第6話

夕方、エミリが運転手つきの車で私を迎えに来てくれた。ロールスロイス・ファントムは、音も立てずに下宿の前を滑り出した。なんだか未知の世界に連れて行かれそうな不思議な気分だった。


「なにも分からない子どもを、むりやり島の遊園地に連れていって、ロバにして売り飛ばすピノキオのような気分だって、君の顔に書いてあるわ」

エミリはいたずらっぽく言うと、「確かに」と私は笑っていった。 


「大丈夫。何も心配はいらないわ。全てわたしにまかせて」

彼女は飲み物を勧めながら私の手を取って言った。彼女の視線は、シャンパンの泡と溶け合って光った。軽くウエーブのかかった栗色の髪、物憂げなまなざしに、いったいどのくらいの数の男が恋の犠牲になったのだろうと思った。


話題を変えようと、 「アンは、一緒じゃないの?」と彼女に聞いた。しかし、エミリは、アンの話はしないでといいたげに、私を睨むようにいった。


「君を好きになったの。テツロウは私のことどう思ってる?」エミリはいった。


「どうって……君は」


「……君は?」


「大切な……」


「大切……な?」


「友だちに決まってるじゃないか」

私はそれ以上でもなく、それ以下でもないふうにきっぱりと言った。


「最初はみんなそういうわ。君とわたしとは友だちだって」

エミリは甘いシャンパンを口に含み、それを私の口に流し込んだ。


「でも、すぐに君はわたしに夢中になるわ。わたしを知れば知るほど」

彼女は自信たっぷりにいった。


やがて、車はボードゥアン邸の門をくぐり、車寄せに静かにすべり込んだ。そこには、数人の召使が行儀よく並んで立って待っていた。ファサード正面には、海神や獅子たちが勢い良く水を噴出す噴水があり、オリンポス神殿に建っているような太い大理石の両翼の柱上には、女神たちがいた。


両肩や背中が露わになったきらびやかなイブニングドレスに身を包んだ淑女たちが、タキシード姿の紳士に手を引かれて邸宅の中へ次々と入ってゆく。私は建物に通じる入り口で、ボディガードに早速止められた。エミリを探したが彼女はすでに建物の中にいた。 


「テツロウがわたしの恋人ラマンになってくれるのだったら、正式なゲストだって話すことにするわ」と言いたげにウインクをした。それが彼女を見た最期の姿だった。


ボードゥアン伯と夫人は、招待客ひとりひとりにキスをし、握手をしていた。

アンの忠告が頭をよぎった。


(今後あなたは彼女の支配下に置かれるようになる)


私は招待客とは反対に来た道を帰ろうとしていた。私の後ろ姿を見たエミリは、大きな声で何かを叫んで、自分のこめかみに銃口を向けた。それを脅しだと思った私は、決して後ろを振り返らなかった。その直後だった。乾いた銃声がボードゥアン邸から響いたのは――


雨がいっそう強く降って来て、森の視界はぼやけていた。私は生きていても、死んでいるかのように歩いていた。希望にも、絶望していた。


「幕を下ろせ、喜劇は終わった」


ガドの声だった。


その場に倒れこんだ。


それからどのくらいの時間が経っただろう。横たわったままの身体は半分以上が深い水溜りに浸かっていた。自分の身体なのに、鉛を飲んだように重たくて、指先すら動かすことが出来ない。このまま誰にも見つけてもらえなかったら、たぶんここで死ぬんだろう。  

深い森の奥から、重い蹄の音が聞こえる。馬はゆっくりとこちらに近づいて来るようだ。


「ひどい霧ね。前がまったく見えないわ」

女性の声だ。軍馬らしき馬は、私の姿を見つけると嘶き、馬上の騎士にその存在を知らせた。騎士レディはゆっくりと私を担ぐと、馬の背に乗せた。そして、私は気を失った。 


森で倒れていた私は、偶然そこを通りかかった、フランス共和国護衛隊の隊員に助けられた。その女性こそがアン・ド・マルーだった。二度目の再会だった。


三角帽のトリコーンを目深に被ったアンは着ていたダブル・ブレストのコートを私に着せ、彼女が駆る馬に乗せられ、救護隊が待つ場所を目指し進んだ。厚い層を成した落葉とぬかるみで、何度も行く手を阻まれたが、アンの手綱さばきで、深い森に飲み込まれる寸前で脱出出来たのだった。


