第4話 メビウスは3D

「あー、濡れちゃったー」

勢いよくカウベルが鳴る。そして、その金属音に負けないくらいの大きな声に一同の視線が集まる。入って来たのは剣橋高校の数学教師、松山範子だ。話に夢中になっていたので気づかなかったが、どうやら雨が降ってきたらしい。店主の渋川恭一はカウンターの引き出しからハンドタオルを取り出すと、範子に手渡した。

「足元の悪い中、いらっしゃいませ」

タオルを髪に押し付けるように水気を取りながら、範子は温かいカフェオレを注文した。

「安倍総理は確か『福島は完全にコントロールできている』って言ったんだよね」

2016年9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会の五輪招致のプレゼンテーション。安倍首相が行ったスピーチの冒頭部分のことだ。

「オリンピックが決まった時には、みんな舞い上がって気にしなかったけど、結構問題発言だと思わない? 除染作業も全然先が見えていないし、放射能の汚染水を閉じ込めるための凍土壁だって不十分っていうでしょ。どこをどう見たら『完全にコントロールできている』って言えるのかしら」

震災で福島を離れ、県外での生活を余儀なくされている被災者でなくても、思わず首を傾げてしまう発言だ、と秋田千穂は思った。

「安心させるための表向きの発言。海外向けのセールス・トークに決まってる。本心で言った発言なら、能天気にもほどがあるし、被災者への思いやりがなさ過ぎるわ」

 小笠原広海はだんだん腹が立ってきた。もし、被災したのが福島県でなく自身の選挙区の山口県だったとしても、安倍首相は同じ言葉を口にしただろうか。

「千穂の言う通り、本心なら非常識極まりないよね。まあ、“政治家の常識は世間の非常識”なんて言葉もあるから、別に驚きはしないけどさ」

熱くなっている千穂と広海を尻目に、大宮幹太は冷静さを失わない。意識的に第三者の目で見つめようとしているようにも見える。


 「ねぇねぇ、マスターがいつも言ってる『常識を疑う』って、手品みたいなもんですか? コインのマジックみたいに、表に見えたものが実は裏だったり…。常識ってさ、冷静に考えてみると実は常識ではなかったりすることってあるんじゃないかな。うまく言えないんだけれど、権力者の常識が一人歩きして、受け止める側も催眠術にかかったように鵜呑みにしてしまう、ってところがあるんじゃないかって…」

「出た、週刊ジツハ」

千穂は、まるでお化けでも出たかのように大袈裟なツッコミを入れたが、マスターの恭一は思いつきで感覚的な清水央司(ひろし)の発言を、結構核心を突いた指摘だと思った。

「“週刊ジツハ”は置いといて、ちょっと考えてみようか。確かにマジックと似ている部分はあるかもしれない。手品のトリックの多くも、観客の先入観や思い込みを巧みに利用したものだ。マジシャンの指捌きだけじゃなくてね。つまり、ケース・バイ・ケースで表になったり裏になったりすることもあると思う」

「それって表裏一体、ってことですか」

広海が聞き返した。


 「まるで、メビウスの帯みたいね」

恭一から借りたドライヤーで髪を乾かせて少し落ち着いたのか、範子が会話の輪に入ってくる。範子はクラス担任の横須賀貢の幼なじみ。というか実は、元カノだった。去年の春、定期異動で剣橋(つるぎはし)高校に赴任したばかりだ。

「先生、メビウスの帯って? まさかギリシャ神話じゃないですよね」

真っ先に反応したのは央司。範子は一昨日の日付の新聞を1ページ分抜き出すと、恭一にハサミを借りて縦方向に約5センチ幅に丁寧に切り取っていく。長さが約40センチの長方形の新聞片が2つできた。タイミングよく、恭一がスティックのりを手渡す。範子は、新聞片の一方の端にのりを塗ると、もう片側の端を合わせて、ごく普通に輪っかを作る。そして2つめの新聞片も同じように輪っかを作った。新聞片の向きを360度、ちょうど一回転させたことを除いて。当然、ねじれた形の輪が出来た。

