第9話
教皇が眠る頭元で、老人が淡々と聖書を読みあげていく。
沙参は左手に抱いているたれ耳うさぎのぬいぐるみの背中に視線を落とした。そこには、ぬいぐるみの柔らかい毛に隠れるようにファスナーがある。
沙参は無言でファスナーを開けると、中に入っている細かい細工のされた懐刀を取り出した。そのまま、たれ耳うさぎのぬいぐるみを鴉に渡し、懐刀を左手に持つ。
神聖な雰囲気の中、沙参は瞳を閉じている教皇に声をかけた。
「全てを知っている者は?」
教皇は瞳を開けることなく静かに口を開いた。
「マルクスだけだ。私が死んだら教皇になる」
沙参が聖書を読みあげる老人に黒い瞳をむけた。六十歳後半ぐらいに見える老人は沙参の視線を気にすることなく淡々と自分の仕事をしている。
「マルクス、後のことは頼んだ。この者になにかあった時は力になるように」
名前を呼ばれて、老人は聖書から顔を上げて一礼をした。
「はい。お任せ下さい」
沙参は鞘から懐刀を抜き、親指を少し斬った。
「最期に言い残すことはないか?」
その言葉に教皇は安堵の表情を浮かべた。
「礼を。人として死なせてくれることに、礼を言う」
「……そうか」
沙参は親指から溢れた血を一滴、教皇の口の中に入れた。
教皇の体が一回、大きく跳ねて黒い瞳が大きく開く。そして、そのまま全身の力が抜けて眠るように瞳を閉じた。沙参は鴉からたれ耳うさぎのぬいぐるみを受け取り、懐刀を納める。
マルクスは聖書を読み終えると、沙参と鴉に一礼をした。
「ありがとうございました」
「私の仕事はこれで終わりか?」
「はい」
沙参が何も言わずに部屋から出て行く。その後を追うように鴉も無言で部屋から出て行った。
中庭の見える外周廊下に出ると、中庭から明るい声が聞こえた。
「沙参ちゃ~ん」
沙参は声の主を確認すると少し表情を緩めた。
「無事だったか」
その言葉にスピネルが不機嫌になる。
「みんな私を勝手にケガ人にしてない?無事だったら、いけないわけ?」
「そうではない。心配していたんだ」
沙参の素直な言葉に、スピネルは少し赤くなった顔を隠すようにそらした。
「……なら、いいわ」
沙参が庭の中心に向かって歩き出す。
「きれいな庭だな」
その姿にスピネルが隣にいるオニキスを肘で小突いた。
「ほら、行ってきなさい」
「え?なんで?」
「沙参ちゃん、落ち込んでたでしょ。さっさと元気づけてきなさい」
そう言いながらスピネルはオニキスを蹴飛ばした。
「うわっ!」
オニキスは蹴飛ばされた勢いのまま沙参のほうに歩いていく。
スピネルが鴉のほうを見ながら訊ねた。
「鈍いのは誰に似たのかしらね?」
「さあな」
その答えにスピネルが笑う。
「カワイイのよ。目がそっくりでしょ?」
誰に?と聞かないかわりに、鴉は柱によりかかりながらオニキスを見た。
「何故、かかわった?」
鴉の鋭い言葉に、スピネルも柱によりかかりながら言った。
「オニキスが空から落ちてきた沙参ちゃんを拾ってきたのよ。元々、捨て猫とか捨て犬とかをよく拾ってきたけど、人は初めてだったわ」
「……そのことについては礼を言う。だが、何故そのまま待っていなかった?ここまで連れてくる必要はなかったはずだ」
「沙参ちゃんが一人で行こうとしてたのよ。そこに金色の目をした軍人が乗り込んできたんだから。拾ったのがオニキスじゃなかったら、どうなっていたことやら。ちゃんと対処しといてよ」
「事の詳細は連絡した。今頃、操られていた奴らには解毒剤が投与されている」
「でも軍を操れたってことは、かなり厄介な相手よ。敵の見当はついてるの?」
「いや、その報告はまだ入っていない」
「……そう」
スピネルは鴉を見た後、並んで歩く沙参とオニキスに視線を移した。
沙参は庭の中央にある噴水の前で足を止めた。無言で後ろを歩いていたオニキスも足を止める。
