第10話 戻るための試案

 薄い雲がなびく、よく晴れ渡った連休後半の初日。

 外は、寒くもなく暑くもなく過ごしやすい陽気で、普段とはまた違った連休ならではの雰囲気が漂っていた。


 そんな陽気とは裏腹に、カーテンを閉め切った薄暗い自宅マンションで、類は机に頬杖をつき、じっとパソコンのモニタを見つめていた。


「殿、このコーヒーという飲み物は、誠に良い匂いがいたしまする」

 マウスパッドの横に置かれた蓋付きのタンブラーを抱きかかえるように、ミヤビが中に注がれたコーヒーの匂いを嗅いでいる。

「そうだな」

 類は虚ろに言った。

「某も、味わってみたいものです」

 類はチラッと横目にミヤビを見て、目を細めて言った。

「飲めなかったろ……」

 そして、「はぁ」と、ため息をつく。

「いやー、某、まさか胴体が筒抜けとは」

「……(最初からどう見ても空洞だったじゃないか……)」

 類はジーッとミヤビを見た。

「何でございましょう?」

 ミヤビはキョトンとして類を見上げた。

(試しにお茶を飲ませてみたら、飲んだ瞬間、下から全部漏れてきやがって……。むしろ、逆さまにしたら漏斗(じょうご)に使えるんじゃね?武者人形型漏斗……)

 類は背もたれに大きくもたれた。

「……なんでもない」

 そう言って、青いパーカーのポケットから携帯電話を取り出す。

 画面は16:38を表示している。

(カロ屋、今日は忙しいだろうな……)

 五番通り商店街では、この日から各店舗がチラシで告知していたイベントが始まっていた。

 『カロ屋』も、先日キヨが作っていたブレスレットなどの小物類を、セール価格で販売するという。

 普段、閑古鳥が鳴いている店も、今日はその限りではないだろう。

 類は少しの時間、画面を見てためらっていたが、やがておもむろに携帯電話の画面を操作し、難しい顔をして電話をかけた。


 プルルル……、

 プルルル……

 呼び出しのコールを何度か鳴らす。


 やはり電話はつながらない。

(こういう時はメールの方がいいんだけど。叔父さん、メール見ないからなぁ。また、あとでかけ直そ……)

