いざ、

織リ子4

第1話

明暦三年(一六五七年)。

楼内からの、陽気な三味線の清掻にそそのかされて、遊郭なんてところにいるのに、なんともめでたい気分にさせられる。

「あんた、幾つだい」

張見世に好みの女郎を見つけた文蔵は、格子越しに声を掛けた。だが、思いがけずふいっとそっぽをむかれる。

「けっ、なんだい。お前さんそれで客が釣れるのか?」

「釣るんじゃぁありませんよ。旦那衆がどこの馬の骨とも知れないあばずれどもの釣り針に、おいそれと掛かりにくるんじゃありませんか」

「お」

 と、眉を上げた。

「なんでぃ、喋れるんじゃねえか」

 少し掠れた低い声だが、色っぽくて悪くない。

「今夜の俺は懐が温いんだぜ。どうだい、俺に旨い酒を酌んではくれねえか」

 そう言って得意気に羽織りの袖を振ってみせるが、女の視線は下を向いたまま動かなかった。

 客の頼みにだんまりを決め込むとは、随分と風変りな女郎がいたものだと、文蔵が感嘆ともつかぬ溜息と一緒に腕組みすると、今度は女の視線が上がった。

 おや、と思いきや、視線の先は文蔵の肩を僅かにそれたところ。つられて見れば、編み笠を目深に被った男が立っていた。

 ぞわり、と文蔵の神経に緊張が走る。

 紋付羽織に着流し。文蔵とさして変わらぬ井出立ちだが、帯刀が二本とくれば旗本か武家か。人相は伺えないが、いずれにせよ、大男には違いなかった。今日日にしては珍しく六寸弱(一七八センチ)ある文蔵とほとんど同じかそれ以上だ。

 お目当ては女か文蔵か。

 何食わぬ顔をして、襟元を直すふりをしながら懐刀を探ると、見世の向こうで今しがただんまりを決め込んでいた女がすっと立ちあがった。

「――――」

 立ちあがった女を見上げて、懐を探っていた手が完全に止まる。その艶やかさに目を奪われた。

 こりゃまた――。

 息を飲むとはこのことかと、文蔵は初めて知る。

 女は思ったよりも背が高かかった。

 纏った着物は、なんとも粋な白地に銀の切り箔を散りばめて、お引きの裾は鮮やかな水色ぼかしだ。前で垂れ下がるように結ばれた黒帯が貫録を見せつける。

絢爛な大行灯に照らされて、夢か現か、見とれて呆けた面の文蔵を、女は切れ長の涼し気な目許でほんの一瞬流したかと思えば、優雅な足取りで踵を返して見世から姿を消した。

はっと我に返った時には隣にいた編み笠の男もいない。

懐刀から手を放して、杞憂だったことに胸を撫で下ろすよりも、この後、あの大男にあの女が抱かれるのかと思うと、文蔵はなぜだかどうして心持ちがむしゃくしゃした。




 寒い、と思って目が覚めれば、火鉢の中の炭火が事切れる寸前だ。

 「どうりで、ちくしょう」、と悪態をつきながら火箸で炭を突いてみるが、勢いを取り戻すには手遅れのようだ。

 諦めて火箸を灰に刺すと、転がった徳利を拾って逆さに振ってみる。

 長旅の疲れもあり、酔いも回って畳の上で眠りこけていたらしい。

 結局のところ、どうにもつまらない気分になってしまった文蔵は、あの後適当な女郎を選んで二階の座敷に上がり、早々に寝床へ誘われたが、そんな気分にもなれずだらだらと不味い酒を半ばやけくそのように呑んで、女がいなくなるとそのまま眠ってしまった。

 文蔵は、傍らに脱ぎ捨てた羽織を拾うと酒の回った重い体を上げた。

「いったい何時なんだ」

 よたよたと歩いて襖を開ける。

 騒がしかった清掻もすっかり止んで廊下は驚くほど静かだった。

 もしや、店仕舞いの八ツを過ぎてしまったか。となれば、大門が閉まる。

 ほとんど手探りで階段を下り、回廊に出ると中庭を回り母屋の恐らく裏手でようやく厠を見つけ、我慢の寸前で小便を足して安堵の息をつく。

 寒さと小便を足したことで酔いが少し醒め、ふと、来た道を思い出せないことに気づくと、「……仕様がねえな」なんて一人ぼやきながらなんとか中庭まで来られたが、さて、はて、右だったか左だったか。

