ニューラルの先に::4.3 容疑者A

 結局その日、男が目覚めることはなかった。ハイタカと仮想マンションの状況を改めて聞いていたところで医師がやってきて、極度の栄養失調なのでしばらくは入院が必要といった旨を口にした。佳世と話をしてからずっと手に持っていたスマートフォンからは、



「夫は、夫の命は」



と必死の大音声が飛びだして、少しびっくりした様子をしてから、



「詳しい検査を明日行いますので、今は何とも言えません。とは言え、栄養剤の投与も行っていますから、じきに回復できるでしょう。現段階で診断できるところを確認しましたが、免疫力は落ちているものの、異常は見られませんでしたので」



と画面に身を乗り出して説明をしてくれた。



 佳世は夫のもとにいたいと訴えたものの、面会時間はとっくのとうに過ぎていた。確かにやせ細った患者につながる機械をハックして忍び込めば近くにいられることはできようが、ハイタカに止められた。やんわりと。



 富田たち一行はそれぞれの家に帰るわけでもなく、だからといって富田堂に戻ってサーバールームにこもるわけでもなかった。病院を出ればバンが待ち構えていた。のみならず、『部下』らしきスーツが三人ほど、それを背にして立っていた。



 状況を察するには十分すぎた。手がかりの主張が激しかった。これからあの超絶に高級なハイタカの拠点に連れて行かれるのだろう。



 見たことのあるインターチェンジ。それ以外の光景はよく分かっていないが、何となく、それらの光景もかつて目にしたような気がした。しかしどうしたことだろう、セダンの時の快適さは全くなくて、むしろ居心地が悪かった。間違いなくハイタカ以外の人間、いや人間のように見えるもの、のせいだった。



 富田の横に一人、背後に二人が腰掛けているが、マネキンか何かのように動かないのだ。喋ることをしたってよいのに、それすらなかった。マネキンという表現は中々に的を得ている。ちらりと目をやってみれば、皆が皆、寸分変わらぬ姿勢を保っているのだった。



 富田堂で店員を装っている部下とも異なる雰囲気。何となく、彼らもハイタカと同じ存在なのかも知れないと感じていた。だからといって問いかけて明らかにしようとする気持ちはなかった。周りからほんのりと感じる居心地の悪さに加えて、頭の中で姿を現したり消えたりする狂気の沙汰が富田から言葉を奪っていた。



 ぼんやりと外を眺めていたら高速道路を下りた。周りに何もない、ただただ広い道路を進むこと数分。森の中を通る細い道をしばらく進むと、見たことのある地下駐車場にたどり着いた。



 エレベータを下りたら変わらずの重厚なソファがあったが、ハイタカ一行が富田を連れてゆくのはその先だった。飴色の木材調で覆われたやらかい空間とは一線を画す、鉄筋の壁にかがまなければ入れないほど小さい金属の扉。いかにもな革製本が並んだ本棚の隠れるような場所で、エレベータからは見えないよう意図しているのは素人でも分かった。



 一切のためらいなく扉をくぐるハイタカ達について行く形で中に入れば、まるで別の建物に立ち入ったかのようだった。高級そうな雰囲気はなくて、地味な通路が続くだけ。左側に扉が二つ、人が立って使えるうぐらいの大きさだった。



 どこを見ても意匠を凝らした雰囲気を感じなかった。



 どこにもでありそうなアパートの扉に見られる、丸いノブを開ければ、ざっと六畳ぐらいの大きさの部屋で、中央にはデスクと向かい合わせのパイプ椅子、部屋の片隅では床に置かれたサーバのアクセスランプが光っていた。天井を見上げれば監視カメラ。



 刑事ドラマで見たことがある光景だった。



 部屋に入ったのはハイタカと富田だけだった。アンドロイドは誰一人入ってきていなくて、もしかして富田も入るべきではなかったと思ってドアに手をかければ、



「洋くんはいてくれていいのですよ。部下は別件があるので入ってきていないだけです」



「これから何をするのですか」



「いやなに、簡単な取り調べですよ。掴みかけた尻尾です、絞り出せるだけ絞り出しますよ」



「余計に自分がいる意味がないように思えますが」



「あまりいい気分になる役割ではないけれど、大事な役割がありますから。申し訳ないけれど一緒にお願いします。次回の更新料に積んでおきますから」



というマイペースな調子。



 積まれると言われても、ハイタカのクラスマンションは崩壊しているし、立て直しの見通しだって立っていないのに何を言っているのか。ハイタカのモヤを掴むような言葉がその時の富田には毒だった。



「いや、その、何をすればよいのですか。役割だなんて、自分はただの一般人です」



「ただただ座ってもらっていただければ、それで十分です。ささ、こちらにお願いします」



 おもむろに椅子を引いて富田を誘った。デスクに向いていた椅子を少し富田の方を向くようずらしている気遣いが、何だろう、嫌な予感しかしなかった。



「えっと、何をするのですか」



 座る前に聞かなければならない気がした。



「まま、座ってくださいね」



 ハイタカはそれだけ口にして今度はサーバーの前にしゃがんだ。かと思えば振り返りながら立ち上がり、手にしているのは両手いっぱいのモニターだった。既に電源が入っていたモニターに表示されているのは、まさにここ、富田が立ち尽くしている部屋だった。



 だが監視カメラで部屋を撮っているわけではなかった。モニタの向こう側の世界、仮想空間にあつらえらえた取調室だった。部屋を映しているだけのモニターにどんな意味があるのだろうとモニター越しの世界を見ていたら、突然、現れた。言葉通り中空に現れて、そのまま床に自然落下してゆく。肉肉しい鈍い音と一緒にうめき声がした。