「これが、メビウスの帯。何のことかよく分からないでしょうけど、ギリシャ神話とは関係ないわ」

範子が出来上がったメビウスの帯を生徒たちに回覧する。

「オレ、これ見たことあるよ。パソコンの画面で」

実物を手にした央司が得意そうに答えた。

「スクリーンセーバーでしょ。私が愛用していたノートパソコンもそうだったわ。シャープ製で商品名がズバリ、メビウス」

と範子。

「そうだったんだ。そう言えば、無限大の記号もこのメビウスの輪ですよね」

数学の教師らしく、範子が央司の間違いを訂正する。

「残念ながら、清水君の答えには間違いが2つ。一つは正確には輪じゃなくて帯。メビウス・バンドっていうの。リングじゃなくてね。もっと大きい間違いは無限大の記号はメビウスの帯とは無関係。無限大の記号の由来はウロボロスっていうギリシャ神話に登場する、自分の尻尾を噛んで環になったヘビとか竜の図案化したものなの。永遠に繰り返される循環(生と死)の象徴とされていたらしいわ。メビウスの帯は、表裏がない曲面になっていることに数学的な意味というか、価値があるのよ。今風に言えば、メビウス・バンドは3D、つまり3次元の立体。無限大は2D。二次元の平面ってことね」

「出た、ギリシャ神話」

央司を無視するように、範子は自分で作ったメビウスの帯にボールペンを滑らせて線を引き始めた。ペンが新聞片から離れないように縦方向にゆっくり丁寧に。広海たちはテーブル・マジックの観客のように集中して見入っている。普通の輪っかなら、外側の面に引いた線が内側を通ることはない。内側に引いた場合も当然、線は内側で完結する。実験するまでもない。範子の引く線はねじれた面に沿って一周して、描き出しのポイントとつながった。感嘆の声が漏れる。

「別に驚くことはないわよ。私、失敗しないので」

範子が瞳を大きく見開いて微笑んだ。まるでテレビドラマに登場する美人の天才外科医を意識するかのように。

「なるほど…大門未知子か」

央司が感心している。自分のネタに生かそうと考えているに違いない。

「分かった? 見たとおり、360度ねじることによって裏表の区別がなくなったことが証明されたでしょ。でも線の引き終わりが引き始めにつながったということは、概念としては無限大ではない。ここまで分かるわよね」

「なるほど。線がつながったってことは、有限ってことね。さっすが数学の先生」

広海の言葉に、言葉通りに尊敬の念は込められているわけではない。軽い相づちに過ぎない。


 「まあね。で、メビウスの帯が生活の中に活かされているのがスーパーマーケットなんかで流れている宣伝用のエンドレス・テープやコンピューターのインクリボン。私たちの家庭用のプリンターの多くは、ボトルに入った液体インクを使うけど、パソコンが今みたいに普及する前のワード・プロセッサーなんかは、小型のカセット・テープみたいな形のインクリボンを使っていたの。片面だけでなくて両面使える方が効率いいでしょ」

広海たちは複雑な表情で頭を整理している。

「あっ、もしかしてカセット・テープ自体が分からないか」

範子は世代の違いを心配した。

「分かりますよ。今ちょっとしたブームですから」

と幹太。1970年代から80年代は音楽素材の録音には欠かせなかったカセット・テープだが、アナログ・レコードがコンパクト・ディスク(CD)化され、録音用のメディアとしてのCDやミニ・ディスク(MD)の登場とともに、衰退した。記録メディアの主流がSDメモリー・カードやメモリー・スティックになった現在ではMDすら姿を消しつつある。ところがデジタル化への移行とともに、下火になったカセット・テープが再び注目されている。聴きやすさのために、高音域と低音域をカットしたデジタル音源にはない音の広がりが見直されているという。人気アーティストの影響で、アナログ・レコードが復活しつつあるのも理由のひとつだ。音楽のジャンルの最近のアナログ・ブームについて語る幹太の薀蓄話に耳を傾けながら、広海は、ミニコンポに一枚のCDをセットする恭一を見つめていた。


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