 そう思った瞬間。

 ――「おう、どうした?」

 茂が電話口に出た。

「あ、叔父さん。……忙しいところ悪い」

 慌てて携帯電話を持ち直す。

 ――「ガハハ!別に忙しくないぞ!3時過ぎからパタッと客が来なくなったからな」

「そ、そうなんだ……(それはそれでどうかと思うけど……)」

 ――「で、なんの用だ?」

「あぁ。今って、組子障子の戸、外してある?」

 ――「おう、外してあるぞ。今日は店の中にも、お客さんが結構入ってきてるからよ。なんかあったら危ないだろ?」

「(それもそうだ……)あのさ、またこの前のアバター、ちょっと試してみたいんだよね(できれば日が出てるうちに……)」

 ――「ああ、ルイちゃんか!」

「る、ルイちゃん?」

 その言葉に、類は一瞬動揺した。

 ――「ガハハ!可愛かったよな!お前の女装!」

「じょ、女装じゃねーし!」

 かなり不本意な表現に、類は焦って否定したと同時に、顔が赤くなった。

 ――「中身は類なんだし、女の子だから“ルイちゃん”だろ?」

「……俺は女の子じゃないから!(うぅ、なんだろ、この羞恥心)」

 類は顔が引きつった。

 ――「まぁ、どっちにしろ、試すなら夜じゃないと難しいな」

「そ、そうだよな……(あぁ、なんかモヤモヤする)」

 ――「どうせ今日はもう客も来ないだろうから、少し早めに店を閉めてやるよ」

「い、いや、いいよ別に。そんなことしなくても……」

 ――「いいんだ、いいんだ。俺も、もう一度“ルイちゃん”を見たいからよ!ガハハ!」

 茂のその言葉に、類はゾゾゾと鳥肌が立った。

 ――「七時前には、戸をはめておくからよ、その時にまた来い。“ルイちゃん”でな。ガハハ!」

「……(“ちゃん”ってなんだよ、“ちゃん”って……)」

 類は動揺を抑えつつ電話を切った。

「殿、お顔が少し赤いようですが、お風邪でも引かれましたか」

「な、なんでも……ない……」

 羞恥心と嫌悪感が混ざりあう、なんとも言えない心理状況に、類は唇を噛んだ。



 約束の午後7時。

 街灯が煌めく夜の街は、まだ西の空にわずかに昼の余韻を残していた。



 類は準備を済ませ、パソコンのモニタの前に座った。

 携帯電話を取り電話を入れる。

「叔父さん?今から入るけど、戸は大丈夫?」

 ――「あぁ、店はもう閉めてあるし、組子障子の戸も準備できてるぞ」

 電話越しの茂の声が、妙に浮かれている。

「じゃ、よろしく」

 類は電話を切ると、キーボードの横に立っているミヤビを見た。

「ミヤビ、またVRで入るから、俺の身体に異変があったらこれを使って呼んでくれ」

 そう言って、ミヤビにヘッドセットを渡す。

「ははっ!お任せください」

 ミヤビは、ヘッドセットを両脇に抱えるように持った。

 画面の中には、キャラクターが静かに佇んでいる。

「じゃあ、入るぞ……」

 類は、キャラクターを壁紙の紋様に触れさせた。

 そして、VR用のヘッドセットをしっかりと装着する。


 目の前が真白になり、やがてカロ屋のカウンター前が映し出された。


 類は、自分自身を確認した。

 普段着ることなど絶対にない濃紺のワンピースに違和感を覚えつつも、身振りや動作に不自然なところはないか見る。

 アバターは、しっかりと『カロ屋』の店内に実体として存在しているようだ。

 類は店の中を見回した。

「「よし、ちゃんと入れたみたいだな」」

 いつも見慣れた『カロ屋』の風景より視線がやや低い。

 目の前に茂がいる。

「へっへっへ。ルイ、その恰好も悪くないな」

 茂はニタッとした顔で、類を上から下まで眺めまわした。

「「お、叔父さん……、あまりジロジロ見ないでくれ……」」

 類は恥ずかしさと、茂の視線の気持ち悪さに顔が引きつった。

「しかし、やっぱ声がなあ……」

 言わんとせんことはわかる。

 姿は美しい女性だが、声は男の類のままだ。

「「俺だって、違和感あると思ってるよ。しょうがないだろ……」」

 そう言ってムッとした顔をし、辺りを見回した。

 組子障子の戸はしっかり閉じられ、二枚の戸に分かれて描かれた紋様がぴったりと一つの紋様として浮かび上がっている。

「「そういえば、アリサは?」」

 振り返ってみれば、茂はニヤッと笑って言った。

「へへっ、心配するな!大丈夫だ。今日は友達と出かけていて、駅前で夕飯食べてくると言っていたからな。まだ帰ってこないだろ。その姿、見られたら何言われるかわからないもんな!ガハハ」

 茂はずっとニヤニヤしっぱなしだ。

「「うー……」」

 ルイは口をへの字に曲げて、茂から視線を外すと組子障子の戸を見た。


 夜の異世界側は、何が起こるかわからない。

 この前見た、枝葉の上の魔物らしきものも、また現れるかもしれない。

(不安がないわけじゃないけど、カロ屋の店の前なら、たぶん大丈夫だろ……)


 異世界側に出たときに起こる“アバターに乗り移る”というこの不可思議な事象の根元が、紋様によるものなのか、異世界の魔力によるものなのか、それともその両方の影響なのか、現状を理解するには調べる必要がある。

 類はそう感じていた。


「戸は開けておいても構わんぞ。なんかあったらすぐに店の中に逃げればいい」

 茂はそう言うと、腰に手を当てて、組子障子の戸とルイとを見た。そして続けて言う。

「俺は、今夜はしばらくここで作業してるからよっ!」

 そう言って、作業台を指す。

「「……わかった」」

 類はうなずくと、引手に手をかけた。

 そしてゆっくり引き開ける。


 目の前に真っ暗な森が広がる。

 