 こちら側を背にしてデスクを這い上がってくる姿はホラーだった。落ちた衝撃からか、振り乱れた長髪が禍々しかった。そう思うとモニターの中にいるそれの一挙手一投足がおぞましいものに感じてしまった。デスクに手を伸ばす所作も、手を着いて立ち上がる時の腕の力加減や脚の動きも。何でもないはずなのに、見ていたくないと思わせるものがあった。



「何なのよ、もう」



 誰に向けるでもなく放たれた言葉が仮想空間を飛び交った。



 モニター備え付けのスピーカーから声が発せられた。



 その声が富田を襲った。



 女の声が傷つけてゆく。耳を、頭を、心を。



 人間性を失った部屋で活動していた、壊れた人工知能の声。



 害悪しかもたらさない声に気づいて、富田は逃げ出すことしか考えられなかった。本能的な恐怖として体が受け入れようとしていないのである。逃げなければ、逃げなければ、人間としてどうかしてしまう、壊れてしまう。



 しかし飛び上がろうとした瞬間、ハイタカが両肩を押さえて立ち上がれないようにしたのだ。想像の及ばない事態に富田は半ばパニックのようになって、



「何で押さえるのですか離してください」



と強い剣幕でハイタカを責めたが、すっと耳元に顔を寄せると、



「一分だけ、一分だけ耐えてください。すみませんが」



とささやきかけるではないか。



 目の前の存在と耳元の声に鳥肌が駆け巡った。怖いのと気持ち悪いのと状況が意味不明なのと、とにかく嫌な感覚をひたすら煮詰めたような濃縮したようなおぞましさが体を支配した。



 当然ハイタカの言葉に従うはずもなく。



「いや、やめてください、手を離してください」



「なりません、ただここに座っているだけでいいです。目をつぶっていてもいいですから、耳栓をしてもいいですから」



「そういう話じゃありません、嫌なことは嫌です、もうやめてください」



「辛抱してください、ここを乗り越えられれば十分なので」



 モニターから見えないように耳栓を出してくるが、求めているものはそんなことではない。この場所から逃げ出したかった。この場から立ち去って、富田堂のソファで横になっていたかった。それから、マンションのことを考えていたかった。



 しかし富田の考えを一瞬で粉々にしてしまうのが異形の人工知能だった。



「ここはどこなの、私の場所じゃない! あんたはとしくんじゃない、わたしのとしくんをどこに連れて行った!」



 佳世が液晶を突き破らんと迫ってきた。心臓を鷲掴みにされたようになった。のみならず、肺も握りつぶされたかのようになって息ができなくなった。



 怖い、逃げたい、遠ざけたい。



 だのに体は一切動かない。いつしかハイタカは富田の横にいて、つまりは黒人サイボーグが体重をかけて押さえ込んでいるわけでなかった。腕に力を入れたいのに、足に力を入れたいのに、体がそれを受け入れるてくれなかった。



「どこ、どこにやった、お前か、お前はとしくんの後ろにいたやつだなお前誰だとしくんをどこにやった」



 それの言葉が再び富田を粉砕する。



「どこにやった早く返せわたしのとしくんを返せどうなるな分かっているのだろうなお前のことなんてわたしが思ったとおりのことにするなんて簡単なことなんだよだからとっととわたしのとしくんを私のところに連れてきなさいよわたしのいとしいとしくんに早く会いたいよ早く今すぐにとっととつれてこいあんたのことだって壊してやれるのだから早く連れてこいよすぐに連れてきてよああとしくん会いたいよとしくんとしくん」



 モニターにかぶりついて迫ってくる姿が見ていられなくて目をつぶって目をそらした。相変わらずその場から逃げ出すことはできない。ハイタカに文句を言っていた頃はどこにやら、この状況を作り出した本人を避難する余裕なんてなかった。



 佳世の顔をした異形は間髪を容れずにまくし立ててくる。耳が壊れてしまいそうな気さえして、さり気なく渡そうとしてくれた耳栓が恋しかった。息をすることなくひたすらとしくんを求める声が頭に響いた。繰り返し声が耳に入っていくと、いつしか瞼の裏にモニターの姿が像を結んで、その中にAIが現れた。



 耳に入る声に合わせて、おぼろげに結ばれた像が喋る。



 喋る喋る。



 言葉にするにも忌まわしい言葉が出るわ出るわ。耳を引きちぎって投げ捨てたくなるような言葉があふれ出てきて、それでいて否応がなしに聞こえてくる。言葉の呪いが体を侵食してきて気持ち悪さがこみ上げてきた。



 言葉。言葉。恐ろしいそれ。



 体の限界ゲージが頂点に迫ってゆく。



 ところが急に声が聞こえなくなった。



 人工知能でも息が続かなくなって言葉を途絶えさせているのかと奇妙な想像をしていたら、いくら待っても音が発せられない。恐怖心の中に戸惑いが主張を始めていた。何が起きているのだろうか、耳からは何もなくて、目を開けるにも怖くて仕方がなかった。



「何が、何が起きている?」



 どこに向けるもなく喚いてみれば、しかし反応がなくて、



「おい、どういうことだよ」



と更に喚き散らせば肩を触る感覚があった。



「終わりました。ひどいことに突き合わせてしまい申し訳ありませんでした」



 ハイタカの声に安心したんだか苛立ったのだか分からなくなって、目を開けるなりハイタカに迫って胸ぐらをつかんで睨みつけた。対する黒スーツは全く動じることなく富田と相対した。ただ、申し訳無さそうにはにかんでいた。



「あちらを見てください。ひとまずは安心してください」



 ハイタカが指差す方向はモニターなのは明らかだった。しかし見た先にあるモニターは目をつぶる前とはまるで違っていた。



 バッドで液晶を何度も打ち付けたように割れてしまっていた。

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ニューラルの先に 衣谷一 @ITANIhajime

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