遠い夜空の一番星
今年もドバイミーティングが始まります。
世界中から招待された強い馬が集まって、文字通りの世界一を競うレースがいくつも行われます。
日本からもこれまで何頭も出走がありました。メインのドバイワールドカップをヴィクトワールピサとトランセンドがワンツーで勝った時は、人目もはばからず号泣してしまったほど。
そのときに思い出していたのは、ある牝馬のことでした。
正月開催の中山競馬場。
新馬戦のパドックを見ていたわたしは、1頭の牝馬に目を留めました。
500キロちょうどの馬体は見るからに大きく、ダートでいかにも走りそうに見えました。時折見せる仕草はどこかかわいらしく、まだまだ子供なんだろうなあとも思えます。
一緒にいた先輩も「2番人気だがこれしかないだろう」と納得顔。そこでふたりして彼女の単勝馬券を買い込むことに。
白い帽子の騎手を背にした彼女のゼッケンには、ホクトベガと書いてあります。
まだまだ子供っぽいところもあるけど、力の差はあるんだろうなあ。
そんなことを考えながらスタートを待ちました。
ゲートが開くと、彼女は先頭に立ちます。
そのまま後続を引っ張り、後続に9馬身の差をつけてゴール。
力ありますよねぇこの仔とはしゃぐわたしに先輩が一言。
「うん。でもダートだからね。芝だとどうだろうなぁ……」
当時ダート路線はあまり充実しているとはお世辞にも言えませんでした。それ故ある程度ダートで実績を挙げた馬は否応なく芝に転向せざるを得ません。
ましてこれからクラシックを迎えるとなればなおさらです。
そんなことを思って暗い顔をするわたしに「まあ、ダートなら大丈夫だよ」と先輩はとりなすように言います。
確かに、ダートなら。
そんなことを思った記憶が残ってます。
次に彼女を見かけたのが、2ヶ月後の重賞フラワーカップ。中山の芝1800メートル。
前走でオープン入りした彼女は、予想通り芝のレースに出てきました。
有力どころは1番人気の良血馬。しかし彼女も2番人気に推されています。
「このくらいの相手なら芝でも勝てると思うよ。スピードで見劣りはしないと思うんだけど」と、先輩は言います。
わたしも先行出来るんならたぶん大丈夫だろうと見ました。
パドックで見る彼女は相変わらず体を大きく見せています。よしこれならと、またもふたりして単勝馬券を買い込み、スタートを待ちました。
バラバラっとしたスタートの中、彼女は先行集団のすぐ後ろ。
道中は落ち着いた様子。そこから3コーナーで3番手に押し上げると、最後の直線で抜け出し、後続を引き離しにかかります。
中山の急坂を登りきったところで後続に詰め寄られましたが、半馬身の差をつけてゴール。見事に重賞を勝ち取ってみせました。
これでクラシック行くんでしょうねえと言うわたしに、先輩は「だと思うよ。でも……」となかなかいい表情を見せません。
この年の牝馬クラシック路線には関西にすごいのがいるともっぱらの評判でした。
そこにダート上がりの彼女がどこまでやれるのか。
そう考えると、こちらもあまり明るいことは言いにくくなってしまいます。
ダートの大きなレースがあればなあと、そんなことも思ってしまいました。
そして迎えたクラシック。
彼女は桜花賞で5着、オークスで6着。頑張りましたが勝ち馬との差は明らかで。
「まあ、こんなもんだよな」と先輩は納得したような顔で言います。わたしもそこは同じでした。
「夏を越してどうだろうかね。こいつは丈夫そうだし、どっかで一発あってもおかしくないとは思うんだよ。でも大きいところとなるとなあ……」
先輩はどこか悩ましそうでした。確かに中の上くらいは走るだろうけど、一番の大きなレースはどうだろう。
秋のエリザベス女王杯に万全の出来で出て来れるようなら、そのときにまた考えようかと、そのときは思いました。
そうして迎えたエリザベス女王杯。
ステップレースを2つ使った彼女の評価は9番人気。先輩とわたしは「こんなもんだよなあ」と顔を見合わせます。
「勝負とは別で応援馬券で買おうか。それしか買うとこないわ」と先輩は苦笑いしながら窓口へ向かいます。わたしも勝てないだろうけど、せっかくだからと単勝馬券を少しだけ。
そうして、静かにレースを待ちました。
たぶん、あの強い馬が三冠を達成するんだろうなと思いつつ。
ところが。
ゴール前でわたしたちは目を疑いました。
内からスルスルと彼女が先頭に立つではありませんか。
2着に5番人気の馬を従え先頭でゴールした瞬間、わたしたちは喜ぶよりも呆気にとられていました。
「嘘だろ……」と先輩は言ったきり絶句。わたしはといえばその場に固まったままで。
あんなに強いのに信じてやれなかった後悔の念に苛まれ、単勝馬券を握っているのになぜか負けた気分でいたことを覚えています。
「芝であんなにやるとはなあ。ダートのGIでもあれば出したいとこだけど、こうなると芝専門かね」
先輩はこんなことを言います。言外に「あれは一発だよ」というのが見え隠れしています。