 類は一歩外に出た。

 その瞬間、やはりアバターに乗り移ったような感覚。

 思わず「あっ」と声が出る。

 夜の森のひんやりとした空気を直接肌で感じる。

「やっぱりだ。完全にアバターが自分の身体になっている」

 そう言った声も、すでに“類”の男の声ではなく、“ルイ”の女の声に変っていた。

 ルイは自分の身体を、見える範囲でもう一度確認した。

 淡い水色のボレロ風のマントから両腕を出し、まじまじと見る。

(……腕が細い。……折れそうで怖いな)

 視線を下に落とせば、濃紺のワンピーススカートから覗く生足と、少しヒールのあるショートブーツ。

「ぶ……ブーツ……。生足……。膝……」

 視線が少しずつ上に行く。

 膝丈のスカートが揺れる。

 その内側に僅かに見え隠れするレースのペチコート……。

(別に、気になるってわけじゃなんだ。ただ……、ただ……。そう、これは確認だ)

 ルイは、スカートの裾を摘まんで、ゆっくりとめくりあげた。

 徐々にあらわになってゆく色白の太もも……。

(お……、俺は……、あぁ……、俺は何を……。今は、これが自分の身体じゃないか……)

 ルイはスカートから手を離し、冷静さを取り戻すように首を横に振った。

「お前、何やってるんだ?」

 ハッとして、その声に目を向ける。

 見れば、茂がニヤニヤしながら『カロ屋』の店先で、組子障子の戸に手をかけてルイを見ていた。

「へっ!?(今の見られてた!?)」

 ルイは赤面して硬直した。

 そして慌てて左右に手を振って、何かを否定をする。

「べ、別に何も、何もしてないよ!全然怪しくないよ!」

 あからさまに挙動がおかしい。

「ガハハ!何も言ってないだろうが。姿と声は変わっても、類は男ってことだな!」

 何を考えていたのか、勘付いたような茂の反応だ。

「くっ……」

「気にするな!そういうもんだ!俺だって、もしその身体になったらいろいろ試してみたいわ、ガハハ!」

「な、何を試すんだよ!お、俺は、まじめに、健全に、こう……、いろいろ」

 ルイは口ごもった。

「だから、何も言ってないだろ?何が健全だ。それとも何か?お前は、不健全なことも試そうとしてたのか?ガハハ!」

 そう言って、茂は見透かしたように笑った。

「くぅ……(最悪だ!)」

 苛立ちと恥ずかしさでルイは体が震えた。

「ルイ、いいか。この前のような魔物が飛んでくるかもしれないんだ。まぁ、あの羽音がまだ魔物って完全にわかったわけじゃないけどよ。試すにしても、気を付けてやるんだぞ」

 茂はそう言うと、ニッと笑って、店の奥に引っ込んでいった。

「……わかってるよ」

 ルイは不満そうにつぶやいた。


 組子障子の戸が開け放たれた『カロ屋』から、明かりが漏れ、辺りに薄く広がる。

 ルイは耳に手を当てて、ミヤビへ話しかけた。

「ミヤビ……、ミヤビ聞こえるか?」

 ――「ははっ!ミヤビ、仰せの通り、ここに控えておりまする」

 雑音もなく、どこから聞こえるでもなく、ミヤビの声が聞こえてくる。

「……俺の身体は、どうなってる?」

 ――「以前と同じように、眠っているようにございまする」

「そうか。わかった。ありがと。また連絡する」

 ルイはそう言うと、腕を組んで顎に手を当てた。

(どうやって通信しているのか、いまいちよくわからないな)

 そして空を見上げて耳を澄ませる。


 ザワザワと、時折風が木々の枝を揺らす以外、これと言って何も聞こえない。

 空には、半月を少し過ぎた緑色の大きな月が浮かび、足元に薄い影を作っている。


(まだ大丈夫だな。……まずは、カロ屋を通る以外に、異世界側からどうやって元の身体に戻れるかだ)

