幽霊

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幽霊

ステパン氏は少年が最後の一筆を描き終えるのを待った。まるでそれが彼に残された最後の務めでもあるかのように、彼はその短い凝視に従事することを喜んだ。そのことが現実に何の効果も表さないことを分かりながら、むしろ現実にある事態を修復するのに何の手立てもないことを実感する快楽に浸るため、彼は教え子の描く奇妙な動物たちの体つきをじっと眺めた。一つ、出来上がると彼をまるでからかうかのように、教え子の家畜たちは殖えた。

 師のこういう凝視に慣れると、教え子のニコライの方でもそのことに適応した新たな習慣を持った。このたったの十一歳の子供は大変聡明で、教えられたことを呑み込むだけでなく、すぐさま何かしらの習慣の形に変えた。その鮮やかな発明は人類全体が見習う必要があるべきもののように、少なくとも師のステパンには感じられた。たとえば「殺人」という、子供にはあらゆる理由から禁じられている行為は、「命」というものを彼が教えた翌日に、ニコライが手のひらに入れて示してくるようなものだった。

「先生、先生が昨日仰っていた命というものは、時間が経つにつれてこんな風に変色するのですね」

 しかも、こういう場合、彼には殺意があったわけではなく、ただ教えられたことの標本が欲しかっただけなのである。そうして一たび、自分で創り出した標本を本物と認めさせれば、今度はその標本すらも要らなくなってしまう。のち、彼の突飛な行動を理解するために他人は、彼を病的な昂奮の出来る人間だと思いたがった。しかし、幼時から彼に接して来たステパン氏から見れば、彼はどのような行為にも動機となる昂奮を伴わずに従事することの出来る稀有な人間で、殺人だろうと描画だろうと、ただ行うとなれば標的にピンを刺すときの冷静さでやり遂げ、そこに自分の感情の標本を創り出してしまう。そうしてそれが他人の目に留まったのを確認したのち、すぐに破いてしまう。その繰り返しをしているだけだった。

 いましも目の前で進んでいる描画も、彼のそうした昂奮でない感情の模写で、その絵が殺戮であったとしても、別段彼の昂奮を証拠立てるものではなかった。もし子供がそのように極端な感情を持つのであれば、ただ泣けば済むのである。ニコライは泣くことも出来たが、絵筆にその色を付けないように、彼自身は涙というものを使わなかった。そうしてこのような絵を作り上げ、ステパン氏が見届けているのを見ると、師の内心の求めに応じるように、ひとつ描き終えるごとに彼の目を見た。師の理解が進んでいないようであれば、ニコライは黙って次の牛に移る。ステパン氏の凝視は牛の行列のように鈍重なものだったが、ニコライの凝視はまるで鞭をふるう御者のように鮮やかに対象から対象に移った。馬の蹄に腹を踏みつけられている女性の絵を描き終わったところで、ニコライは彼女の息を止めるように描くのを止めた。


「ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン、」

 それから青年期に至るまで、彼は自分にこのように呼びかける、半ば存在し半ばは存在しない、半透明な存在に付きまとわれるようになる。ニコライ自身は、彼の生活に日光のようにごく自然に存在しているこの幽霊について、師のステパンを除いては誰にも詳しく話さなかった。ただ特段、幽霊との会話を隠したりもしなかったため、周囲の人間は彼が「ヴェルホーヴェンスキーが、」と言う時、それが彼の師であるステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーの言葉だと考えていた。

 しかし時にはステパン氏自ら「それは、僕の息子のことですよ、僕の息子のペトルーシャが、彼にそう言ったんです」と訂正する場合もあった。周囲の人間は、ステパン氏のこういうときの真剣な調子、また事情ありげな様子から、彼に生き別れた息子があるという話を容易く信じた。それまで彼に息子があるなどとは、彼自身の口からも語られたことがないことを指摘する人物が現れれば、たちまちステパン氏から例の詠嘆調の説明が行われるだけだった。

 ニコライは、自分が何の努力などをしないでも、幽霊が他人の手で現実の名前、肉親、顔を、与えられてゆくのをただ傍観していた。彼は幽霊を失うことなく、成人した。

「何をそんなに塞ぎこむ必要があるんです、」

 幽霊、なかでも特に彼が最初に出会い、彼と濃厚な友情を築きたがった少年の幽霊は、彼とともに青年へと姿を変えていた。この幽霊はニコライと違い、塞ぎこむということがなく、幼少時からニコライの手を引くかのように、彼の行動を先導してきた。

 語り掛けてきた今も、「べつに必要からそうしているわけじゃないさ、」とニコライが言えば、幽霊はこう言った。

「そうかなあ、きみはつねに思案のたねを身体に仕掛けられたみたいに持っていて、まるで空腹の胃を満たすように思案しているように見えるけれど。それにきみはきみで、塞ぎこむことが好きなのじゃありませんか。そうでなければその気になれば自分の命ひとつ、手袋を変えるみたいに捨てられるはずのきみが、くどくどと十年も悩んでいられるはずがない。この十年のうちに、きみがついた嘘は数えきれないほどだけれど、そのためにあの可哀想な親父がどれほど苦しんできたか、分からないほどきみは鈍感でもないでしょう? それとも、鈍感になることにしたんですか、スタヴローギン」

 ニコライは、幽霊の青年の顔に触れた。彼の全身にアルコールが浸透すると、机や椅子、彼の身体を支える物の表面が、触れれば溶けるかのように不確かになるのに、幽霊の頬は冷たく石のように確かになるのが常だった。ニコライはその初対面のときに、幽霊が自ら語ったとおりに、彼が「ペトルーシャ」というステパン氏の息子であると信じていた。彼をその呼び名で呼び、ニコライはふいに幽霊の鼻を指先で掴んだ。

「痛いなあ、何をするんです」

「鼻があるんだな」

「ありますよ耳も目も、それに心臓もね。僕は初めから『例外』のつもりだったんでしょう。リーザや、他の哀れな連中と違って、僕は五体満足できみに生み出してもらったことを感謝してるんですよ。だから、その分のお礼をしなくちゃと思って、ずっときみの側にいるのに、きみときたら一体何が喜びなのか分からないんだからな、まったく、あれを除いては」

 ペトルーシャは不意に現れ、その時々でニコライを苦しめるようなことを幾らか言ったのち、自分の主張が終われば幕が下りたようにいなくなる。登場時からずっとそのような性質だった。彼はニコライの幻視の産物でしかなかったが、もしステパン氏に本物の息子があったなら、かくあったであろうと思われるような、性格や外見上の特徴の具体的な類似点を持っていた。ニコライ自身、この幼いときの想像の産物がそれほど出来すぎている理由が分かりかねるほどで「もしかしたら、先生には本当にペトルーシャのような息子がいるのかもしれない」と現実を疑うほどだった。しかしそれが現実には、ただ師を苦しめる冗談にしかならないことは、彼がステパン氏に直接そう尋ねた時の、師の動揺ぶりからも明らかだった。

 ペトルーシャが「きみがずっと親父を苦しめた」と言うのは、こうした彼らのやり取りのことを指している。ニコライ自身にそのつもりがなくとも、彼が自分の幻視の進んだことを報告することは、ステパン氏にとって確かな苦しみのたねだった。しかしステパン氏を最も苦しめたのは、この哀れな病気の教え子に対する、自身の罪に対する良心の咎めより、彼の雇い主であるニコライの母親に一切を知られるのではないか、という不安のほうだった。彼女が、自分の雇った家庭教師が、父親のいない哀れなニコライにどのようなことをしたかを知れば、恐らくその激情のままに、虫のごとくステパン氏を屋敷から叩き出すだろう。それまでステパン氏が、彼女からどのような愛情を受けていたとしても、何か一つの疑惑でそのような事件が容易く起こるだろうことを、聡明なニコライは彼女の息子ながらよく分かっていた。それは明日、雨が降るかどうかという心配にも近かった。しかしニコライは他方で、これほど師を長年苦しめているのが、ただ明日雨が降るかどうかという程度のことであることを、なお信じられない程度には、師匠を何かえらいものだと思っていた。

 ニコライとステパン氏は生徒と家庭教師として出会い、あらゆる対等な人間同士にある関係を築き、ある時期には親友となり、また後に親友でなくなったが、そうなってからもなお、ニコライの方がステパン氏に対して、薄い友情に近い優しさめいたものを保持していた。ステパン氏の方では、途中から正体の知れなくなったこの少年が、彼に殺されたことを訴え続ける幽霊のように見えていた。

 

 十六歳でニコライは、進学のために家を出た。この別離はニコライとステパン氏、双方の人生を回復するのに役立つはずだったが、ニコライの方がこの別離に成功出来なかった。ステパン氏はそのお喋りのように饒多な情熱の矛先を、すぐにこの擬似的な息子から他へと移すことが出来た。しかしニコライの方は、ステパン氏の他の大人とは特に打ち解けず、貝のように薄くて硬い外殻のある表情のなかに、己の感情をひた隠すようにさえなった。

 学習院へ進学してからも、彼は師との思い出にあるような関係を、他人と築こうとしなかった。このような時間の堆積のあと、彼に起こったのは奇妙なことに、まるで果実が熟れてその実を晒すような、野蛮で決定的な美貌の開花だった。彼の名前はのちに、類まれなその外見の美しさに付けられた名前になった。豊かな髪、透き通るような肌、赤い唇、これら全ては見る者を支配したが、しかし同時に、鞭で打ったように相手を恐れさせ、嫌悪させるものでもあった。

 学校を卒業すると、彼は母親の望むとおり、また彼の父がそうであったように軍務についた。青年将校となってから、彼は風聞や他人からの便りによって、彼の母親を喜ばせたり、また、卒倒させたりしたが、ある時期からはめっきり、卒倒させる方が多くなった。ステパン氏は、彼の雇い主でもあり、またかつての彼の小さな愛人の母親でもある、ワルワーラ夫人をなぐさめた。彼はきっとシェークスピアに登場する、ハリー王子であるのに違いない、などと。

 ニコライがその素行の風聞により、母親を最も苦しめていた頃、彼はペテルブルグにいた。ゴロホワヤ街に複数のアパートの部屋を持ち、そこで精神障害を持つ女性と共に暮らしたり、あるいは隣の部屋続きの親子と親しくし、両親の留守中には子供の相手をしたりした。父親のスタヴローギン将軍の残した領地からの収入があったため、経済的な問題が起こることはなかったが、これといった理由もなく、うち一つをドイツ人に賃貸ししたりした。

 要するに彼の生活には、行動に理由というものがなさそうであり、また一方、あらゆる理由を持たないでいるために、片方の行動と対になる正反対の行動を取ることで、バランスを取っているかのようでもあった。将校になってから、彼は二件の決闘沙汰を起こしたことがあるが、うち一人は即死させ、一人は不具者にしていた。しかしどちらが本気で的を狙ったものかは、周囲の誰にも判別できなかった。

 この事件で降格した後、彼は別の機会に功績あって、早々に将校に復帰している。彼の行動はあたかもオセロの盤の上で、白い石と黒い石とを交互に並べているかのようだった。ある白い塊が陣地を作れば、もう片方の黒石がこれを囲んで裏返してしまう。

 幽霊のペトルーシャはどんな場合でも彼のする遊びを傍から覗いており、彼の脳の左半分に向かって「きみは自分が理由を持たない理由さえこうして消してしまうんだね」と評したが、実際、彼はどんな行動のあとでも、その理由を周囲に悟らせなかった。彼の心臓はまるで、己に血液のあることを隠すように、懸命に動いて血液を手繰り寄せ、また吐き散らしているかのようだった。

 他方、まるで鼻が一つだけで顔の前で垂れているみたいに、彼が何とも釣り合わせずに保っている習慣もあった。これが子供の頃から引きずるように継続した描画だった。この習慣はあたかも機械の故障のように、また傷口からの出血みたいに仕方なく彼に続いていた。これは明らかに、ステパン氏との事件とバランスを取るべく彼に芽生えた行動であった。しかし彼自身、幼少時の事件について誰にも打ち明けなかったため、既に他人の目から永遠に隠ぺいされていると思われる出来事との関係を、彼が気にする必要が生じなかった。

 彼はらくらくと他人の前で、ただの気まぐれのように描画をすることが出来た。いつもポケットに手帳をしまっており、他人の話に退屈するとすぐさま取り出し、何やらメモを取っている素振りですっかり彼の顔を、下半身を動物にした風刺画そっくりにしてしまう。そしてどんなにふざけた絵の場合でも、彼の絵のタッチには、病人の吐く血痰のように、いくばくかの才能のしるしが混じっていた。他人はそれを、ただのスタヴローギンの肉体の欠片だとみた。そこに、幼少期から続く彼の苦悩が凝って沈んでいるとは、全然誰も想像しなかった。スタヴローギンを苦しめることの出来る人間がどこにいるだろうか。――

 他人を小馬鹿にする風刺画の他、彼は植物などもよくスケッチした。また幼い子供の顔なども。彼の残した手帳には、多くの子供の表情が写されており、それはまるで子煩悩な父親が、子供の成長を留めようとして描きつけたもののように見える。彼は友人の妻に産ませた赤ん坊のほか、とうとう彼自身の息子などは持たなかったのだが。彼が貧民街の人間や、娼婦などと付き合っているという風聞は、母親をして息子の正気を疑わしめたが、彼らの多くは実際には絵のモデルだった。ニコライは自分自身が、彼らのようでないことをすっかり承知の上、感情が顔の裏側でなく表側に縫い付けられているような、彼らの姿にすっかり惹きこまれ、彼らの顔を描くことを自分に課すことで、何かしらの溜飲を下げるようなことをしていたのである。自らについて多くを語らなかった彼が、この種の溜飲について母親に話すことはとうとうなかったが、精神障害を持つ妻にだけは打ち明け、逆に自らの姿を描かせたりもしていた。

 ある日の午後、ニコライはペトルーシャ一人を伴い、ペテルブルクの街に散歩に出かけた。もし泣いている少女だとか、子供を叱りつけている洗濯女、あるいは馬車に轢かれて死にかけている老人など、彼の目をとくに惹くような光景があれば、それらを手帳に描くし、全く見つからない場合には何もしないつもりでいた。幽霊のペトルーシャは絵画になど関心はなかったが、スタヴローギンが目的もなしに出かける場合に、何かしらの災厄に見舞われるのを見ようとしてついて来たがった。ニコライは、この長年の付き合いになる寄生虫には、病気の飼い犬に対するような独特の愛情を持っていたので、彼が現れるときはしたいままにさせた。もっとも、彼が意識してこの幽霊を自分から取り除くことは出来ないのであったが。

 この日、彼らは街の外れへと流れていくうち、ペテルブルグの街を貫いて流れる運河沿いに来た。真っ黒な水が壁のように連綿と続き、その先にある橋の下を通り抜けていた。橋の上の一隅に、子供たちといくばくかの大人たちが、束ねられたように居た。彼らは橋の上を吹き通る風に寒そうに耐え、帽子や外套を抑えたりしながら、時たま橋の下に向かって叫んでいた。彼らが同じ寒さのなかで凍えているのと同様、同じ昂奮に束ねられて緊張しているらしい様子が、遠目からも何となく分かった。

「スタヴローギン、」とペトルーシャが同意するような、また鼓舞するような調子で彼を呼んだとき、彼は平静にない軽快さでこの幽霊を置き去りにし、彼らの眺める橋の下へと駆け寄っていた。

 溺れているのは、犬や猫でなく人間の子供だった。どうやら子供たちの間で度胸試しをするうち、誤って手摺から落ちてしまったものらしかった。まだ春になって間もない水は容赦なく子供の体温を奪い、橋柱にしがみついているその顔には寒さと事態に対する恐怖から色というものが抜け落ちていた。

(ああ、こんな風にやられちゃ、)とニコライは考えた。

(子供の顔一つにしたって、自然のなかに放っておけばあんな見事な顔色が出来上がる。あんな色はどうしたって、どんな絵の具を使ってみたところで出やしないというのに――)何であろうと、彼は匂いを嗅ぐように容易く身に付けてしまい、努力というものを経ないうちにある程度の完成をみてしまうのだったが、人間の表情を描くことに関しては、彼は人並みに苦労を強いられていた。まして彼は、その秀麗な容貌を仮面の顔と評されることもあり、感情というものは専ら他人の顔の上で眺めるものと決めてしまっており、体現者としての経験に乏しかった。この時も、彼はまるでオセロで自分の知らない手を見つめるように、子供の顔に浮かぶ死がそのまま出来上がり、盤上ですべての石が裏返る瞬間が来るのを密かに待った。その瞬間は彼の経験上、直前の騒ぎがこれほど明るいにもかかわらず、冷たい石同士が擦れあうほどに静かに、微かな気配でいつの間にか完成してしまうものであったから、息を殺して注視する必要があった。