「相手次第だけど、これからは強いとこに当てられるだろうしなあ。勝てるチャンスはそうないかもしれないね」
わたしもそれを聞いて頷くしかありません。
せめてダートならなあ……。
年が明けた彼女は、わたしたちが願っていたダートのレースに出てきましたが、10着と大敗を喫してしまいます。
以降、彼女は芝の中距離を使われることとなりました。夏の札幌で2連勝したことはありましたけど、それ以外は好走しても勝てない日々が続きます。
芝ではワンパンチ足りない上に、GI勝ちで負担重量も重いとなれば、なかなか勝てるものではありません。
そうしているうちに、6歳になった彼女は川崎競馬場に姿を現しました。
交流重賞のエンプレス杯に出走してきたのです。
雨の中、彼女は豪快な走りを見せてくれました。
文字通り、ぶっちぎりでの大差勝ち。
わたしはその報せを聞いてひとりでガッツポーズ。
ほら見ろ、ダートなら走るんだ。
そう思いながらニコニコしてました。
当時のわたしは実家に戻っていて、おいそれと競馬場に行ける状況ではありませんでした。
ですが、この報せにずいぶんと元気をもらったことを今も覚えています。
次の年。
彼女は交流重賞をメインに走ることになりました。
エンプレス杯のぶっちぎりで路線をこちらに定めたのでしょう。
年明けの川崎記念からエンプレス杯まで6連勝して絶好調だぞと聞かされたわたし、もう矢も盾もたまらなくなってしまい、次の南部杯に行くことに決めてしまいました。
当日は車を飛ばして盛岡競馬場へ。10月とはいえまだまだ暑く、山の中の競馬場だからと厚着で来たわたしはひどく後悔することに。
それでも、久しぶりに彼女に会えるんだと思えば、多少の暑さは気になりません。
盛岡競馬場のパドックで見る彼女は相変わらず大きく見えます。時折見せる仕草がかわいらしく見えるのは前と一緒。
ふっと新馬戦のことを思い出しました。
あの時と一緒。これしかないよな。
圧倒的な1番人気で馬券に旨味はまるでありませんでしたが、応援馬券だものと言い聞かせて単勝を少しだけ。
そうして、レースを待ちました。
レースはまったく危なげのない走りで圧勝。こんなに強くなったんだなあと感慨深く見つめるだけでした。
帰宅してから先輩に電話をすると、先輩も場外のモニターで見てたとのこと。
「ここまで来たらとことん強くなってもらわんとね。来年のドバイにも行くんじゃないかな」
先輩はこんなことを言います。
ドバイ?
「ドバイワールドカップって大きなレースさ。今年ライブリマウントが出てたんだがな。来年はホクトベガが行くことになるだろうし、出るなら頑張ってほしいよな」
そうですねぇ。案外やれるんじゃないですかね。あれだけあちこち走ってんですもん。今日も全然動じたとこありませんでしたよ。
わたしがこう言うと、先輩は嬉しそうに「来年勝ったらお祝いせんといかんなあ。こっち出てくるか?」と言います。
勝ったらぜひ行きますと答え、わたしは電話を切りました。
海外、かぁ……。
海外で勝つのが並大抵のことではないことはよく知っています。
ですが、彼女ならやってくれるんじゃなかろうか。
あれだけの走りを見た後ですから、そんなことを思いました。
でも、その前に無事に帰ってきてもらわなくちゃだよね、とも。
年が明けて、彼女は交流重賞10連勝の大きな勲章を引っさげてドバイに乗り込んで行きました。
新聞で見る限り、現地での調整もまずまずな様子。
レース当日は仕事で中継を見ることも出来ないのがわかっていたので、後で結果を聞くことにしようか。
そう思っていたのですが……。
彼女はドバイから帰って来ることが出来ませんでした。
報せを聞いたわたしが号泣したのは言うまでもありません。
結果がドンジリでも無事に帰って来てくれたなら、どこかで巻き返しも出来たかもしれません。
それで引退になったにしても、帰って来てたらどこかで彼女の子供を見かけることができたかもしれません。
それらすべてが叶わないと知って、わたしは空を見上げるより他ありませんでした。
夜空には星がいくつもまたたいています。
どれが彼女なんだろう。そう思って探しましたがわかるわけがありません。
悲しくて、悔しくて、その夜は泣き通しでした。
それから14年後。
ヴィクトワールピサとトランセンドがワンツーフィニッシュを決めた瞬間。
わたしは彼女のことを思い出し、空を見上げました。
見守っててくれてたのかな。後輩たちがやってくれたよ。
そう思ったら、涙が止まらなくなってしまいました。
それからまた何年か経ち、今年もドバイでレースが行われます。
あの当時と違い、今じゃワールドカップ以外にもいくつもレースが行われ、日本からも複数の出走があります。
彼らみんなを、彼女は遠い夜空で見守っていてくれてると信じ、レースを楽しみにしようと思います。
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