第一話 初めての朝餉


 鶏のけたたましい鳴き声が聞こえ、敢志の脳が覚醒する。

重たい瞼を上げると、木目調が美しい天井がぼやけて見える。

いつもの風景なのに、初めて見るような気がする。

 程よい温度の布団の中から出るのが億劫になっていると、その理由が音を立てた。

「……。」

二階の敢志の部屋の向かいから音がした。

物置で誰もいない部屋に昨日から住みついた伊太利亜人の足音だ。

寝起きの呆けた耳をそば立てていると、その足音は階段を下り一階へ向かった。

数年近く一人暮らしだった家に自分以外の気配があるというのは不思議で仕方がない。それが日本人でないなら尚更。

 だが、顔を合わせても間が持たないことも分かっている。

そうこう考え込んでいるうちに、再び敢志を眠気が襲いもう一度布団を頭から被った。


 次に目を覚ました時、今度は鶏の声ではなく、美味しそうな匂いが敢志の鼻先を擽った。

物ほしそうに腹が鳴り、昨日牛鍋をたらふく食べた胃を擦る。

既に消化して空っぽになったそこに耐えきれなくなり、敢志は勢いよく布団を蹴った。

「腹が減っては戦はできぬ。」

そう言い聞かせて、敵の待つ一階へと降りた。

 一段下りるごとに白米の甘い香りと味噌の芳醇な香りが強くなる。匂いを辿るように鼻をスンスン言わせ、その間抜けな顔のまま匂いの元へ到達した。

「おはよう、敢志。」

微笑んだ伊太利亜人のジョヴァンニ・ギルバーツがおひつから茶碗に白飯をよそっていた。

今の顔を見られたと慌てて取り繕う敢志。

「おはようございます。ギルバーツさん。」

「ジョヴァンニでいいよ。それにそんなに硬くなる必要はない。」

硬くなっているわけではない。距離を感じさせる為だ。

昨日は敵意むき出しの態度を取ったが、ここまで物理的に距離が近くなってしまうとこのやり方が敢志にとって最善の策だった。

同居人としての最低限の会話で済ませるには、敵意を出さずだが丁寧な言葉で距離を置くのが一番だった。こんなやり方、貿易商人の父が知ったら卒倒してゲンコツをかまされるに違いない。

 そして手を差し出し「どうぞ。」と座るように促すジョヴァンニの横を通り過ぎ、敢志は店の格子戸に挟まっている二枚の紙を取りに行く。

戻ってきた敢志がようやく胡坐をかいて座り、二人の初めての朝餉が始まった。

 昨日は結局牛若丸で朝餉を食べる事叶わず、あの騒動の後牛鍋を松世から馳走になったのだ。「事件に巻き込んだお詫びと二人のこれからに。」などという台詞付きで。

どんな気まずい食事をするやと不安だったが、その不安は一人の男によって覆された。




 警察官が牛若丸をあとにしてすぐ、暖簾を表に出した店に元気な声が響いた。

「失礼します!」

「いらっしゃいまし!」

松世が接客の顔になる一方、その声に背筋が凍った敢志が声の方を見ると……。

「おや、伊東氏!」

「な、夏目さん!」

日報謎怪にっぽうめいかい』の夏目があの蒸栗色のチョッキに、カメラと万年筆を引っ提げて立っていた。

「もしや、もしやー!!」

鼻息荒く夏目が敢志に詰め寄った。

「伊東氏、今回は未確認生物の姿を目撃したのですね?!」

早くも万年筆を紙の上で走らせる夏目。

「見ていませんし、そんなものどこにもいません!というか、どこから今回の事件の事を嗅ぎつけてきたんですか。」

「ふふふ。風の噂で牛鍋と日本男児の逃走劇を聞きましてね。こうしてはせ参じたわけでございます!」

「俺か。」

二人のやり取りと夏目の格好に松世も彼が牛鍋を楽しみに来た客ではないと気が付いた。

だがそこで表情を崩す女将ではない。流れるような所作で意図も簡単に敢志とジョヴァンニ、そして夏目を一つの個室に纏めてしまった。

そこからはあらよあらよという間に牛鍋が振る舞われ、誰もこの共通点のない三人組を不審に思わなかった。

 敢志と鍋を挟んだ向かい側で並ぶジョヴァンニと夏目。

牛鍋窃盗事件の被害者は敢志ではなくジョヴァンニと知って、彼の鼻息の先は伊太利亜人に向けられた。

夏目がジョヴァンニの情報をあぶりだしていくのを耳の端に捉えながら、先に出された漬物を口に放り込んでいく敢志。

「伊太利亜人。お年は30代。一応確認しますが未確認生物ではありませんよね? ですよね。私も伊太利亜人という人種は存じておりますから、こりゃ失敬。」

いつも通りの早口だ。

「では、今回の被害者は伊東氏ではなくジョバンニ・ギルバーツ氏なのですね!」

「夏目さん「バ」ではなく「ヴァ」です。」

「ほう。ヴァタヴァタと未確認生物が飛び去るのを見たのですね!」

「いえ違います。が、発音はあっています。その「ヴァ」です。」

「ほうほう。ヴァタヴァタと飛び去った未確認生物がギルバーツ氏を殴った、ふむふむ。実に興味深い!」

万年筆を突きつけ催促をする夏目と、ただ名前の発音を訂正しただけのジョヴァンニの攻防はしばらく続いた。

 結局また意味の分からない文章を走り書きした夏目が牛若丸を去る時には、牛鍋のほとんどを敢志が食していた。げっそりしたジョヴァンニは額に手を当て首を横に振るばかりで、逆に同情したくなっていた。


