夜の海

#1

 結局、さほ子とセックスはできなかった。

 ベッドにまでは入ったものの、博人のペニスが勃起しなかったからだ。

 さほ子はそれをいとおしげに愛撫し、「気にしないで」と彼を慰めた。

 博人にしても、想像したよりもはるかに、精神的ダメージが少なかった。それは年をとって羞恥心が薄れたせいなのか、それともさほ子と二度と、こんな風にベッドに入ることがなくなったという事実の重さのせいなのか、こころのなかで測りかねた。

 そして、博人のなかで「さほ子」は「彼女」になった。

 彼はもう、真夜中のベッドの中で、彼女を思って自慰することがなくなった。


 出逢ったばかりの頃、博人は彼女を運命の女だと信じた。その立ち振る舞い、美しい容姿、そしてなによりも、他の誰とも似ていないその人間性に、深く感銘した。彼女には、夫と子どもがいることは知っていた。しかも婚外に恋人がおり、その付き合いが深いことは、出逢ってから彼女に聞いた。

 でも、それが何かの諦めになることは全くなかった。

 こんなにも深く、人は片想いというものができるのだ、と彼女と知り合ってはじめて、彼は知った。


 辛かった。

 彼女が振り向いてくれないことが、ではない。

 そんな博人の気持ちをすべて知った上でなお、彼女の気まぐれで微笑まれることが、だ。けれどもそんな気まぐれが、彼女の何よりの美徳なのだ。どうして恨むことなどできよう?

 腹を据えて落ちた恋だ、と博人は思った。振り向いてくれないことぐらい、どうということはない。しかしいっそ、高校生の恋のように、遠くから見守るだけだったらどれだけ気軽だろう。だが彼らは、時々会い、食事をし、挨拶をかわすような気軽さで、常に彼は恋する気持ちを伝えた。迷惑がられない頻度でメイルを送り、つかず離れずの距離を保ち続けた。


 その間、彼はふたりの女性と付き合った。

 不実な恋だと言われるかもしれない。しかし、あまりにリアルを超越している彼女という存在は、博人の魂を焼きつかせてしまいそうだった。理想が形になって現れたのではない。彼女という存在が、知れば知るほど、理想の形になっていったのだ。

 太陽に近づこうとしてギリシア神話の青年は、蝋でできた羽根をつけて空高く飛び、やがて羽根を溶かして地に堕ちた。彼女という熱源は、博人にとってはその太陽そのものだった。だからその熱源から目をそらすために、彼には別の女性が必要だった。

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