スパゲッティの宿命(すべての2月の終わりに僕はただ悲しいふりをする)

工藤千尋(一八九三~一九六二 仏)

スパゲッティの宿命

「『左右』と書いてなんと読むか知ってる?」


 鶯谷北口の改札を抜けたところで彼女はふと言った。


 いつもの見慣れた景色。薬局があり、マック、関西ではマクドか。オリジンに松屋がならんでそれぞれが性欲の前の食欲を満たしている。


「さあ、『さゆう』じゃないか?」


 僕はタバコを取り出しながら彼女の問いに答えた。


 この街は歩きタバコに野暮は言わない。歩きスマホだろうが歩きオナホだろうがかなり寛容だ。


「不正解!正解は『あてら』よ」


 まくしたてる彼女を尻目に僕はアイコスを咥えて火を点けた。


 始めて彼女と会ったのは、僕が元カノと別れて間もない頃のことだ。


 その頃、僕は自信喪失から回復したばかりであった。そのことについては、あの自分が単なる道具と変わらないんじゃないかという思いと、所詮そんなもんなんだという僕の気持ち以外には、とりたてていいたくはない。


「アイコスに火を点けても無駄よ」


 彼女の言葉に僕はただ気のない返事をするだけだった。


「『あてら』ねえ…」


「それより今日はどこにする?『ステーション』?『まんじょうりょかん』?」


「『ローマ』はもう名前が変わったんだっけ?」


「さあ、それよりアイコス吸わせてくれる?」


 僕は右手に持ったアイコスを彼女に差し出した。


 それを受け取った彼女は「えーい!」とアイコスを遠くに放り投げた。そして振り返り、僕の顔をまじまじと見つめながら言った。


「どう?怒る?」


 こんな時、僕はどう返事をしていいのかいつだって迷ってしまう。怒っても許しても結局投げたアイコスは二度と戻らないのだから。だったら当たり障りのない返事でその場を済ませてしまえば楽だ。


「エッチ、するんでしょ?」


 彼女は言った。


「エッチになるほど固くなるものって知ってる?」


 僕は言った。


「なにそれ?『鉛筆』でしょ?つまんない」


 僕は今、すごく面倒くさい気持ちなのだ。


結局僕らは「ほてる・やえ」を選んだ。やえはかがみをうまくつかっているから通好みのホテルだ。


「ねえ、アイコス吸わせてよー」


 彼女がベッドに服を着たまま横たわり、駄々っ子のように言った。


「何を言ってるんだ。アイコスは君がさっき投げてしまっただろ?」


「はあ?私が?そんなことするわけないじゃない。そんなことよりさー、『スパゲッティの宿命』って知ってる?」


「『スパゲッティの宿命』だって?なんだそれ?『ピンクのブタ』みたいな話かい?」


 僕はセブンスターを取り出し、ソファーに腰かけてそれに火を点けた。


「『ピンクのブタ』?なにそれ?それより『スパゲッティの宿命』の話をしてるの!!」


 気が付いた時、すでに彼女は全裸になっていた。


「ねえ、タバコ一本ちょうだい」


 全裸の彼女が僕の前に仁王立ちして言った。


「君はなんでもかんでも投げちゃうだろ?ダメだよ」


「投げないから。一本ちょうだい」


 僕はセブンスターを一本取り出し彼女に手渡した。すると彼女は「えーい!」と手渡されたセブンスターを部屋の壁に向かって投げつけた。


「ほらあ、君は投げるじゃないか」


「あら。でも拾えば吸えるわよ」


 そう言って彼女はタバコを拾い咥えてホテルのマッチで火を点けた。


「それより『スパゲッティの宿命』の話」


 僕は当たり障りのない返事でこの場をやりすごそうとした。


「さあ、茹でて食べられるんじゃないかな」


「あなたよく分かってるじゃないの」


 僕は余計なことを言ってしまう癖がある。


「でもコンビニで誰にも食べられずに賞味期限切れで廃棄に回されるスパゲッティだってあるんだよ。誰もが立派なアルデンテになるわけでもない。それを言うなら『多くのスパゲッティの運命』の方が正しいんじゃないかな」


