#3

 その言葉を受話器の向こうに聞いて、博人もひどく混乱した。

 いったい何が起こっているのかがよく理解できなかった。しかし、それよりも、あのさほ子がすこし取り乱し、緊張していることに気づいた。その原因が自分にあるのか、彼女の中にあるのかわからなかったけれど、親切な彼は、とにかく彼女を落ち着かせたかった。

「あぁ。うん。こちらこそ、勘違いをしていたようで、ごめん。

 この間の一件で、すっかり愛想をつかされてしまったと思っていたんだよ。うん。そう」

 電話の向こうから、特に相槌あいづちはなかった。

「だから、あなたからそんな風に言われるなんて考えられなくって。それで、混乱しちゃったんだ。こちらこそ、ごめん」

「うん」

「会ってくれるの?」

「うん。会いたいの」

「わかった。ちょっと予定を調整する」

 そういうと、電話の向こうでさほ子が安堵している気配がした。

 ―――かつてなら。今までだったら、さほ子が仮にそんな風に会いたがったらば、博人はすべての予定を差し置いて、まずは会う約束をしただろう。しかし今は、本能的に一拍おくことを選んだ。嘘をつくつもりなのではなく、自然に、そう言った。

 安心したさほ子が、希望の日時を言うのを、彼は自動的に手近のメモ用紙に書きとめ、そして電話を切った。





 電話を切ったさほ子は、その博人の気持ちをあれやこれやと、推し量った。

 ゆっくりと、キッチンのテーブルに座って、婦人雑誌のページを見るともなくめくりながら、彼女は、博人は身を引くつもりだったのだ、と思い至った。それで合点する。おそらく、あの性交が成就できなかったことを気にやんで、彼はそんな風に早合点してしまったのだろう。あの時も、気にすることはないといい、それもまた、社交辞令でなく心からの言葉だったはずなのに。彼にはその気持ちはすこしも通じていなかったのだ、と彼女は思った。それはとても残念なことだ。しかし。それもまた、純粋でナイーブな彼らしい振る舞いではないか。

 そんな風に思う自分に、彼女は驚いてしまう。

 事実はひとつだけだけれど、真実は人の数だけある。

 彼のことを好ましく思うからこそ、その彼の早合点は、ナイーブという言葉に置き換えられるのだ。

 彼のことをその他大勢の男性たちと同じに扱うなら、その早合点は、とても自分勝手で世間知らずな振る舞いなのだ、と断定されることになる。

 まるで、恋だ、とさほ子は思う。

 恋をして、時めいて、あばたもえくぼに思えるとはこのことか。

 そういう自分が、すこし、可笑しかった。彼女の唇の脇のえくぼが、深みを増した。まるで、恋だ、と思うところまでは客観的に気づけた彼女だったが、そのえくぼの深みまでは、気づくことができなかった。

 さほ子は、自分が思うよりもはるかに深く、博人に心傾いていた。そして、そんな風に誰かを思うことは、ここ何年も、彼女には訪れなかった感情だった。

 テーブルの上には、婦人雑誌のほかに、一輪挿しのガーベラがあった。

 彼女が、昨日の買い物のついでに、スーパーマーケットに併設された花屋で買い求めてきたものだ。発色の鮮やかなオレンジ色の花びらと、黄色の花芯のコントラストが美しい。

 その一輪挿しの脇に、緑色の猫をかたどったプラスティックのボトルがある。下の子が、幼稚園の運動会の景品でもらってきた玩具だ。背の丈5センチほどの小さなそのボトルの中には、シャボン玉液がつめてある。猫の頭の白い帽子はフタをかねており、それをはずすと、裏蓋に垂直に立つ輪がついている。

 さほ子はそのフタをはずした。裏蓋の輪に、シャボン玉液がついている。テーブル上にこぼれる前に彼女はそれを唇で吹いた。すると、ふわりふわりと、三~四個のシャボン玉が、宙を舞った。風のないキッチンの中、さほ子の口から吹かれた風に乗って、虹色のオイル模様を球状の表面に潤わせながら、そのシャボン玉は優雅にキッチンの中を飛んだ。息を呑むほど、美しい光景だった。シャボン玉を吹くなど。もう何年もしたことがなかった。

 博人との、次のデートのときに、もって行こう、とさほ子は思った。下の子には申し訳ないが、と思うと、彼女のえくぼはまた、深みを増した。

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