第5話 お別れの時

 おばあちゃんはジョンと軽い挨拶を交わしてハグをして、チャーリーを撫でて車に乗り込んだ。僕はジョンのお髭のぽっぺにキスをして、ぎゅとしがみついた。ジョンもぎゅっとしてくれた。僕はジョンに、芝刈り機に乗せてくれたことや、ボートの漕ぎ方、鳥の名前を教えてくれたことや、チャーリーのお世話係に任命してくれたこと、森で寝ちゃった僕をお屋敷まで運んでくれたことなど、いっぱい、たくさんの言葉と一緒にありがとうと言いたかったのに、言葉に詰まって、ただ、「ありがとう」とだけしか言えなかった。ジョンは僕の頭をポンポンとして、「また、いつでもおいで」と言った。


 チャーリーは僕が家に帰るのを知っているのか、クウン、クウンと鳴いて僕の周りをうろうろしていて、いつもの上目使いの顔が悲しそうに見えた。僕はチャーリーの頭から首、背中、からだ全体を撫でて額と額をくっつけて言った。


「さようなら、チャーリー。また、来年の夏......」



 ――僕は、ハッとした。


 がっしりしていると思っていたチャーリーの首は皮がたるんでいて、美しく見える金色の毛並みは所々白い毛になっていて、アーモンド形の黒目にはうすい膜がはっている。よぼよぼ歩くのが精いっぱいのチャーリー。


 もしかして、チャーリーは来年の夏にはもう……


 そう考えると、不安な何かがこみあげてきて、でも、それは考えちゃいけないことで、我慢しなきゃいけないことだと思ってて、僕は唇を固く結んだ。


 チャーリーがペロッと僕の鼻を舐めた。


 その時、風がふわっと吹いて、僕のぽっぺを撫でていって、


『我慢なんてしなくてもいいのよ』


 と誰かが言ったような気がした。


 そうだ。我慢しなくていいんだ。そう思うと、こみあげてきた何か不安なそれが、目から涙となってどっと溢れてきて、僕は声をあげて泣いた。チャーリーのたるんだ首にしがみついて泣いた。今までの辛かったこと、悲しかったこと、我慢してきた事、それら全部吐き出すようにして泣いた。車の運転席からおばあちゃんがびっくりして出てきて、あらあら、どうしたのかねえ。この子は。と言って僕の背中をさすった。


「さあ、お母さんが待ってるよ」とジョンが言った。


「チャーリー、ずっと撫でていたいけど、僕、もう行くよ。お母さんが待っているから」そして、チャーリの首を両手で撫でながら額と額をくっつけて、ありがとう、さようならと、こころの中で言った。


 僕は、おばあちゃんに肩を抱かれ車へ歩き、バックシートに乗り込んだ。チャーリーはよぼよぼと僕の後をついてきていて、車のドアのエッジに足をかけ、首を上下に動かしてクウン、クウンと泣いている。今にも座席に乗り込んできそうだ。

 「あらあら、チャーリーも行きたい? うんうん。たまには都会にも行きたいねえ」

 とおばあちゃんは言って、チャーリーを撫でている。


「チャーリー!カモンッ!」と向こうでジョンが呼んだ。

 チャーリーはピクッとして、ドアのエッジから降り、ジョンの方に向かった。


 おばあちゃんが車のドアを閉めた。


 僕はシャツの袖口で涙を拭きながら車のバックシートに後ろ向きに乗り直し、泣きじゃくりながらバックガラスの向こうのジョンとチャーリーに手を振った。


 車が走り出して、おばあちゃんが運転席の窓から片手を出して、「またね~~」と言った。チャーリーが吠えてひょこりひょこりと追いかけてくる。車はゆっくりとお屋敷から門へと続くアプローチウエイを走しる。ジョンとチャーリーが段々小さくなって、そして小さな点になって、木の陰に隠れて見えなくなった。それでも僕は手を振りつづけた。


 門を出て田舎道に出ても僕はずっと、小さくなってゆくお屋敷と森を見つめていた。やがてお屋敷も見えなくなって、その辺り一体、緑色のパッチワークの布のようになった。だけど、こんもりとした濃い緑のところがそこだとわかる。その濃い緑を見つめながら、僕は、ジョン・アシュフォードの森で出会った女の子の名前を思い出そうとしたけれど思い出せなかった。 




                                  おわり

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ジョン・アシュフォードの森 佐賀瀬 智 @tomo-s

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