おとぎの国の占い師～恋する赤ずきんと家出オオカミ

１６．届かない想い

　新月の夜の闇は、いつもより濃い気がする。

　新月の魔物伝説を信じる村の人々は、新月の夜に出かけることはない。勿論、ターシャも例外ではなく、この日は早々に帰宅していた。

　だが、あんなにも闇が怖くて、陽が落ちると家に閉じこもっていた日々が嘘のように、今のターシャは新月が楽しみになっていた。

　今夜は風もなく、雲もない。さぞかし素晴らしい星空が見えるだろう。

　ひとりになってからの星空観賞はこれが初めてではないが、さすがに外に出る勇気はなかった。だが、今日は天候が良いこともあり、冒険して、ランプを持って外に出てみることにした。もしかしたら、今日占ったシンデレラの件が心に残っていたのかもしれない。

　心を寄せ合うためには、双方の働きかけが必要だ。グリードが教えてくれた通り、丘に寝そべって星空を見たい。それがターシャの望む事だし、今夜グリードだってそうしているはずだ。

　人にばかり偉そうに助言して、自分ではできないなんて、恥ずかしいではないか。

　それに、窓から見る星空は綺麗ではあるけれど、グリードと一緒に見た時のような浮遊感も、星空に身体が包まれるような感覚も味わえない。

　この空は、隣国にまで繋がっているのだ。

　この空を、きっとグリードも見ているはずだ。その隣には、赤ずきんもいるのだろうか……。そこまで考えて、ターシャは慌てて頭を振ってそれを打ち消した。

（考えても仕方がないことは、考えないようにしよう）

　さて、まずは大きなランプを探さなければいけない。店からの帰りに使ったランプは小さくて持ちやすいが、足元しか見えない。それなりに整備された道ならそれでも問題ないのだが、丘に行くには不向きだ。

　ターシャは、物が乱雑に積み上げられた部屋を見渡した。

（確か、ルーシアが昔使っていた、大きくて頑丈なランプがあるはずなんだけど――どこに置いたっけ……）

　最初は、グリードとの約束を守っていたのだ。

　なんとか綺麗な状態を維持しようとした。

　努力は、した。――多分。

　だが、段々と荷物が増え、棚がいっぱいになり、棚に入らなくなった。そうなると、次第にテーブルに置くようになり……置き場所が床になり……そして、今に至る。

　部屋の掃除には挫折したが、それとは反対に仕事は順調すぎるほど、順調だ。

　毎日にようにひっきりなしに客が訪れ、最近では昼休憩をする暇もない。

　閉店時間を過ぎてしまうことも多く、そうなると、商店街で買い物もできない。その結果、食事も、以前のように粗末になってしまった。

　ヴァンスをはじめ、周りの大人たちは、そんなターシャを心配し、食事を差し入れてくれることもあった。

　グリードの姿が見えなくなったことに対して、彼の行方を、ターシャに聞いてくる者は誰もいない。きっと色々思うことはあるのだろうけれど、皆口には出さず、今まで通り接してくれる。それがターシャには有難かった。

　今グリードのことを聞かれると、いつも通りであること、普通でいること、これが崩れてしまう気がした。

　ターシャを心配する近所の何人かは、ターシャに仕事を減らすべきだと忠告した。だが、仕事に打ち込むほどに、グリードを思い出す時間は減る。それも今のターシャにとっては、重要だった。

　それでも、新月の夜はまた別だ。

　これは今のグリードと共有できる唯一の空間なのだ。

　空を見上げると、なぜか距離の遠さなんて、ちっぽけなことだと思える。だって、見上げる先にある星よりも、確実に近いのだ。星はターシャの目に見えている。ならば、グリードだって案外近くにいるかもしれない。

　棚をゴソゴソと探るが、ランプが見当たらない。

　床の物をあれこれ寄せながら探すと、しばらくして、ようやくテーブルの下からランプを発見した。

　油を垂らし、火をつける。

　人気のない暗い道は、正直少し不気味だが、ターシャは頬をパン、と叩きドアを開けた。

「うわ！」

「うわぁぁ!?」

　扉の前に誰かが立っており、まともにぶつかる。

　村人は皆外を出歩くはずがないと思い込んでいたターシャは、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。だが、それは相手も同じだったようだ。

「なななななんだよ！」

「それはこっちの台詞よ！　新月なのに、なに出歩いてんのよ、アジル！」

　なんと入口でボ～っと立っていたのは、アジルだったのだ。

　手に持つランプの灯りで下から照らされた顔はゆらゆらと揺れて、なんとも気味が悪い。ただ、アジルだとわかってしまうと腹立たしくて、ターシャはランプを持っていない手でベチベチと叩いた。