 ふいに彼は、頭上で何か大きな物音がしたように感じた。実際には、馬車が荷物を搭載して橋を揺らして過ぎていっただけのことであったが、彼は目の前の事態を壊されたような不意の衝撃を感じ、その方に目を遣った。彼が見た先には、彼が目を離した水と同じ色の僧服を身につけた子供がいた。それは暗い色の外套のようにも見えたが、彼の身体つきにも合っていないところをみると、どうやら大人用の僧服を引きずるように着ているらしかった。またそれだけでは寒そうに見えるのだが、外套も帽子も何も身につけていなかった。彼の落ち着き払った態度、また立っている位置からしても、彼が落ちた子供の仲間の一員でないことは明らかであり、また野次馬として眺めている大人の中にも、彼を伴っているらしい大人は見当たらず、彼は一人きりでこの群れに加わったらしく見えた。

 こういう風変わりな人物を目にした時の習慣として、念のためニコライは傍らのペトルーシャに尋ねた。

「いいや違うよスタヴローギン、」とこういう場合、幽霊はニコライを欺かずに答えた。

「あれはきみが描いたもんじゃないよ、ぼくらの誰とも違う。ぼくはあんな子供、見たことがない」

 ニコライが再び眺めたとき、僧服の子供は同じ姿勢で橋の上に立っており、ニコライは彼がペトルーシャと違い、手で打ち消すことは出来ないくせに、ふとした瞬間に消えてしまう肉体をしていないことを喜んだ。彼は外套を身につけず、寒さを感じていないかのようだったが、目の前の子供の溺死に対し、何ら感動していないらしいことがその姿から明らかだった。遠目に見えた彼は栗色の髪をし、墓石のように硬質な白い肌を持ち、頬や唇には何らの血色も見当たらない。まるで無言そのもののような静謐さで橋の上に立ち、目の前の子供の死を形作る最後の白い石ででもあるかのように居た。ふいにニコライは、彼が酒場で時折唐突におこし、密かに女性的なヒステリーとも噂されていた、れいの馬鹿笑いの発作に見舞われた。それは彼が特定の感情の投げる網にかかりそうになった時に、水中をもがいて逃げる魚の示す最期の抵抗のようなものだった。彼は手袋を手から抜くように造作もなく、目の前の水を打ち壊した。新たな波紋が出来上がるのを見て、子供たちから歓声が上がった。


「安心なさい、みんなただのきみの発作だと思っています」とペトルーシャは言った。

「きみってひとは気まぐれで、人を馬で踏み潰したり、憐れな女を救ってやったり、また貧しい人に恵みを垂れたかと思えば、侮辱した相手をピストルで撃ち殺したりするんだから。いまさら、子供一人救ってやったところで何です。誰もきみを聖人君子だなんて見替えたりしませんよ」

「何もそこまで期待しちゃいないさ、」とニコライは答えた。

「ただこんな善行をした後でさえ、ずっと気違いのように見られるのが癪でね。僕が正気で人間を助けたことが、何故そんなにも不思議なことなんだろう。母上は何と仰っている?」

「あのひとは実に聡明ですよ、」とペトルーシャは笑いをかみ殺しながら言った。

「きみの母上であるということを抜きにしても、ぼくはあの女性が個人的に好きだなあ。あのひとがこんな場合に見せる聡明さときたら、日ごろの賑やかさに隠れてしまっているようでも、それだけに動物の本能みたいに本物らしく見えるんだ。今回のきみのゴシップは、あちらの一部のご婦人たちには大層評判でね、これまでのきみに関する不穏な噂はすべて誤解に違いない、なんて言い出すひとまで出てきたんです。それに応じないといけないきみの母上、ワルワーラ夫人と言えば、ほんの一部の友人にはこぼしていましたよ。ええと、<ニコラス、私を苦しめる手はずが整っていることを、とうとうこんな形で知らせてくるようになった>だったかな。

 もっとも、これはぼくがこっそり覗いてきた手紙の一節であって、ぼくへの返事ではないですよ。ぼくはずっと匿名の誰かとして手紙を差し上げているだけで、ぼくが正式には存在しないことすら彼女は知りません。いつかぼくの存在を知って、あの女性がきみのこんな稀有な才能を知るときがあればいいのになあ。もっとも、きみが人助けした話ですらこうだから、きみの才能なんかを知った日には首をくくるでしょうね」

 彼らはペテルブルグにある酒場の二階に居た。ニコライはどこでもペトルーシャと会話することが出来たが、彼らの関係のとおりに普通に話すためには、ニコライの方で酒場と酒とが要った。酔ってしまえば、彼のように目に見えない知人と会話する人間はべつだん珍しいものではなくなった。しかし、彼らの会話の相手はほぼ肉親で、また幽霊でもなく、健在である場合が殆どだった。健在な人間に対する過去の行動の後悔が、相手を時に死人にさえしてしまうということを、ニコライは自分とは無関係な事実として発見した。

 二階の手摺からは、一階でたむろする客の表情がつぶさに眺められた。彼はこんな場所では何も描かなかったが、時には面白い表情を浮かべた人間に出会う場合もあり、そんな場合に彼はただその表情を近場で眺めるためだけに接近した。泥酔している人間の顔の上には、皿の上の肉や野菜のように、様々な感情が載せられているようだった。ふいに一階の扉が開き、例の僧服の子供が入ってくるのがニコライの目に映った。ペトルーシャに「あれは幽霊じゃない」と言われてもなお、自分の目が信じがたいほど、彼の存在の雰囲気はどこか人間離れしており、人間と犬ほどにも違って見えた。子犬のような身体を相変わらず僧服で包み、彼は女たちや酔漢の間を泳ぐように縫っていった。

 彼らのうちの一部がさざめくように笑ったところを見ると、彼はニコライが親しんでいる幽霊でないことは確かだったが、他方で一部の客や店員の間には、その存在の仕方を既に認められてしまっているような雰囲気が彼の登場から付きまとった。奇妙な子供は人々の間を縫いつつも、ある目的に向かってまっしぐらに進んでいるようだった。やがて一階の隅で鼾をかいている、体格の大きな青年の襟首をつかんでは「兄さん、兄さん」と言い揺さぶり始めた。


「兄さんじゃないですよ、あれは」と後日、ペトルーシャは橋の手摺にもたれながら言った。話し声がかき消えるという理由から、彼らは日中に話す時には、駅や港などの交通量が多い場所を選んだ。いずれもいつスタヴローギンが身を投げてもおかしくないような危険の淵で、ニコライはいつか自分の最期が、ペトルーシャとの会話を目撃されて不当に裏付けされるのではないかとも想像した。もっともその度、そんな偶然の入り込むような不完全な死だけは、自分に課すまいとこの青年は考えて想像を止めた。

「兄でも何でもないんですよ、あのとき、彼らはまったくの初対面です。もっとも片方は酔いつぶれていて何も分かっちゃいないし、もう片方にしたって何か分かってるわけでもないんだけれど」

「でも、あのときあの子供はまっすぐあの男に向かって行ったじゃないか。人を間違えたのかな」

「ぼくの調べたところ、どうもそうじゃありませんね。あの子供にはあんなに歳の離れた、あんなに体の大きな兄はいません。いや、いないことはないんだけれど、対面したことがないし本人が知るはずがない、というのが正確かな。ともかく、あのときあの子供は、全然自分の兄とは違う相手を呼んでたんです、スタヴローギン、ぼくの言う意味が分かりますか」あれは気違いですよ、きみのきらいな、とペトルーシャは小声で付け加えた。その声は低く、ニコライはあやうくもう一度訊き返すところで止めた。

 ペトルーシャの調べによれば、あの子供はアレクセイという名前で、決して幽霊ではなく、まして乞食や坊主でもなく、実在する他県の領主の息子であるらしかった。貴族の息子が、何故こんな所をさまよっているのかと言えば、彼が父親から見捨てられているということ、またヒステリー気質のあった母方の遺伝を濃く受け継いでいるということ、また現在の養育者である後見人からは、一種の神がかりのように持て余され、発作を起こすことも容認されてしまっているという事情があることが分かった。父親は初めから彼の存在に関心がなく、彼の母親が死ぬと、彼は召使の手で育てられていた。その後、母方の親戚によって、三歳ほど年上の兄のイワンとともに引き取られ、母方の親戚が選んだ善良な後見人の手で育てられるようになった。

 兄のイワンは十三歳になった頃、ペテルブルグの全寮制の中学へ進学するために家を出た。アリョーシャは兄との別離をそれほど苦しむ風でもなかったが、この一年ほど、ふいに列車に乗ってペテルブルグに現れては、何やら兄とは似ても似つかない他人を呼び止め、保護されては養家に送り返されたりするようになった。しかし何度叱られようと、またイワンに疎まれようとも、養家のさほど厳しくもない監視の目を抜けて、彼はひんぴんと街に現れるのだった。

 いなくなった兄を探しに、時に乞食のような格好で現れるこの可憐な子供は、彼を保護した貴婦人や娼婦の間で評判となり、街の一部の人間の中で、アリョーシャは信心深い神がかり行者のような人気を得つつある、ということだった。

(それにしても、その純真な坊やが、なぜあそこで子供が死ぬのを眺めていたんだろう)

 きみがぼくを完全にしなかったからですよ、と言い、ペトルーシャには時折そんなことがあるのだが、ニコライの質問の答えを全て探し終える前に、自分の手がかき消えてしまったと言ってべそをかいた。

「この次にぼくを考えるときはきっと、きっとちゃんとぼくの手足ぜんぶ、ちゃんと想像してくださいね、きっとですよ」

 あんな子供のことなんぞ考えていると、あなたは自分の顔をすら分からなくなりますよ、ぼくが言うんだから、絶対ですよ、と言い彼はふいに収縮してみえなくなった。


 ペトルーシャの計らいであるのかどうか不明ながら、ニコライ自身は何の苦労もなく、彼が再び見たいと願っていたアリョーシャの姿を見つけることが出来た。アリョーシャは性懲りもなく、またペテルブルグの酒場に、中学生の兄を探し求めに来ていた。だがイワンがここに現れる根拠というものはそもそもなく、アリョーシャは家路への道を間違って進むように、間違ってここに現れていたのに過ぎなかった。彼は迷子らしからぬ(自分が迷子だとは全く考えていなかったのだが)果断さで、最早歩きなれた店のなかを歩き、前回に話しかけたのとは別の、身体の大きな酔漢に向かって「兄さん、」と言った。


「あれで言えば、ドミートリイの方なんですがね、」とペトルーシャが付け加えて言った。

「何が?」「アリョーシャが兄だという相手ですよ。イワンの方じゃなく、ドミートリイの方に似ているんです」

 ドミートリイというのは、アリョーシャの八つ上の腹違いの兄だった。下の兄弟たちと異なるのは、彼の場合はごく幼いときに母親が駆け落ちして彼の元を去ったため、彼には母親の思い出さえもないということだった。また父親には当然見捨てられており、母方の親戚をたらい回しにされた後、早くに陸軍の幼年学校に入り軍務についた。母親譲りの恵まれた体格と、気性の烈しさとを持っており、軍でもしばしば問題を起こしているということだった。

「それじゃ、この兄貴の方なんじゃないのか」

「いいや、ドミートリイとアレクセイ、それにイワンもですが、彼らに面識はありません。それに軍人の兄貴はコーカサス地方にいて、ここで見かけるはずもない。ペテルブルグに探しに来てるっていうことは、やはりイワンのはずなんですよ。ただしあのおかしな坊やが、ここをコーカサス地方だと思っていなければですがね。

 そもそも彼らは兄弟同士でも、お互いが存在していることを知っているかどうか。ぼくが見聞きした範囲でも分かりません。いちばんよく承知しているはずの親父が、自分に息子というものが何人あるかを、正確に承知していない様子ですからね。彼らカラマーゾフの兄弟は、誰からも兄弟とは呼ばれないんです。彼らが兄弟であることを承知している人間が、この世に誰も居ないも同然ですから。ああ、イワンとアレクセイとは承知していますが、ドミートリイの方は母親が違うし、腹違いではお腹のなかでもすれ違えないんだから、やっぱり互いに知らないのじゃないかな。なのにああして兄さん、兄さんて、二人の兄を取り違えて探し回っているんだから、あの子はよほど神がかりの母親の血が濃いのかな。イワンとは母親が同じだということだけれど、この弟の方に一切の血が行ったのかもしれない」

 ふと見ると、一階にいるアリョーシャが、あたかも自分について話す声を聞き取ったかのように、集中の凝った目でこちらを見ているのが見えた。ペトルーシャの声が彼以外の他人に聞こえたはずはないのだが、その目がはっきりと会話の内容に対する反応を宿していることに、ニコライは軽い戦慄を覚えた。彼は蟻が、蝶の死体を巣穴へ引きずっていくかのように、自分よりはるかに大きな身体の酔漢を引きずって襟首を掴んでいるところであったが、ふいにそれを離し、彼らのいる二階へ続く階段を駆け上がってきた。


 アパートに戻って眠る際、ニコライはいつまでも子供に掴まれた手のひらを裏返したり、左右に振ってみたりして飽かず眺めていた。幽霊のペトルーシャと違い、彼の手は不注意で消えてしまうということはなく、なだらかに続く坂道のように、惰性で続くように実在していた。

 ペトルーシャは彼の不注意が、自分の存在を損なうのだと言い彼によく抗議するが、ニコライ自身、できれば自分がそういう肉体でありたいような気がした。不注意を頭に灯している間は、存在しない肉体。そういうものが自分にあれば、既にそういうものである彼の魂の性質にぴったり合うのではないかとも思われたが、彼は自分で自分の顔を見ることが出来ないのと同様に、自分自身をそのように紙の上で造形してやることは出来なかった。彼の手は彼の影と同じぐらいずっしりと、彼に備わって離れなかった。

(爪痕だけが、ない。――)と彼はつくづくと眺めた。子供に痛いほど掴まれたときに、ついた薄い爪痕ばかりが、眺める間もなく彼から飛び去ってしまった。

(あの子の爪痕だけが僕自身に残ったら、そしたら手の方は要らないのに。――)

 彼は自分の本心をそのように反芻することで、アリョーシャとの再会において彼が感じた失望を埋めようとしていた。

 

 アリョーシャはニコライを見つけた後、すぐに階段を上がってきた。そして傍らにいるはずのペトルーシャには目もくれず、彼のテーブルの前に現れた。こうして間近で見た時に、抽象的に見初めた姿との差異を感じ、軽い失望を覚えるのはいつものことではあった。だぶたぶの僧服は塵がついて汚れ、栗色の髪はもつれていかにも不潔だった。彼の姿は孤児か、あるいは乞食僧のようだったが、どこといって特別な点はなかった。また彼の顔について言えば、あの墓石のような素晴らしい冷たさはどこにもなく、色は確かに白いものの、頬は感激のために薔薇色に染まり、いかにも昂奮しやすい性質を表しているようだった。

 彼はニコライを前に、早熟な少女のように感激し、その喜びを溢れんばかりに目に溜め、怯えたような震えを口元に上らせ、何か、彼に向かって言いたいことを言おうとして言葉にならない様子だった。彼は耳元でつんざくような声で名前を呼ばれたような不快を感じ、うんざりとしながらも穏やかに微笑んで見せた。

 すると、その微笑に対し、叱責を受けたような怯えを彼の方が見せたので、これにはペトルーシャが驚いて声を上げた。

「ふうん、まんざら馬鹿でもないんだな、気が違っているくせに」

 アリョーシャは彼の言葉には何の反応も示さず、しかしその声の直後に一歩、ニコライに向かって進み出た。これにはあたかも、彼の頭のなかにある儀式の過程を見せられたような印象が伴った。彼は頬に差し上る自分の血を鎮めようとするかのように、ぱっと両手で顔を覆って俯いた後、それからニコライに向かって差し出すようにその顔を向けた。

 相変わらず血色のよい、年齢相応の健康さに満ちた顔がそこにあり、ニコライはこれがアリョーシャの顔の実態であることを受け入れようとしつつ見た。薔薇色の頬の下、半ば咲くように開いた口元から、彼の想像しない声が転び出た。猫が橋の上を渡る足音のような、柔らかくて発音の境目の曖昧な声で、墓石は決してこのように話すまいと思われた。その声は羞恥のためにやや曇りながらも、ニコライに聞こえる程度にはっきりとこう言った。