「マリー、救護隊まであとどのくらいの距離?」


「1.5キロくらいかしら」


放胆な烏たちが、行く先々にいて、一斉に飛び立っては驚かす真似をする。馬たちの機嫌を損ねては元も子もない。アンの右手は、私をしっかり掴み、左手は手綱を持って慎重に移動した。馬はだく足で、白い息を吐きながら進む。

森の出口には要請を受けた救急車両が待機をしていた。救急隊員は私の様子を見て、嶮しい顔をした。


「失礼ながら、アン・ド・マルー伍長は、この男性とお知り合いですか?誰がどのように男性を発見したかを医師に伝えますが、よろしいですか?」

救急隊員は言った。


「ええ、もちろん。彼は、助かりますか?」

アンは尋ねた。


「それは、なんとも……。低体温による心停止を防ぐためには、あらゆる処置を全力で行います」


「よろしくお願いします」

アンとマリーは敬礼し、救急隊を見送った。


「もうこんな時間。急いでエリゼ宮に戻らないと、大目玉よ!」

二人は森を抜けて、厩舎へ戻った。


「もうそろそろ教えてくれてもいいでしょう?あの東洋人の彼とはいったいどんな関係?」

マリーは馬に水を飲ませながら言った。


「どうでもいいでしょう?そんなこと」

アンは、馬を撫でながら言った。


「美しく聡明なアン・ド・マルーの身の回りにこれまで男性の噂がまったくないのは、不思議ですな」

マリーはおどけて言った。


「同じ大学だった人よ。さあ、エリゼ宮へ急ぐわよ。リリー隊長の雷が落ちたら、私たちだけじゃ被害はすまないのよ。マリー伍長」

アンは言った。


警察病院の集中治療室に運び込まれた私を診るや、医師は次々と看護師に指示を出した。


今、生命を維持するためのさまざまな処置が施されている。

冬は、あらゆる木々を枯らし、夢に夢を見る者たちを眠りにつかせてしまう。

私の体は、いてつき、あらゆる感覚器官は、固く閉ざされたままだった。


暖房の切られた待合の廊下では、ひたすら私の回復を待ち続ける画家たちの姿があった。病院の礼拝堂の、イエス・キリストの母マリアの御姿の前には、シモーヌたちがいた。教誨師に自らの罪を悔い改めるための懺悔を願い出、大いなる神の奇跡が与えられるようにと、それぞれが祈りを捧げていた。


創造主がすべてのわざを終わらせた六日目の朝だった。カミーユが疲れ果て、ベッドに突き臥していた。あかぎれだらけの彼女の手に、私は手を伸ばしそっと触れてみた。その指先はとても冷たかった。画家は、私の寝顔を描いていたようだった。その寝顔は、とある革命家の死面デスマスクのようだった。私がなかなか目を覚まさないのでいよいよ、と腹をくくった画家は遺影となる肖像を描いていたようだったが、完成することがないと分かったら、彼は何と言うだろう?私は深い眠りからようやく目覚めたのだった。


アンに助けられた自分は、理由が何であれ、その命を弄んだことを恥じた。助けてもらった感謝の言葉を伝えるため、病院を退院したその足で、フランス共和国護衛隊本部庁舎まで出向いた。


東洋人の若者が「アン・ド・マルーに面会したい」と言って来たことに対して、応対したアラン・ド・ブリエという男は、将校にありがちな、目の前の相手に対し、警戒本能が働くような言い方で、「彼女に何の用だ。用件は何だ」と威圧的に言った。

ヴァリューズ・モデルと呼ばれる、テーラーメードで作らせた制服をスマートに着こなしてはいるが、彼の私に対する厳しい視線は容赦なかった。


「アン・ド・マルー隊員に危ないところを助けてもらったので、ひとことお礼を言いたいのです」と言い、その時の状況を話そうとすると彼は遮って「その必要はない。彼女は隊員として、当たり前のことをしたまでだ」といい、(とりあえず君が来たことを伝えておく)という言葉もなかった。


パリの憲兵隊や治安部隊、そして警察などの組織を、フランス軍に次ぐ強固な位置に押し上げたのは、今から200年以上前のフランス革命だった。絶対王政に反発したフランス国民は、バスティーユ監獄を襲撃し、その後起こった革命がフランス革命だ。革命時に編成されたのが、これらの警察組織である。どれほど堅牢で頑強で、そして偏固な組織であるのかが分かった気がした。

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