 ルイは、耳元に手を当てずにミヤビに呼び掛けてみた。

「ミヤビ……、聞こえるか?……ミヤビ?」

 少し待つも、反応はない。

 今度はもう一度、耳に手を当ててミヤビを呼ぶ。

「ミヤビ、聞こえるか?」

 ――「ははっ!控えておりまする」

「うん、なるほど……(どうやら、耳に手を当てるという動作が、ミヤビと通信する方法になっているようだな……)ありがとう、また連絡する」

 ――「はは!」

 ミヤビとの通信を切る。

 動作がきっかけでミヤビとの通信が確立するのなら、元の身体に戻ることも、何かしらの動作で発動する可能性はある。

 ルイは、試しに飛び跳ねてみた。

 膝をちょっと曲げ、飛び跳ね、着地する。

「……」

 2、3回繰り返すが、特に何も起こらない。

「ま、違うとは思ったけど」

 ルイは、跳ねた拍子に乱れた髪を、首元から後ろに払った。

「あ……、これ、アリサとかがよくやってるやつだ。……なるほど、長いと髪の毛って結構邪魔なんだな」

 思わず自然に出たしぐさに感心する。


 今度は身体を前に曲げ、前屈のような姿勢を取った。

「……こ、これも、やっぱり違うよな」

 その後も、身体を回したり、反らしたり、準備体操のような動きをしてみるが、元の身体に戻る様子は全くない。


「る、ルイ!」

 突然、カロ屋の店先で茂が叫んだ。

「アリサが帰ってきた!ちょ、ちょっと戸、閉めるぞ!」

「あ、あぁ」

 茂は、類が返事をするかしないかのうちに、そそくさと戸を閉めた。


 漏れ出ていた明かりが消え、辺りが闇に包まれる。

 若干の月明かりが、木々の輪郭を不気味に浮かび上がらせる。

 影の中に浮かぶ組子障子の隙間に僅かに漏れる明かりは、辛うじて『カロ屋』がここにある、という場所を示す程度でしかない。


 ルイは辺りを見回した。

「真っ暗だな……」

 ひんやりとした風が足元から通り過ぎる。

 緑色の月に、雲がかかる。


「こっちは魔法の世界なんだよな……」

 そうは思えど、魔法など使ったことがない。

 ふと、ルイは先日アリサが使った一筆箋のことを思い出した。

「あれならもしかしたら……(アリサも使えたんだ。俺だって……)」

 ルイは、店の前に戻って組子障子の引手に手をかけた。

 組子障子の隙間から僅かに明かりが漏れてはいるが、中の様子はフィルターがかかったようにぼやけて、見ることができない。

「……今、入って行ったら、アリサと出くわすか……」

 ルイは、中に入るのをやめ、茂が戸を開けるまで待つことにした。

 その間、他の方法を考える。

(元の身体に戻る方法……。元に戻る方法……。戻る方法……。戻る……)

 闇の中に目をつむり、思考をめぐらせる。が、

「あぁー!ダメだっ!」

 ルイはそう言って頭を抱えた。

「ret……、リターン……、そんなのしか浮かばねー……」

 そう言って、ぐったりと這いつくばる。

 retはプログラムの処理を終了するときに使うリターン命令だ。多少語弊があるかもしれないが極端に簡略化して言いえば“元の場所に戻る”というイメージになるだろう。

「そもそも魔法がプログラム言語なわけないだろ……。まったく、わけわかんないんだよっ!」

 開き直ったようにそう言うと、地面にあぐらをかいて座り直した。

 見た目は可憐で美しい若い女性だが、その言動はがっかりするほど男だ。

 膝を立て、そこに頬杖をつく。

 立てた膝の下から、スカートの中に冷たい風が入ってくる。

 ルイは、チラッと自分の足を見て、少し照れたように立ち上がった。

「……ス、スカートって、案外下半身がスースーするんだな……」

 そう言って、履き慣れないスカートの裾を直す。

「はぁ……。retで戻れたらいいんだけどな……」

 ルイはぼんやりと宙を見つめた。


 ルルアが使っているような呪符帳と呼ばれる一筆箋や、低空飛行の首飾りのように、何かしらの媒体が必要、という可能性は否定できない。

 だが、ミヤビとの通信が“動き”なら、元に戻るのも“動き”である可能性も十分にある。

 しかし、さきほど準備体操のように様々に身体を動かしてみたが、まったく反応はなかった。

 どちらか一方ではなく、両方を組み合わせるということではないのか?


 一通り考えをめぐらせ、ルイは再び組子障子を見た。


 突然、ミヤビの声がした。

 ――「殿ぉぉ!」

「ど、どうしたミヤビ!?」

 とっさに、耳に手を当てる。

(俺の身体に何かあったのか!?)

