。
「では、エミューリアさん、しばらく小屋をお借りしますね。代金は撤収時にまとめてお支払いします。何かありましたら、ここにいるベトールか、魔道院獣魔課の私までご連絡ください」
シアはきつい口調でそう言うと、モロウとエミューリアに向け軽く頭を下げた。
そして「では、ごきげんよう」と言って、低空飛行の首飾りを操作し、あっという間に西の空に飛び去って行った。
その様子をエミューリアや、周囲にいた野次馬たちが呆然とした様子で見た。
「す、すごいんですね。本当に……」
驚きっぱなしのエミューリアは、シアが飛び去った西の空を見てつぶやくように言った。
ベトールが小屋の前にいるエミューリアに近づいた。
エミューリアがベトールを見る。
「エミューリアさん。今日から少しの間、よろしくお願いしますね」
ベトールはそう言うとニコッと微笑んだ。
「は、はい。こちらこそ……」
エミューリアは少し恥ずかしそうに笑った。
「ところで、エミューリアさん。最近この辺りで変わった魔物を見かけたりしませんでしたか?」
「変わった魔物?ですか?」
エミューリアが首を傾げる。
「えぇ」
「うーん、別にこれと言ってない気はしますが――」そして少し離れた位置のモロウに向けて「――モロウさん。何か、変わった魔物って見かけたりしましたか?」と、声を張って言った。
モロウが二人のもとに近づいて言う。
「うーん、最近変わった魔物というよりは、一部の魔物の数が減ったような気がするんですよね」
「減った?」
ベトールが疑問の表情を浮かべる。
「ほら、2年くらい前から急に出るようになったあの魔物です。あのチビベリがここ最近は見かけなくなった気がしますね」
「チビベリ?」
モロウの言葉に首をかしげたベトールを見て、エミューリアが急にしゃがみこんで言った。
「こんな感じの魔物です――」そして、地面に石で絵を描いてゆく。「――丸くて、腕が4本で、コウモリみたいな羽が生えていて……」
ベトールがその絵を見て言った。
「これ、大きさは?(ウスペンスキーかな?それとも亜型?)」
「大きさは、こんなもんですね」
モロウはそう言うと、自分の腰よりやや高い位置で、手を水平に振って大きさを示した。
「ですと亜型の方ですか」
ベトールは顎に手を当て、考えるような仕草をした。
エミューリアが立ち上がって言う。
「チビベリ、そういえば去年まではすごくよく見かけてましたけど、言われてみればここ2、3ヵ月はほとんど見かけなくなりましたね」
「この村ではこの魔物を、チビベリと呼んでいるのですか?」
「はい。そうです」
エミューリアが頷いて言った。
付け足すように、モロウが東の方を指して言う。
「向こうの“カロの森”で出る、大きいやつは“デカベリ”と呼んでいますよ」
「なるほど……。デカベリですか」
ベトールは軽く笑みを浮かべた。
「デカベリがこの村まで来ることはほとんどありませんが、ここから東は道も途中までしかありませんし、森の中は昼間でも魔物が出ますからね。フーナプラーナの村人でも、村より東は、なかなか行きませんね」
モロウはそう言って困ったような顔をした。
「ふむ。ちなみに森の魔物はどんな感じですか?」
「こんなのが出ますよ」
エミューリアは明るい声でそう言うと、再びしゃがみこんでまた地面に絵を描き始めた。
その様子をベトールは頷きながら見た。
薄暗く、高い天井。
広い廊下は、よく磨かれた黒い床と黒い壁。
そして肌に刺さるような氷のように冷たい空気。
「ったく、冬でもないのに。この寒さは体に堪えるわ」
その廊下を、ぼやきながら奥に足早に歩く男。
見た目は60代後半くらいのやせ型で、グレーがかった茶色のローブを見にまとい、グレーの髪の毛をオールバックに一つに結っている。
進んだ先の廊下の奥、背の高さの2倍はありそうな金属の大きな扉が、威圧的な様相でそこにあった。
男は、その扉の前で軽く服装を直すと、ドアをこぶしでドンドンドンと強く叩いた。
