第32話 嘘よっ、豊洲

喫茶『じゃまあいいか』のカウンター。

「築地市場の豊洲移転、どうなるのかしら。延期になっちゃったけど」

と市川深雪。ママ友の高岡美佐子と一緒に夕食の買い物前のティータイムだ。

「どうなるかは分らないですね。いつまで延期するのか、もしかしたら移転自体白紙になってしまうかもしれないし」

マスターの渋川恭一が心配するのももっともだ。築地市場は、東京都民の食を担う、いや日本国民の食を担うとも言われる海産物や青果を扱う世界最大規模のマーケットだ。

「これだけ大事になってしまえば、もう隠すことはできないから結果的に良かったんじゃないですか。まあ、あまり興味はないけど」

列島を席巻する大きなニュースも小さな喫茶店の経営者、恭一にはそれほど興味をそそられる対象ではないらしい。

「えっ?イガ~イ。すっごく関心あるあるじゃないかと思ったのに」

深雪が女子高生のように驚きを見せる。

「深雪、あなた影響され過ぎ。何十年前のJKよ。ヒロミちゃんたちに笑われるわよ」

隣りに座った美佐子。

「別に笑ったりしませんよ。ちょっと、びっくりしましたが…。でも、豊洲はマズいですよね。卸売棟や青果棟の建物の下の地下空間って、そもそもないはずのもんだから。土壌汚染の影響を考えて敷地全体に4.5メートル分の盛り土をするはずだったんですよね」

午後の主婦トークに大宮幹太も参加する。そもそも設計段階では、汚染の恐れのある土壌を2メートル分掘り下げて取り除いた後に土で埋め、さらに2.5メートル分かさ上げした上でそれぞれの建物を建てるという予定だった。

「するはずじゃなくて、しているはずだった。東京都はホームページでも盛り土をしている形で公表していたわけだし。何年もの間、都民や全国の消費者を騙していたことになる。いや、全国の漁師や漁業関係者に対してもね」

恭一は幹太の発言を正確に訂正した。

「それを今更、『将来、汚染が生じた時に有害物質を取り除いたり、土やコンクリートで対策するために小型のショベルカーを入れることができるように地下空間は必要だった』って説明は辻褄が合わないですよね。苦しい言い訳」

幹太も豊洲の市場問題には興味がある。と言っても、建物の構造そのものではない。むしろ、世間からも疑念をもたれている不透明な行政や政治の意思決定過程の方だ。

「それって、やっぱりウソってこと?」

主婦の美佐子も連日報道されるこの問題が気になっている。

「ねぇ、『将来、汚染物質が出たら』ってどういうこと? 汚染物質なんて出ないように何千億円もかけたんじゃないの、税金。『食の安全を守る』っていうのが大義だったわけでしょ」

辻褄の合わない東京都側の論理を非難したのは深雪だ。移転して建設するのは、世界的に知名度の高い国内最大級の卸売り市場だ。都の分室や公民館ではない。有害物質に敏感になるのは当然だ。自らの子供の将来にとっても心配だった。

「それに、小型のショベルカーが入っていくための通路もないし、共産党や公明党、民主党の都議団の現地視察の映像を見ていても、地下には蛍光灯ひとつないの。天井高い所にいろんな配管が通っているのにあれじゃメンテナンスもできませんって」

幹太が都の説明の矛盾を突いた。

「バラエティ番組のナントカ探検隊みたいな映像だよね。懐中電灯みたいな明かりを頼りにおっかなびっくり進む人たち。足元には水が溜まってるし」

広海が言うのは、ニュースで見た都議たちの視察の様子のことだ。

「ぼんやり照らし出された配管もさ、どうみても人の手が届くような高さにはないんだ。メンテの想定なんかしているとは到底思えない」

と幹太。

「それがさ、後になってショベルカーを入れるスペースはあったことが分ったの。どうして真っ暗で縦横無尽に配管が張り巡らされた地下空間を、ショベルカーで作業できるのか分らないけどさ」

美佐子はワイドショーで見た映像を思い出す。

「苦し紛れにもほどがあるわ。姑息よね」

広海は都の担当者の言葉をこねくり回した詭弁としか考えていない。

「珍しく正しい言葉遣いをしたね、姑息。その場限りのいい訳って意味でさ」

恭一が指摘するように、昨今は「ズルい」の意味で誤用されることが多い。

「高校生でも、もう少しまともな口上を考えますよ。あんなペラい説明じゃウソがバレバレ。どうぞ追及して下さいって、ツッコミどころ満載なんですけど。オレたち、ディベートしたって絶対に負けないよな」

新聞やテレビで連日報じられる豊洲市場の問題点や、広海たちの不満を聞きながら、余裕綽々(しゃくしゃく)の志摩耕作。

「どう見ても、ウソっぽいよね」

愛香が妙に、ウソの部分を強調して都の幹部をディスった。

「ぽい、ぽい」

高校生たちに囲まれて、声だけ聞いていれば深雪も同級生のようだ。

「っていうか、残念なことに豊洲って名前自体がもうウソっぽいでしょ」

と耕作。

「どういうことよ」

意味が分からず突っ掛かる愛香。耕作はスタスタとホワイトボードに歩み寄ると、フェルトペンを取った。

「豊洲は嘘よ? マンマじゃん」

素っ頓狂な声の主は愛香だ。

「何それ? 小池知事の言葉? そんなこと言ってたっけ?」

「まさか。まあ、知事の記者会見で聞いてみたいフレーズではあるけどね」

広海が答える。6,000億円近くの巨費を投じた鳴り物入りの市場だ。しれっと『豊洲移転はウソよ』なんて言おうもんなら大変な騒ぎになるだろう。

「豊洲ってさ…」

耕作は言いながら、漢字で書いた“豊洲”の文字の上に、ルビにしては大きめのローマ字で「TOYOSU」と大きく書くと、

「逆から読んでみて」

とみんなの方を振り返った。

「う・そ・よ。う・そ・よ、っとかな」

言われた通りに愛香が読み上げる。

「正解」

耕作には広海のため息なんて聞こえていない。クイズ番組のMC気取りで愛香を指指すと、大発見でもしたかのように大袈裟にフェルトペンを置いた。深雪と美佐子が顔を見合わせて拍手を送った。

「さすが“課長”。本家の島耕作並みに、珍しく冴えてる」

「珍しくは余計だろ。最後の“T”は少し邪魔だけど、英語でも発音しない『t』は珍しくないから、ご愛敬と言うことで」

幹太の皮肉にはどこ吹く風の“課長”耕作も、年の離れた主婦の反応には満足そうだった。

愛香が勢いよく椅子を立つとホワイトボードへ。

「あのさ、“課長”。いい?」

と言いながら、『USOYOTTOYOSU』と書くと、一行下に『嘘よっ、豊洲』と日本語で加えた。

「どう? 『豊洲は嘘よ』じゃなくて『噓よっ、豊洲』。これなら一文字も余らないわよ」

「なるへそ。『何も足さない、何も引かない』」

「山崎か」

「私は、山崎じゃなくて、長崎」

愛香は、男子陣の軽いノリツッコミをボケで返した。

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