 吐き出すタバコの煙で輪を作りながら彼女が言った。


「あなたらしい言葉ね。じゃあ、多くの女の好きなものと嫌いなものは分かる?」


 僕はタバコの煙で輪を作れない。


「好きなものは『お金』?嫌いなものは…『きれいごと』?」


「そうねえ、百万人のきれいごとより一枚の福沢諭吉さんの方が何よりも説得力があるわね。でもそれは女に限らず男だってそうじゃないの?」


 彼女の咥えたセブンスターの根元が彼女の口紅で赤に染まっている。


「少し話を戻そうか。スパゲッティの話だ。上等なシェフに見事に料理されて客の前に出され、それを絶賛しながら食べられたスパゲッティは幸せだったんだろうかな?」


「なにそれ?私、そうめんの話をしてたんじゃなかった?」


それから僕らはしばらくそうめんの話をし、バスルームの中では「『冷やし中華始めました』の張り紙を日本で一番最初に張り出した人は今、どんな気分なんだろう」などの話をした。


 彼女との行為はとても情熱的だった。誰かに聞かれてもただ「彼女は情熱的だった」(他人に言うことは絶対ないと思う)と言うしかないぐらい情熱的だった。行為が終わって二人で天井を見上げながら僕は言った。


「よかったよ」


「あらそお」


 そう言いながら彼女はプルームテックを咥えていた。


 僕はそれを取り上げて「えーい!」と投げたかったけどそれをしなかった。寝たばこ禁止。僕はセブンスターを咥えて火を点けた。


「男っていつも抽象的ね」


「え?」


「あなたなんかに『スパゲッティの宿命』が分かるわけないじゃないの。誰にだって分かりはしないのに」


「またその話かい?」


 僕は人生で初めてタバコの煙で輪を作ることにチャレンジしていた。


「あなたは私の体験人数がどれぐらいだと思う?」


「え?ちょっと分からないな」


 彼女はプルームテックをフェラチオのように吸う。


「私は誰とでも寝る女。だから俺も、そう考えた?」


 僕はまた返事に困った。それはいろんな意味で困った。別に一言で済ませることも可能だと思った。しかしそれは彼女に対して不誠実だと思った。


「僕は面倒くさいのが嫌いなんだ」


「あなたって何て言うか…。救いようが無いって言うのかしら。こんな場合」


「いや、そういう意味じゃないんだ」


 僕の言葉を遮るように彼女が言った。


「結局さあ、『真実』はいつもひとつであって。でも『事実』はいくらでもあるし。それは『真実』は万人に同じ姿を見せるわけでもないし。すっぴんの真実は見た通りだけど、化粧でキメキメの真実は多くの人を騙すわけだし。私の体験人数なんて、まあバージンと言えばウソって分かるけど、私が『体験人数は三人』と言えば嬉しい?『体験人数は五千人』と言えば責任なんて取らなくていいやって思う?」


「難しい話だね」


 僕の悪い癖だ。


「難しい話に聞こえる?あらそうなんだ。昔ね、私、猫を飼ってたの。雨の中段ボールに入れられて泣いていた子猫を当時小学生だった私は家に連れて帰ったの。お母さんにはいろいろと言われたけれど、お父さんが家でその猫を飼うことを許してくれたのね。それからはいつもその子と遊んでばかりで。それでもすぐに逃げる子でね。私になつくまで三カ月ぐらいかかったわね。家族にはなつかなかったかなあ。ずっといつも一緒にいたなあ。学校が終わったら一目散で家に帰って。餌とかトイレの砂とかそういうのは全部お父さんが買ってくれたのね。寒い冬には毎日私の寝ている布団に潜り込んできたり、かわいくない?」