「……なにか用か?」
沙参が振り返ってオニキスを見る。真っ直ぐ見つめてくる黒い瞳に、オニキスはうつむいたり空を見たりと、慌しく視線を動かしながら話題になることを探す。
「えっ……と、その……」
話題が見つからず、挙動不審な動きをするオニキスに沙参が吹き出した。
「なにがしたいのだ?」
呆れたように笑う沙参に、オニキスは照れたように笑った。
「自分でもなにがしたいのか分からないや。でも、笑った顔は初めてみたよ」
沙参は黒い瞳を丸くして自分の顔を触った。
「どうしたの?」
「あ、いや。久しぶりに笑ったな、と思ったんだ」
「そんなに笑ってなかったの?」
沙参が質問の答えを口に出さずに俯く。そこに突然、教会の鐘が一斉に鳴り響きだした。
「なに?」
国中の鐘が鳴り響いているのではと思うほどの音にオニキスが耳を塞ぐ。沙参は空を見上げて瞳を閉じると、鐘の音に耳を傾けた。
「教皇が死んだのだ」
「え?」
オニキスが耳から手を放して沙参の言葉を聞いた。
「私が教皇を殺した」
そう言うと沙参は自嘲気味に笑った。
「こんなところまで人を呼び出しといて、人のことを悪魔のように言って、最期は人として殺してくれ、だとさ。あんな自分勝手な人間が教皇だなんて笑い話だ……」
と、そこまで言ったところで背中に何かがおおいかぶさってきた。
「なっ、なんだ!?」
驚いて振り返ろうとする沙参の肩にもたれかかるようにオニキスが額をつけた。
「オレが傷ついたとき、母さんがよくこうしてくれたんだ。人のぬくもりは傷を癒すんだって」
「ぬくもり……か。」
背中のぬくもりが全身に広がる。
あまりに遠い記憶で忘れていた。人はこんなにも、あたたかいということを。
オニキスがそっと囁く。
「苦しいなら無理に話さなくていいよ。話したくなったら聞くから」
「……おまえは無駄にやさしいのだな」
沙参は俯きながら自分を抱きしめている腕に触れた。
どんなにやさしくても自分より先に死ぬ。情を許せば、死んだとき哀しむのは自分だ。今まで何度も経験してきた。
沙参はゆっくりと足を動かすと、おもいっきりオニキスの足をブーツの踵で踏んだ。
「イタッ!」
オニキスがビックリして顔を上げると、そのまま顎に手底が打ちつけられた。
「…………つぅ~」
両手で顎を押さえながら座り込むオニキスを見ながら、沙参が平然と話す。
「この国には海の上に出来た都(みやこ)があり、そこでは人々が街中をゴンドラという舟で移動していると聞いた。そこに案内しろ」
その言葉に、黙って二人を見守っていた鴉の体が動く。だが、沙参が視線だけでその動きを封じた。
「私の国には海の上に浮かぶように建つ社(やしろ)はあるが、都はない。是非、その都を見たい」
オニキスが助けを求めるようにスピネルを見る。だがスピネルは隣にいる鴉を見て、何か思いついたような笑顔で頷いた。
その表情にオニキスは苦笑いをしながら沙参に返事をした。
「わかった。いいよ」
その回答に鴉がオニキスではなくスピネルを睨む。スピネルはその視線を軽く受け流すと、鴉にむかって微笑んだ。
「少しぐらい観光したっていいじゃない。ずっと、閉じ込められてたんでしょ?外の世界を見たいと思うのは普通のことよ。大丈夫、私も護衛するわ」
「……」
黙り込む鴉の肩をスピネルが叩く。
「貴方は悪くないわ。世の中には、どうにもならないことがあるんだから。ね?」
「……」
スピネルの笑顔にも鴉は無表情のまま何も言わない。
「まじめね。そういうところは全然、変わってないんだから」
そう言ってスピネルが安心したように微笑む。滅多にない、というか初めて見てしまったスピネルの表情にオニキスは地面に座り込んだまま固まった。
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