 袖の上から両腕を擦って右往左往していると、ふと、声が聞こえた。

 誰かが誰かと何やらひそひそ話しているような。左手の角を曲がった廊下の奥から聞こえてくる。

 文蔵はそろりと身を寄せて、角から奥を覗き見る。

 やばい――。

 とっさに背後の襖を開けて部屋に滑り込み身を潜めると、ほどなくして足早に歩き去る気配をやり過ごしてからゆっくり静かに襖を細く開ける。中庭の向こうに編み笠の男の背が見えて奥へと消えた。

 妓楼の前で隣に立った男に似てはいるが違う。あの男はもっとデカい体躯の上背のある男だったが、あれは一回り小さかった。

 きな臭さを感じながらも、文蔵は先ほどひそひそ話の聞こえた廊下の突き当りの部屋の前まで来る。

 二階だけでなく一階にも客間があるとは、妙だな、と襖に耳を当てて中の様子を伺おうとして失敗した。

「誰がいるっ」

 鋭い、少し掠れた、覚えのある声だった。

 忍びきれなかった己に舌打ちしながら、文蔵は潔く襖を開けた。

「よう」

「旦那……」

「やっぱりな。お前さんだと思ったぜ。わりぃな、ちょいと邪魔するぜ」

 部屋に入り後ろ手に襖を閉めて、ふと鼻先を掠める真新しい井草の匂いに、文蔵は内心で眉をしかめた。

 何気なしに見渡すふりをして、布団の横の畳が張り替えられたばかりなのを確認する。 

酒か醤油か――それとも血か。

 先刻、見世の前で文蔵を足蹴にした女が、襖が開くなり素早く火箸を逆手に持ち直したところを見ると、だいたいのことに察しがついた。

 先ほど出て行った編み笠の男は替玉か。いわゆる所在の証だ。本物は明日の朝にでもどこかの川に浮くのだろう。

 女は、一瞬動揺の色を浮かばせたが、すぐにすまし顔を作って火箸で炭を突つきだす。

 代わりにぴりぴりとした殺気が肌を突き刺すよううだ。

「道にでも迷われましたか」

「まあな。廻しが戻ってこないもんで、気晴らしに小便しに降りてきたら。いけねえな、漏れる漏れるにばかり気を取られてちゃよ」

「よろしければ案内しますよ」

「いや、いい。俺ぁ始めからあんたに酒を酌んでほしかったんだ」

 ちょうどいいや、と今にも飛んできそうな火箸で炭をつつく女の横に歩み寄った。

「逃げんなよ。そう警戒するなって。な? よこせって、ほら」

 と、着物の股を右手で割いて片膝をつくと、ほれ、と手を差し出した。

 炭火に照らされて、黙って睨み付けてくる双眸が、また一段と色っぽい。

 ――たまらねえな、と内心で舌なめずりをしながら、

「いいから、そんな物騒なもんこっちにおいちまいな」

 無理やり取り上げて、箸を畳に置けば、己の脱いだ羽織をその上に被せた。

「簪なんてものも、閨には必要ねえだろう」

 女が帯の腰の辺りから簪を抜き出そうとしているのをめざとく見つけて指摘する。

「分かったよ。俺の懐刀も放ってやるよ」

 文蔵は懐から刀子を取り出すと部屋の隅に投げてみせた。

 僅かに驚いた女の顔が、怪訝そうに曇って文蔵を胡乱気に見やる。

 女は襦袢だけの姿で正座して、寝乱れた後なのか、もみ合った後なのか、肩のあたりが少し肌蹴てうなじが何ともそそる。

「名は?」

「燕爾、と申します。旦那は?」

「文蔵」

「……本名で?」

「爾は燕、か」

 と、言えば燕爾の目つきが途端に鋭くなる。

 分かりやすくて、笑えてくるのをぐっと堪えた。

そんな怖い顔するなと、なだめるように燕爾の手を取って親指で甲を撫でれば、なんと、その感触で正体に気づく。まったく、とんだ食わせ物だと思わず苦笑が漏れた。