「スタヴローギンさん、どうしたら、あなたのようになれますか」

 ペトルーシャはあやうく、笑い声によってアリョーシャの声をかき消すところであった。彼は思うさま、残酷にアリョーシャの実態に向けて振る舞うことに決めたらしかった。彼は椅子をきしませて笑い、また声にならない笑いで身体を震わせてさえいた。その姿態は何だか激昂している場合の彼にも似ていた。

 ニコライは彼の笑いに感染するまいとして、窘めるように彼の椅子をみて俯いた。それはほんの数秒の出来事ではあったが、ニコライが目を上げた時、アリョーシャが困惑の色を浮かべつつ、ペトルーシャの椅子を見ているのに気付いた。彼はニコライの視線にぶつかると、燭台の炎を吹き消すようにふいに焦点のない目になって俯いた。それにはごまかしたと言えるほどの鮮やかさもなく、行動の境目が万事曖昧であるため、どこまでが偶然でどこまでが作為によるものか、見た目には全く分からなかった。彼はニコライの視線のなかで、委縮するかのように身を縮め、その委縮のなかで己の目つきを隠すようなそぶりをした。ペトルーシャは最早彼を笑わずに見ていた。

 ニコライはアリョーシャに質問をした。それは大人が初対面の子供に対してする、ごくありふれたものだった。彼は努めて、アリョーシャの前で何者でもないかのように振る舞おうとしていた。アリョーシャもまた、そう努めた訳でもあるまいが、ニコライの前で何者でもない、平凡な子供としての自分を露呈し始めた。そして彼をとても落胆させたことに「子供が溺れていた時、自分は確かにその橋の上にいた」という話を自らし始めた。

 ニコライにとって、あの事件が確かに印象深い出来事であったように、アリョーシャにとっても特別な出来事であった点は同じであるらしかった。彼はニコライが子供を救出した、その瞬間も目撃しており、それがスタヴローギン氏だということは「この街の人から聞いた」と言い、直接会って話す機会を待ち望んでいた、と言った。そして彼は雪玉を握りしめて投げる時のような、意を決した緊張を目のなかに閃かせて、ニコライに向かって言った。

「あのとき、ぼくはあの子を助けられないことに、歯がゆさを感じていました。――」

 彼が言うには、彼は確かにあの子供の仲間ではなく、偶然橋の上を通っただけだということだった。

「溺れている子は、ぼくと同い歳か、少し小さいぐらいでした。ぼくひとりの力では、きっと助けられないと思って、誰か、大人のひとを呼ばなければ、と思いました。でも、あの子が溺れているのを見ている中に、大人も沢山いたんです。でも、みんながあの子が死ぬのを待っているみたいに、何もしないでいました――」

 そう言った後、彼は「みんながそれを待っていた」と言った部分に気づいたらしく、後悔するような色を眼に浮かべてふたたび俯いた。

「でも、みんな何も出来ないでいました。ぼくだって、もしもあそこで溺れているのが自分だったら、誰が助けてくれるだろう、と想像し始めていました。まるで死ぬかもしれないのが、ぼくであるみたいに考え出していたんです、あの子が目の前で苦しんでいるのは、いまその場で起こっていることなのに、それを放ったらかして、もう済んでしまったことの、夢を見ているみたいな気持ちになって」と言い、彼はニコライの目を見返した。

「あなたが壊してくれたんです、スタヴローギンさん、あの時のぼくの悪い夢をあなたが壊してくれました」

 ニコライは頬に手を当て、アリョーシャが話すのにじっと聴き入りながら、ペトルーシャの沈黙にも同時に聴き入っていた。もしも彼らが共に話していたなら、きっとペトルーシャが言うであろうことを、彼の沈黙がしきりとニコライに囁いていた。

「アリョーシャ、きみに尋ねたいことがあるんだけれど、」とニコライが口を開いた。

「なんですか」

「それできみは、僕が子供をたすけたことを喜んでいるの? それとも、きみの悪夢とやらをぶち壊したことを? もし、きみが目覚めることを僕が手伝ったことを喜ぶなら、あそこを通りかかった馬車にでも感謝したらいい。あのとき、有体に言ってしまえば、僕も子供が溺れるのを待っていたんだよ。でも、馬車が通る音がしたんでそちらを見たら、坊さんみたいなきみがいた――」

 ニコライは、それ以上言葉によって、あの完璧な絵画のように見えていた光景を打ち壊すことを望まず、そこで口ごもった。諸事、身動きが緩慢にみえるアリョーシャは、彼の沈黙にも一瞬ののちに全身で反応するようだったが、この会話の時には、彼を見ているニコライの目をじっと見つめてきた。それはニコライにおもねる態度ではなく、彼がとっさに打ち消した言葉の影を、目のなかに周到に読み取ろうとする態度だと気付いたとき、ニコライはこの白痴扱いにされている子供が、身につけている人間への洞察の力に戦慄した。彼が微笑して、この詮索を遮ると、子供の視線は雲に遮られたようにやや陰った。彼自身、こういう自分を分かっているのかどうか、それさえも彼の態度からは想像がつかなかった。動物が、自分の冷酷さや俊敏さを生活のなかで、認識する時がその短い一生にあるのだろうか。

「きみが見ていたあの子供が、あのまま水に飲まれて死ねばいいと思っていたのは、僕も同じだよ。もう助からないと思ったとき、人がどんな顔をするのか、興味があって近づいたんだ。いまさっききみが非難した、『子供が苦しんで死ぬのを見て楽しんでいる大人』は、まさしく僕のことだよ。あのときは偶々、何という理由もなく助けたんだ。川の水はひどく冷たかったし、あの子供にしがみつかれたとき、僕自身ほんの瞬間だけれど、死の恐怖というものを味わったな。おそらく、そんなところじゃないかな、ときどき僕にはこんな気分になることがある――ひどく、自分を苦しめたくなるような、まるで背中の痒いところを掻くようなもので、自分でも背中に何をしたのか分からないまま、とにかく自分を痛めつけないと収まらないんだ。あの子供がどうなろうと、僕にはどうだって良かった。ただ、瀕死の人間の襟首をつかんで、その顔を見たくなったんだ。死の淵っていうところに興味があってね、本当にそれだけのことさ」

 彼はそう言うと、この少年の姿を見返した。それは彼の満足から出た幻であるのか、まるでアリョーシャの身体に大きな穴が開けられたように見えた。アリョーシャは確かにそんな衝撃を加えられたかのように黙っていたが、それから鈴を振るように賑やかに話し出した。

「もう一度尋ねますが、それじゃああなたは、あの子の生き死にについては、まるで問題にしなかったんですね?」

「そうだよ」

「やっぱり!」

 彼はそう言うと、スタヴローギンの前に立った初めに示したような、輝かしい感激の徴を全身で現した。両手をぱっと打ち付けて顔を覆い、発作を思わせる仕草で震え、ニコライがつい彼を覗き見た瞬間、まるで刺し違えるように正気の残った目で見返してきた。他人の言うことにはあれほど注深く、全身の血を傾けて聴くようなそぶりを見せるくせに、一たび感激したとなると、打ち合わせた両手の向こうに全世界を締め出して、感激のなかに転げ落ちるように没入してしまう。これがアリョーシャの癖だったが、ニコライを恐れさせたのは、この子供がこの無防備な癖を発揮した際に、一筋の他人への警戒を残していて、ニコライのような、むしろ彼の正気の方を信じる他人が伺った際に、手のひらを開くように正気の目を見せる準備が整っていることだった。彼はまったくの狂気に侵されているのか、あるいは完全に正気でいながら、野生動物のように本能のままに行動する自由に自分を浸した人間なのか、他人からは判別出来なかった。それには、彼の方に具体的な証拠があるかないかというより、そのどちらを信じる人間も、自分の信じるアリョーシャの方を好いている、ということがあった。

 彼はニコライの目を見つめながら言った。

「それだから、ぼくはあなたを信じているんです、ぼくはあなたの無関心さが好きです、崇拝していると言ってもいいくらいに!」

 この奇妙な告白の仕方には、言うときの白熱しきった調子のせいもあって、ペトルーシャだけでなく、彼の周囲にいた他の客をも笑わせる力があった。幾人かは、子供がスタヴローギン氏にこんな告白をしているのを見て、彼の悪戯だとみて笑い声を立てた。

「きみは僕の、無関心さを気に入って来たの?」

「ええ、そうです、」

「僕が子供をたすけなかったとしても?」

 アリョーシャは、くすっと笑い声を立てた。まるでこのことについては、彼が教師で、ニコライが生徒ででもあるかのようだった。

「あのねえ、スタヴローギンさん、無関心でなければあんなとき、誰も子供をたすけられたりしないんです」と彼は言った。ニコライはこの変化に少し面喰ったが、彼がこの顔をしたのはこの時だけで、それから自らニコライのした質問について言い出したときには、まるで宿題について当てられた生徒のような緊張を取り戻して、生徒のような顔つきになって言った。それらがみな、鳥の羽ばたきのように自然で、本能に根付いたものに見え、そして作為的な筋肉の稼働の成果にも見えた。

「ぼくはあのとき、溺れている子をたすけたい、と思いました。でも、ぼくと同じぐらいの重さの子供をたすけたら、ぼくだって死んでしまうのに違いない。そう思ったとき、大人が助けてくれたらいいな、と思いました。そして内心ではすっかり、ぼく自身が誰かを助けることをあきらめていたんです。自分の命のほうが大事だから。そのことはすっかり決まっていました」と彼は言った。

「それから、あの子がぼくだったら、と思いました。ぼくが死にたくないみたいに、誰かに助けてもらいたいのに違いない。そしてぼくでなく、他の子だったら、きっと助けてほしいと神様にお祈りするだろうと。ぼくでなく、世界中どの子供でも、きっと誰かが助けてくれるのを待っているだろうと思ったんです。あの子は、世界中のすべての子供の代わりに、ぼくのまえに居ました」ずいぶん嬉しそうにしゃべるんだね、とペトルーシャが横合いから呟いた。アリョーシャの耳には届いていないようだった。

「ぼくはときどき、夢のなかですっかり石みたいに固まってしまうんです。イワンはぼくをときどき『墓石みたいだ』と言います。『たくさんの死んだ人間が眠っている、冷たくて立派な石』だって。兄さんは、頭がいいからぼくにそんな風に説明してくれるけれど、ぼくは自分が立派な石だなんて思いません――でも、ぼくが頭のなかで沢山のひとを見殺しにしてきたこと、どうして兄さんは分かったんだろうと思いました」

 彼は昂奮してくると、手で何かハンカチのようなものをくしゃくしゃに丸める癖もあるらしいことがこの間に見て取れた。もっともその手には何も握られていなかったが、どこかで落として来たのかもしれない。

「ぼくには悪い夢があります、あんなときにきっと始まるんです。あの子が、世界中のすべての子供の代わりで、大人の誰もそれを助けようとしない。みんなあの子が苦しむのを黙って見てる。ぼくはその夢が本当になるのが嫌で、でも、あれが始まるとき、あれがすっかりぼくの前で現実と入れ替わるんです。あのときぼくは、現実と入れ替わった夢のなかに居ました。そしたら大きな音がして、見たことのないあなたが、あの子を水から引きずり出すところでした」そう言い、彼は微笑した。

「ぼくは、ぼくの悪い夢を続けようとしていたんです。子供が助からない、そういう未来を目のなかで作ろうとしていました。でもあなたが現れて、ぼくが夢みていた風景を壊してくれた。ぼくがそうなってはいけないと思った大人になる道を、あなたが断ち切ってくれた。だから、ぼくは感謝しているんです、こうしてあなたに会うことが出来て幸せです」

 それで、とニコライは続けた。

「僕の無関心については? 僕が子供の命にはまるで無関心だって、誰かがきみにそう言ったの? 僕がきみにそう言わないうちに、どうして分かったんだい、あのときのきみに――」「あなたが隠していなかったから」とアリョーシャは言った。この言葉には、断罪するような調子はみじんもなく、彼の言葉を遮るような強い調子は一切含まれていなかった。

「あなたには手がある、目もある、唇も――(そう言ってニコライの顔をまじまじと見る内に、彼は早熟なお嬢さんのように赤面した)あなたに教えられなくても、あなたに無関心があることは分かります、あなたの顔を見たら」

 そう言いながら彼は、服を着ていない他人を見るみたいに急ぎ目を逸らし、羞恥心のなかに埋もれるみたいに首をすくめた。彼はこうしたことをずけずけと言いながら、自分の目を侵している目の毒に耐えられないように恥ずかしがるのだった。

「あのとき、あなたの顔が少しだけ見えたんです。あなたはあの子を拾い上げて、子犬みたいに堤防の上に転がしていました。あなたは全く帽子でも投げるみたいにあの子を打ち捨てて、それからしゃがみこんで何か話しかけていましたね、覚えていますか? そのあとで一瞬だけ、こっちの方を見たんです。それから、あの子を助けに他の人たちが駆け寄った時も、あなたの顔にも全く見えなかったみたいに、あなたの肩にも背中にも、子供を助けた喜びは見当たりませんでした。あなたは全然、あの子に関心なんかなかった!」

 ニコライは苛立った調子を露わにして、彼に向かって続きを話すように顎でしゃくって促した。これは彼について比較的多くの事を知っている知人に対する、彼の親しみの表現でもあった。

「それで? きみは僕のことを冷酷な、悪魔みたいな人間だって考えているのかい? 誰かがそう言ったの?」アリョーシャはかぶりを振った。

「いいえ、そうじゃありません。あなたがあの子に無関心だったことにも、ぼくは感謝しているんです。だって、橋の上の大人がいい例で――みんながそうだったみたいに――、あのときもし、関心のある誰かがあの子に近づいていたら、きっとあの子は水のなかで殺されていたはずですから」

 そう言うと、彼はふたたび感激の発作に見舞われたらしく、せき込むような仕草で身体をかがめた。そして「殺されていたのに……、だから……、」と何やら呟きだした。ペトルーシャがめざとく発作の兆候を見つけて、ニコライに向かい(この坊やに水を飲ませるように)と、グラスの水をすすめた。アリョーシャはペトルーシャが声を出さないうちから、テーブルのグラスを取り、勝手に中身を飲み干すと、アルコールの苦味に顔をしかめた。

「スタヴローギンさん、軽蔑しないでいてくれますか?」

「何を? きみがヒステリーを起こすことを? それとも坊さんなのにこうしてお酒を飲んでいることを?」

「ぼくが無関心になってもです、誰に対しても、この世で苦しんでいる誰に対しても」子供も、女のひとも、ぜんぶ、と言い彼はまるで酔ってでもいるみたいにニコライの手に触れてきた。そしてまるで自分の所有物でもあるみたいに、その指を折ったり開いたりした。

「約束するよ、きみが無関心になって、子供や、妊婦や、老人や、憐れな連中みんな、馬車で踏み潰すほどの無関心になったら、僕はきみに訪れた救済について祝福するだろうとね。無関心にさえなればきみは、きっと世界中の子供たちを救うことが出来るようになるだろう。彼らが生きようが死のうが、最早きみの欲望には関わりのないことになるんだから――(彼はアリョーシャの反応を伺ったが、池のなかに小石を落としたほどの波紋も現れなかった)そんなきみを、いったいなぜ僕が軽蔑する? きみも見ていた通り、僕は自分の危険も顧みずに子供を助けることの出来た、ほとんど唯一の大人だったというのに」

 こんな冗談めかした言葉を、十二歳のアリョーシャはニコライの手をしかと握りつつ聴いていた。そして彼の返答に満足したしるしなのか、ぎゅうと爪痕が残るほど強く握りしめてきた。そして僧服をからげるようにしてふらふらとした足取りで戸外に出て行った。その間、店の中の誰も彼に構わなかった。


 この再会における遣り取り、正確に言えばアリョーシャから洩らされたこの告白は、当初のニコライの彼に対する情熱を無残に打ち砕いた。アリョーシャが痛いほど強く握りしめた爪痕は、その晩に彼が眠るころには薄れて消えていた。その痕跡、また彼に対する当初の情熱が無くなった後も、彼と話した記憶は、スタヴローギンの脳裏にはっきりと残された。目の前に彼の身体がなくとも、彼の話した声やものの眺め方だけが空中に浮いて漂うようだった。