「かわいいね」


「でしょう!でもね、高校を卒業する前にその子、天国へ行っちゃったの」


「…そうなんだ。でもその子はきっと幸せだったんじゃないかなあ」


「あなたに何が分かるの?」


 彼女がものすごい形相で僕を睨みつけた。


「僕は君じゃないから確かに分からないよ。なにも。ただ、話を聞いて、そう思っただけなんだよ」


「だからあなたに何が分かるの?何一つ分かっていないじゃない。私が猫を飼っていたなんて作り話よ」


 そういって彼女は「えーい!」と僕を放り投げた。僕は一回転してベッドに背中から落ちた。そしてそんな僕を全裸で見下ろしながら彼女が言った。


「大丈夫?一体誰にこんなことされたの?」


みごとに宙を舞って背中からベッドに落ちた僕の背中に不思議と痛みはなかった。彼女がこういうキャラクターなのは百も承知なのだ。


「いや、ちょっとね。それより君の『投げ』には愛があるよね」


「まあ仮に私が何かを投げることがあっても愛を持って投げるわね」


 今日、彼女に投げられたアイコスもセブンスターもきっと痛みを感じなかったはずだ。何かの本で読んだことがある。投げるのが上手い人は最大のダメージを与える投げ方もその逆も両方使い分けることが出来ると。だから彼女の投げに僕は愛を感じた。


 それから僕らは(と言っても彼女の話を一方的に聞くことがほとんどだった)しばらく話し合った。


 彼女が昨日コンビニのレジで順番待ちをしていたら二人の若者に横入りをされたことやそれに気付いた店員も何も言わなかった話や、銀行の窓口でいくつかの税金を支払おうと支払い用紙を差し出すと「紙に合計金額を書き込んでください」と言われ、彼女が「私、暗算は出来ないので電卓があればお借りできませんか?」と尋ねると「スマホも持ってないんですか」と言われたこと。


「そういう時、君は投げないの?」


 僕は相変わらずセブンスターで煙の輪を作ろうと頑張っている。


「さあ、投げるに値しないかな」


「君はどこの銀行を使っているんだい?」


「萬田銀行」


 そう言って彼女は僕の吸いかけのセブンスターを僕の右手から奪い見事な煙の輪を作った。


 僕の股間は一番正直だ。僕の股間を見て彼女が薄笑いを浮かべながら僕の股間を撫で始めた。


「すごい回復力ね。それにさっきもすごい量だったわ。あなたって強いのね」


「いや、しばらくずっと貯めっぱなしだったからさあ」


 僕は照れながら言った。


「え?何々?禁オナってやつ?どれぐらい抜いてないの?」


 彼女は僕の股間に急に興味を持ち始め、身を乗り出して聞いてきた。


「もう二か月ぐらいかな。『夢精』って知ってる?」


「『夢精』?」


 ここから僕のくだらない話がまた始まる。


「そう、『夢精』。オナニーじゃなくて寝ている間に発射してしまうってやつなんだ。それがとても気持ちがいいらしいんだけど、僕はそれを経験したことがないんだ。それでそいつを経験したことのあるやつに聞くとこう言われたのさ。『なに?夢精をしたことがない?そいつは人生の半分を確実に損してるぜ。なんたって夢精の気持ちよさはそれを体験したことのあるやつにしか分からないぐらい気持ちのいいもんなんだ!そうだなあ、夢の中でものすごいエロいことを味わい、ものすごい快楽で目が覚めるっていうか。まあ、とにかく人生の半分の損を取り戻すには普段の発射を我慢することだ。とにかく一切股間を触らないこと。いや、別に小便をするときはいいよ。それ以外は使わないことだ。そうだな、二カ月も我慢すればそいつを味わうことが出来るんじゃあないか?』ってね」