 緊張が走る。

 ――「玄関の方で、何やらピンポン、ピンポンと音が!」

「げ、玄関……?なんだ……?」

 ――「わ、わかりませぬ。ですが、人の気配がいたしまする」

「誰か来たのか……?身体に何かあったわけじゃないんだな……」

 ――「はい。違いまする」

 ルイはホッと胸をなでおろした。

 ――「殿ぉぉ、早くお戻りになってくださいませ!ピンポンが止みませぬ」

「戻れないんだよ!どうやって戻ったらいいのか、考えているところだ」

 ――「殿、紋様の前に戻る文言は“さぁ、お部屋に戻りましょうね”でございまする!」

「はぁ……?なんだ、それは」

 ルイは怪訝(けげん)な顔をした。

 ――「某、その文言で、殿の板の間の床から紋様の前に戻っておりまする」

「へ?そうなのか?」

 ――「唱えれば床面から一瞬で紋様の前に戻りまする」

「マジか!?」

 ルイは目を見開いて驚いた。

「ど、どうやるんだ、それは」

 ルイは焦ったように言った。

 ――「“さぁ、お部屋に戻りましょうね”と、唱えるのでございまする」

「……わ、わかった」

 ルイは、いぶかしさを感じつつもミヤビの言う通りに唱えてみた。

「“さぁ、お部屋に戻りましょうね”」

 予想通り何も起こらない。

「…………(案の定だよ!)何も起こらないぞ」

 ルイは顔をしかめた。

 ――「殿、この文言には体の動きも重要にございまする」

「それを先に言ってくれ。どうやるんだ」

 ルイは、少し苛立ちを覚えた。

 ――「まずは、まっすぐに立ちまして、次に車いすを押すように、それから少し体を斜め前に倒しまして“さぁ、お部屋に戻りましょうね”で、ございまする」

「…………」

 ルイの頭に一瞬、閏の姿が浮かんだ。

「……なぁ、ミヤビ。その文言……、前の方に何かつくだろ?“皆川さん”とか“閏さん”とか、それで“皆川さん、さぁ、お部屋に戻りましょうね”とか、ならないか?」

 ――「おぉ!さすがは殿。よくご存じで」

「くっ……!所詮は閏お爺ちゃんの手作り人形かー!」

 閏が『寿燦々』で、職員から、そう言われて部屋に戻っているのだと容易に想像がつく。

 ――「某は、これで紋様の前に戻れまする」

「それは、ミヤビだからだろ!俺がやっても戻れる気がしない!」

 ――「これはしたり。……お!音が止みました」

「まったく……」

 ルイはそう言うと、ため息をついて足元を見た。

(一応、試すだけは試してみるか……)

 ルイはミヤビの言った通り、まっすぐに立ち、次に車いすを押すように、それから少し体を斜め前に倒して「さぁ、お部屋に戻りましょうね」と言った。

「…………」

 予想通り、何も起こらない。

(俺は一人で何をやってるんだ……)

 自分自身の言動に、思わず恥ずかしくなった。

「(誰もいなくて良かった……)お、おい、ミヤビ」

 ――「ははっ!何でございましょう?」

「他に、戻れそうな方法を知らないか?」

 類はダメもとで訊いた。

 ――「知りませぬ」

(え!?即答?えっ!?即答!!??)

 ――「うーん、しかしながら……、先ほどの文言が某用であるのでしたら、殿には殿用の文言があるということでしょうか?」

 ミヤビのその言葉にハッとする。

「なるほど……、俺用か。(確かに……。考えられなくはないな)……なぁ、ミヤビ。俺用なら例えば、どんなのがあると思う?」

 ――「わかりませぬ」

(え!?即答?また、即答!!??)

 ――「某の出でたるは紋様にありますゆえ、そこに戻る心象として、先ほどの文言が思い浮かぶのでございまする」

(どういう意味だ?)