———そして、その牛鍋窃盗事件について掲載されている『日報謎怪』に敢志は目を通す。


《呪いの牛鍋に封じられし彼奴きゃつら》

《昨日、日本橋の牛鍋屋『牛若丸』にて彼奴らを封じし鍋が盗まれた。彼奴らとは勿論、未確認生物である。空の彼方から、まだ見ぬ幻の大陸から、それとも我々の足元から?!どこから来たかもしれぬ生物は、牛鍋屋で窃盗事件を起こした。きっとその牛鍋からは夜な夜な封じられた彼らの声がしていたのだ。それに誘われ、とうとう昨日仲間が鍋を奪いにやってきた。》


そこまで読み、敢志は顔を上げた。

ジョヴァンニが朝餉に手を付けず、こちらを見ていた。

「お先にどうぞ。」

「いや、家主をおいて食べるわけにはいくまい。」

「お気になさらずに。」

だが、ジョヴァンニは箸を持たない。

視線で訴えるが、彼は一向に手を動かそうとはしない。

「どうぞ。」

「待たせてもらう。」

「……。」

ここで彼のいう事を聞いて一緒に食べるのも癪だと顎を掻くと、ジョヴァンニがとんでもない提案をしてきた。

「では、君が私をジョヴァンニと呼び、砕けて話してくれるなら食べようではないか。」

奇妙な距離感を気にしていたジョヴァンニ。

それを勘付かれていた敢志は頭の中の天秤を揺らす。

皿に乗る右の「敢志が折れて食事をする」と左の「仕方なくジョヴァンニの提案に乗る。」がユラユラと揺れる。左の皿に清志と二人を心配する松世の顔が追加される。

「……仕方なしだから。」

そう言って敢志は再び『日報謎怪』に視線を下ろした。

「先に食べといて、ジョヴァンニ。」

「では、お先にいただくとしよう。」

耳に礼儀正しく手を合わせる音がする。

そして記事の続きには、やけに日本慣れし日本語も達者なジョヴァンニについて書かれていた。


《その封印の牛鍋窃盗に出くわしたのは、ヴァタヴァタと純白の羽でも生えていそうな端正な顔を持つ伊太利亜人のジョヴァンニ・ギルバーツ氏(30代)。そして未確認生物と伊太利亜人の世紀の一戦の行方は?!残念ながら、彼奴等の勝利に終わってしまった。だが、物語はここでは終わらない!何とジョヴァンニ・ギルバーツ氏は、前日の記事で取り上げた、『弁柄堂』の店主で未確認生物に攫われそうになった伊東 敢志氏(28歳)の元に居候しているという!まさかあそこは未確認生物を引き寄せる何かがあるのでは?!》


彼は新聞社への帰りしなに色々と見解が変わってしまったのだろう。

ヴァタヴァタ飛ぶ未確認生物から、いつのまにかジョヴァンニの背中に羽が生えていた。

唯一の救いは夏目がきちんとした名前を記載した事かもしれない。

「はああ。」

敢志はもう一枚の『東京日々新聞』に手を付ける気力が残っておらず、朝餉で気力回復をはかることにした。

「いただきます。」

「大きな溜息だな。」

一度は箸を置き、件の新聞を渡したがジョヴァンニは視線ごと逸らした。

「結構だ。」

「予想はしていたけど、これは新聞の内容自体が奇奇怪怪だ。」

味噌汁で溜息を流し込む。

「では、何故購読する気になったのだ。」

汁茶碗から視線だけを上げる敢志。

 実は昨日、夏目が『牛若丸』を去る前に夏目に『日報謎怪』購読を申し込んだのだ。

どんな内容を書かれているかも気になったが、それ以上に……。

「夏目さんの言葉が真相を断固たるものにしてくれた。」

彼の「変装」という言葉、あれがジョヴァンニの本当の姿を決定づけた。

文のおかげもあるが、奇抜な発想を与えてくれたのもまた夏目であった。

「色々視野を広げるのもありかなって。」

清志の死で、外国という大きな世界に目を向けるのを止めてしまった敢志。

しかしその根本にある、何かを多く吸収しようとする気持ちは徐々に戻り始めていた。

少し微笑む敢志にジョヴァンニも吊られて微笑みそうになる。

「でもやっぱり、ジョヴァンニがどう面白おかしく書かれているかも気になった。」

まだ少し敵意を込めて嫌味を言う彼の事も許せた。

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