 僕は珍しく饒舌になった。


「それじゃあ私はその邪魔をしちゃったわけね。あなたの人生の半分の幸せを阻止したってことになるわね」


 彼女はいつの間にかグローをフェラチオのように吸っていた。


「別にそういうわけじゃあないよ。またしばらく我慢すればいいだけのことだし」


「それで。あなたの『夢精』の話はまだ続くの?」


 今日の彼女はいつもより嫌味っぽい。僕は何か彼女を怒らせるようなことをしたかなあと考えながら当たり障りのないように返事をした。


「涙の数だけ強くなれるよ、アスファルトに咲く花のように」


 急に彼女が懐かしい歌を口ずさんだ。僕は女の人はみんな歌が上手いと思う。歌が上手くない女の人をこれまで見たことがない。


「この歌って残酷よね。泣かない人間はじゃあ強くなれないのっていつも思うの。『哭きの竜』は鳴くから強いの?そんなこと誰が決めたの?学校では教えてくれないこともヤフー知恵袋は教えてくれるじゃない。ねえ?そう思わない?」


 僕の股間は元気なままだった。


「こういうプレイはどう?」


 そういって彼女は全裸のまま自分の大きなバックの中身をごそごそとし始めた。僕にちょうど背中を向ける形で彼女の形のいいヒップに僕はどうしても目がいってしまい、僕の股間はますます大変なことになっている。やはり無駄なオナニーは控えた方が一回一回に価値が見いだせるものだと僕は学習した。


 彼女がベッドの上にたくさんの道具(この場合、道具とはアダルトグッズを意味する)をバラまいた。僕は彼女にされるがままにアイマスクをかぶせられ、両手を後ろに拘束され、身動きが上手く取れない状態で彼女に体を四つん這いに近い体勢にさせられた。


「だめよ。膝をちゃんとついて。背中をそらせるの。そう。どう?」


「ち、ちょっと屈辱的で恥ずかしいよ」


「あはは。丸見えでおもしろーい」


 そして携帯のカメラ特有の独特のシャッター音が聞こえた。僕は慌てて言った。


「お、おい!写真はやめろよ!」


 彼女は返事をしなかった。それから部屋のドアが閉まる音が聞こえた。僕は最初、何かの冗談かと思い軽い気持ちで言った。


「おいおい、ちょっと勘弁してくれないか。この拘束をといてくれよ」


 返事はない。と言うより、彼女の気配がない。人の気配が消えたのが常人の僕にも分かった。僕はだんだん焦りとともに拘束された後ろ手を振りほどこうとしたがそれはとても頑丈なもので僕がどう頑張っても外れそうになかった。僕はベッドにあおむけの姿勢になり無意味だと分かっていながらも口調を変えながらいろんな言葉をつぶやいたり叫んだりした。


 僕はこの後どうなるのだろう?僕はとても不安な気持ちになった。


 どれぐらいの時間が経ったのだろう。部屋のドアの音と部屋に人が入って来る気配を感じた。僕は情けないけれど自分の股間を太ももで挟んで隠すのが精いっぱいだった。彼女の声が聞こえた。


 僕はすごくほっとした。


「おいおい、頼むからこの拘束を解いてくれないか?それに今まで一体どこにいってたんだい?こんな状態でいきなりいなくなると僕はとても心配してしまうじゃないか」


「何の心配?私は駅前のローソンにスパゲッティを買いに行ってたのよ。あれ?言わなかったっけ?」


 僕はものすごく腹がたった。


こういう時、怒りの感情を見せることはかえって逆効果になることは分かっていた。それでも僕はそうするしかなかった。僕が怒れば怒るほど彼女の笑い声が聞こえた。今の僕はとても分かりやすいのだろう。僕は何とか自力でアイマスクをずらし、視界を取り戻した。彼女は全裸で手には茹でる前の状態の袋に入った、例のよくスーパーで見かけるスパゲッティを持っていた。彼女は部屋を出る時に服を着たのだろうか?それとも部屋を出るふりをして前以てスパゲッティを用意していたのだろうか?彼女は気配を消して僕の姿や振る舞いをずっと見ていたのかもしれない。