(また、探し出して会おう)と彼は思った。根拠はなかったが、昼夜問わずあの僧服を着て、施し物を貰ったりしながら街をうろついている彼の姿が目に映るようだった。

(あんな調子でいれば、兄の方から探しに来そうなものだが――)

 あの身なりでは、ペテルブルグで浮浪児のような生活をしだしてから、随分と時間が経過していそうだった。しかし誰からも顧みられていないところを見ると、もはやこの半気違いになった弟に対し、家族の誰も接触を拒んでいるのかもしれない、とも思われた。

 ふと、兄さん、という彼の切迫した呼び声が耳によみがえった。彼はああして当てどなく、兄でない他人を呼び回っている。それは保護者に甘えかかるというより、溺死しかけている人間を回復させるために呼びかけているような切迫した感じがあった。あの兄探しは、果たしてこれほど彼を必要としない兄に向けて行われているものなのだろうか。また、誰をも救えるように誰にも無関心になりたいと告白した彼は、兄に対する自分のこれほどの執着をどう片づけるつもりなのだろうか。

彼はまた、アリョーシャとの別れ際を思い出した。彼は話し終わるとふと、お辞儀をし終わったような顔つきになって彼の前から去った。彼は「兄」を求めて店内に来たのにもかかわらず、あの時ばかりは泥酔者の誰にも近づかず、「兄」の身体を巣穴に持ち帰ることなしに、手ぶらでどこかへと消えた。


「お母さんのことは覚えています、ぼくの身体を抱き上げて、お祈りしているところです」

 まだぼくが小さいときに亡くなっているから、ぼくがそんな風に覚えているのはおかしいって言うひともいるけれど、

「でも有体に言って、ぼくはお母さんの身体から産まれたんですからね、スタヴローギン、ぼくがお母さんのことを覚えているということがそんなに不思議でしょうか?」

 ニコライはかぶりを振った。アリョーシャは何かを手のなかで丸めながらでないと、込み入った話ができないのか、手のなかに必ず何か彼の集中の犠牲を掴んでいた。このときはどこかから毟り取ってきた花弁で、それを男の子が昆虫に対してやるようにばらばらに分解しつつ喋っていた。まるで彼の言葉が彼の手から、いちいち花占いをやるみたいに零れているかのようだった。

「これは信じてもらえるかどうか分からないんですが、スタヴローギン、ぼくじゃなくてお母さんの記憶じゃないかしら、と思われることだってあるんですよ」

 どんな記憶? とニコライは尋ねた。

「あのねえ、扉の前でコップを割って、中に入れていた水をみんなこぼしてしまうんです。扉の下から水が這い出して、中にいるおばあ様に見つかってしまうの。そしてうんと叱られる夢」

 彼は、自分が反芻する癖のある記憶をぜんぶ「夢」と簡単に言った。ニコライ自身、自分の幻視をそのように言葉の上で簡単に片づける場合があり、アリョーシャの言う「現実と夢とが入れ替わってしまう」という状態は、自分の幻視における酩酊状態と近いのではないか、とも思った。ただしそこまでこの神がかり行者に向かって、告白する気にはなれなかった。

「それから首つり縄で首をくくる夢」と出し抜けにアリョーシャは言った。それを言い出したときの調子には何らの変化がなく、彼はずっと同じペースで花を毟り続けていた。この奇妙さに対し、何ら関心を持たないところを見せることで、ニコライの気を引こうとしている、とも考えられたが、ニコライはその顔色をみてすぐに、彼がすでにその記憶に馴染みきっているために、その危険さを考えられなくなっているだけなのだと悟った。ニコライ自身、自分の創り出した幽霊と親しいという告白をするとき、自分が寝て起きたということを言うのと何か違うだろうか、と思われた。

 アリョーシャは丸坊主にした花の茎を無造作に捨てると、「それから、お父さんに下ろしてもらう夢」と続けた。彼は、この記憶についても何らの感慨も持っていないらしいことが、風の色とほぼ変わらない頬の色から見て取れた。昂奮して感激しているときの彼は、決してこんな調子でいられないということは、初めて会話したときからニコライには分かっている。


「てんででたらめだったね、」とペトルーシャは二人きりになってから言った。アリョーシャがいなくなった後でも、彼らはそのまま線路沿いを歩き続けた。ペトルーシャが線路の中を歩いているので、ニコライはつい自分の歩いているところは安全なのだと思い込んだが、時折列車は彼の外套のすぐそばを軋みつつ通った。乗客が彼を、幽霊を見るような目で見て小さな叫びを上げた。ペトルーシャは列車のなかを、手帳をめくりながら歩き続けた。

「将軍夫人にソフィヤが怒られたっていうのは、有名な話だから本当のことだとしても」

「ペトルーシャ、僕はあの子について殆ど何も知らないんだよ。イワンと何とかいう兄のほかは」

「きみには結局かかわりのないことですよ、あの母親の方の話さえもでたらめだっていう話です。それこそあの子供の言葉を借りれば、他人の母親の生き死になんかきみにとって何だっていうんです、」

 ペトルーシャは草を踏みつつ、アリョーシャが平然と話した自分の過去の話について補足した。ソフィヤという彼の、またイワンの母親は彼らを産む前、夫のフョードルと結婚する以前に、彼女を養育していた将軍夫人の厳しい仕打ちに耐えかねて自殺未遂をしている。首吊り縄で首をくくろうとしていたことも事実通りだが、

「しかし助け下ろしたのはフョードルじゃありませんよ、将軍夫人の家族です。まあ、将軍夫人が嫌で、家出同然で駆け落ちして爺さんのところへ逃げた形だから、フョードルが恩着せがましくソフィヤにそう言っていたのかもしれないけれど、ソフィヤから息子たちに同じことを言うとは思えないしねえ。実行こそしなかったものの、彼女は今度はフョードルの仕打ちに耐えかねて、息子を産んでからも自殺しようとしていたことが何度かあります、あの息子たちを置いて」

 だから、何なんでしょうね、あの子供が言うことというのは、とペトルーシャは続けた。

「兄についてもそうです、いったい何人の兄の話をしました? イワンだけじゃない、名前はまだ知らないんだけれどなんて言いながら、実に多くの登場人物がいたじゃないですか。彼を堕落させようとする兄、彼を置いて死んでしまった病気の兄、猫を殺すことを辞められない兄、誰も彼の過去には登場しません。全部妄想なんですよ、あの子供の。一人の兄を失っただけで、これだけ多くの人物を頭のなかにこしらえて、みんな本物の兄だと思って探しているんです、みんな捕まえるまで家に帰れないんだとしたら、彼がペテルブルグを出るのはいつでしょうね」

 死んで幽霊になるまでか、とニコライは付け加えた。ペトルーシャは「ぼくは後悔なんてしていないよ、スタヴローギン」と付け加えて彼の手に触れて消えた。アリョーシャと異なり、彼は寸時の痕跡もニコライの身体に残せないはずだったが、この時は手の上に滴が点々とついていた。その痕跡が点々と増え、彼は雨が降ってきたのだと気付いた。

 

 その晩、ニコライは手帳を出して、女性の顔を描こうとした。「お母さんと自分とはそっくりだと、お父さんが小さい時に言っていた」というアリョーシャの言葉は妄想ではなかったと信じ、ソフィヤを描こうと試みたのだった。アリョーシャの栗色の髪や淡い目の色を引き継いだ、少女の顔を想像し、それから、女性の横顔というものを自分がどのように描いていたのかを思い出そうとして、古いスケッチブックを取り出した。何気なく開いたところで、手足の八本ある横たわった少女が、腹を馬に踏みつけられて内臓をこぼして倒れており、その髪の先が黄色い鳥になって羽ばたいている絵が指の先に触れた。それは子供の歌声を思わせる、激しくて向こう見ずな力強いタッチで描かれていた。さらにめくると、青ざめた顔をして池のなかに立ち尽くしている少女の絵が現れた。彼女の肌は鬱蒼とした森の中へ続く道のように、青と黒の直線によって塗りこめられている。彼はスケッチブックのまだ使っていないページをめくり、ペンで一重の丸を描いた後、何も継続させずに閉じた。彼が乱雑に描きつけた丸は閉じず、何か物を言おうとした子供の口のようにも見えた。


「きみは一体どこで寝ているの、」とニコライはアリョーシャに尋ねた。この乞食僧の子供は、昨晩の雨の仕打ちを全身で受けた姿をしていた。垢じみた僧服は雨水を含んで臭いを放ち、髪や顔は根こそぎブラシをかけたいような乱れぶりだった。

「昨日はたまたま、家に帰れなかったものだから」

「兄さんは誰も捕まらなかったのかい」ニコライはからかうように言った。

「兄さんはぼくを迎えに来たりしないもの。とくに雨が降っているときはね。兄さんが外に出られないから、ぼくが迎えに行ってあげないといけない」

 そう言うときの彼の真剣さは、ペトルーシャに「気違い」と言わせるのに十分な説得力があったが、ペトルーシャがアリョーシャに敵意めいたものを持っているらしいと分かっている彼は、敢えて微笑しながらアリョーシャに話し続けた。

「それで兄さんに会えないときは、きみは野宿する羽目になるのか、可哀想に」

「兄さんでなくとも、仲間だからって泊めてくれるひとがいるんです。そのひとの仕事を手伝ったことがあるんだけれど、そうしたらもう仲間だからって。家族といるみたいにいて良いって言ってくれて、そのひとたちの家だったら泊まっても良いっていうことになってるんです。でも昨日はたまたま、誰も見つからなくて、名前を言ったらいけないし、それにぼくの知っている名前はみんな知らないと思うから探せなかった」と彼は言った。


 ゴロホワヤ街にあるニコライのアパートは階段を上がっていかなければならず、そもそも彼のような階級の人間が暮らす環境ではなかったが、この騒々しさや雑然とした空気も、ニコライは彼の生活に嵌める特別な額縁のように扱って気に入っていた。彼はほかの住人たちに合わせて身なりを崩したりしたが、彼がどのような格好をしようとも、背景に溶け込んでしまうことがなく、雑然とした背景でさえも彼の凝った服装の一部か何かに見えた。彼はこの部屋に、この半気違いの子供を招き入れた。

 アリョーシャがまず驚いたのは、その部屋が夥しい紙屑で埋められていることだった。足の踏み場もないほどで、窓から差し込む光が、丸められた紙の表面に陰影を添えて一つ一つを花の頭のように見せていた。その堆積物の主成分はまるめた紙屑だったが、彼の外套や靴、帽子などもその上に投げ散らかされており、まるで屑籠を箪笥として使い、またその中身をぶちまけたかのようだった。彼の平生の身綺麗な様子からは、この床、この溢れんばかりの彼の生活の滓の堆積は、全く想像しようがないものだった。まるで彼の通過した生活が雨雲になり、雪になって降り注ぎ床を凍らせているかのようだった。

「この下には、何が埋まっているんですか」

 平然とその中をかき分けて進むニコライに向かって、彼は遠慮がちに堆積物を足で分けながら言った。

「花の種だよ、アリョーシャ」とその脇を通るときに、ペトルーシャが笑いながら答えた。

「春は一斉に、この下から緑色の芽が這い出してくる。ぼくらが踏み分けているものは、後々花を育てるために、ニコライがここに運んだものなんだ。花の栄養になるものをね」

 ニコライは答えなかったが、アリョーシャは一人でしゃがみこみ、紙屑の中身を開いたりした。領収書、と書いてあるその単語を、彼は口のなかで弄ぶように呟いた。

 テーブルについたアリョーシャの前に、いくらかの新聞紙が投げ出された。いずれもニコライが収集していながら殆ど目を通さずに放っているもので、その中のいくらかは湿気で波打っていた。アリョーシャは文盲ではないかという疑いが、ふとニコライの胸に浮かんだことがあったが、その疑いはすぐさま晴れた。アリョーシャは自ら紙面をめくり、ニコライが促さないうちから、ある特集の記事に向かって進んだ。

「名前は言わなくていい、」とニコライは言った。

「きみの知っている『家族』が、この中にいるかどうかだけでいいんだ。きみの知っている名前とやらは教えてくれなくていい、どのみち、僕には関わりのないことだからね。またきみはそんなことを心配しないだろうが、僕に打ち明けたことで、きみに危険が及ぶようなことはないようにするから、どうか嘘をついたりしないでほしい。僕は警察でも何でもない、きみに危害を加えたり牢屋にぶち込んだりするつもりもない。ただきみがこの街でやっていることを、ほんの少し教えてほしいだけなんだ。この間きみがお母さんの話をしてくれたように、どうかきみの知っていることを隠さずに、何も考えずに教えてほしい、」

 そう言うと彼は、特定の新聞記事の方へとアリョーシャの手を掴んで引いた。瞬間、微かに抵抗の力がみなぎるのをニコライは感じたが、アリョーシャが視線を掴まれまいとするときと同様、その力は水面を尖らせただけですぐさま水底へと姿を消した。彼の墓石のような白い指先が、新聞記事の中の人物の名前を指さした。

 ニコライがふと目を上げると、既に暗くなった部屋のなかで、アリョーシャが微笑んでいるように見えた。事実、彼の顔は笑みを浮かべていて、口元は何かの発音の形に緩く開かれていた。指先で特定の名前を指しながら、彼は指先で空中に文字を描くみたいに、その読み方とは違う名前を発音していた。ニコライがつい読み取ろうとすると、からかうように彼は口を閉じた。

「ぼくはいま、家族を売ろうとしているんですよ、スタヴローギン、もっと脅迫してくれなくちゃ、ぼくは、拷問されて仕方なくそう言ったんだと、彼らに信じてもらえないのじゃありませんか」そう言って彼は次の名前を指した。

 

 ニコライは、部屋の中のベンチの上に寝そべっているアリョーシャの姿を見た。窓からたっぷりと入ってくる月の光が、彼の服を犬の毛ほども明るく見せていた。正体なく寝入っている時には、彼は酔っていようといなかろうと、幻覚に溺れていようといなかろうと、そのどちらであろうとも大層子供っぽく見えた。ニコライはおそるおそる、彼の着せた服の袖をまくり、彼の腕にその痕跡があるのかどうかを見た。一見して、それと分かる傷跡のようなものはなさそうだったが、柔らかい子供の肌が、どこまでその痕跡を残しているものなのかは彼にも分からず、それ以上彼を直視することをニコライは恐れた。

 これまで、彼は彼を苦しめた家庭教師に復讐をした。また女たちにも、たっぷりと意趣返しのような仕打ちをしてきた。欲しがられる子供としての被害を終わらせ、また加害者になる力を得て復讐を終えると、アリョーシャに指摘されたとおり、彼はどんな人間にも無関心になれた。また、アリョーシャに自分もそうありたいと言われた通り、却ってどんな人間にも打算なく親切にすることさえ出来た。馬で轢き殺すことも、川から引きずりあげてやることも、どちらも彼には何の抵抗も伴わずに可能なことだった。

 だがこんな風に、子供時代の方が、人間の形を取って彼の方に歩み寄ってくるなどということは、彼には想像のほかだった。搾取される子供、死ぬことを楽しんで眺められる子供、それはかつて彼が自分でそうあったことを捨て、大人に復讐すれば見捨てることの出来る姿のはずだった。しかしこの子供時代は口をきいた。そして、現在の彼のようになりたいと言い、彼がそうなったよりもずっと早く、他人への関心を捨てたいと願い、そのことを彼に教わったと言って迫ってくる。――

 アリョーシャへの、半ばニコライの方が迫害されているような尋問が済んだあと、彼に僧服を与えた人物だけが空白のまま残った。ほかの「家族」の顔ぶれから、ニコライには心当てが浮かんだ。ペテルブルグで数か月前から行方不明になっている僧侶で、失踪当時は様々な憶測が飛んだが、次第に世間はこの僧侶の失踪を、本人の不始末以上に考えなくなり無関心になっていた。実際、それは彼自身の不始末の結果であろうと思われた。恐らく、「家族」の誰かを匿いでもし、また不始末のために彼らに死体にされたのだろう。被害者の遺留品となった僧服は、この半気違いの子供に与えられた。彼を犯人に仕立てるまでの工夫はなされていなかったが、たとえ彼が捕まっても、自分自身についてさえこれほど記憶が混乱している子供の証言では、全く誰にも信用されないのに違いない。証拠品を身に付けながら、彼らの側に留まられても困るものだから、彼は僧服を着せられた後で再び浮浪児として捨てられたが、念のため街での交友関係を把握しておく必要がある。それが「家族の家には泊まってもいい」という指示であり、また「僧服を着た神がかり行者の子供」の噂さえ集めておけば、彼らには自然とアリョーシャの行動も分かるということだったのではないか。何しろ、アリョーシャが自発的にすることと言えば、いるはずのない兄を探す、ということだけなのだから、こんな気違いほど危険のない密告者はいない――。彼らにとっては、この子供は身体に爆弾を括り付けた犬のようなものだったのだろう。