「そういや、昔に乙烏(燕)一座っていう旅芸人一家がいたっけな」

 江戸から地方まで巡業して、それは人気の高い一座で、実は盗賊だったと分かり市井を賑わせた。江戸に入った時にお縄になったのが十年前だったか。

 十両盗めば首が飛ぶ。

 まさに獄門磔であの世行きだ。

「綺麗な面して、まさか男だったとはな」

 面白い、と笑えば握っていた手を容赦なく叩き落とされた。

「かりかりすんなって。いいじゃねえかよ。お前さんが誰に雇われてようと俺は気にしねえよ」

 刺客を遊郭に送り込めるとなれば、奉行所同心あたりが怪しいものだ。お裁きできない目障りな輩を陰で殺しまくっているなんて噂も、もっぱら嘘でもないらしい。

 文蔵から二尺の間合いを取ると、今にも灰をぶちまけそうな勢いで火鉢の淵に手を掛ける。

「だからそう警戒するなって」

 燕爾の間合いをもろともせず、火鉢の淵に両手をついて顔を覗き込むように身を乗り出した。

「なんでもいいが、今晩俺と眠ってくれりゃあ、文句はねえ」

「なにを言って」

「いつまでいるんだ。今日の一件でおしまいかい? どっちでもいいや。関係ねえ。互いの素性なんてあってねえようなもんなんだ。俺ぁ、とにかくあんたが気に入ったんだよ。衆道でもかまいやしねえってくらいにな」

「私は」

「分かってるよ。寝るだけだって。な? 道に迷ったのも何かの縁だ。諦めて一緒に寝てくれや」

「あっ」

 善は急げとばかりに燕爾の腕を取って寝床に滑り込む。

 布団を頭まで被って燕爾の肩を抱き込んだ。

 その容易さと初々しさに下が疼かないと言えば嘘になる。

 だが、緊張でこれほどまでに強張った肩を抱いて、行為に及ぼうなどと思えるほど、文蔵も自分勝手ではない。

 人を殺めたあとの体の強張りを、文蔵も知っている。

 文蔵を殺ろう思えばできるものを、それをしないのはこの男が不必要な殺生を嫌ってるからだ。

「あったけえな。こんなあったけえのは久方ぶりだぜ」

「旦那は……」

「ん?」

「卸問屋の若旦那には、とうてい見えやしないんですがね」

 つまるところ、何者なのかと。

文蔵の腕の中で身じろぐことも無く、くぐもった声で燕爾が尋ねる。

 声を張らなければ、抑揚のないそれは思った以上に幼く聴こえた。

「幽霊なんだよ」

「幽霊?」

「幽霊なんざ何年もやってると、慣れ過ぎて独り身の寂しさも忘れちまう」

「……幽霊、でございますか」

「そう。俺ぁ幽霊なのさ。お互い、大手振ってお天道様の下歩けねえってわけだ。さ、話はおしめえにして寝ようぜ。ああ、ほっとするほどあったけえな」

 とんとん肩を叩いてやると、その内に強張りが解けて、燕爾の冷え切った腕や足に熱が戻ってくる。

 そんなものを感じていたら、どうにも愛おしく感じて、まいったなと人知れず天井を仰いだ。




 文蔵は目を覚ました。

「なんでぃ、……ん?」

 などと寝ぼけ眼で頭を掻きながら、辺りを見渡した。

 こんな寒い中でよく眠れるもんだなと、己に感心しながら起き上がる。

 今朝、目が覚めた時に、隣に燕爾はいなかった。

旅籠屋に戻って朝飯を食べても、昼飯を食べても、己の人相書が張られてはいないか市中を見て回っていても、頭に浮かぶのは燕爾のことばかり。

八ツ小路で風呂屋に行ったあと、深川で飯を食べ酒を呑んだ。

絆されきった頭でだらだら呑んでいたら平衡感覚を失って、深川から日本橋へふらふらと夜道を歩いては来たが、ついに酔いつぶれて通りがかりの稲荷でひと息ついたが最後、眠りこけてしまったのだ。

