かしわ、まつ

ゆきさめ

かしわ、まつ

 文人が一人、ここにいる。

 明かり障子を引いて佇む彼女か彼か、その文人はしかし無名であった。この先のことは分からない。今はしっかりと、あくまでもひっそりと、ぼんぼりの元で息を吐く。

 じきに時が来る。

 それまでにしなくてはならないことがあった。己の最大を持って、しなくてはならないことがあった。

 万年筆に代わって筆を手に取り、水墨を垂らす。白い紙に薄墨の色が滲む……――。



■     ■



 広い庭だ。

 松が一本だけの庭だ。

 立派なその松は己の腕を大きく広げ、すっくと立っている。青青とした空、雲ひとつない晴天の空に千歳緑の腕を杳杳と広げて立っている。

 庭には女がいた。

 女が一人だけ、たった一本の松の木の傍らに女がしゃがんでいた。

 女は柔らかな茶褐色の羽根飾りを抱き締めるように己の身を抱え、ずいぶん育ったようであるというのにふらふらとするのであった。雛ではあるまいに、その歩みはどこかたどたどしい。

 両腕をぴたりと身体に付け、広げる事を恐れるかのように女は庭の中をぐるぐると歩き続けているのだった。

 彼女の幼少の頃に遡るが、女はそれはそれは鮮やかな山吹の着物の袖を広げて跳ね回ったものであった。どこまでも続くかに思える広い庭を全てと思い、囲われた世界の中でどこまでだって行けるものと信じて疑いやしなかった。まだ小さな袖口、それをふわふわとさせては、細い足で地を蹴っては跳ねる。跳ねては喜び、己と世界の広大さを手放しに喜んでいた。

 もちろん、赤ん坊は育つ。子どもは大きくなる。成長するのだ。

 そして山吹から落ち着いた茶の色に着替えた女は、庭が囲われたものだと知った。その時女は全てが絶たれたかのように錯覚しただろう。絶望しただろう。己の存在が、世界がいかに矮小であったかと嘆いた事だろう。幼少の頃より同じくして育ってきた松の木に寄り添い、嘆いたことだろう。

 松の木には神が降り立つということを知るのは、これよりもずっと後の事だが、女はとにかく松に縋っていた。

 そして歩く事さえもままならない、幼いままの心を、どこかのこしたままで今に至る女は、もう跳ね回りはしない。

 己の両腕は広がらない。

 空を切る事は出来ない。

 そう悟ったからであった。その面で言えば女は聡明であったかもしれない。いいや、女は聡明であるのだ、誰よりも聡明であるのだ。

 だからこそ、無力で矮小な己を許す事も出来なかったのかも知れない。女の両腕は、もう羽ばたかない。女の心もまた、同じように羽ばたく事を忘れる。

 さて空は遠くまで広がる晴天、雲ひとつ見当たらないそこを見上げ、女は鳴く。


「遠いわ」


 そして視線を流し、松の頂点へ移動させる。丸い瞳が捕らえる松のその頂点。青を突く青の色。

 神が天降るのを女は、いまだに待っている。この広々とした庭を出るために、女は神を待っているのだ。

 そのための松なのだと、女は見当をつけていた。神が降り立つ庭だからこそ、このような立派な松があるのだ。そう考えれば納得も容易であったらしい。聡明な女にしては愚かしい考えではあるものの、己の可能性への諦念を決め込んだお陰といえよう。聡明ゆえに諦念を選んでしまったといえよう。

 ゆえに女は神の降り立つだろう松に寄り添い、そっとさえずるのである。


「遠いわ」


 神も空も外も遠い。何もかもが遠い。

 女はまたしゃがみ込む。たっぷりとした大きな袖は、柔らかく女を包みこんでいた。


「遠いわ」


 女は松の傍、広い庭の中央にしゃがみ込む。どれほどそうしているのか、いつからそうしているのか、女は知らない。あるいは知ろうとしていないか、すでに忘れてしまったか。

 なんにせよ、女は己がここにいる意味とここにとどまっている意味とを分かっていなかった。理解していないのは、恐らくここが囲われた庭であるからといえる。

 しかしながら、繰り返しになるもののこの女はひどく賢い。

 いくら雛のようにうずくまり、親から与えられる餌を待つように神の降臨を待っていようとも、本質は賢くあるのだ。

 庭を一歩出ればそこは外であるが、その外では三歩歩けばなんとやらと揶揄にさえ使われる女……実際はまるで逆であった。三歩歩くうちに女は理解し、意志を見出し、それでもって己を動かすだろう。

 また、その賢さゆえに己を割かんと狙うものに、やすやすとその身を捧げたりはしない。たとえ牛刀を用いようとも女はそれをかいくぐり、そして少し離れたところから馬鹿にするんじゃあないと大根を名刀正宗などで切ってみせるだろう。

