9. 連絡

「ぅおえ、げほっ」

「おーおー、派手に吐くなぁ」

「しんどっ……ごほっ、う、うぇえ」


 マコトが作業部屋の隅でゴミ箱を抱えて背中を丸めていた。顔色は最悪で、口の端からは涎が零れ落ちている。嘔吐く背中を、タイガは苦笑しながらさすっていた。


 何の事は無い、ただの3D酔いだ。


「無理するからそうなるんだろ」

「だって終わらないし……」

「作業の手が止まっちゃ意味ないって」

「おぇっ……これ収まったら戻るから……」

「真面目だなほんと」


 生理的な涙を浮かべて、マコトが顔を曇らせた。押し寄せてきた吐き気の波が大人しくなったのか、袖口で浮いた涙を拭う。


「どうせ接続先増やしてそんなになったんだろ。何本にした?」

「三本……」

「はぁ、お前ほんと凄いよ」


 吐き気を催した時に投げ捨てられたマコトのゴーグルを見やって、タイガはため息を吐いた。


「じゃ、俺は作業に戻るから治ったらまた来いよ」


 タイガの一言に、マコトは力なく手をひらひらと振って応えた。

 無理をした自覚はあるが、これで作業効率は大幅に上がっている。課された仕事の半分は終わったし、あとは体調が戻り次第何とかなる計算だ。


「これ終わったら休息申請通らないかな……無理か、この前使ったし……」


 マコトは呻き声の隙間から独り言を呟いた。出すものはないのに、まだ胃の中に不快感が渦を巻いている。映像酔いに強い自負はあったので、ここまで酷い症状が出るとは思っていなかった。


 水でも飲めば少しはましになるかもしれない。そう思った彼女は震える足を叱咤して、何とか設置されたウォーターサーバーにたどり着いた。使い捨てのカップを引き出し、冷水を注いで舐めるように口に含む。少量だが、幾分か気分がマシになったような気がした。


「三分割はやりすぎた……今度は半分にしとこ……」


 ウォーターサーバーの横にぺたりと座り込んで、マコトは先程拾い上げたゴーグルを装備する。「Sleeping…」と表示されているのを確かめてから、僅かにまだ震えている声で再起動を指示する。


「作業再開」

「お待ちしておりました。再開いたします」


 次の瞬間、マコトの視界いっぱいに広がったのは三分割された作業風景だ。またこみ上げてくる吐き気を、歯を食いしばることで耐える。


「ごめん、接続先二つに絞って……」

「確認いたします……かしこまりました。優先順に整列ソートしたポイントの内、上位二点を表示いたします」


 アナウンスが終わると同時に、操作できる画面が半分で区切られた。これなら映像酔いもある程度は緩和できる。


「配色をNormal多色からCalmモノクロに変更」

「確認いたします……かしこまりました。配色の変更を適応します」

「最初からこっちの配色にしておけばよかった……」




 結局、マコトはさらに二回ほど吐いて予定していた作業を終えた。


「お疲れ、マコト」

「お疲れさん、俺たち先帰るからなー」


 次々と部屋を出て行く仲間を見送りながら、マコトは壁に背を預けてぐったりと脱力していた。疲労感で、とてもじゃないが歩けない。もう少し回復したら、と端末の時間を確認すれば、時刻はもう深夜だった。


 居住エリアに戻って、軽く睡眠を取って、配給された食料を食べて、あぁ、その前にシャワーを浴びなければ。


 疲れた頭に、ぼやけた思考がぐるぐると回っていく。要領を得ない堂々巡りを止めることすら億劫だ。マコトはゆっくりとため息を吐き、外して置きっぱなしにしていたゴーグルをつま先でつついた。作業中は絶えず情報を流し続けていた液晶もすっかり大人しくなっている。今は省エネルギーモードに移行して、時折データを受信していることを示すオレンジのライトが点滅していた。


「……そろそろ、帰らないと」


 そっと立ち上がり、作業着に付着した埃を払う。出掛けに衣類清掃機に放り込んできた服はもう着用できる状態になっているだろうか。よろよろと覚束ない足取りで一歩踏み出し、マコトは作業していた部屋とは違う清潔な廊下を渡った。