 しかし、彼らは眺める相手が、彼らの方をまた眺め返している、という単純な構図について全く失念しているらしかった。アリョーシャは彼の前で裸になるほど無防備な家族の口から、拷問だとか密告だとかいう言葉を聴きこみ、彼なりの観察によってその意味を理解していた。少なくとも大人のニコライを、「自分にこういうことをさせるためには、迫害が要る」と脅す程度には、その意味を理解し自ら使うことが出来た。もっとも、彼は家族に対し、兄に思うほどの執着は持たなかったらしく、あっさりとその名前をすべて指し示した。ペトルーシャはずっと無言でいたが、それにはニコライの感じた通り、アリョーシャが嘘をついている気配が全くないということを示していた。

 しかし他方、彼は僧服については思うところがあったらしく、ニコライが泥がついているから着替えるようにと促したときも「これはまだ持っておきたい」と主張した。彼がなぜ、と言うと

「誰に借りたものだか、覚えていないんです。でも、ずっとこれを着ていれば、いつかぼくが借りたひとに出会って、そのひとが自分の物だと教えてくれるかもしれない。だから、持ち主にもう一度会うまでは、ぼくはこれを着ていなくちゃいけないんです。それ以外、もう確かめようがないんだもの」僕だよ、とニコライは続けて言った。アリョーシャが意味を図りかねて茫然としていると「アレクセイ、僕だよ」と彼は続けて言った。

「あの時きみが橋から落ちて、溺れていたから、僕が助けてやったんじゃないか。ほかに誰も、きみを助ける人間なんかいなかった。みんなあそこできみが死ぬところを見ていた、笑っているやつだって居た。だから僕が引き上げて、ここに連れてきて、あのベンチにきみを寝かせてやったんだ。覚えていないかな、きみが寒いというから、僕が貸してやったんじゃないか、それは僕のものだよ、アリョーシャ」

 彼はぴったりと両手を打ち合わせて、しばらく震えていたかと思うと、感激が過ぎたらしくばったりとその場に倒れた。


 翌日、ニコライは郵便受けのなかに手紙が入っているのを見つけた。それは彼でなく、アリョーシャに当てられていた。彼は現実を見ること自体には、落ち着いた態度を身に付けてはいたが、こんな風に現実が彼の動向を見ていることを突きつけてくるような出来事は苦手だった。中には翌日の日付と時刻と、アドレスだけが書かれていた。

 約束の日付まで待ったが、アリョーシャは溺れるひとが水を吸うように滾々と眠り続けた。

「まるで溺死体だ」とニコライがつぶやくと、ペトルーシャが「きみがそうしたんですよ、」とつぶやいた。

「気違いに本当のことを知られても誰も惜しまないのに、スタヴローギン、きみは、気違いの気にいるような嘘を付いてやるんだから。それとも、気違いにさえ、本当のことを知られるのが惜しいですか」と言い彼は淡くなって消えた。こういう場合、彼はペトルーシャと話すことを求めたが、そういう場合に限って彼は存在しきらないうちに消えた。それは主にニコライの側の問題だ、とつねづねペトルーシャは主張していたが。


 約束の時刻は昼間で、それだけでもニコライは多少不審に思ったものだったが、場所が全くのただのアパートであったこと、またその建物の前に居たのが少年だったことでさらに面喰った。

「上に居るのかい」と、ニコライは言葉少なに、案内と思われる少年に尋ねたが、少年は「何が?」と苛立った調子で訊き返してきた。

「アリョーシャの家族だよ」

「ぼくがそうです」とこの十五、六歳と思われる少年は言った。ニコライは少年に向かい、親しみのしるしとも取れる、快活な溜息を吐いた。

「驚いたな、ここにいる連中、みんな子供なのか」

「歳がそれほど離れていませんから、まあそうでしょうね」と少年は言った。彼の方が、初対面のニコライをまるで馬鹿扱いにして憚らなかった。

「ほかには何人いるの?」とニコライは優しく尋ねた。

「はっきりしたことは誰も知らないし、ぼくも興味がありません、」

「自分がいる組織なのにかい」

「組織というものの定義にもよると思いますが」

「そうか、それじゃきみは組織というものを一体どう考えているんだ」

 少年は答える直前に、溜息ほどの間を置いた。

「どのような組織であろうとも、それを主張する人間の頭のなかにしかない架空の家みたいなものでしょうね。思い込みと言ってもいいかもしれない。目に見えるものではないし、信じる人だけが存在していると主張するんだから、幽霊みたいなものだとぼくは思いますね。兄弟であることだって同じことで、あいつとぼくとが同じ母親から産まれたなんていうことは、信じるひともいればそうでないというひともいる。ぼくにとっては幽霊を信じるぐらい根拠のか細いことですが、それでも同じ屋根の下ではそれを信じて生活していました。だから、あいつが忘れない限りぼくはあいつの目に見える人間でいるつもりです。あいつの幽霊にはならないって、ぼくは、決めたのに」

 そう言い終わるまでに、彼は強張った顔から突然、ほろほろと涙を落とした。握りこぶしで顔をぬぐうときの仕草が、感激しきったときのアリョーシャが顔を覆うときの姿にそっくりだとニコライは思った。

「イワンだね、よく似ているもの」

 ニコライは少年の顔を隠すように、自分の方へ引き寄せた。少年は案外従順に、彼の胸にもたれ掛って顔を伏せた。ニコライが、様子を伺うように彼の顔を覗くと、

「あいつは、ぼくとは似ていません」

 と、涙のしずくの掛かった目で、ニコライをなおも睨みながらイワンは言った。


 彼らは線路沿いを歩きながら話した。イワンが言うには、待ち合わせの場所に選んだアパートは「まったく、僕の家でも、あいつの家でも何でもありません」ということだった。普段はペトルーシャの調べ通り寄宿舎に住んでおり、この日も『家族に会う』と偽の申請を出して外出している、ということだった。

「あそこなら駅からも割と近いし、歩いて出かけるのにも便利そうだから」という理由で、彼は全くの他人の家の前を指定していた。つまり少年たちのいる住み家ということすら嘘だったわけで、ニコライは舌を巻く思いがした。この聡明であることを何ら隠そうとしない少年は、偽の書類を作る才能に恵まれていそうだったが、アリョーシャの方はどうだろう。彼は、偽りを言うにはものの言い方が大袈裟すぎ、余りにも目立ち過ぎたが、しかし何かの偽りの姿であり続けることは巧くやりそうだった。そしてアリョーシャならば、泣く前に自分の感情の動揺を説明しようと試みるだろう。イワンが無言のまま、正直な涙を流すのとは違って。

 ここにいても仕方がないから、と言い、イワンは別の場所へ行こうと言った。歩きながら話す、ということは警戒心の現れのようにも思えたが、それにしては計画に子供っぽい粗雑さが目立った。

(この子は、弟のしていることを知っているのだろうか)ニコライはそう思ったが、イワンにしてみれば、自分の方こそ彼の弟に対する誘拐犯か何かにみえているはずだと思い、彼の関心に自分を晒すことにした。


 あいつは、死ぬんだろうな、と思います、と向かい風に顔をしかめながら、イワンが十二歳の弟についてただならぬことを言った。もう一度言ってくれるかい、とニコライが穏やかに訊くと、

「あなたみたいな人と付き合っているから」

 と、彼は繰り返さずにただ理由を述べた。

(まったく、にくたらしいようなところがアレクセイとそっくりだ)

 ニコライの反応など彼はまるで意に介さず、言い終わるとすぐに顔を背け、ふと思案のなかに閉じこもるような表情になった。相談とも愚痴ともつかない調子で弟の死について触れたものの、既に彼自身の力ではどうにもならないほど、事態が深刻化していることは明白で、その現実にぶつかった衝撃を、未知の他人と分かち合いたい、そのような感じだなとニコライは思った。もともと他人に関心を持たない男だったが、アリョーシャに出会ってその観察に絶えず晒されるうち、知らず織らずのうちにアリョーシャの習慣にかぶれたようだった。

 イワンはニコライを先導するように歩きながら「あいつとはどこで会ったんです」とたずねた。ニコライが酒場の名前を言うと、

「それじゃあなたは、あいつの『兄さん』ですか」と言った。僕は違う、とニコライが言うと、

「ぼくは本物の兄です」

 と、イワンは何だか間の合わないような、しかし正しいことを眼を細めながら言った。


 イワンが促したので、ニコライは歩き続けている方が危険がないとは言わず、黙って隣に腰を下ろした。彼が足元の草の蔓に手をのばしたので、彼もまた話すときに花を千切る癖があるのかとニコライは期待したが、彼は単に自分の皮膚に触れた草を取り除いただけだった。

「ぼくがこちらの中学に来てからです、」途端におかしくなりました、とイワンは言った。彼が家を出ると決めた当初は、別段むずかる様子もなかったのが、見送りに来たときの道を覚えていて、数か月後にはあの大人しい弟が一人で切符を買い、列車に乗ってペテルブルグまで来てしまった。初めは兄の寄宿学校と兄の名前を言ったため、学校と保護者に連絡が行き、養父の迎えが来るまで彼の宿舎で過ごした。この弟は黙っていても自然な愛嬌があり、寄宿舎のなかでも子供や大人からの人気を得た。

「あいつはそれほど叱られませんでした。みんなあいつを可愛がってた。ぼくも、遊びに来たいんなら、長期の休みのときにポレノフさんに連れてきてもらえって言いました。それから何度も手紙を書きました。でも、あいつから返事が来たことはありません」

 ニコライはアリョーシャの、新聞の文字をすらすらと眺める眼つきと、彼が文盲なのではないかと不安げに見る大人を見返すときの微笑みとを思い出した。彼が一文字も書かないと言うのは単に、彼がその必要を感じないからだけのことではないか。

「弟の噂は、聴いていたんだろう」とニコライが言うと、イワンはうなずいた。その悲劇的な頷き方に、この神経過敏そうな秀才がどんな情報を耳にしていたのかが表れていた。

「ポレノフさんは、全部は知らないと思う、でも」と彼は養父のことを言った。

「あいつを見張ってくれって、ぼくが手紙で言っても、はっきりしたこと言わないんです。それに『うちの子供じゃない』って、アリョーナおばさんに、あの家のひとに言われたことがあって、だから、もうあいつは要らないって思われてるのかもしれない」

 そこまで言うと、彼はせき込むようにしゃくりあげた。ニコライは彼の背中をさすりながら、彼のすすり泣く声が周囲に届かないかと見渡した。燦々と泣き続ける姿は、感激しきったアリョーシャのように手が付けられなかったが、弟が身を投じるのがある純化された感情のなかであるのに対し、この小さな兄は自分の思考のなかに身を投じてしまうのだった。それは、イワンの生活の仕方にもみえ、また、彼自身が自分を罰する時の、最も原則的な術のようにもみえた。

「迎えに行こうとは、思わなかったのかい。アリョーシャはそれでも、きみをずっと探し回っていたんだろう」

「探し回っていたんじゃない、あいつはぼくから逃げ回っていたんです」

 全て説明されるより前に、何かニコライは胸に思い当たるような痛みを感じた。

「どういうことなのか、きみの分かることを説明してくれるかな」と言うと、イワンは涙を拭き、ふいに声を低くして「紙と、何か書く物を持っていますか」と言った。ニコライが彼の手帳を放ると、イワンは中身には全く目をくれず、さっさと白紙のページへと進んだ。そしてニコライから受け取ったペンを貪るように走らせた。

(なるほど、嗚咽しながら話すよりもこの方が早そうだし、)とニコライは思った。

(誰かに聴かれやしないか、心配したりせずに済む――)

 ニコライは、彼の背中をかばうように、まるで兄と弟でもあるかのようにイワンの背を軽くたたき続けた。イワンは、彼の存在など忘れたように書くことに没頭し、時折仕方なさそうに洟をすすった。


 アリョーシャ、起きているかい、とニコライが尋ねると、暗い部屋のなかで身動きする音がした。彼がイワンに会うまでは全く溺死体であったくせに、翌日になるとまだ何も話さないうちから、ふいに回復したようになっていた。まるで昼と夜とを思わせるほどの違いで、ニコライはこの警戒心の強い動物に、果たして忠告や警告が必要だろうか、と思った。しかしこの動物の身動きにはどこか、完結しない円を思わせる間の抜け方があった。まるで中身が書かれていない脅迫状のようで、彼の恐ろしさというものは見る者に、危険さがまるでなっていないことを忠告させる愛嬌のあるところだった。

 彼は暗がりのなかで、窓から漏れる光ばかりで懸命に紙屑のなかの字に目を凝らしているところだった。それじゃ見えないだろう、とニコライが言うと、彼はうなずき、

「見えていたんだけれど、読み終わらないうちに夜になったの」と言い訳らしいことを言った。そして「誰かに会った?」と言った。

 ニコライは匿名の手紙を貰い、それでイワンに会っていたことを打ち明けた。案の定、アリョーシャの顔には何の動揺の波紋も現れなかった。彼は続けて、二、三の質問をアリョーシャにした。この質問には幾分かの棘が含まれてはいたが、これらの軽い尋問にもアリョーシャは動揺することもなく、簡潔に答えた。ニコライが軽い落胆を覚えるほどに、それは告白の体を成していなかった。無実の人間が行った自白のように、彼らの間にはその尋問が形作るはずの形勢の、形骸だけが透明に残った。

「ここも既に見つかっているかもしれない、」とニコライは続けた。しかしこの疑いは、雨が降っている最中に、雨が降るかもしれないというようなもので、いま雨音を聴いている二人の間では、冗談のようなものにしかならなかった。

「あの兄さんが嗅ぎ付けたぐらいなんだ、きみの家族だって分かっていてもおかしくないだろう」アリョーシャは、彼がもはやニコライがどう脅しても緊張しなかった。

「ううん、」とまどろみのなかの返事とも、否定ともつかない声でうなずいた。

 

 スタヴローギンさん、と、ニコライが荷物をまとめ始めた時、アリョーシャが言った。

「絵がじょうずなんですね」と、と彼はだしぬけに言った。微笑してはいたが、もはや平素にない動揺が、わざわざ自分から彼に話を向けて来ることにも表れていた。

「見たのか、」「そこらじゅうに転がってるから……」ニコライがふと見ると、彼はベンチに寝そべったまま、手鏡を見る女のように、一枚の絵を顔の前に広げていた。それにはニコライ自身、見覚えのある絵で、女の顔の中心に片目を大きく描いて止めていた。

 アリョーシャが現在、彼に対して取っている人質はそんなもので、そのことがニコライの緊張を和らげた。アリョーシャは彼にそう言い出しておきながら、示威行為でもなく、ただ純粋に絵のなかの人物に関心を持っているかのように大人しくそれを眺めていた。

 アリョーシャ、とニコライが次に呼んだとき、彼が見上げた目には、もはや言うまえからニコライが言おうとした答えが映っていた。

「家族のところへ帰るんだ。きみを待っている家族のもとに、きみはここから出て帰らなくちゃいけない」どこへ帰るのか分かるね、とニコライが言うと、「列車に乗っていく方の町」とアリョーシャは言った。

「そしてあなたも知っている方の町だ。もうイワンから全部聞いたんでしょう」

「ペテルブルグの家族のこと?」とニコライが言うと、彼は笑って

「スタヴローギン、訊かれてもいないのにその話をするほど、ぼくはあなたを恐れてはいません」と言い、切るようにニコライの側をすり抜けて通った。


 しばらく彼は部屋の隅に居て、ニコライのする作業をじっと眺めていた。その凝視は監視するようでもあり、またしぶしぶ従属する作業のようにも感じられたが、次第に、ニコライにある疑いが生まれ、その疑いをもってアリョーシャの目を見ると、いよいよ本当らしく感じられた。彼はニコライが手を滑らせるか、また気まぐれを起こしてアリョーシャに答えを教えるか、あるいは作業に没頭してアリョーシャを眺めなくなるか、どれかが起こるのを待っているのだった。ニコライは微笑み、作業の手を止めて彼に新聞記事を見せた尋問のテーブルに座った。促されるより以前に、アリョーシャは影のようにその前に座った。