その音が、天井の高い廊下に響き渡る。
「バイエモン様、入りますよ!」
男はそう言って扉を押し開け、「まったく」と文句をつぶやいて部屋の中に入った。
廊下と同じ色の床。その大きな部屋の奥、2段ほどの段差の上に天蓋が垂れるベッドが置かれている。
その中に横たわっていた、上半身裸の青黒い体の小柄な男が、入って来た男に気が付くと起き上がってつまらなそうに言った。
「なんだ、カルプか。……なんの用だ?」
「バイエモン様、デグレードの方で少し動きがあったようなのでご報告に伺いました」
カルプはそう言うと、段差の前で胸に手を当て、頭を下げた。
「ふむ」
そう頷いて、バイエモンは縦長の瞳孔の黄色い目を細めニヤリと笑うと、モジャモジャに乱れた長い髪を直して言った。
「さっそく手ごたえがあったのか。こっちの動きはバレていないんだろうな?」
カルプは頷くと、不機嫌な表情で言った。
「大丈夫ですよ。シオウルの魔物どもをけしかけたのが、我々だとは全く気付いてませんよ。本当に能天気なやつらです」
「で?デグレードの様子は?」
「表立っては動いていませんが、一部の魔道士が例の“カロの森”の魔物を調査し始めたとか」
カルプはそう言うと、持っていた質の悪い紙を見た。
バイエモンは、カルプを見て考えるように言った。
「なんて言ったか……?あの魔物。デグレードのやつらはウペ?何とかと呼んでいるやつだ」
「ウスペンスキー亜型ですか」
カルプが紙を1枚めくって答える。
バイエモンは、ベッドに胡坐をかき、膝の上に頬杖をついて言った。
「そう、それだ!もし、本当にデグレード国内に魔王が現れていたら、オレが潰してやるぜ」
そしてニヤッと笑う。
カルプが淡々と言う。
「そうですね。我がフラガとしても、バイエモン様にはぜひともデグレードの戦力を削いでいただかなくては。先日の魔物襲撃作戦で、現在のデグレードの魔力レベルもわかりましたし」
「そうだな。30年前に比べて、デグレードは随分戦力が落ちたみたいだな!ハハハッ」
「それもこれも、ひとえにバイエモン様のおかげ。いずれはデグレードを滅ぼし、“カロの森”が、我が領地になることも夢ではないでしょう……。ん?」
カルプは、めくっていた紙の1枚に目を留めた。
「どうした?」
「……バイエモン様。少しジニマルの動きにも注意した方が良いと報告が上がっているようです」
その言葉にバイエモンがムッとした顔をする。
ジニマルは、デグレード国とミュール国との国境に連なるシオウル山脈に80年ほど前に現れた力の強い魔王だ。
「ジニマルか……。目の上のたんこぶだな。アイツさえいなければ、今頃デグレードなんて、簡単に滅ぼしていたのに」
「故意に、シオウルの魔物を触発したので、どうもそのあたりを勘付かれたようですが」
「ふ……ん」
「まぁ、ジニマルはこの世界そのものにあまり興味が無い様子。勘付かれたところで別段、影響はないと思いますが……。それともう一つご報告が」
カルプはそう言うと大きくため息をついた。
「なんだ?」
「バスィエル様の消息の件ですが」
「あぁ。オレの配下の一人か。あいつは、まったく……どこに行ったんだろうな」
そう言うとバイエモンも顔を曇らせ、大きくため息をついた。
「先月あったミュール国での目撃情報ですが、やはり人違いだったとのこと」
その報告に、バイエモンは落胆した顔をした。
「……もう、あいつはジニマルにでも喰われてるんじゃないか?」
「バスィエル様のお姿が、最後に確認されたのが8年前。我がフラガの魔道軍も捜索隊を編成して探してはいますが……。あまりいい情報がないようです」
「そうか。……まぁ、ロジュスもいるし、バスィエルの穴埋めはお前たちフラガの魔道士がやってくれるからな。何も問題はない。ハハハッ」
バイエモンは、あきらめたような乾いた笑い声を上げた。
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