「あら、見える?それでもあなたのあそこはこんな状態でも元気ね。素晴らしいわ!!で、『スパゲッティの宿命』なんだけど。このスパゲッティはどうなるのかしらねえ?」


「それはこれからゆっくりと話し合えばいいじゃないか。それよりこの僕を拘束しているものを外してくれないか?」


 僕はなんとか冷静な口調で彼女にお願いした。


「じー、える、あーる、しー、てぃー、えふ、だぶりゅー、でぃー、えす、えぬ。これが分かれば外してあげるわ」


何かの暗号?僕には意味がさっぱり分からなかった。


「え?もしかして分からないの?うっそー!この国でこの意味が分からない男の人がいるの?うそでしょ?信じられなーい!!いい?もう一度だけ言うわよ。じー、える、あーる、しー、てぃー、えふ、だぶりゅー、でぃー、えす、えぬ。頭でイメージするの。そうすれば自然と閃くはずよ」


G、L、R、C、T、F、W、D、S、N?


「ヒントをくれないかな?まったく分からないよ」


「『スパゲッティの宿命』はあんなにすらすらと言えたくせに?そうねえー。ヒントあげてもいいけど…。ヒント一個につき一枚ずつ写真を撮るわ。それでいい?」


 彼女は僕の中途半端になっているアイマスクをもう一方の手で引きちぎるように僕の顔から取り外した。


「いや、それは勘弁してくれよ。なんの冗談なんだ」


 僕の言葉なんかお構いなしに彼女は棒のようなもので僕の両足首を順番に固定していた。いったいどうやってそんなものをバックの中に入れられたのだろうかと思うぐらい長めの棒だった。


「ほらあ、ちゃんと足を広げてよー。ちゃんと固定できないじゃないのー。協力的じゃないとせっかくあげたチャンスもなかったことにしちゃうわよ」


 僕は今ベッドの上に後ろ手に拘束され、おあむけで両足を広げた状態である。上から見れば『人』の字に見えるだろう。でも恥ずかしいけど股間がそれでも元気なままだったので『人』と言う字に『、』を付けたら何の漢字になるんだろうとか少し考えてしまった。


「えーい!」


 そう言って彼女は僕の両足を持ち上げて、僕の両足首を固定している棒を僕の首に何かひものようなもので、この窮屈で屈辱この上ない格好を嫌でもやり続けるようにした。簡単に言うとこれは『ちんぐり返し』だ。左右どちらかに倒れようとしても足首を固定している棒が結構長いので僕はそれをしなかった。今、僕は完全に拘束されている。


「『えーい!』は何かを投げる時に言うんじゃなかったのかい?君は一体何がしたいんだ?」


 僕の股間は恥ずかしいぐらいに元気だ。だから何を言っても今の僕の言葉はプレイの一環になってしまう。


「ぶつぶつうるさいわねえ。これはペナルティーの一枚ね」


 そう言って彼女はパシャリと僕の惨めな姿を撮った。


 あの彼女が持っている携帯を取り上げてデータを消去するなり、携帯を壊してしまえば済む話だ、今はとにかくこの拘束を解いてもらうために謎の暗号を解くことが最優先事項だと僕は考え、彼女にヒントをお願いした。


「じゃあ最初のヒント。実は最初はピーで始まる」


 彼女は容赦なくシャッターを切る。


「P?Gの前にPなのかい?」


「それは次のヒントをくれってこと?」


 今の状況なら何枚写真を撮られても同じだ。僕はヒントを求めた。


「あなたは晩御飯にお菓子を食べたりする?それはお菓子もお肉も一緒にしてたわ。それも『宿命』なのかなあ?」


 まったく分からない。「次のヒントを」


「ドラいくつだったかなあ?あ、三つだ!たしか三つ!これは確実!」


 ドンドン切られるシャッター。お構いなしに求めるヒント。


「スーパーカーは三台ね」


 パシャ。


「あ、お菓子とお肉は一緒にしてたけど、何故か一緒にしてない特例もあるわね。これは確実に『宿命』だと思うわ」


 パシャ。


「電車はね。乗り換えが確か…、五つ!これも絶対!でも正確には三つね。だって、あ、これは一回に出来ないわ」


 パシャ。


「あの、アイスクリーム。あの箱に一口サイズで六個入ってるアイス。ほらあ、あるじゃない!たまにハート形や星型が入ってるアイス!私は大好きなのね。でもなかったの…。ひどいと思わない?」