「肉屋の絵を見たかい?」

 ニコライがそう言った時、アリョーシャはそれが本命の問いでないらしいことに感づいた顔をしたが、割合に素直に問いかけには応じた。

「どんな絵?」「バケツいっぱいに豚の頭を入れた、恰幅のいい男の絵だよ」アントンと言うんだ、とニコライは言った。

「彼には刑務所の中でお目にかかったんだけれど、とても親切な男でね。もっとも、行けば分かるけれどあそこにいるような奴らというのは大層気のいい、善人のような人たちばかりだよ。みな、自分にとって何が正しいのかを弁えて、それを実行するだけの勇気を持った英雄たちなんだ。たとえ殺人だろうと、その理由に自分さえ納得しておれば、水に飛び込んで子供を救うのと何ら変わらない。親切なアントンは、ただの肉屋で終わることも出来たのだけれど、他人の不幸に目を逸らして静かに人生を終えることが、彼の正義に照らして忍びなかったのだろうね。そこで街で浮浪児をさらってきては、その肉を格安で売ったんだ。豚の肉だろうと人の肉だろうと、肉屋にかかれば同じことさ。

 貧しいひとびとはアントンに感謝したし、街は浮浪児たちの姿がなくなり、誰もが彼のしたことを善行と認めて良いほど、多くの人間が幸福になったんだよ、当の浮浪児たちがどうであったかについては、個人差があっただろうけれど」

 もっとも幸福には、その恩恵にあずかれない人間の犠牲がつきものだし、誰かが満腹になれば誰かが餓える。そういう仕組みをつくった幸福なひとびとの、巻き添えを食って僕らは生かされているんだ、とニコライは言った。

 アリョーシャは表情を変えずにじっと聴き入っていたが、最初にイワンの声を聴いたときのような、継ぎ目のない放心にはもはやひびが入っていた。

「子供たちが、」と彼はつまずくように繰り返した。

「幸せになったかどうかは、子供たちによって違うのかな。食べられたことで、幸福になった子供もいる?」

 もちろん居るだろうね、とニコライはうなずいた。

「それまでの人生がどうであったか、何に耐えてきたかによるだろうね。飢えに耐えることと同様に生活すること自体に耐えられなかった子供もいたはずだよ。子供は、その人生の短さゆえに不幸でなどあり得ないと考えるひともいるけれど、僕はそうは思わない。やはりどれほど短くとも人生は人生なのだし、少量だろうと毒は毒だ。子供は十分に不幸者になりえるよ。彼らにとってもやはりアントンは親切だったのではないかな」

 少なくとも、僕がみた彼はまるきり自分の行為に後悔などしていなかったから、僕にとってはただの善人にしか見えなかった、と彼は言った。

 続けて彼はフォマ、セルゲイの話をした後、マッチを擦って手蜀に火を灯した。彼の顔のそばに、こぶし程の大きさの明るさの真空地帯のようなものが出来た。

「きみが彼らの誰にも目もくれずに、探し回っていたのはきみの兄さんだろう。彼はフォマやセルゲイたちの居るようなところにはいないよ」そう言って、ニコライが懐からイワンのメモを取り出して卓上に置くと、たちまちアリョーシャの顔つきが変わった。瞬間、泣きだしそうな顔つきにも見えたが、実際には彼の子供っぽい顔つきの上に、彼の恐れと怒りとがまるで十字架の影のように被さっているだけだった。彼は一粒の涙もこぼさず、じっとニコライを殺す機会をうかがっていた。

(イワン、きみはもう弟を失くしたよ)

 ニコライは内心、緊張しきった表情でそのメモを渡してきたときの、中学生の顔を思い浮かべた。

(きみはまだ、こんな場合に半べそをかいて真実を打ち明ける子供のことを弟だと思い込んでいるんじゃないのか。きみ自身、弟について本当のことを言いきらないことを武器にしたように、まだきみはどこかで、弟の本質を握っているのは自分だけだとでも自負しているんじゃないか――)

 ニコライは、アリョーシャの所業について知っていることがあるかと訊かれて、無言のままにペンを走らせていたイワンの横顔、篭った息のように丸くなった背中の線などを漠然と思い返した。泣きだした兄を可哀想に感じたものの、次第に増えてゆくお喋りを思わせる饒多なペンの擦れる音を聴くうち、イワンのこの告白には彼を従事させるだけの強い毒が含まれていることを感じ、それがアリョーシャの言う「死にゆく子供を見る大人の快楽」ではないかと思い当たると、彼はその動揺をイワンには見せまいとしたが――、内心慄然とした。

 弟の罪状をすっかり書き終わると、イワンはまだどこか湿った頬をしてニコライに言った。

「あなたはぼくを軽蔑なさるだろうと思います。ですが、ぼくにとってこれは仇討と同じぐらい、大切な計画の実行であるのです。ぼくは卑劣ですが、これほどの卑劣さは、ぼく自身、どのような自由の下でも、他人には見せませんでした、誰にも」

 あとはあなたの自由ですが――、と言い彼は言葉を続けた。

「もし、ぼくがあなたを欺いたとして、あなたが信じようと信じなかろうと、ぼくに嘘をついた罪が有ることに変わりはありません。あなたがあいつをどうしようと、ぼくがあいつにすることに対する罪を負うことに、ぼくの長年の夢があり目的があります」

 そう言って彼は、書き終わったメモをニコライの手に握らせた。彼が開くと、中にはペテルブルグにおけるアリョーシャの行動の記録が、砂糖にたかる蟻を思わせる夥しさでびっしりと書かれていた。その細かさには、その作業に従事する者の喜びが、黒い蜜のように滲んでいた。文法は完璧に整っており、とても目の前で中学生で走り書きに書いたものとは思われない。筆者は静かに告白を始め、作中であちこちに落とされた爆弾が、文章の終わる頃には、ペテルグルグの町ぐるみ焼くような大火事となって広がっている。アリョーシャは逃げ回っていたと彼は言うが、イワンの描くこの光景のなかに登場させられることを、拒んでいたのではないかとニコライは思った。

 それは最終的には、組織を裏切る密告者の手紙として完成していた。ニコライは思わず、快活に溜息を吐いた。少年に感心したせいでもあり、また呆れ果てたという実感もあった。

「きみは、弟が可愛くないの?」

 この手紙は、実際にアリョーシャのいる生活近辺を焼くだけの力はあるだろう。警察や新聞社に投げ込むなり、売るなりしろと言うのだろうが、このような手紙を押し付けてくるのが、アリョーシャの探し求めている「本物の兄」かと思うと、ニコライは彼ら二人が同時に哀れになった。

「ぼくにもよく分かりません」

 この才知と、卑劣さとを持った聡明な兄は、ただ嘘を吐く才能ばかりが、常人以下に欠けているようだった。そう言って彼は赤面し、少し躊躇したのちにさらに続けた。

「あなたがどう思おうとあなたの自由ですが、あいつがぼくの人生から居なくなってしまうということだけは、何とか自分の手で防げたらと思っています」

 ニコライは、少年のこんな告白と、今しも手に預けられた手紙とが、眼の前の一人の人間の身体から出た、ということをよく呑み込めないまま、それらを交互に眺めた。

「これはきみの詩だね、きみが頭のなかへ置いたきり、どこにも発表して見せることなく、ずっときみが準備してきた――」

 それを聴くと少年はふいに恥ずかしそうに押し黙った。


(イワン、きみがそれでも売りたくなかった弟の顔をみてごらん、)

 とニコライは、今目の前にしているアリョーシャの、冷たい石を思わせる額の辺りを見て思った。

(僕にきみのような才能がないのが残念だが、もし叶うならきみに、きみの弟が、この手紙を見せたときにどんな顔をしたか、知らせてやりたかった。恐らくきみは、他人の前で黙るたび、自分の詩を恐ろしいものに感じる訓練をしてしまったはずだ。

 しかしこの弟の沈黙をごらん。秘密の最も赤裸々な姿は、あんな密告者の文体には表れないということを、きみの弟が教えている。きみの弟の沈黙は、もはやきみの詩を乗り越えてしまっている――)

「アリョーシャ、イワンの方からもきみを探しているということを、きみは知っていたんだろう」とニコライは言った。アリョーシャは身じろぎもせずにうなずいた。

「そしてイワンはきみだけでなく、きみと接触した僕についても調べていた。そして、どうやら僕が、きみの組織とは無関係の人間だと分かると、会って直接人物を確かめようとした。そしてイワンは僕を自分の道具にするに足るとみて、大切な弟であるきみを売ろうとした。

 少なくとも『兄ならばそうするに違いない』ときみは考えた。それもはっきりと証拠までを残している。きみは僕の積み上げた紙片が、みな手帳を毟って作られたものだということを分かっていた。

 僕が誰かに会いに出て行っている間、きみは兄に殺される夢でも見たんだろう、紙屑の山の形が変わるぐらい、何かを探し回った痕跡を残した。片目の女の絵を見ていたのは、きみの関心でも勘違いでもない、きみの探していた人物がそれとは逆のタイプだということを表していたものだ。きみは絵を見ようとしていたんじゃない、僕の手帳の中身に繋がるページを見つけようとしていたんだ。いったい誰に会って、何をする気なのか。僕に動揺があったのか、きみは嗅ぎ取ろうとしていた。

 きみは、イワンがどこまで自分のしていることを知っているのか、突きとめようとしたんだろう。何しろきみは兄と連絡を絶っていたし、また他人に頼んで兄を調べて、自分も兄も同時に危険の縁に追いやるような真似はしたくない――違うのかい」

 アリョーシャは発作の表れのように、またおどけているかのように、手で首を絞めるような真似をした。

「ぼくを死刑にしろ、とでもあいつに言われたんですか」と言ったときの彼は笑っていた。

「いいやそうじゃないよ、彼はあくまで君を助ける気なんだ。それに『自分を脅すことも出来ない相手には話をする値打ちがない』と言ったのはきみだぜ」

 ニコライがそう言うと、アリョーシャは怒りで蒼白になったような顔つきで黙った。

「これはきみにとって侮辱になるかどうかは分からないが、さっきのフォマやセルゲイたちの話のときにも思ったけれど、きみは血を見ても何ら驚かない看護婦か何かみたいに、ひとの死について見聞きしても何らの感動も示さないらしいね、その態度はどこで身につけたんだい、それともきみの生まれつきなのか」

 アリョーシャはふいに白っぽい顔つきになり、

「生まれつきかどうか分からないけれど、スタヴローギン、ぼくにはそんな瞬間があるんです」と言った。

「特にさっきのような残酷な話の最中には、自分がいまどこにいるのかも分からなくなってしまって。ぼくにそんな特徴のあることを、あなたはもうとっくにご存知かと思っていました」

 僕の知っていることがきみの知ることと合っているかは僕には分からないが、とニコライは付け加えて言った。

「てっきり僕は、きみはもう慣れてしまったんだろうなと決めつけていたよ。産婆が血や汚れにいちいち驚かないみたいに、きみはもう目の前で起こる死というものに対して、職業的な態度を手に入れたんだろうとね。きみが兄さんと言って追い回した男、きみが巣穴へと持ち帰った連中のうち、いまも無事でいるのは何人いるんだい? 先ほどの死刑の話じゃないが、きみは自分のせいで死刑にされた人間――手続きなんてものはなくリンチだろうけれど、そういう人間たちの幽霊を一束も抱えているはずだ。

 その手の犯人を山ほども見てきた僕だから、きみがたまに漏らす表情の意味は分かる。ただ、きみが彼らと違っているのは、自分のしたことに自分なりの理解もしていなければ、また後悔するほど別の正義も持っていないということだ。

 きみはいまだに自分の作った死体から目を背け続けている、その場から出来る限り居なくなろうとする――きみのヒステリーは親譲りなんてものじゃない、きみがきみ自身の生活から編み出した工夫に過ぎない」

 アリョーシャはせき込み、身体を抱えるようにした。これは彼のする、とびきりの感激の前触れの動きらしく見えた。

「僕だって何も、無目的にきみを傷つけているんじゃないさ」とニコライは噛みつこうとして吠える動物を制するように言った。これは彼の尋問が周到に続くという宣言でもあり、アリョーシャは彼を睨みつけるようにして黙った。

「ただきみに訊きたいことがあって話をしているんだ、きみ自身がそう言ったとおり、きみはよほどの窮地に陥らない限り、自分から真実を打ち明けたりしない。それが彼らの流儀だというのなら、僕だってきみの仲間の流儀に従うよ。またきみを縛り付けたりなんかしない、僕に反撃することはきみの自由だ。僕がいない間、部屋のなかをあれこれ探し回って、僕についてきみが分かったことだってあるだろう」

 アリョーシャはほんの少し目を上げた。その目の奥が、微笑のような柔らかい光を湛えているのをニコライは見た。彼は何も言わなかったが、ニコライが話を続けるのを促すような沈黙が、匂うようにその場に漂った。ニコライは続けて話した。

「きみが何にも頓着しないのは、まるで坊さんみたいだなと思っていた。あんなに感激して兄を追い回すくせに、その顔はことごとくみな違っている。誰もきみとは似ていない。きみは誰のことも追いかけたりしちゃいない。きみの兄さんが、きみが逃げ回っているんだと言ったのは慧眼だったな、きみが兄どころか、特定の誰かに執着しているわけでさえないということを、あの兄さんは見抜いていた。きみが気にしていたのは、きみの眼の前にいる兄じゃなく、きみの背後から追いかけて来る、たった一人の兄の方だけだ。

 それにあのとき、覚えているかな、きみが橋の上に立って子供を眺めていときさ。実を言うと僕は、きみのあの素晴らしい態度、凝視しながらもその視線に何らの関心も含まれていないあの標本のような無関心、あんなものに感激していたんだ。そして綺麗な蝶々の手足を毟るみたいに、きみの無関心の手足を引きちぎってやりたいと感じた。それで仕方なく子供を助けたりしたんだ。苦しむ子供の顔が見たかったなんて言ったのは嘘だよ。そんなもの僕は他所で有り余るほど見てきたんだ。

 ただ、実際にきみに会って、感激するきみの姿を見たときに、どうもあのときのきみの姿は、遠目にみていた僕の幻想が加わったものだと分かった。きみ自身はとても恥ずかしがり屋で、無関心どころかひどく物におびえたり、感激したりする激しい気性の持ち主だった。時にはその感激が過ぎて、魂が身体から逃げ出してしまうほどなので、時としてきみは全く何にも動じないように見える。しかしきみの無関心の前には、必ず激しい執着がある。そのことが、きみに接していてようやく僕に分かったことだよ。

 あのときはきみ自身、夢と現実が入れ替わっていたとか、子供が死ぬ未来を認めてしまったなんて言っていたけれど、これはきみの告白の一部に過ぎないね。きみはあのとき、魂が飛んでしまうぐらいにきみにとって嫌なものを、敢えて見るために留まっていたんだ。通りかかったのは偶然でも、橋の下を眺めていたのは偶然じゃない。きみ自身、『自分が死ぬのは嫌で、あの子を助けることは諦めていた』と白状しているとおり、きみは子供を助けようとしてそこに留まっていたんじゃない。きみは自分自身に問いかけていたはずだ――『子供が死ぬのを見ることは出来るか』と。何しろ、大人ではきみはもう、その態度を身に着けているんだから。繰り返し繰り返し、どうやって殺されるか知っている相手を誘拐してくることが、全く苦にならない程度にはね。

 きみが子供の死体にこだわったのは、いずれそれが自分になるかもしれないからだ。『溺れているのが自分だったらどうしようと思った』これもきみが僕にうっかり喋った告白の一つだよ。これはきみの本心のなかでも、かなり重要な部分だと思うのだが違うのかい。きみは子供が死ぬのを見ることで、きみが想像のなかで成し遂げられない、きみ自身の死の想像に替えようとした。他人の死には手触りに慣れて、無感動になることは出来ても、起こった死と関係を断ち切ることは出来ない。『いずれ自分も同じような運命をたどるのではないか』ときみは思い始め、頭のなかでその想像をしようとした。しかしきみは、激しい執着のあとでその執着したものを抱えきれなくなると、魂を排泄してしまう癖がついている――生来が感激性のきみが、自分の死なんていうものを長く頭に留めておかれるはずがない、そこに格好の『他人の死』が落ちていた――」

 ニコライはそう言うと、アリョーシャに向かって微笑みかけた。

「そういうことで、きみが僕にこだわるのは、そのせいじゃないかと思っているんだけれど、どうかな。きみにとって大切な死体となるはずの人間を、僕が横取りしてしまったので、復讐のために僕に付きまとっているのだと思ったんだけれど、何かほかの理由でもあるのかい」