 賢いのだ。

 ただ気付いていないだけなのだ。

 なかなかに気付けないからこそ、女はここで己の茶褐色の羽毛に埋もれるようにして瞑目し、そして神の施しを待っているのだった。

 果たして外からそれを見た時、あるいは神がそれを目にした時、哀れむだろうか。前者は哀れみを覚えるかもしれない、それは愚かさゆえである。後者は愚かであってはならない、ゆえに神は女を哀れまない。ただひたと見据え、そして見つめ続けるだろうと思われる。

 そう、だから神はたとえ存在しようとも松に降り立ちはしないのだ。


「遠いわ」


 女は待ち焦がれる。

 しかし神はきやしない。

 全てが遠く、女の手では届かない。

 伸ばす事さえ恐れている女の手では、そしてそれを追いかけていた幼少を忌避するようになった女の足では、最早無謀といえた。


 唯一四季を感じられる空の色を眺めつつ、春、女はその前の春と同じく、眠たさに目を細めて天を仰ぐ。

 朝日が昇るのと同じくして目覚めた女は、男のように高々と声をあげることはしないものの、しっかりと目を開けて松を見上げる。

 太い幹を中心にしてぐるりと周り、今日もまた昨日であると確認できるとすとんと腰を下ろす。続いて空を見上げ、千歳緑の合間から桜色さえ滲ませる、ぼんやりとした天色を確認する。

 春眠暁を覚えずか、女は眠たげに一つ息を吐き、嗚呼今日も神はこられないのだわとばかりに首を振るのである。

 囲われた庭、その中にいつまでいればよいのか。どれほどの春を過ごしたか。

 幼少の頃こそ、移ろいゆく空の色に胸をときめかせていたが、そんな気持ちはとうに失せていた。女にあるのは神への期待と、その他への諦念のみであった。

 女の賢さは、己の無力さを認めない。


「瑞夢もないか」


 春は一段と眠く、女の眠りは長くなる。そして夢を見る。女は長く夢を見るのだ。

 柔らかな茶の着物の、広い袖を畳みこみ、そこへ頭を押し付けてそっと目を閉じた。

 女は庭から動かない。松の傍らから、じっと動かないでいるのである。温い暖かさに身を任せ、うらうらとした陽の行く先さえも眺めることはない。

 移ろう空の色は一層濃さを増す。

 夏、女はその前の夏と同じく、眩しさに目を細めて天を仰ぐ。

 蒸す夏の寝苦しさに朝早くに目覚める女は、やはり静かに松を見上げる。

 じっとりと汗ばむ身体を振り、細い足でゆらゆらと松の周りを一周。今日もまた昨日と同じであることに絶望し、あるいは安堵する。そして空を見上げ、千歳緑の合間から覗く、雲ひとつなくはっきりとした青色を見る。

 夏歌うものは冬泣くというが、女には関係などなかった。ただ静静と息を吐いては、今日もまた神はいらっしゃらないのだわ、と呟きを零すのである。

 過ごし難い夏を幾度繰り返しただろうか。


「瑞雲もないか」


 夏の入道雲などよく言ったものだ。この庭にそんなものは無縁であり、つまり女にも無縁である。

 女は暑さに両手を地に付け、這うようにして松に寄り添う。松の両腕は広い影さえも作るほどに大きく、女はその木陰でうつらうつらとするのであった。

 眩しい日差しから目を逸らし、爽やかな風の吹き行く先さえも追う事はない。

 光陰矢のごとしとはよく言ったもので、秋、女は前の秋と同じように香り立つ色に目を細めて天を仰ぐ。

 緩くなった日の光は、しかし朝日となればやはりどこか刺すように眩しいときもある。目蓋の裏を突くような朝日に、早々と目覚めた女は黙したまま松を見上げる。

 影の濃い土を踏み踏み、あくまでもふらりとした足取りで松をぐるりとして、周囲を確認すれば今日はやはり昨日であるのだと安堵した。千歳緑の合間からは、茜へと変じるはずの縹色が広がる。

 秋の扇とばかりに、女は神に見捨てられたのだと打ちひしがれる。さめざめと、声を上げずに涙を飲み込むのである。

 秋雨の暖かさが救いとばかりに、松の合間から滴る雨に己の着物を濡らしたまま目を伏せる。最早希望もないとばかりに、しかし女は松に縋っている。


「瑞星もないか」


 日の沈むのも早くなって、従って月が出るのも早くなった。茜からあっという間に紺青へと変じた空には、月だけがぽっかりと浮いていた。

 月の明るさに影も濃くなり、冷えてきた風に首周りの跳ね飾りを立てる。顔を埋めて身を抱え込んで小さくなった。松に寄り添うことで冷たい風をしのぎ、そしてまた松に守られているかのような安堵感を得るのであった。

 色づく空と濃くなっていく夜とに目を伏せて、長い夜をも知らぬ振りをする。

 ずいぶんと冷え込む朝に、かじかんだ足の先を暖めるかのように足踏みをする冬、女は己の羽毛の着物に感謝しつつ目を細めては天を仰ぐ。

 最早色だけとなった日の光と、切るような冷たさに震える女は声もなく松を見上げるしかない。

 震えを誤魔化したいのか、弱々しい足取りを誤魔化したいのか、なんにせよ背をしゃんとさせて立派な松の幹に沿ってぐるりと回る。今日も、そう、今日もまた昨日である、昨日となんら変わりないのであると知る。そしてその変化のなさに安堵する自分に失望する。空を見上げれば瑞々しい千歳緑の腕、その合間から見えるのはしんと張り詰めたような白緑の色。