 パシャ。


 まったく僕には彼女の言ってることが分からなかった。それでも彼女は僕の元気な股間をしごいたり、玉を激しくすったり、肛門を激しく舐めたり刺激したりし、僕の股間からは情けない汁がだらりと垂れ下がっていた。僕はこれはこれで気持ちがいいからもう彼女の携帯をあとで奪えばいいと軽く考えてしまい、それよりも今の快楽を楽しむことの気持ちの方が大きくなってしまった。


「あなた…。ひょっとして真面目に考えてないんじゃないの?『スパゲッティの宿命』を軽く考えてるんじゃない?スパゲッティさんに聞いてみるわ。『スパゲッティさん、スパゲッティさん。あなたの宿命を聞かせてくれる?私はあなたの希望を叶えると約束する。誓うわ』」


 そう言って彼女は手に持ったスパゲッティに耳を傾けた。僕は嫌な予感を覚えた。


「スパゲッティさん、スパゲッティさん、あなたの『宿命』をあなたは知っているの?」


 耳を手に持ったスパゲッティに近付ける彼女。僕は頭の中で彼女の言葉から暗号の意味を解こうと考えこんだ。彼女はふざけているようで意味のないことを言うような人間ではないことを僕は知っていた。そういう性格なのだ。彼女の最後のヒントが僕の中で引っかかった。


(アイス?星やハート形?それは『ピノ』だ。ピノ、ピノ、ピノ…。ピノと言えば『ファミスタ』しか連想できない。『!』)


「分かった!『ファミスタ』だろ!?あの暗号は『ファミスタ』だ!!」


 彼女は興味のない目でチラッとだけいろんな意味でいろんな興奮をしている僕を見て、スパゲッティに耳を傾けている。


「え?何々?『セックスがしたい?』ですって?『人間だけが繁殖行為目的以外でセックスをしているのが羨ましかった?だから快楽目的だけのセックスがしたい』ですって?あなたは女性でしょ?え?『スパゲッティに性別はない』ですって?すごーい!」


「ファミスタだろう!初代の!G、L、R、C、T、F、W、D、S、Nはチームの並びだ!!フーズフーズはお菓子とお肉屋の球団。電車の乗り換えが五つは鉄道のチームが五つでレールウェイズは三つのチームが合併している。だから三つ。スーパーカーが三台はスーパーカートリオ。他にも食品の特例はセリーグのチームは人気があったからSとW。ドラ三はDがドラサンズだからだ。どうだ!完璧な推理だろう!」


 僕は情けない格好のまま勝ち誇ったように饒舌に答えた。そんな僕を悲しい目で彼女は見下ろしながら実に残念な顔をした。


「じゃあ最初のピーの意味はなに?」


「最初のP?それは分からないがだけど『ファミスタ』であっているだろ?さあ、この拘束を解くんだ!!」


「くだらない。それよりも『スパゲッティの宿命』の方が一億倍大事。ねえ、あなた。『ポッキーをチョコポッキー、イチゴポッキーにする方法、知ってる?」


 僕は先ほどの勝ち誇った気分を一気に失い、ものすごい不安な気持ちになった。


この国で「ポッキー」を「チョコポッキー」「イチゴポッキー」にする方法を知らない人を探す方が難しい。


「一人前は一リットルの沸騰したお湯の中に入れ、七分間ゆでること。それからざるにとり、決して水で冷やしたりしないこと」


 彼女はそう言って、スパゲッティ一人前の束の中から一本のスパゲッティを取り出し、先端を口に咥えた。それは『必殺仕事人』で針を刺す人の姿に似ていた。同じようなシーンで志村けんがメジャーを咥えてそれを再現していて、大笑いしたのを思い出した。なんでこんな時ってどうでもいいことを思い出したりしちゃうんだろう。それから僕の肛門に痛みを感じた。