「もう！　驚かせないでよ！」

「イテ！　いってぇ！　やめろ！　おおお俺はただ、お前が新月だってのに遅くまで仕事してるって言うから！　だから……」

「依頼人がいるんだもの。仕方ないでしょ。大体、私が遅くまで仕事してたらなによ」

「あ、危ねえだろ！」

「なによ。新月の魔物なんていないわよ！　怖いなら帰ればいいじゃないの」

「じゃなくて！」

　アジルがたまらずターシャの腕を掴む。

「く、暗いなかでひとりで歩くとか。――あ、危ねえだろうが」

「はぁ？」

　なにを言っているのだ。この男は。生まれ育った村で、歩きなれた道を歩く、そのなにが危険なのだ。道は整備されているし、足元を照らすランプがあれば、誰でも歩ける。大体、新月の夜でなくても、悪天候の夜は同じくらい闇に包まれるのだ。そんな日は村の皆だって、ランプ片手に歩いている。

　ターシャはポカンとアジルを見上げるが、当のアジルはやけに真面目な顔をしていた。

　ターシャは今更ながら、ハッとあることに気がついた。

「もしかしてあんた、私のこと心配してるの？」

「だ、だからそうだって言ってるだろう。だっ、大体、お前は最近おかしいじゃないか。あの男がいなくなってからというもの、仕事に没頭してよ。なんつーか、危なっかしいっていうか……」

　あの男と言うが、これは完全にグリードのことだろう。

　グリードが村を出て行ってから、こんな風にまともに言われたのは初めてだ。

「……それで？　心配してんの？」

「当たり前だろう。今日だって、夜になってもなかなか店から帰ろうとしないし……」

「依頼人がいたんだってば。ちょっと時間が長引いたのよ。仕事熱心だと言って欲しい――」

（ん？　帰ろうとしないし……？）

　そういえば、腕を掴むアジルの手が冷たい。

　ずっと外の空気に当たっていたのだろうか。

「……もしかして、店から後をつけてた？　それで私が家に帰ってから、外から様子を確認してたり、した？」

「変なことを言うな！　護衛だ、護衛！」

「なにが護衛よ。なんで今更、そんなのが必要なのよ」

「だからっ、それは……」

「アジル……あんた、もしかして私のこと好きなの？」

　まさかね、と思いながらも思い切って聞いてみたターシャだったが、アジルは大きな口を開け、なにか反論しようとして、結局頷いた。

　冗談交じりにそう言ってみたターシャだったが、まさかアジルが頷くとは思っておらず、ターシャは驚いた。

「うそでしょ！」

「うううううそじゃねえ！　前からだ。大体なあ、なんで気づかねえんだよ……」

「だって、あんたいつも金持ち自慢して、私に嫌がらせしてばっかりだったじゃない！」

「それはっ……。い、いいとこ見せたかったんだ。他の女は俺の、そういうところがいいって……言ってくれたから……。あ、でも、俺から誘うのはいつも、ターシャだけだった」

「いや～、それはないわ。ごめん、いいなって思ったことは、なかったわ」

ハッキリと言われ、アジルはがっくりと肩を落とす。

その落ち込みように、ターシャは彼が本気なのだと、ようやく知った。

「アジル……。ごめんね、私――」

「俺はっ！　あいつみたいに、ターシャをひとりにしない。今、俺ちゃんと働いてるんだ。あの時、村の皆にもバカにされてすげー悔しかったけど、ターシャのビンタで、目が覚めたんだと思う」

「……ありがとう。でも、ごめんね」

「あいつはもういないじゃないか！」

「いるよ。ここに、いるよ」

　ターシャはアジルに捕まれた腕を振りほどき、自分の胸にそっと手を当てた。

　ターシャの心は、グリードでいっぱいだ。

　頭では考えないようにしていても、それでも、ターシャの“好き”は、全部グリードが持って行ってしまった。他に裂く余地は、ない。別のものが入り込む隙間も、ない。

「……俺は、それでも、いいよ」

「ダメだよ。アジルの心は苦しいままでしょ」

「もうあいつは戻ってこない！」

「いいんだよ」

（そんなの、どうでもいいんだよ……）

　戻ってくるとか、ここにいないとか、そういうことではないのだ。

　人を好きになるのは初めてだったけれど、それは、その人でいっぱいになるということだ。その人が、どこかで笑っていればいいなと、願ってやまない。

　ターシャは、グリードを好きになったことで、アジルの気持ちには応えられないとはっきり分かる。まだ信じられないけれど、アジルの言う“好き”が、ターシャの思う“好き”と一緒なら、それに応えることなんてできない。