 いつも通り掌紋をスキャンして自室に入る。出てきた時と変わらない様子に、マコトは何故か安堵した。

 翌日の起床に合わせて、端末に目覚まし用アラートのセットを指示する。一応休息申請を出してみたが、結果が発表されるまでまだ数時間ある。しかも、マコトは特例的な休息を既にE-terから貰っている。他のメンツならまだしも、マコトの申請が下りる可能性は限りなく低いだろう。


 作業服を脱いで、狭いシャワールームに入る。コックを捻ってお湯を出すが、シャワーヘッドから流れ出てくるのは冷たい水だけだ。肌に浮かぶ鳥肌を手でさすって抑えながらしばらく待つと、ようやくシャワールームが湯気で曇り始めた。


 汚れを落とし、タオルで身体を拭い、下着を身に着ける。散々吐いた後の食道は荒れていて、とてもじゃないが栄養バーをかじる気にはなれない。マコトは適当なビタミン剤を配給された袋から何粒か取り出して適当に水道水で流し込んだ。そのままベッドに疲れた身体を投げ出して、腕を大きく広げる。


 ようやく仕事が終わった。だが、新しい防衛システムのテストもあるし、招集が掛かれば「蟻」の仕事にも駆り出されるかもしれない。結局、今日という一日でこなさなければならないタスクを消化しただけに過ぎないという事実から逃れようと、マコトは寝返りを打った。


「……ん?」


 足に何かがぶつかった。顔だけ上げて確認すれば、そこには部屋を出る前に置いたユズリの端末がある。


「やば……」


 マコトは慌てて上体を起こし、端末を確かめた。頑丈さを売りにしている素材を使用しているだけあって、その画面には傷一つない。ほっと胸を撫でおろすと、突然その端末がびりびりと震えた。優し気なシンセサイザーも一緒に流れ出し、落ち着いていたはずのマコトの心臓はまた飛び上がる。


「うわっ、え、え」


 端末の所有者でないとロックが解錠できない仕様になっているため、マコトはただおろおろするしかない。やがて鳴っていた音も止まり、彼女の部屋にはまた深夜の静寂が訪れた。


 ぴこん。


 先ほどとは違う電子音が、ユズリの端末から響く。ロックされている画面が明るくなり、そこには通知の長さに合わせた短文がいくつかに分けられて表示されていた。誰かからのメッセージだ。


 ≪マコトへ≫

 ≪こんばんは、ユズリです≫

 ≪今、アテナのレンタル端末から送ってます≫

 ≪さっきは急に電話してごめんね≫

 ≪びっくりしたでしょ?≫

 ≪電源ついてるか確認したかったんだ≫

 ≪明日、夜にまた会いたいな≫

 ≪場所はこの前のゴミ捨て場で≫

 ≪この端末を持って来てね≫


 連続して送られてきた文章たちを、マコトは端末を握りしめて食い入るように見つめていた。


「これ、あの男の子からのメッセージだよね……」


 何度も確認するように、同じ文を見返す。いくら見ても内容は変わらない。


 明日、夜。廃棄エリアゴミ捨て場で、端末を持って。


「そうだよね……あの子も端末が無いと困るもんね……」


 マコトは端末を優しく部屋のローテーブルに置いて、今度こそ眠るために準備をした。体調が悪いわけではないのに、いつもより心臓の音が大きいような気がした。




「……マコト、メッセージちゃんと読んでくれたかなぁ」


 幼生有機資源教育機関「アテナ」の寄宿舎。その窓辺で街並みを見ながらユズリが呟いた。彼が見ている方角には、Eクラスの烙印を押された有機資源が住まうエリアが広がっている。夜風に前髪を遊ばせながら、ユズリはふ、と微笑む。寄宿舎の周りに広がる一般有機資源用の街は、色とりどりの電飾に彩られて輝いている。あらゆる企業の技術の粋を詰め込んだその景色は、まるで教材に出てくる楽園だ。


 だが、ユズリは知っている。この外には陰とも言える風景が広がっている。入り組んで先の見えない路地、雑多に積まれた不要機器の山、そして、その中でも生きている有機資源がいることを。


「……マコト。Eクラスの、女性。整備士……優しい」


 不夜の街に、ユズリの楽しそうな声が溶ける。窓の縁に肘を置いて、彼は夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 もしかしたら、彼女なら。


「……明日、来てくれるといいなぁ」


 ふふ、と無邪気に笑うユズリは、贈り物を心待ちにする少年のように幸せそうだった。

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