第5話

(そんなセンチメンタルな感情なんて、自分にとっては邪魔でうっとうしいだけ)

私は過去に一度、これと同じようなことをいわれたことを思い出していた。

アン・ド・マルーといい、大学の同級生だった。

友人ジャンのパーティ先で出会った。


彼の共同住宅は、賑やかな通りから中に少し奥まって建っており、鳥のさえずりがよく聞こえる場所にあった。

玄関から部屋に続く廊下の壁には、輪郭のはっきりしたラヴァルやゴーギャンの複製画が掛けられていた。部屋はいたってシンプルで、ワンルームにしては広く、人が集まっても窮屈には感じないほどゆったりしている。

生活道具はすべて作りつけの棚やクローゼットに収まっていた。本棚にはコルビジェやミース・ファン・デル・ローエの写真集、そしてヴェルレーヌの詩集もあった。


寺院の壁画を思わせる絵や、退廃的な銅版画の複製も飾られていた。

小さなバルコニーの赤やピンクのゼラ二ウムは弱い光を背に受けて咲いている。 


「いい眺めだな」


窓の向こうにはパリ市内ではすっかり珍しくなった葡萄棚が見える。

これから秋が深まるとだんだんと葡萄の葉は赤く色づいていき、やがて木々は来年の実りのための準備に入る。


アン・ド・マルーと友人エミリ・ド・ボードゥアンが葡萄の葉の隙間から顔をのぞかせた。エミリが私を見つけて無邪気に手を振った。アンは愛嬌とは無縁な、気高そうな口を真一文字に結んで、さながら油断のないフランス近衛兵のような顔をして歩いている。


アンの雰囲気は、つきあう相手を束縛したり、相手の男がちらちら見せる女の影に嫉妬したり、わがままをいって困らせたりという、相手が煩わしく思うような感情は一切持ち合わせていない女性のように見えた。私はこれからパーティが始まるというのに、いろいろなことを考えてすぎて、すでに気疲れしていた。


パーティでは、食前酒のパスティスや、白ワインがベースのカクテル、キール・ブルトンが振舞われた。パスティスとは、アニスの薫香が強烈な酒で、おもにパリの芸術家が好んで呑むものらしい。

テーブルには、チキンを香草とオリブ油で焼いたものや、舌平目のムニエル、魚介のラグーなどが並んだ。


エミリは私の手にしたカクテル・グラスが空になったのを見ては、別のカクテルを注いだり、料理を皿に取り分けたり、甲斐甲斐しく気を配る。じっと見詰められて食べるのは、離乳食を食べさせられる赤ん坊のようで、あまりいい気分ではない。


「アンは本当に大学を辞めるのかい?」


「ええ。退学届けは書いたから、あとは提出するだけよ」


「もったいないな。アンほどの才能があれば、絶対に優秀な科学者になれるのに」

親友のヴィクトルは私に同意を求めるようにこちらを向いていった。


「科学者?私が?無理無理!才能のある学生はパリだけでもごまんといるわ」

アンは謙遜していった。


「辞めてどうするの?」

私はようやく皆の話題に入ることができた。


「フランス共和国護衛隊に入隊するの。志願届けもきのう書いたわ」

ふっきれたような表情だった。親もようやく許してくれたの、と厳粛な両親との間に確執があったこともほのめかした。


フランス共和国護衛隊とは、おもに大統領の警護を行う国家憲兵隊直属の部隊で、隊員の大部分は貴族の末裔で構成されている。

大学を辞めてまで入隊するなど、かなり変わった女性であることは間違いなかった。


「テツロウ、浮かない顔ね。アンが大学を辞めるのがそんなにショックだった?」エミリが私に顔を近づけていった。「そんなんじゃないよ」私は笑っていった。ホスト役のジャンは、モンマルトルにゆかりのある芸術家のエピソードを、さも自分が見てきたように自慢げに語っている。


「今頃の時期のホームパーティに欠かせない飲み物といえば、いったい何だと思う?」エミリがいたずらっぽい目でグラスに入った飲み物をひと口飲んで、私に差し出す。

鼻腔には刺激的な匂いだ。

「これは?」


「ホットワインよ。シナモン、ナツメグ、ジンジャー、グローブなどのスパイスを入れて蜂蜜を少々たらすの。さあ、飲んでみて」

レモンスライスを避けながら、ひと口飲んだ。


「どう?」エミリは私が黙って飲んでいるのをじっと見つめる。


「悪くない味だ」


「それだけ?」


「他に表現のしようがないよ」


「このワインをテツロウに勧めるのには、訳があるんだけれど――」

彼女の長い睫毛で覆われた深緑の瞳は、私の困惑した表情を伺い見る。


「アンドレ・シェニエのような、愛と革命を感じる詩と、このテイストは一致すると思わない?」


「どういうこと?」


「君と私は熱き理想を抱く建築家をめざす者同士、親密となりうる関係だからこそ、この聖杯ラ・サン・グラールを勧めているのよ」


彼女は、あらゆることに経験の少ない僕を教育しようとやっきになっている家庭教師のようなものの言い方でいった。


「いわゆる同志の”契りの杯”ってこと?」私は家庭教師に聞いた。

決してそれだけじゃないんだけど、といいたげに彼女はウインクして、行ってしまった。私はぽかんとして、彼女の後姿を目で追った。


「あなた、よほどエミリに気に入られたみたいね」

アン・ド・マルーは、目の前の肘掛椅子に腰掛けていった。


「確かに、よく気が利く子だ。建築家より、接客業に向いているんじゃないかな」私は見当違いなことをいった。


「何も分かっていないようね」

彼女は含みのあるもののいいかたをした。


「エミリのお父様は、パリ社交界はもちろん、政財界にも顔が利く有力者。彼女に気に入られたら最後、今後あなたはエミリ・ド・ボードゥアンの支配下に置かれるようになるでしょうね」

アン・ド・マルーは戒めとも取れるいい方で私に注意を促した。

アンの忠告通り、この日を境に、エミリの私に対する態度は、一変したのだ。


私はそろそろ大学卒業後の就職先を真剣に探さなければならなかったが、大学からはそれについてあまり良い返事はもらえていなかった。クラスメートの半数以上は、パリやミラノの建築設計事務所に就職が内定し、後は卒業を待つだけとなっていたのだが、時勢柄、外国人であるということがネックとなっていて就職先はなかなか決まらなかった。エミリはそんな私の実情をどこで知ったのか、


「今度、わたしの家で晩餐会があるの。大きな建築設計会社の社長さんもたくさん来るわ。テツロウにとっていい機会だと思うから、ぜひ来て」と今度は就職相談窓口の受付嬢のような話し方で私にすすめてきた。


アンの警告を無視するような形になったが、背に腹は代えられないと思った私は、エミリからの誘いを受けてしまった。アンのシナリオ通り、取り返しのつかない事態を引き起こすことになるのも知らずに――


カミーユが、なじみの仕立屋からタキシードを借りて来てくれた。蝶ネクタイをつけると、「馬子にも衣装だな」と小説家は、私をからかって言った。

「ボードゥアン伯によろしく。良い報告を待っている」と画家は送り出してくれた。

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