（心がグリードでいっぱいの私でもいい、というのは、いつかアジル自身がとても苦しくなってしまう）

　だからこそ、ターシャはグリードと離れ離れになり、森に帰す決意をしたのだ。

　グリードの心が、赤ずきんの方に傾いているのなら、“好き”のまま、手放すべきだと思った。

「私はさ、グリードが幸せになれば、いいんだよ」

「……ターシャ……」

「ごめんね。私、アジルの気持ちは嬉しいけど、だからこそ、曖昧なことは言えないよ」

　がっくりと肩を落として去って行くアジルを、ターシャはその後ろ姿が闇に消えるまで見ていた。

　届かない想いを持っているという点では、アジルのやるせない想いは痛い程分かった。

　そして、別れを告げた日に、グリードが抱えた気持ちの重さも、今知ってしまった。

　想いが通じ合い、そしてずっと一緒に過ごせるというのは、たくさんの想いの中に稀に現れる奇跡なのではないだろうか。

　そんな奇跡は、一体どんな人の元に訪れるのだろう。

　アジルも、いつか自分を心から思ってくれる人と、想いが通じ合えばいいが。

（そういえば、グリードのことを意識して話したのって、久しぶりだったわ）

　空を見上げると、たくさんの星が見える。それでも、視界には木々が邪魔して一面の星空とはいえない。やはり丘に向かうしかないようだ。

　予定よりもだいぶ遅れたが、ターシャは改めてランプの灯りを頼りに、裏山に向けて歩きだした。

（こんなに遠かったかな……？）

　ターシャにとって庭のような裏山も、月明かりのない暗闇では、随分と印象が違う。

　足にまとわりつきそうな草も、枝を唸らせ覆いかぶさろうとする大木も、ターシャの知る昼のものとは別の表情を見せている。

　なんどか挫折しそうになったが、そんな時は木々の隙間から見える星空を見て、自分を奮い立たせた。

　息を切らしながら、なんとか登りきると、倒れ込むように草むらに両膝をついた。

「はぁ～。つ、疲れた……！」

　はー。と大きく息を吐きながら、横になれる場所を探す。そしてランプの火を消し、傍らに置くと、そのままゴロンと横になった。

　星を見るには、少しの灯りも使いたくなかったのだ。

　両手両足を投げ出し、空を見上げる。

　高くからターシャを見下ろす星は、あの時と同じように視界の隅々まで煌めいて、ターシャを包み込んだ。深呼吸すると、浮遊感に包まれる。

「きれ～い」

　この空は、どこまでも続いている。

　国境を越えた、遥か遠くの人狼の森までも、ずっとずっと続いているのだ。

　地上では、海に山に荒野に川……。それらたくさんのものが、ターシャとグリードを隔てている。

　こんな小さな裏山ですら息切れするのに、その何倍も何十倍もの物が、ふたりの間に立ちはだかっているのだ。それを、このどこまでも続く星空が、少しの間忘れさせてくれる。

「でもなぁ……。遠い……。遠いなぁ」

　この空はひとつなのに。

　端と端で、私たちは確かに同じものを見ているのに。

　空に向けて声を出したら、届くだろうか。

　この空が、星が、ターシャの声をグリードに届けてくれるだろうか。

　ターシャは、すーっと思い切り息を吸うと、空に向かって叫んだ。

「グリード!!」

　なんの障害もなく、その声は空に向かって、星に向かって飛んでいく。

「グリード！　元気？　あんたは優しすぎるからちょっと頼りにならないところもあるけど、でも、あんたなら、いい長（おさ）になれるよ！」

　実際に口に出してみると、感情が、ぬくもりが、名前と一緒に吐き出されて、空に消える。

「ふぅっ……」

　身体いっぱいになった感情は、涙となって溢れ出した。

「グリードっ……！　あんたはほんとに勝手で、うちに強引に住み着いて……っ。私の生活にどんどん入り込んで……！　心の中にまで図々しく居座って……！　ほんと、勝手。今は、他のことが入らないくらい、あんたでいっぱいだよ。ばーか！　グリードのばーか！　あんたなんか、大っ嫌いだよ……」

　声はどんどん萎んで、ターシャの声は、最後には小さく呟くようなものになった。