 ルイはミヤビの言葉に顔をしかめた。

(“心象”と“文言”……、それから“動作”……。この3つが必要だということか?ミヤビとは違う、俺用の……)


 心象は、おそらく元に戻るイメージということだろう。

 残りの二つがいまいちよくわからない。

 仮に元に戻る“文言”として、先ほど思い浮かんだ“ret”などがそれに当たるとしたら、動作は何をもって元に戻ることを示すのか。


 紋様に、アバターが触れることで実体化している事象を考えれば、元に戻ることに紋様が関わっている可能性は高い。

 ならば、その紋様を動作で示せばいい。

 そうすれば“心象”“文言”“動作”の3つが揃う。


(組子障子の紋様は、円と星の組み合わせ……)

 ルイは自分の右手を見た。

「試してみるか……」


 ルイは、店の前から少し離れ、店の前に開けた小さな広場の真ん中に立った。

 そして、アバターの後ろの壁に貼り付けた紋様のテクスチャをイメージし、目の前の空中に星形と円を右手で描いた。

 そして、“文言”かもしれない言葉を唱える。

「リターン」

 

 弱い風に、森の木々がサワサワと揺れる。


「……な、何も起きない」

 ルイは頭を抱えてしゃがみこんだ。

(違うのかー……。リターンじゃないのかー。何が違う?動作?文言?それとも、どこかは合っているのか?)

 ルイは、組子障子の戸を見た。

 茂が戸を開ける様子はまだない。

「はぁ……」

 大きくため息をついて、力なく立ち上がった。

「もう一度、試してみよう……」

 そう言って、腕を大きく回して星形と円を描き、今度は「リターン・ゼロ」と唱える。

 が、やはり何の反応も変化もない。

「……うぅ、やっぱダメか(そもそも魔法がint型なわけないもんな……)」

 ルイは、ぐったりと肩を落とした。

(元に戻るには……。そもそも、根本的なところが間違っているのか……?)

 ルイは右の手首をくるっと回し、人差し指で宙に円を描いた。

 そしてつぶやく。

「(動作の方か?それとも言い方の問題か?)“リターン”じゃなく、“レット”とかなんとか……」

 視界に茂とアリサがいる。

「へっ!?」

「キャァッ!」

 アリサが驚いて叫び声を上げた。

 ルイも驚いて周りを見回した。

 カロ屋の店の中、組子障子の紋様の前に立っている。

「ど、どうなってるんだ……」

「る、ルイ!お前、どこから入った!?」

 茂も驚いた顔をしてルイを見て言った。

「そ、それが……」

 声がルイのままだ。

「だ、誰!?誰なの!この前の人じゃん!誰なの!?」

 アリサが取り乱したように叫んだ。

「あ、アリサ落ち着け!大丈夫だ」

 茂がカウンター越しにアリサに言う。

「なに?どういうこと?お父さん、この人知ってるの!?」

 アリサはレジカウンターの内側で、茂とルイを交互に見た。

 茂は「あぁ……」と言って、頭にこぶしを当て、困った顔をした。

 そのまま、やれやれといった様子で作業台の前の椅子に座る。

「アリサ、そいつは類だ」

 そう、あきらめたように言った。

「る、ルイ兄……?」

 アリサは驚いた顔のまま、そうつぶやくとルイを見た。

 ルイは顔が引きつらせて「そ、そうだよ」と、軽くうなずく。

(間が悪い……。そういや、ミヤビは“紋様の前に戻る”って言ってたもんな。よく考えたら、元の身体に戻る魔法じゃないじゃないか……)

 アリサはいぶかしげにルイを見ている。

 茂が呟くように言った。

「信じられんかもしれんが、そいつは間違いなく類なんだ。異世界の魔法の力で女に変身して、いろいろと試してるんだ」

「いろいろ?」

 アリサの顔が曇った。

「ちょ、ちょっと待って叔父さん!?それだと説明不足では?誤解を与えるような気が……」

 茂の説明に、類は焦った。

「だってそうだろ?女になって、まずはその身体がどんな風になってるのか、いろいろ試してるんだろ?現に今だって……」

「叔父さん!だから、言い方!」

 アリサのルイを見る目が、みるみる嫌悪感のあるもの変わる。

「いろいろ……?女になって……いろいろ……?」

 アリサが凍るような低い声でつぶやく。

「あ、アリサ……?ちょっと、落ち着こうな、な?その想像している“いろいろ”はたぶん違うと思うぞ……」

 ルイは、アリサの顔色をうかがい言った。

「このド変態!!最低、最悪!顔も見たくない!もうウチに来ないで!!!」

 苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てるようにそう言うと、アリサは怒って住居側へと店を出ていった。