「『スパゲッティさん、これで願いがかなったかしら?』」


 今、僕の肛門にはスパゲッティが一本刺さっている。痛みと言っても説明するとそれは注射の針を刺す時に似ていて、一瞬痛みを感じた後はなんか不思議な感覚を覚えるだけだった。彼女は楽しそうにスパゲッティを持った手を上下にリズムよく動かしている。


「あ」


 スパゲッティがポキッと言う音とともに折れた。彼女の思わず口にした言葉と音で僕はそれをすぐに理解した。彼女はしばらく固まり、気を取り直したように、何事もなかったかのように新しいスパゲッティを束から取り出した。彼女の手には数本のスパゲッティ。彼女はまたそれの先端を口に咥え、そして僕が何かを考える前にそれを僕の肛門に刺し、今度は明らかに意図的にそれを折った。


「あ」


 わざとらしい彼女の言葉。そしてそれは繰り返された。僕は彼女が言った「P」の意味を考えていた。もうそうすることが一番楽なんじゃあないかと僕は思ったからだ。


結局、彼女の手にあった一人前のスパゲッティは全て僕の肛門の中で折られてしまった。僕のお尻の穴の中には今スパゲッティが詰まっている。楽しいイベントが終わった時のあの独特の寂しい気持ちを表現するような顔で彼女は僕の拘束を解いた。


「僕のアナル処女はスパゲッティに奪われたってことかな」


 彼女は僕のこういうところがイラつくのだろう。


「なんなの?いつだって失うのは女だけだとでも思ってるの?はあ、あなたは結局私の中では五番目に最低な男ね。そうね、やっぱり五番目ね。別にがっかりすることじゃないから」


 五番目に最低な男と言われても彼女に対しての参加選手の総数を僕は知らないからその言葉だけでは僕は何も分からない。洋服を着ながら彼女は続けた。


「ピーはね。86年から88年まではそうだったってこと。89年からじゃない?正式に略されたのは」


 僕はスマホを取り出して曖昧な記憶をたどろうとせずにそれに頼り、全ての意味を理解した。そして同時にスマホで彼女の撮った写真のデータを消去しなければと思い、彼女の携帯を奪った。彼女はそれに対して何も抵抗しなかった。彼女のスマホは指紋認証だとかキーロックだとかそういったセキュリティーなど一切していなかった。初めて見る機種でもなんとなくどれが写真のフォルダーなのかは僕でも分かる。僕は彼女の携帯の画像フォルダーを開けて驚いた。


「あなたは一体何がしたいの?」


 僕は彼女に恥ずかしい写真を撮られたとばかり思っていた。彼女の携帯の画像フォルダーには何か一線を越えているんじゃないかと思われるような風に見える彼女の表情がアップで写った写真ばかりだった。写真の日時を確認して僕は、彼女は僕の恥ずかしい姿を撮っていたわけじゃなく、セルフモードで自分を撮っていたのだ。


「これは…」


「『スパゲッティの宿命』がそんなに簡単なものでないことは分かった?まあ、消化されてあなたのお尻から出てくると思うけど。私は医者じゃあないし、医学的な根拠なんて全く知らないし、興味もないしね。どうする?その今、あなたのお尻の中にあるスパゲッティを茹でて食べるっていうのなら私はまたあなたに会いたいと思うかなあ」


