[〇一] 一日一首
校内を流れる人工の川、それに沿った
不可でないということは、すなわち、中学入学以降、私が自らに課しているノルマ、『一日一首』を今日も無事に果たしたことを意味する。結局はそれで気をよくして、ひどくうっとうしかった桜並木のことを心中で許した。
ノルマをこなしたがため、部室ですることはもっぱら読書となった。
「その本、前も読んでなかった?」
白の会議用テーブルを挟んで真向かい、黒の背もたれと座面を持つパイプ椅子に腰かけた同輩、
さして活動らしい活動をしない文芸部であればこそ、私は部室に日参する。読書がはかどるというのが主、ノルマがまだなら歌をひねるが、その後はやはり読書だ。家では弟と妹がそれはもううるさく、情緒に浸るのはひどく困難なのである。小学六年生と四年生、静かにしろと言って聞く年頃ではなく、健全な発達を願えば、姉がこうして外で過ごすのは致し方ないところか。
対して、向かいの一子はいつも携帯ゲーム機で遊んでいる。ショートの髪のうち、とりわけ短く揃えられた前髪は、彼女曰く、ゲーム画面を見る邪魔なる、のだという。私に配慮して、ゲームの音は切るか、さもなくばイヤホンをするかなのだが、私と全く話をせず、というわけにはいかないらしい。この小綺麗な、床も壁も木目調となっている部室にしても、全く静かかと問われれば否なのである。
「
私のフルネームは
本当に、せめて姓名合わせて五文字にならないものか。見込みのある手段としては、二文字以下の姓を持つ男性と結婚することだろう。私は高校二年生で、法律的には可能でも、現実感には乏しい。
ゲームのボタンをぽつぽつと押しながら、一子が思い出したふうに言った。
「そういえば、部室のポストにファンレター入ってたよ。
私のペンネームは早少女余莉、狙って名付けたのかと私に問えば肯定が返る。早という字を分解して、うち一部は横に向けてやる、すると三十二という数字になる、それでは一文字多いと、そういうことだった。誰の詠んだどの歌も否定する気は一切ないが、私というものが詠む歌については、徹底して字余りも字足らずも嫌うのである。必ず五・七・五・七・七の三十一音となるようにする、つまりは自戒の意も込めて自らに与えたものだった。
歌人としてありたい者が、その名をペンネームと呼ぶのはいささかならず間違っている気がするが、高校の文芸部に所属している以上はそうなる。万葉集の時代から遙かに時を隔てた二十一世紀、二〇〇六年春の現代社会ともなれば、外来語を使うのを忌避していては、相当に息苦しい思いをするのは間違いない。
私の返事はもとより期待していないと、それはいつものことで、一子は独り言にも似た会話を続けた。話があちこちに飛ぶのもまた、いつものことだった。
「このゲームのシナリオ書いた、
私が視線さえやらずとも、少なくとも聞いてはいると、一子はよくわかっている。
一子とは、小学校三年生の頃から、おおよそ何をするにもふたり一緒でやってきて、加えて言えば、ふたりきりのことが多だった。互いの姓名にちなんで、端っこ余り者コンビと一子は言う。やはり私の返事を待たず、一子はさらに話を続けた。
「逢坂律人、もうちょっと華々しく活躍してくれないもんかなぁ。
部長が鍵を預かり、ろくに踏み込まれもしないとなると、設置されていた戸棚は一子のコレクション置き場と化していた。一子が席を立った音がしたので、ちらと目をやれば、今遊んでいるのであろうゲームのパッケージを戸棚から出して、しげしげ眺めていた。よくよく見て満足したのか、私が視線を戻してから少し後、一子が椅子に座る音がした。
一子が言った逢館というのは、近場にある県立高校のことで、私たちが通う私立
もう十年もすればそうそう話題にも上らなくなるとは思うのだが、現時点で言えば、逢館の文芸部は作家を輩出したことで知られている。のみか、ある種、伝説じみたものの根っこになっている。気持ちはわからないでもない。今まさに、その作家の書いた本が私の手元にあるわけだった。
「逢坂律人がもっとスペシャルだったらさあ、部員勧誘とか、悩まなくて済むのに」
手元でゲームを操作しながら、一子は深く嘆息するのである。私は珍しく話に乗った。
「いいんじゃない。静かで」
「いい? 部員数五名、うち三名が名義貸しだけの幽霊部員って現状が?」
この文芸部には実質のところ、私と一子しかいないわけなのだ。
部員五名未満となると廃部勧告が出される、ゆえに名簿上では五人いる体裁にしてある、という。
なおも珍しく、私は本を閉じて一子に目を向けた。もう三度も読んだ作品であり、今はかまわない、たまには一子の相手をしてやらないと、いつかは拗ねる。
「まあ、私が言う分にはいいんじゃないの。一子以外の四人分、原稿を書いてるなら、ほら、ね」
「何が、ほら、なのかさっぱりわかんないんだけど。でたらめって意味の
文芸部を文芸部として成り立たせている功労者を少しは労ってほしいと思うのだが、あまり褒められたことでないのは事実だった。また、でたらめというのも言い得て妙とすべきか。
文芸部の活動として文芸誌を発行しているわけだが、五人いるはずなのにそこに名前がふたつしかないではいかにも怪しい。文字通りのゴーストライターと言うべきか、幽霊部員の分は、私が別な名義を用い、それぞれ内容や文体を書き分けて、つまりはでっちあげている。本来の私、早少女余莉が出稿するものは短歌に限るが、ゴーストライターとして書くものは多岐に渡る。少女小説、ファンタジー、果ては文学、さらには書評。
いかにも残念という顔つきになって、一子は言うのだ。
「ある意味、伝説級のスペシャルだと思うんだけど、ほんと無駄遣い」
もうひとつ嘆息してから、一子の表情がころっと変わり、怒気に哀しみを織り交ぜたふうになる。
「というか少しは手を抜いて。人気アンケートでいつもあたしが断然トップ最下位なの、すっごい落ち込むんだけど。名誉のために叫ばせて! あたしは中学校の文芸部じゃ二十何人いる中で常に二位だったのだと!」
万年一位だったのは私であるから、結局、今も同じということだった。違いは、私の名義が複数あるかないか。
「ねえ一子、トップで最下位って、どうしたっておかしいよね」
「このあたしを断然で引き離す名作が並ぶから、みんな気後れして入部しないんだって、そろそろ気づいてくれない?」
気づいている。が、手を抜くのは性分でないし、読書の場を失うのも困る。ずっと一緒にいてくれている一子に感謝はしたいところだった。私がいなければ一位でおかしくないわけで、自身の名誉よりも、ふたりでいる時間を重んじたということ。それに報いようと思えば、一子とふたり、仲良くいるのが筋だろう。
「アイスおごってあげるから、それでごまかされて」
「よし、喜んでごまかされよう! シングルではなくダブルであれば!」
言うが早いか、私の返事を待たずに一子はゲーム機をスリープモードにして、鞄に入れてしまうのだった。
私もまた、読み
「どこのどなた?」
一子がドアに寄って問う。
私も一子も、どうしてかすっかり忘れていたのだ。
二〇〇六年の春。つい先日まで一年生だった私たちは二年生となった。すなわち、この高校は新たな一学年として新入生を多数迎えたということ。
新入生の中に、文芸部への入部希望者がいたとして、こちらが勧誘に励む前に向こうからやって来たとして、何ら不思議はない。
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