「あちゃー」

 茂が、アリサが去っていった休憩室を見て苦笑いをして言った。

「お、叔父さん!さっきの言い方じゃ、完全に誤解を招くって!!」

 ルイは強い口調で言った。

「いやー、すまんすまん。でも、間違っちゃいないだろ?」

「間違ってるよ!」

「あとで俺からアリサに、ちゃんと説明しておくからよ。ガハハ」

 そう言って茂は頭を掻いた。

「にしても、ルイ。その声どうしたんだ?類の声じゃないじゃないか。それに、戸が閉まってるのに、どうやって入ったんだ?」

 茂は片足を膝の上に乗せ、そこに頬杖をついて怪訝な顔でルイを見る。

 ルイは、カウンターに寄りかかって疲れた顔で言った。

「たぶん、紋様の前に戻るっていう魔法が発動したんだと思う。(それこそいろいろ試してたからな……)」

「ほう。そうなのか。で、他には?」

「他に?他にはないよ。それだけ」

 ルイはため息交じりに言った。

「そっか。じゃぁ今日はもう終わりだな。8時過ぎたからよ。そろそろ戸を外しておかないと危ない」

 茂はそう言って立ち上がると、組子障子の前に立った。

「そうだな」

 そう言ってうなずくと、類も組子障子の戸の前に立ち、左側の戸に手を伸ばした。

「じゃ、外すぞ」

 茂が右の戸に手をかけて言う。

「あぁ」

 茂は右の戸を、ルイは左の戸を、それぞれ両側から挟むように持ちあげ、はまっている溝から取り外した。

 それを東壁に立てかける。

 異世界とのつながりが消えたその瞬間、ルイは身体に違和感を覚えた。

「「ん?なんか変だな」」

「お?類。なんだ、いきなり声、元に戻ったな」

 隣に目を向ければ、茂がニヤついた顔で類を見ている。

「「……そうだね。どうやらVR状態に戻ったみたいだ」」

 類はムッとして茂を見た。

「で、どうするんだ?このあと」

「「もうアバターを終了するよ。疲れた」」

 類はそう言うと、VR用ヘッドセットをずらした。


 目の前にモニタがある。

 キーボードの横に、ヘッドセットを抱えたミヤビが立っていた。

「殿!おかえりなさいませ!」

「あぁ、ただいま。ちょっと待って。VRを終了させる……」

 そう言ってキーボードを見る。

(またパソコンを強制終了するのもな……。カロ屋から外に出て、終わらせるか……)

 類は、再びヘッドセットをかぶり直した。


「「叔父さん。じゃ、俺、戻るから」」

「おう、お疲れさん。また来いよ!“ルイちゃんで”な。ガハハ!」

 茂は、作業台の前に座ってそう言うと、作業台の上に乗った何かのパーツを手に取って、何やら作業を始めた。

 類は、休憩室を通り、皆川家の玄関前に立った。

 ドアノブに手をかけて押し開ける。

 そして外に出た瞬間、目の前の視界が真っ暗になった。


 VR用ヘッドセットを外し、目の前のモニタを見る。

 画面の中に、先ほどまで自分自身だったキャラクターが、紋様を背に静かにたたずんでいた。

「はぁ……」

 類は大きくため息をついて、背もたれに持たれた。

「殿、随分お疲れのご様子」

 ミヤビがルイを見上げて、心配そうに言った。

「ミヤビ、ありがとう。今日はお前からいいヒントをもらったよ」

「おぉ!ありがたきお言葉。某、恐悦至極にございます」

 ミヤビは嬉しそうに手を広げて言った。

 類は、何気なく手元に置いた携帯電話を手に取った。

「あ……(翔太からメール来てるな)」

 操作して、メールを確認する。

  懇親会の日程

  5日19時から 五番通り商店街……

(そう言えばこの前、合コンするってメール来てたな。“懇親会”ね……。いいように言い換えたな)

 適当にメールを読み流すと、類はそのまま机に突っ伏した。


 玄関には、宅配便の不在連絡票が挟まれている。

 差出人は、

 ―― 愛

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