寒さに耐えかねて、ようやく覚めたのが今。

頭上には、雲の流れが見て取れるほど、満月が煌々と輝いていた。

「情けねえな」

 稲荷の階段に腰掛けて膝に頬杖をつけば、こんな生活をいつまで続けるのだと自問する。

人の温もりとは、ああまで温かいものだったかと。

大事なことを忘れつつあるような気がした。

世捨て人となってはや数年。親しい者も作らず、ただ、生きる。ただ生きることに、はたしてなんの意味があるのか。

しごく根本的な疑問に、ここにきてぶち当たってしまった。

――燕爾。

手練れには違いないだろうが、気負って見せてもあれは臆病だ。弱いわけではない、鬼になりきれない鬼なのだ。

強張った肩を抱き込んだとき、この男もまた、人の温もりを知らないのだと分かった。

寂しいな――。

そんな言葉がついぞ零れてしまいそうになるほど、久方ぶりの人肌は温かかったのだ。

「いったい今何時なんだ」

 おっこらせ、と立ちあがった。

 唸りながら背筋を伸ばす。

 さてはて、どっちかな、と目を凝らしていると、静謐な境内になにやら話声が響いてきた。

 文蔵は、興味を欠きたてられて足を忍ばせる。

 本堂の裏手。

 文蔵は、足音を消すために玉砂利のない本堂脇の通路を行って、柱に身を隠しながら聞き耳を立てた。

 若い男と、年長の男の声だった。

だが、小声すぎるせいかまともに聞き取れない。

 文蔵は柱の向こう、一尺先に樫木を見つけた。その木は男たちから見えるところに佇っていたが、幹が地面から剥き出ているので、そこへ飛び移れば玉砂利の音は避けられる。

行ければもっときちんと話が聞こえるのだ。

 ひと眠りしたおかげで酔いも醒めた。

 無駄のない動きで飛び移って、すぐさま木の後ろへ身を隠す。

「わしの一存では決められぬ」

 不機嫌が滲むような年長の声。

「お前がどうのこうのと言える立場ではないのだ。このような夜半に呼び出しておいて」

「ですが」

 反論する声は――なんと、燕爾。

「約束では十年だと申していたではありませんか」

 十年――? 文蔵は首を傾げた。

 なるほど。幼い子供が生きるか死ぬかで選んだ道が、十年だ。

 十年なんて口約束、あってないようなものなのに。

「とにかく、わしは帰る。足抜けするなどと考えず、今己が生かされていることに感謝しろ。よいな」

 玉砂利が苛立たしげに踏まれて音を立てると、徐々に遠のいて行った。

 どんな顔をして見送ったのだろうか。

 雲が月を覆って、静かに闇が満ちる。

 木にもたれながら腕を組んで、文蔵は夜風に揺れる木の葉を仰いだ。

 仰いだら急に頭がくらんで、足元がもつれる。お、これは、酔いが醒め切っていなかったか、と舌打ちする間もなく玉砂利を踏みしめていた。

 同時に、カンと甲高い音が耳のすぐ横で鳴った。

 脂汗と共に見やれば、丸に揚羽蝶の銀一本簪が樫木に突き刺さっている。

「おいおい、マジかよ」

 と、ボヤいた背後で玉砂利の弾ける音がして、身の危険を感じた文蔵はすぐさま簪を引き抜いて体を翻した。

 闇から突っ込んでくる燕爾に、手加減などしてたらやられると察して、文蔵は時間稼ぎに手慣れた動きで簪を勢いよく投げつける。

 燕爾の手許の光るものが見切っていたように簪を弾く。その隙に文蔵は懐から刀子をするりと抜くと寸前のところで切り込んできた短刀をいなした。

 いなすと同時に刀子を捨て、僅かに体勢を崩した隙をついて燕爾の腕を握り掴む。

 間髪入れずぐっと引き寄せれば、鬼の面が「はっ」と見開かれた。

 さーっと風が吹いて雲が流れる。

 月明りに露わになった愛しい男の顔に、文蔵は微笑みを含みながら言った。

「なあ、燕爾。ますます惚れちまうじゃねえか」

「旦那……」

「俺と一緒に来い」

「なに」

「嫌なんだろう? なら逃げちまえばいい」

「一生追われる身で生きるんですかい。幽霊になった旦那とは違うんですよ」

「そりゃ……」

 言い淀んだところで腕を振り払われた。

 燕爾のやり場のない怒りが顔を歪ませている。

 髪を後ろで一本に束た、男物の着流しを着て、化粧っけの無い男の顔が、切ないほど綺麗に月明りに映えた。

 気付けば頬を親指で撫でていた。

 驚いた燕爾が飛び退る。

「どういうおつもりで。あっしを揶揄って何か面白いことでもおありですか」

「揶揄ってなんかいねえよ。クソ真面目にいってるんだぜ」

 そう言うと、余計に燕爾の顔が辛そうに歪む。

「来いよ、燕爾」

 再び雲が月を覆うと、闇の中で、ゆっくりと玉砂利の音が離れて行くのを無言で見送った。




 むしゃくしゃしていた。

 どうしてあんな軽率なことを言ってしまったのか。

 裏家業に片足突っ込んだ時点で、生きて足抜けするなどそう簡単にできやしない。ならば逃げればいい。

 そんな安易なことを言って、燕爾は怒っただろう。

 逃げることは死を意味するに等しいのに、勢いで随分と無責任なことを言ってしまった。

先ほど酒を飲んだ蕎麦屋で商人が話していたことが、文蔵の苛立ちに拍車をかける。

下総の佐倉城から誰が江戸入りするって?