「あなたを連れて来たら褒めてくれる、というひとがあるんです」

 それはまるで土が喋ったかのような、湿った抑揚のない声で、それは彼の唇から出る寸前まで、全く語られる予定のない内容だったことが表れていた。

「それが誰なのかは言える?」とニコライが尋ねると、アリョーシャはかぶりを振った。

「まだ脅しが足りないというのなら、話を続けるよ。もっとも、今までの話は僕の勝手な想像で、事実をきみに打ち明けるのはこれから続く話になるけれどね」

 そう言ってニコライがアリョーシャの顔を見たとき、彼はちょうどニコライの目を見上げるところだった。瞬間、彼は自分がこの子供に与えた苦しみがどういうものであったかを知った。

 手燭の灯りしかない部屋のなかで、彼は子供っぽい顔をやや下に向けて、目ばかりでニコライの方を見ていた。その大きな目にはイワンが簡単に浮かべたような涙の痕跡はなく、真っ二つにされた果肉のような凄惨な潤いがあり、その視線の先にはかろうじて焦点らしい一点があったが、その点には熱くて触れないような感じがニコライにはした。彼は縛られているわけでも、首をくくられているのでもなかったが、ニコライの尋問の間一切の身動きをせず、また抗弁らしいものを何一つせず、笑ってごまかすでもなかった。彼は全身で自分が隠し通していた、秘密そのものに成りおおせてしまったかのようだった。

(こんな風に全身が、人間を見返す目になってしまう場合があるんだな――)

 ニコライはその生涯にわたって、冷静さが異常な場面において出るために狂人ではないかと疑われたのだが、この時もアリョーシャの姿に驚きつつも、彼が絵筆に絵具を含ませてするような、あの冷たい観察を平気でしていた。

(こういうものを作り上げる力、彼らを犯罪者にするような力が僕にはない。彼らは僕の前に現れる前から犯罪者で、自分で流した血に染まったひとたちだ。僕が彼らに与えた影響なんてものはないし、彼らからあふれるものを僕が写し取れたことなどはない。イワンのような才能が僕にもあればな、彼の手紙に現れた彼のアリョーシャは、半身ほどしか描かれないくせに、何て生き生きと犯罪者らしく見えたことだろう。

 アリョーシャを今恐れさせているものは、僕のした想像を具体化した言葉だろうか? いいや、もし僕が何の根拠もなく、ただ彼を眺めていてそう言ったのならば、彼は僕に対し、初対面のときにしたような偽の告白さえしてみせたはずだ。そして彼自身の目的の遂行に至るまで、僕が彼に余計な関心を向けないように仕向けただろう。

 彼が僕を恐れている理由は、イワンの手紙があるからだ。そしてその中身を彼がまだ見ていないということが、彼を緊張させている。肉親からの絶え間ない関心、そして自分の望む形で手に入れようとする貪婪な野心――そうしたものには半端な狂気では抵抗できず、却ってイワンのああした行動をさえ呼び起こし、断ち切ることが出来ないものだと彼は身をもって知っている。彼が恐れているのは僕や僕の言葉じゃない、あくまでも肉親から向けられる愛情だ。その愛情に、僕のこの発見がイワンを通じて作用する未来のことを、彼はいま恐れている――そしてただ僕を眺め返し、それ以上何も言うまいとしている。言うことによって、彼が失うものを少なくすることが出来る言葉のほかには)

 アリョーシャは、寒さに凍えるひとのように身をすくめつつ、その萎縮のなかで彼の見たいものを見るという芸当をまたもしていた。その関心の半ばはニコライの身体に、そしてもう半分はいまだに彼自身が開いて見ていない、イワンの手紙に向けられていた。

(ずっとこの子を眺めていたいものだけれど、そうもいかない)とニコライは思った。

(それにしても、イワンの手紙を見せなければ、彼は永遠にこの姿でいるのだろうか。それならばもう、誰をも描く気なんか起こらないな。どんな犯罪者の姿を描いてみたところで、現実にこんな子供の凝視を造りだすことの楽しみに勝るとは思われない。この現実の膠着状態は、過去の瞬間のスケッチを何百枚と重ねたって出来るものではない。あんなものただの紙屑にしかなりはしない)

 僕にとっての武器になっているこの手紙、兄さんの書いた密告者らしい手紙のことだけれど、とニコライは言った。そして彼の目の前で、卓上に伏せていた手紙を再び手に戻した。アリョーシャはそこから視線を剥ぎ取るかのように目を上げた。

「きみはずいぶんと怖がっているみたいだけれど、よくよく読んでみて驚いたのは、きみのことが余り書かれていないという点なんだ。アリョーシャ、おそらくイワンはこの手紙を読んだ人間にとって、きみが全くの悪人には見えないように取り計らったんだろうと僕は思うね」

 これは何もアリョーシャをからかうためではなく、彼の印象の実際だった。イワンの手紙には、彼がアリョーシャについて調べて得た情報が詳しく盛り込まれてはいたが、イワンが悪人として描いているのはあくまでも彼の組織で、アリョーシャの犯罪の決定的な部分については、足跡がぼかされていた。事件の全容を知っていたためにこういう芸当が出来たのであろうが、彼は事件の核心部分では弟を引っ込め、また別の場面では重要な目撃者の役をやらせていた。この芸当は、ただ弟の犯罪を暴くためだけに書いた文章で結実したものとも思われず、彼は詩や小説で培った方法で、彼の執着する弟の犯罪を書き立てたのではないかとニコライは想像した。しかし彼の文章によってアリョーシャは架空の人物どころか、現実の一隅に生活している人間である徴をいくつも付与されていた。こうして僧服を着て町を徘徊している現実のアリョーシャの方が、よほど架空の人物の姿らしく見えた。

「分かるかい、つまりイワンはまだどこかで密告をする気なんだよ、」

 ニコライは、手紙に付いた折り目の影を見つめつつ言った。

「きみが実際にどんなことをやったのか、彼の手紙がこうである以上僕には詳細に分からないが、隠したいことがあることは分かる。随分よく調べてあるのに、きみばかりが犯罪を免れているみたいに空白があるんだから。新聞社や警察、あるいはきみの仲間にも知り合いがいるんじゃないかな。彼の才覚と、肉親としてのきみへの情熱がこれだけのものを彼に書かせたんだ」

 だけど、これはきみを守る物語であるのと同時に、きみへの脅しでもある、とニコライは続けた。

「彼は僕に手紙を渡すとき、これは自分の卑劣さの表れだと言い、自由の行使なんだと言った。それからこの手紙を僕がどうしようとも、僕の自由に属すると言ったよ。つまり売るも売らないも自由、信じるも信じないも自由――どちらであっても彼には構わないんだと。彼は、きみに対して罪を負えれば何でもいいんだと言ったが、一体彼にとってきみがどういうものであるかが分かりそうなものだね。

 彼がそんなことを言うのは、僕がきみを売らずに、たとえばこの手紙をきみに渡してしまうようなことがあったとしても、彼にとっては痛手にならない、次の手を用意しているということの証拠でもあるんだ。またこの曖昧な手紙によってきみ自身が捕まらず、きみの仲間だけが捕まるようなことがあった場合に、きみだけが生き残ったりしたら、きみはさすがに自分の未来を恐れるだろう。

 何しろ溺れる子供をみて自分と取り換えることの出来るきみだ、もしかしたら幼いときにもたびたびそういう現実と夢との取り換え方をしていたんじゃないのかい。兄である彼は、きみが未来を恐れるようになってから、きみを脅迫する次の手を自分の手元にだけ残し、きみばかりが生き残ればいいと思って、この手紙を僕に渡したんだ。

 確かにきみを売ろうと売るまいと、僕の自由で、彼には構わないことさ。どのみち彼が売りたいきみの犯罪は残してある、そればかりは売りたくないんだ、自分で売りたいからね――」

 ふいに彼らの間にあるテーブルの上に、蠅が来て止まった。何もないところで彼はせわしなく手足を擦り合わせていた。それがまるで滑稽な命乞いのようでもあり、アリョーシャが恐らく絶対にしないであろうそんな仕草を見、ニコライにその追及をやめるように迫っているように見え、ニコライはつい吹きだしてしまった。彼のその笑いに乗じて、アリョーシャが視線を上げてきた。ニコライが驚いたことに、彼は先ほどの強張った凝視をやめ、柔和な微笑に近いものを頬に浮かべていた。

「兄さんの話を聞いていると、何だか懐かしくなるな」彼は続けて言った。

「兄さんの読む本、本当に好きな本と勉強のために読んでいる本、話し方、外国語のアクセント、彼の匂い、そんな物をみんなばらばらに持ち歩けるんじゃないかと思うぐらい、兄さんはいろんなものの組み合わせによって出来ていた。ぼくと似ている部分なんかどこかにあったかしら。もうずいぶん会ってないし、ぼくの背が伸びたことも知らないと思う、ほかのことは他人から聞いて知っていても。家族なんだから、他のひとが見ない、ぼくのそんなところを見てくれてもいいのに」

 きみのことは逃げ回っていると言っていたぜ、とニコライは笑った。

「それは本当ですよ、ぼくは兄に会ったら困るなってずっと思っていました」

「きみの兄さんたちのようにするわけにはいかないものな、」とニコライが言うと、アリョーシャはちょっと困ったように首をすくめた。死体を平気で見ることのできる職業的態度、とニコライが言った、あの平気な態度をこの尋問のうちに、彼はニコライに質問されたときの対応として身につけたかのようだった。

「きみを売ろうとして、あの兄が躍起になる理由も分かるよ。きみは兄なんかに殺されるはずがないっていう態度だものな。頭のなかの詩を書いてみる勇気さえない彼と違って、きみは本能のおもむくままに行動し、またきみの本能に命じる人間をさえ得てその行動範囲を広げた。きみは飽きるほど他人の死にも触れたし、行動した人間が行動しない人間を恐れることなど不可能だろう。僕が出会った犯罪者の誰も、何もしない人間を恐れたりはしていなかったからね。きみは幼児に接するようにあの兄をあなどり、他方で大切にしていた。きみはもともと兄に会いに来たんだということを、ペテルブルグの家族はもちろん知っているだろう。そしてたまに気違いのようになるきみだ、何かに恐怖したり強い感激を覚えたときなど、肉親に会って秘密を洩らさないとも限らない。

 それできみは兄に絶対に会えない子供になった。彼らに命じられる人間の他、きみは絶対に青白いインテリは狙わなかったはずだ。また若い男もきらっただろう。だが避けるのと同時に、その理由を他人に知られてもいけないから、きみはますます気違いになった。というより、夢が自分を浸してくる領域を大きく許し始めたんだ。まるで彼らの命令に従うみたいに、夢の命令に従ってぼんやりしている時間がきみに増えたはずだ、僕といる時もときたま、そんな顔つきでいたよ」

 いやなひと、他人のことよく観察しているんだなあ、と言い、アリョーシャは首をすくめた。

「スタヴローギンさん、ぼくは自分で自分のしていることの意味をつけるのが苦手だけれど、あなたがそう言うのなら、きっとそうだと信じられます。あなたのようなひとが僕の家族にいたら良かったと思ったけれど、ぼくの持つ家族の誰にもあなたは似ていませんね」

「きみの家族になるのなんかごめんだな、もちろん、どちらの家族についてもだけれど、とりわけイワンの負った役目は僕には務まりそうにない。きみが馬鹿にしているあの兄が、きみについて調べたことの、残骸がどんなものだかごらん」

 そう言うと、彼はアリョーシャの前に手紙を投げ出した。一瞬の間ののち、それはそれまでに膜のように出来ていた分厚い沈黙を破る、慌ただしい手つきでアリョーシャに拾われた。

 やがてニコライは目の前の子供が、苦痛に耐えるような声で泣き出すのを聴いた。

「養家でのきみの立場を考えて、全部は伝えていないだろう」とニコライは言った。アリョーシャのすすり泣きはただの絶望に根差したものではなく、彼のイワンがここまで彼を脅かしたことに対する、母親の嬰児の手の力に対する感激のようなものが含まれていることを、ニコライは漠然と感じ取っていた。

「きみが幽霊のようにペテルブルグをさまよっているという噂を聞いて、その狂気をもっとも単純に信じたのが、きみの肉親たちだろうからね。田舎にいた純情坊やが、都会に出てきて悪い人間に騙された、彼らにそのほかの想像なんかはありはしない。だが都会にいる兄の方が、弟が誰に騙されていて、どんな悪い仲間といるか――田舎の家族に書き送っているとなると話は違ってくる。全部ではないにしろ、再三警告していると彼は言ったぜ。あちらの家族だって事情を知らない訳ではないのに、きみがこうしてペテルブルグに舞い戻るのを止めようとはしない」

 いずれきみはどちらの家族にも、狂気に侵された人間として捨てられる日が来るだろう、とニコライは言った。アリョーシャの忍び泣きは、いっそう声が小さくなった。彼が顔の前で握りしめていたイワンの手紙をニコライが剥ぎ取っても、もはや何の抵抗も示さなかった。

「きみがよく承知しているとおり、ペテルブルグの家族の方がきみには恐ろしい。養家はきみを捨てることがあっても、きみを死体にしたりはしない。だからきみはまだ気の狂っているうちに、大人しく田舎の家に帰るんだ。もしすぐにそうすると約束するのなら、この手紙はここですぐに焼き捨てるよ。だがもしそうせずに、相変わらずペテルブルグの家族に従うというのなら話はべつだ。僕はきみを助けないし、きみをどこかに売らないとも限らない。僕だって見ず知らずの子供の命と引き換えに、自分の身を危険にさらしたりするつもりはないからね。きみ自身がきみをどうするか、決めてどちらかを選ぶんだ」

 スタヴローギンさん、とアリョーシャは言った。ぼくに、あなたを連れてくるように言ったのが誰だか、そんなに知りたいですか、と彼は続けた。

「この間話した、五人の中にいるんですよ、誰だか分かりませんか。あなたならぼくが言わなくても、ぼくのすることを分かるだろうと思うんです」ニコライはかぶりを振った。

「リャムシン? この間、きみが本当の名前を言えないと言った、彼らのうちの誰かかい?」「そう、最初がリャムシン、それから」と言い、彼はニコライの手を取った。それから彼の指を親指から始めて小指に至るまで、順番に口に入れて丹念に舐めはじめた。

 

 人通りが途切れたのを見計らって、ペトルーシャも性格が悪いな、とニコライは低声で言った。

「あんなに荒れた子供だとは思わなかった。だいたい僕の身に危険が迫っていたんなら、あれの母親がどうのとか言うより、どんな紐が付いているのかを知らせてくれた方が良かったじゃないか」

「きみに危険を知らせるなんて、きみがぼくに期待していることのうちに入ると思わなかったんだよ」とペトルーシャは言った。

「ぼくはずっときみのそばに居たいと思ってる、きみの側を離れたくない。きみが呼べばいつどこでも来るし、またきみからの頼まれごとは何であろうとしてあげたい。でもきみが平穏無事であってほしいなんて思ったことはないし、きみだってそういうことを期待しながら幽霊のぼくを呼んだりはしないでしょう」ねえそれをどうするの、彼はニコライの持っている包みを指して言った。

「あの子には持たせなかったでしょう、捨ててしまうの?」

「うん」と言い、ニコライは川のなかに包みを投げ捨てた。僧服が包みを破くように出てきて、水のなかに広がった。

「どうせそうするんなら、何も脱がせたりせずに、着ているときに突き落としてやればよかったのに」と橋の上から眺めつつペトルーシャは不平らしく言った。

「もしそうなったら、あの子はきみたちの仲間入りを果たすんだろうな、ペトルーシャ。きみは女と子供が嫌いだと言ったけれど、もしあの子がうちに来たらうまくやっていけそうかい」

「いやだよ、あの女の子に慣れるのだってぼくは苦労したんだ、子供と友達になんてなれる訳がないよ。きみがそう出来なかったみたいにね、ぼくだって出来ないんだよ、分かってるくせに」と彼は言った。


 アリョーシャはニコライに持たされた荷物を持って、列車に乗せられていった。もっとも僧服のほかに目立った持ち物もなかった彼は、ペテルブルグの親切なひとに保護されて、世話になったという体で身なりを整えられ、一等列車に乗せられて帰った。田舎では悪人も善人についても、ただそういう動物がいるとばかり漠然としか想像されないだろうとニコライは考え、このように荷物を持たせることに対して、むしろ彼らを簡単に騙す面白さの方を感じた。