 冬来たりなば春遠からじ、しかし女は毎度のことであるがそんな考えにも至らない。神はいまだに現れず、僥倖の兆しさえもなく、女は憔悴する。

 冷え切った空気を吸い込み、肺まで凍るかと錯覚するほどに憔悴する。


「瑞光も、ないか」


 冬の凛とした日差しでさえも、雲間から差し込む瑞光には叶わない。神はいない。女はしかしそれを信じ続けていた。

 女は松を見上げ、その頂に降り立つだろう幻影を見るかのように幹に縋る。松はただ女よりも静かに、女の身体を支えるだけだった。

 白く染まる空に怯え、しかし何もない松の頂点にどこか安心する。


「……ああ」


 女もまた、空のように移ろう。

 神の姿がないことに、今日と同じであることに安堵していたのだと、女自身、はたと気付いたのだった。四季の終わり、春の足音さえ聞こえるような気温の変化と共に。

 瑞兆こそないものの、女は賢いのだ、気付くのは容易い。ただあまりに近くにあって、あるいは己の事であって、気付きたくない思いのままに目を逸らせていたのである。

 春のぼんやりした空にも、夏のはっきりした空にも、秋の淡い空にも、冬のひやりとした空にも、女の見上げる先には千歳緑が広がっていた。

不変であることに安堵していた。いつしか女は神がこない事に安堵し、この狭い世界から出られないことに安心し切っていた。外は一度として見たことのない場所である、賢い女とはいえ、遠いそこへ身を投じるのはさぞ恐ろしい事であろう。


「瑞兆は、ない」


 女は囁く。

 松に寄り添い、ひたりひたりとその幹を撫でながら囁く。


「……。知っていたわ」


 女は知っていた。

 ここは囲われた庭であること。神は降り立たない事。この翼は空を掻だけである事。

 それを確認できたのは、己を見据えたからといえるだろうか。己の移ろう心を、静まり返った庭の中央、絶対の存在であった松に見守られながら見据えたから……。

 松はそのために両腕を広げ続けていたのだろうか、などと女は無邪気に首を傾げてみせた。その弱くほっそりした足に力を込め、ぐっと立ち上がるのは雛の頃のよう。

 まだ冷えた空気の中、それを肺一杯に吸い込めば、冷たさに頭が冴えたらしい。

 賢い女は踏み出す。


「……瑞鳥と思い腕を広げても」


 そっと広げるのは、落ち着いた茶の着物。そのたっぷりとした羽毛。翼である。

 ば、と音を立てて、冷たい風を切る。


「松は優しく微笑んでくれるかしら」


 両腕で抱え込むのは冷たい空気、そして千歳緑の鮮やかさ。

 神が降り立つはずであった松の頂に、細い両足をぴたりと合わせて女は立つ。高々と青に突きたったような松の先、どこまでも優しい女の姿がしゃんと立つ。

 明鏡止水、女は庭の外を見下ろす。

 松よりも低いが立ち並ぶ緑の木々はなんであろうか。柏か、と女は見当を付けた。庭の外の世界はまだ見ぬ世界であるが、女はどこか安心しきっていた。

 なぜなら今日は、すでにもう昨日であるからだ。

 よい意味で捕らえなおしたらしい女は、昨日の続きである今日であるならば、己もまた昨日まで全てを抱えて今日を続けるのだと考えるらしい。

 進まぬはずの歩みは進められる。


「ああ、遠いわ」


 広げた両腕は空に届きやしない。当然である。それに女は微笑み、眼窩の松を見てさらにその微笑みを深める。

 幼少の頃のようにここは広く、どこまでも行けるものと、女は「遠いわ」と繰り返すのである。その口元は硬く引き結ばれていた頃とは違う、静静と綻んでいた。

 女は庭を出た。

 春である。

 空を遠く、柏の木々の合間を縫って、松を背にして遠く遠く。

 その翼が、見えるか。



■     ■



 文人の筆先は、薄墨の色に染められた白から離されていた。伏せられた筆先を眺め、一息を吐く。

 松と柏。

 そしてその根元には一羽のかしわが、立派な両腕を広げ空を仰いでいる。


「せんせい、わたくしは悲しくあります」


 そっと呟きかける相手は、恐らく仕度を終えただろう己の師。じきに師はこの部屋へやってくるだろう、ここを発つ、最後の挨拶にこの部屋へやってくることだろう。


「せんせい。しかし、しかしわたくしは、せんせいをお慕いしておりますゆえに、この謎語画題をせんせいにお贈りするのであります」


 わたくしどもは元気であります。

 ですからどうかせんせいに、幸多きことを。


 送別であります。



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かしわ、まつ ゆきさめ @nemune6

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