そうなればばったり誰かと鉢合わせなんてことにもなりかねない。

居て、江戸にあと一日。

昼下がりの日本橋を小走りで走る。

大門をくぐり人を掻き分け格子に飛びついた。

張見世には女郎が一人もいない。

そうか、そろそろ七ツ下がり。昼見世の終わるころ頃合いだ。

それでも文蔵は格子越しに叫んだ。

「燕爾っ」

 乱暴に格子を叩いて。

「おい、燕爾っ。いるんだろっ」

 行き交う男衆が振り返り、見世の前を掃いていた中郎が頭をもたげた。

 距離を取って、二階へも叫ぶ。

「頼むっ。一目だけでも会ってくれ! 悪かったっ、俺が軽率なこと言っちまってっ」

 なあ! とひと押しすれば、妓楼の中から不寝番が飛び出してくる。

 腕を捕まれて、煩せえなと払う。ここで暴れたら、大門に詰めている岡っ引きが飛んでくるだろう。そうなれば、幽霊も終わりだ。

 だが、懲りずに叫んだ。

「もう刻がねえ。今しかねんだよっ」

 触れることが叶わなくとも、せめて声だけでも聴かせてくれねえか、と。

 叫ぼうとして、箒を持った中郎が慌てて文蔵の口許を手で覆った。

 目くばせされた先に、詰所の輩が歩いてくる。

「……今、お見受け中なんですよ」

 小声で教えてくれた。

 見受け中とは、言葉通りではあるまい。文蔵は大人しくなって、燕爾が今日限りでここを去ることを察した。




 夜半、何かの気配で目が覚めた。

 ――誰かいるな。

仰向いたまま暗闇に目を凝らすより先に枕元の刀子を掴み取ったが、何者かの手によって鞘から引き抜ききる手前で元鞘に押し戻される。

しまったと、目を剥いたその時、腹の上がぐっ重くなった。

 次の瞬間、長い髪の毛が、文蔵の頬にはらりと落ちる。

「……燕爾か」

 返事のかわりに文蔵の手から刀子を取り上げ横に置く。

 掛け布団の上から、文蔵の腹に馬乗りになった状態で、燕爾が、暗闇でもうっすら見て取れるほどに顔を寄せていた。

「旦那」

「なんでい、こんな冷たい腕しやがって」

 頭の横に突っ張るように置かれた細い腕を擦った。

「あんな大っぴらに叫んで、正直、あっしは肝が冷えましたよ」

 小声で、だが、心底気が気でなかったと伝わる言い方だった。なんだかそれが酷く嬉しくてたまらない。

「そうかい。叫んだかいがあったぜ」

「刻がないと」

「ああ」

「今しかないと」

「ああ」

「だから、その、あっしは……」

「…………」

「お別れを言いに」

「違えだろう」

 そう言って、文蔵は指先で燕爾の髪をそっとすくと、そのまま後頭部を鷲掴んで鼻先にぐっと引き寄せた。

「惚れちまったって言えよ。なあ」

「あっしは……」

「あっしは、なんだ。ん?」

唇が僅かに触れて、

「あっしは……」

触れ合ったまま唇を噛み締める。

「ったく、素直じゃねえな」

と、囁きながら冷たい唇に口付けた。

後頭部を抑えて恥じらう燕爾の舌を悪戯に吸えば「んっ」と鼻が鳴る。

愛おしいさに胸が高鳴った。

――ああ、やっぱり温けえ。

