自分による、自分のための、自分ごはん

@tsuyahuyu

第1話  烏賊と溜息のマリネ

脚が痛い。

特に高い訳では無いヒールは三年過ぎた今も、まだ私の足に馴染んでくれず、親指の付け根がビリビリ痛んだ。

肩も痛い。

肩に提げている黒いトートバックも何代目になっただろうか?

よっこいしょ、という気持ちで下ろしたバックの中には、未処理の書類と持ち帰った仕事のファイル。

この肩の重さを下ろすとともに、心の底からため息が漏れた。

それでも心は一切の重さを軽減してくれてはいないが。

キーホルダーもつけていないシンプルな銀の鍵。毎回、何処にいったか分からなくなるので目立つものを着ければいいのだが人の目が気になり、今日もこのままでいる。。

誰もいない扉を開けると、ワンルームマンションによくある、どこから入っているのか分からない肌寒い空気が体に触れた。

ただいま。と言わなくなったのはいつからだろうか。

スーツの上着は何とか気力でハンガーにかけ、タイトスカートとストッキングを脱ぎ捨てる。スウェットに履き替え再度「ふぅ」と無意識に息を漏らした。

ペタペタ 素足の触感が冷たい。

広くない部屋を横切り、キッチンスペースとしている玄関扉横。

そこに置いてある2つ扉の腰までの冷蔵庫の上扉を開けると、詰め込まれたタッパーたちが出迎える。

カラフルな蓋が目に映り、「あぁ、帰ってきた」というオフの気持ちにさせてくれる。

左上の水色を手に取り、蓋を開けると酸味の強い香りが鼻腔を刺激した。

「お、出来てるイカのマリネ。」

お酢の独特な酸っぱい香り、オリーブオイルを絡ませているから表面がテラテラと輝き、冷蔵庫のオレンジ色のライトを跳ね返している。その食欲を刺激する姿は我ながら良い出来高である。

イカ自体は冷凍イカを解凍し、きちんとボイルしたもの。

その時にいくつかポン酢と大根おろしで食べたが、臭みもなく、水っぽさもあまりなかった。目利きがいいのか、スーパーの品質が良かったのか。

何にせよ、嬉しい買い物だ。

タッパーに顔を近付け、香りを楽しむ。

「やっぱりバジル買って良かった。」

誰に言うでもなく、むしろ作り上げられたイカに向かって呟いた。

行儀を注意する人もいない一人の部屋なので、イカをひとつ手で摘まみ上げる。

薄くスライスした玉ねぎも、食べてほしいのかくっついてきた。

敢えてスライサーではなく包丁で薄切りにした玉ねぎは、ところどころシャキシャキした食感を残せているようだ。水にさらす時間が短かったからか少し辛味が残っている。

「ま、ビールには合うからいっか。」

バジルが最初に鼻にガツン。

そこをビールで流しても良いのだが、一口めはまず料理を楽しみたい。

イカの身を噛みしめる度に、キュキュと小気味良い弾力が楽しめる。

噛む度に酢とレモンの風味がバジルを追い越して、終始口の中がさっぱりと保たれていた。レモンは生が高かったため、ポッカレモンで代用。レモンの形の小さなケースは小さくて、いつも捨てる前に他のものに使えないか考えてしまう。

もう一口掴み口に放り込む。


「はぁ...美味し。」


漏れたため息はこの部屋に入ってからついた中で、最も軽いすっきりとしたさわやかな香りを漂わせるものだった。

山川高良、27歳会社員。

趣味、食事。

疲れたときには甘いもの。

それももちろんだが、私は疲れたときは旨いもの。

疲れて帰ったときに、自分好みに作られた味が出迎えてくれる。

箸休めのような心休め。

それが、私にとっては、この冷蔵庫の中にたくさん詰まっているのだった。


扉側に冷やしていた500㎖缶をそのまま開け、すぐ背中にある壁にもたれ、さて、何を摘まもうか。

そうやって冷蔵庫の前で呑んでいるこの時があるから、私は明日も頑張れる。

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