 彼女は全ての身支度を済ませ、何も答えられないまま黙っている僕を置いて部屋を出て行った。結局彼女の最後の言葉はものごとの核心をついていたと僕は今でも思う。


僕は一人でホテルを出た。


 駅前のパチンコ屋で一円パチンコをしばらく打って、結局時間だけが無駄に過ぎてしまい。僕はただお尻に違和感を感じながら打ち出される玉をぼんやりと見ているだけで。派手な液晶の演出にも大当たりして出てくる玉にもさっぱり興味がもてなく。結局千円で二時間ほどぼんやりとした時間を購入したのと同じであって。


 それから喫茶店でスパゲッティを注文した。店にはFMが流れていて、聞いたことがある曲が流れてきた。小沢健二の『アルペジオ』と言う曲だ。


「しばし君は『消費する僕』と『消費される僕』をからかう」


 その歌詞は結局形のないものを歌ったものであり、少し頭のいい同級生が気取った言い回しをしているようにも聞こえ、昔、村上春樹の小説を読んだ時に意味がさっぱり理解できなかった時に似た気持ちになった。「ハルキスト」の言葉に僕はいつだって嫌悪感を覚える。本当にそんな人たちは村上春樹の小説の意味を理解しているのか?と。あんな哲学書のような小説を全ての「ハルキスト」が全てを理解して称賛しているのか?ただ単純にそう言っておけば自分が頭がいいとアピールしてるだけなんじゃあないか?と。僕はそういう自分の意地悪な部分にすごく敏感になる。そしてそういう部分を決して人には見せないようにしていることも知っている。


 注文したスパゲッティはまだテーブルには運ばれてこない。僕はトイレに行きたくなった。狭い店には他に二組のお客さんがいた。僕は店員さんにお手洗いの場所を聞き、他のお客さんに不快感を与えないよう一分以内にトイレを済ませようとした。中に入ると和式便器。急いでズボンをおろししゃがみ込み、踏ん張る。そしてすぐに水を流そうとレバーに手を掛けようとしたとき、たくさんのスパゲッティらしきふにゃふにゃになった茶色に混じった糸状のものを見て僕は固まった。すぐに流さないと匂いが充満してしまうだとか、急いでトイレから出ないと他のお客さんやお店の人に僕が大便をしていたのがバレて不快感を与えてしまうだとか。そういういつもなら優先的に考えることを僕は全て忘れ固まった。じっとそのスパゲッティらしき茶色に染まった糸状のものを見つめていた。僕は涙を流していた。これを流してしまえばもう二度と彼女と会うこともないだろう。もしかしたらこれを食べてしまえば僕は胸を張ってもう一度彼女と会うことが出来るかもしれない。僕は涙をボロボロとこぼしながら便器のレバーを引いた。レバーを引く時彼女の「えーい!」という声が聞こえた気がした。全てきれいに水に流されてしまった。紙で肛門を拭き、もう一度水を流してから僕はトイレから出た。案の定、他のお客さんはちらっとだけど不快な目で僕を見た。テーブルに戻ると僕の注文したスパゲッティと伝票が置かれていた。


 結局、「運命」だとか「宿命」だとか人はそれを「さだめ」と時に読んだりもするけれど、それらは全て後出しじゃんけんのようなものだと僕は思った。形のないものを美化したりすることは後からいくらでもなかったことにすることが出来るじゃあないか。僕が喫茶店のトイレで流した涙なんて僕以外誰も知らないことだし、それをいくら人に分かってもらおうと説明しようとしてもそれはとても愚かなことであり。


 だから僕はいつだって心で笑っていても悲しいふりをする。そうすることが一番楽だからだ。


 2月の終わり、また東京に雪が降った。この冬は本当に、雪に人は困らされた。都会とはそういうものだ。


 明日から3月が始まる。別れの季節と言われる3月。そんなこと、僕には全く関係ない。天邪鬼な僕はいつだって悲しいふりをする。それでもあの喫茶店のトイレで流した涙は本当の涙だと思う。僕は何事もなかったかのように駅を目指して降り始めた雪の中を歩き始めた。

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