 身じろぐことも無く、甘んじて唇を受ける燕爾が、たまらなく、文蔵の胸を焦がした。

 どちらからともなく唇が離れる。触れ合うほどの近さで、燕爾が言った。

「旦那の言う幽霊とは」

「昔に人を殺して追われる身になった。たまたま川岸で見つけた身元も分からなくなったような男の死体に、てめえの着物と刀と、親父の形見の御守を持たせて……。あれから数年経つが、どこを見て回っても人相書は見当たらねえ」

 俺は、幽霊になったんだよ。と、燕爾の頬を指で撫でる。

「今しかないとは」

「奴さんが、俺を知る奴さん連中が、江戸入りするって話さ。明日、出る」

「……明日」

 何か考えを巡らすような呟きだった。

 さっと体が離れ布団の上が軽くなる。

「おい」

「あっしは、これから本郷に」

「本郷? まさか坊主に春を鬻ぎに」

「本郷の勝間茶屋で、人に会います。……旦那……」

 囁くように呼び掛けられて、だが、待てどくらせどそれきり応答はなかった。




 昨夜、さようならくらい言って寄こすのかと思ったが、あれきり燕爾は姿を消してしまった。

 後ろ髪引かれる思いで文蔵は旅籠屋を後にし江戸川へ向かった。

 太陽はてっぺんを過ぎたあたり。随分と風の強い日で雪でも降りそうなくらい寒かった。

 そろそろ松戸宿に差し掛かる手前、風待合いを行っている廻船に運よく潜り込めればいいが、と頭を巡らせていると、急に背後が騒がしくなる。

 人が考え事をしている最中に煩せえなと、気だるげに振り返って、「ん?」と文蔵は目を瞠った。

 真っ黒な噴煙が今にも江戸の空を覆い尽くしそうだ。

「なんでい……ありゃ、火事か」

 大火事だ。

 誰かが叫んだ。

 本郷の辺りじゃないのか、と。

 ――本郷。

「本郷と言やぁ――!」

 考えるより先に、文蔵は裾を掴んで走り出していた。

 空気が乾いている。ここ数日雨も降っていない。あげく、この風の強さと来れば大惨事だ。

 走ったところで間に合わない。文蔵は懐の銭袋を取り出すと、馬を引いて歩いていた旅烏に掴ませて、「悪いなっ」と、返事も待たずに手綱を奪い馬に飛び乗った。

 追い風も手伝って、半刻もしない内に本郷に入って馬を下りた。噴煙の嵐で袖で口を覆わなければ息もままならい。まさに火の海だった。

 文蔵はその凄まじい光景に茫然となる。着の身着のまま逃げまどう町人たちの合間を縫って、何と言ったかと、昨夜の燕爾の言葉を思い出す。

 おい、と逃げまどう女の袖を引っ掴んで、

「勝間茶屋はどこだっ」

 一喝するように尋ねた。女が泣き叫びながら指さす方に、門前に勝間茶屋を掲げた板を見る。

「よし」

 茶屋の横に置かれた火消用の水溜桶は空だった。文蔵は羽織を脱いだ。

「燕爾っ」

 ここにまだいるのか、それとも逃げたのか。到底分かりっこない。ならば、中に入って確かめるまでだ。万が一、燕爾の姿がなく、火事場から逃げおおせられなかったとしても、人肌の温もりを最後に知れたことで万々歳だろう。

 意を決して、文蔵は火炎の渦巻く勝間茶屋へと羽織を壁に飛び込んだ。

 転がるように敲きを抜けて板の間に上がる。

 火の粉が移って燃える羽織を投げ捨た。

 袖で口許を覆って、「燕爾っ」と叫ぶ。

「いるのか、燕爾っ! 俺だっ、文蔵だ!」

 階段を見上げれば火竜がとぐろを巻いて上っていく。上は手遅れか、行っても辿り着く前に己が死ぬ。

 茶屋の外装と二階は火の海だったが、一階奥の客間はまだどうにか動けるようだ。

 だが、煙が行く手を阻んで視界を奪う。

 文蔵は咳き込みながら燕爾を呼び続けた。

 ぐらぐらと燃え滾る炎が文蔵の背後から迫ってくる。もう、来た道は戻れない。

 ふと、その時だった、煙の向こうでゆらり、と影が揺れた。

「燕爾っ」

「――!」

 煤で頬を汚した何とも頼りない顔で、幽霊でも見るような目で文蔵を振り返る。

 着物がところどころ血で汚れていた。

 足元には侍とおぼしき男が一人倒れている。

 なんだ返り血か、と安堵した。

「話合うつもりだったんですよ」

「そうかい」

「でも、うまくいきやせんでした」

 あらかじめ用意していた剣客におそらく殺されかけたに違いない。無理にでも足抜けしようと言うなら殺してやると。

「仕方ねえよ。そう落ち込むなって。な?」

 どこか放心状態の燕爾が、半ば独り言でも呟くように、足元に向かってポツリとこぼした。

「あっしは……急いぢまったんです」

 文蔵は、燕爾を落ち着かせようと、火の手が迫っていることを内心で焦りながら、ゆっくりと問いかけた。

「何をそんなに急いだんだ」

「急げば……文蔵殿に追いつけると思った」

文蔵は拳を握りしめた。

「あっしも、幽霊になれたらと……」

 そう言って、唇を噛みしめる。

「燕爾。こっちを向け。俺を見ろ」

 聞こえてるのか聞こえていないのか、身動き一つしない。

「おいっ」

 たまらなく声を張り上げた。

「幽霊になりたいのか、それとも俺と一緒に生きてえのかっ。どっちなんだ、燕爾!」

「両方ですよ! 両方だから急いだんでしょう!」

 ひしゃげた顔をようやく文蔵に向けた。

なんて顔しやがるんだと、文蔵が笑う。

そうだよな、それくらい欲がなきゃな、と。

欲のない人生なんて死んでるも同然だ。

「なんでい、なら、話は早え。ほんもんの幽霊になっちまう前にこっから出るぞ」

 来い、と文蔵は燕爾の腕を取って奥へと進み、運よく中庭に手水を見つけて桶が無いかを先に降りて探して回った。

 桶代わりに柄杓を見つけて振り返る。だが、燕爾の姿がない。

「何してんだっ」

 見れば、縁側の奥、未だ客間に突っ立って、倒れてきた柱の下で息の無い老人を見下ろしていた。

 おもむろに、帯から丸に揚羽蝶の一本簪を取り出して、老人の手にそっと忍ばせる。

 なるほど。これで、己も幽霊だと。

 今にも崩れそうに燕爾の頭上で天井の梁がぱきぱきと音をたてる。

「燕爾、走れっ」

 その動きは素早い。

 だが、梁よりも先に軒先の屋根が崩れ落ちた。燕爾の行く手を阻む。

 足元は火の海だ。

だとしても駆けだした足はゆるめない。

「飛べっ!」

 燕爾は、文蔵の掛け声と共に縁側の縁を蹴った。

 火の粉の上を、燕が舞う。

 素足のまま難なく着地をすると、その勢いのまま文蔵に抱き着いた。

 力強く抱きとめる。

「覚悟はいいか」

 胸の中で燕爾が頷いた。

「ならば」

いざーー、






                   了



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