 列車が動く間際になって、アリョーシャは本当に気が違ったのかのような動揺を示した。他人に服従することには慣れても、その意味を行動の間際になるまで分からないでいることにもまた、慣れてしまったのだろうとニコライには思えた。

 ひと月もすると、アリョーシャは再びゴロホワヤ街にある、彼のアパートに現れた。

「きみは幽霊なの?」とニコライはたずねた。

「あちらでもう素性がばれたのか。もう絞め殺されたの? だいたいアリョーシャ、僧服を着ていないじゃないか。どうせきみは人殺しなんだ、どうせなら坊主を絞め殺して坊さんに化けてからおいで。僧服をなくしたきみなんて、こちらできみの家族に見られたら何て言い訳するつもりだい? 追い剥ぎにあったとでも言うのか。ああそうだ兄さんに会ったと言えばいいんだ、きみの兄さんが誰なのか、もう誰にも分からないんだからね」

 あなたは、ぼくの兄さんではありません、と彼ははっきりした口調で言った。

「やっぱり、こちらの空気がわるいのか、きみはペテルブルグに来ると気が狂うの?」

「今度はあなたと友達になれるような気がしたんです」と言い、アリョーシャは微笑んだ。


        ○


 だめ、ポーレンカはもう死んじゃったんだから助けられないのよ、と少女はニコライに厳しく言った。彼女はニコライの借りている部屋の隣の部屋の住民で、両親とともに暮らしていた。両親が仕事で日中は留守にすることが多く、そういう場合、彼女はまるでそれが自分の仕事だとでも言うように、ベンチに寝そべり無心に陽光を浴びていた。

 一家ではとくに母親の躾が厳しく、時折彼女を叱る声と泣き叫ぶ声とがした。しかしそれも永遠には続かず、しばらくすると彼女もまた、ニコライがアリョーシャの放心を形容した「職業的態度」を身につけ、打たれてもまた放置され続けても、変わらない態度を保っているかのように、少なくともニコライには見えた。

「どうして助けてやったらいけないの?」

 と、ニコライは、彼がお人形のポーレンカを拾いあげて、彼女の想像上の断崖絶壁から救ってやったことに対する叱責の理由を、この十二歳の少女にたずねた。たった十二歳でしかなかったと、のち彼女について回想するたびにニコライは思った。そして彼の頭のなかで、永遠に彼女はそれよりも大きくはならない。

 出会った時点で、十歳ほども歳の離れた自分が、兄のように彼女に接するのはまだいいとして、一たびこうしてままごとのような遊びをすると、たちまち彼女に隷属せざるを得ないので、彼は他にあり得ないこのような服従を遊びとして面白がっていた。また、彼女は歳のわりに、ままごとやお絵かきのような幼い者がする遊びをニコライとしたがったが、それは彼のような大人を隷属させる手だてが、うんと小さい子供以外には与えられていないことを分かっていたためでもあっただろう。

 また、彼女が筋書きを描くままごとは、つねに悲劇的だった。彼女はお気に入りの登場人物を、必ず非業に死なせた。ニコライは別段人形に同情したわけではなく、ただ投げ捨てられた玩具を拾ったのに過ぎなかったが、彼がポーレンカの悲劇について理解を示さないことが、ポーレンカに対する愛情の不足であるように彼女には感じられ、そのことを自分への不忠のように彼女は苛むのだった。

「それはもう決められたことなのよ」と彼女は、芝居がかった調子で理由ともつかないようなことを言い、ニコライに納得するように迫った。こんな説教のほとんどが、彼女の母親の叱責の模倣であることにニコライはすぐに気がついた。そして気づかぬふりをしていた。


 彼らは一緒に寝ることさえあった。もっとも両親がどうしてか不在のときなどに(この家族には娘は含まれていないものか、たびたび夜通し不在にすることもあった)不安のあまりに寝付けなくなった少女が、音をあげるようにしてニコライを呼ぶのだった。ただ眠れないとそう言えばいいのに、妙に早熟でかつ気張ったところのある彼女が、顔を紅潮させて「一緒に寝てくれなくてはここで死ぬ」などと口走るので、仕方なくニコライが出ていって添い寝するという形だった。もっとも、母親などに見つけられて責められたりしてはかなわないと思い、彼は少女を自分のベッドには入れず、彼らの部屋の間にあるベンチに寝そべり、彼女が寝付くまでという期限つきで寝そべった。彼女が寝息を立てると、彼は彼女をベッドまで運んでやるのだが、一度間違えて母親のベッドに運ぼうとしたときなど、彼女が「あっちへ行きなさい」と腕のなかで怒鳴る始末だった。

「きみは眠っていたんじゃないのかい」とニコライが言うと、

「コーリャが心配で目が覚めたの」と彼女は言った。こうした遣り取りもまた、彼女のままごとのうちだった。

 遊びの間、彼女はニコライへの君臨者であり続けた。彼女はニコライを弟のようにコーリャと言い、親の前ではニコライさんと言った。時々ひそかに、わたしの兄さんとも言った。「兄さん」も「コーリャ」も、彼女がニコライに与えたままごとの役目のようなものだった。ニコライは彼女にとって素晴らしい愛玩物だった。彼は初めから彼女を愛称で呼び、そのことが彼を感激させたらしかったが、母親が日々彼女を怒鳴りつけていたために、その名前が彼に知れていただけのことに過ぎなかった。犬がいまさらイヌでないとでも言うように、あれだけ呼びつけられていて、マトリョーシャでなくては何であるのか、とニコライは思ったものだったが、彼女は自分の名前が、母親でなくこの美しい青年の口から出るときに、彼を叱っているような、支配の欲求が満たされる快楽を味わうらしかった。

 

戻ってきたところでアリョーシャは、ペテルブルグでの用事があるわけではなさそうだった。

「イワンには知らせたの?」とニコライが尋ねると、彼は当たり前だろうという風にかぶりを振った。

「あなたのほかに、誰に会うつもりもなくここに来ました」

 家族も是非、あなたによろしくとのことでしたと言い、彼は養家の持たせた焼き菓子を取り出した。そして一つ二つと、紙屑の山のなかに蟻にでもやるように投げ捨てると、三等ではよく眠れなかったと言って勝手にベンチに寝転がった。

 彼が寝息を立てるまでに数分とかからず、彼の寝つきの良さ、動物的な態度をみてニコライはつくづく感心した。あの十二歳の少女は、あんな格好では寝られなかったというのに。彼は行儀もわるく外套をつけたまま、野宿するようにベンチの上に寝ていた。

 マトリョーシャはただ両親のいないのが寂しく、眠っている間に捨てられでもしないか、と不安になり彼を呼んでいたらしかったが、アリョーシャの場合には既に家族に見捨てられており、また彼を見捨ててはいないと思われる家族には、見つかった場合にどのように扱われるのかも分からない。捨てられるのであれば良い方で、彼や彼の兄についても身の危険が及ぶ可能性が高い。

 アリョーシャは滾々と眠り続けた。彼がそのようにしている以上、また危険物である彼を保持している以上、いつ家が襲われないとも限らず、ニコライもまた家から離れるわけにいかなかった。

 数日の雨が続き、彼らは自然と家のなかに取り残されるようにして残った。雨が窓ガラスや屋根をくまなく濡らしてくのを見て、ニコライはふと別離のときに、アリョーシャが自分の指を唾液で濡らしたことを連想した。ニコライにはアリョーシャの滾々と続く眠りが、この家を舐めるように包んでいるのではないかとふと想像した。

 

 マトリョーシャ、これでは反対だよ、とニコライは言った。

「これじゃあ読めやしない、自分で自分の名前すら書けないだなんて、学校へ行って困るだろう」ちっとも困らないわ、とマトリョーシャは言った。

「だって、学校にいて字を書くのは先生だもの。わたしが何かを書くわけじゃないわ」

 でもきみにだって、試験があるんだろうと、ニコライは妙な口調になったと思いつつ言った。だがマトリョーシャの満足そうな笑みにぶつかるだけだった。この小さな君主は学校で、アーニャという少女を奴隷にしており、ノートを書くのも試験の答案も、みんなひそかに彼女にさせているということだった。

「どうしてアーニャの役割なんだい」とニコライが尋ねると、彼女は弾んだ声でこう答えた。

「わたし、アーニャの書く字が好きなの。あんな字が自分のものだったらいいなって思った」

 そしてそのことは、アーニャにとって恩寵の重みがあるのだということを彼女は平気で信じ、彼女のコーリャに向かって言った。書く文字はしばしば、当人の顔の代わりをする。アーニャの顔になることが出来なくとも、声を得ることが出来なくとも、アーニャから筆跡を奪い取って、自分を名乗らせることは可能なのだ。そのことを分かっているこの女王様は、アーニャを奴隷にし、自分を働かせないことを習慣化したせいで、十二歳でなお鏡文字を書いていた。

「鏡に映さないと読めないよ、」とニコライが言えば「鏡に映すからいい」と、マトリョーシャは鏡を自分の奴隷であるかのように言った。


「ねえコーリャの言うことをひとつ聞いてあげる、」と彼女は、床に寝そべって絵を描きながら言った。

「猫を殺してきてって言ったでしょう、あれをやめにするわ」ニコライはそれはどうもありがとう、と言った。

「ええそうよ、猫を殺したら、猫がかわいそうだもの」

「それにもっとかわいそうな目に遭わせるでしょう、お嬢さん、きみのままごとのためだもの」

「そうね、おままごとの中でも死ぬことになるんだから、だから、何度でもそう出来るように、生きているのよりは死んでいる猫のほうがいいと思ったんだけれど」

 生きている猫ならそこらじゅうで見つかるのに、死んでいる猫というのはその辺を歩いていないんですものね、と彼女は言った。そして彼女は白紙に線路を描き、その上に猫を置いた。そしてニコライの見ている前でそれを見るも無残な姿にすると、絵の完成を示すいつもの仕草で、ニコライの前で広げて見せた。

「ねえこれまだ生きていると思う? それとももう別?」

「まだ生きていて、それで列車が来て殺しちゃった、って言うんだろう」

 と、ニコライが、いつも彼女の芝居の調子に合わせて言った。彼女は快活に笑い、

「あんたがそう言うんなら、それでもいいわ。本当は違う答えを用意していたんだけれど。ねえ、この方がいいわねえコーリャ。生きているか死んでいるか分からない絵なら、頭のなかで幾通りの話を考えて、何度でも悲しい話が出来るわ。もう死んでいる猫なんて要らない、ねえコーリャ、わたしと永遠に遊んでくれる猫を描いて」


 本当は見つけていたんだ、とアリョーシャは紙屑をかき分けながら言った。でもあの時はあなたがあまりぼくを怖がらせるので、全身で耳を塞ぎたいぐらいだったから、そのことを言い出せなかったんだよと彼は続けた。雨が彼らの上に横たわるほどに降り注ぎ、彼らはどこにも行くことが出来なくなっている。

(川の水も増えていることだろうか)とニコライは想像し、この運河の多い街が水浸しになる想像などを漠然と描いた。別段そう願っていたわけでもなかったが、胸のつかえるほどの妙な不安がせりあがるとき、彼はそのように氾濫する暗い水を見にわざわざ出かけていくことがあった。自然のつくる風景の姿が、彼の感情の起伏のラインと一致するのを見ることが、彼にとって一種の替えがたい慰めになるのだった。山を見なければ済まない場合もあり、また冬の全てが凍りついてしまう景色なしには、彼は成人するまで生きられなかっただろうと思われた。

(すぐに見に行く必要もないだろうが、あの僧服がどうなっているのかを見てみたい)

 暗い水の中に、浮いたり沈んだりしていたあの僧服が、あの時の溺れた子供のように浮かびあがり、中には何の死体もないことを確かめられたら、現在の彼にとってこれほどの慰めはないように思われた。ペトルーシャの言うとおり、その中身にあたる子供はもう居ないのである。しかし心にそういう光景を描くだけでは仕方がなく、やはり現実の光景として眺めたい。

 放火犯というものはそのような者たちだろう、とニコライは自分のこうした煩悶の姿を眺めて想像した。彼らは現実において初めて火をつけるのではなく、心の中で焼けた街、逃げ惑う人の声、そんなものをさんざん描いてきたはずなのだ。その光景を完成させるため、最後に現実の街を必要とするのに過ぎない。

 溺れている子供はもうおらず、僧服の子供も立ち去っている。ただ僧服ばかりが、もう誰も居ないという証拠を包んであの水のなかをさまよっている。そういうものを見なくては、その替わりのものを自分は必要とするのに違いない、と彼は思った。

 赤ん坊は、泣くことと同じほどに彼をあやす玩具と必要とする。悲嘆は同量の慰めと釣り合おうとする。彼には、きつく尋問しても友達になれるとか言ってすぐに戻ってくる気違いの少年や、彼と共寝しなければ死ぬと言い張る年端もいかない少女がいる。彼の周囲には慰めの量の方が夥しすぎるぐらいだった。それらの玩具は、それが黙らせなくてはいけない赤ん坊がどこにいるのかと彼に迫った。


 アリョーシャは彼を怒鳴りつけたりはせず、彼の目の前でスケッチブックをぱらりと広げた。湿ったページ同士が剥がれるときの軽い摩擦音がニコライの耳を襲った。

「これでしょう、肉屋さんの絵は」と彼は言った。スケッチブックに描かれた絵のなかの一ページで、湿気を含んで彼の指に貼りつこうとした。特に青い洪水の部分が、多くの絵具の水を含んでいるために膨らみ、またページをめくる時の摩擦のために紙が微かにけばだっている。その荒れた水の上を、一組の男女の首に鎖をつけた青年が歩いている。繋がれている男女はいずれも狼のように広がった口をしており、犬歯を剥き出しにした激しい形相で青年に引きずられている。首輪が彼らの首に食い込み、小さな血の噴水が出来ている。その飛沫が青年の背中や腰にかかっているが、青年の靴には違う方向からと思われる血の噴射の痕跡があり、あたかも人の生首を踏みつけたかのようである。彼は背後の男女には目もくれず、手の中の懐中時計を眺めて、飛ぶような足取りでどこかに急いでいる。

「それはペトルーシャだよ、」とニコライはアリョーシャに真実を言った。

「アントンじゃない、彼はもっと図体が大きいんだ。それに手にバケツを持ってる。その中に人の頭があるって言っただろう」アリョーシャは耳をそばだてるように首をかしげた。

「そう? なんだ、あなたがそう言ったときにすぐに分かった、と思ったんだけれどな」

 いいや、全然僕の言ったのと合っていないよ、とニコライは言った。

「きみはペトルーシャに会ったことがあるから、彼の顔を覚えていて、それで間違えたんだろう」

「冗談じゃない、スタヴローギン、ぼくは刑務所になんか居たことはありませんよ。あなたが思っているほど、僕は悪いことなんかしちゃいないんです」

「火つけも、泥棒も、人殺しもしたことがないのか」と彼が言うと、アリョーシャはええ、と言った。

「そういうものを全部、見ていただけです。ニコライさん、見ているだけで罪に問われるんなら、こんな絵を描いたあなただって無事では済まないはずです。だってこんなに沢山ひとが死んでる」

 それは刑務所で描いたものではないよ、とニコライは言った。

「刑務所に入る前、子供のときに描いたものなんだ」と彼が言うと、アリョーシャは例の、割れ鐘のような表情を浮かべて「あなたにも子供の頃があったんですか」と妙なことを尋ねた。ニコライは笑って、あるよ、と答えた。

「あるよ、まず初めに赤ん坊で産まれて、それからきみぐらいの子供になるのに十年かかった。それからずっと月日が経って、大人になったんだ。でもそのときから、ここにいる人たちは変わらない。ずっと僕よりも大人で、僕は彼らのことを怖いとさえ思っていたけれど、ようやく友達になれたんだ。それもごく最近のことだよ、ここ一年や、二年ぐらいの間になんだ」


 美人だね、とステパン氏はニコライに言った。

「それは誰? エレーナかな? ダーシャ? ぼくにもその素敵な美人さんの名前を教えてくれないか、コーリャ」リーザ、とニコライ少年は、女性の髪を描きながら言った。

「リザヴェータ・ニコラエヴナ・トゥシナ、きみの元生徒で、二十歳ぐらいになってからきみが再会する素晴らしい子供。彼女について特筆すべきは、大人になってもきみに変わらない尊敬を捧げている点だよ、性格がいいんだ。それからフランス語もちゃんと覚えてる。もっとも、周りが彼女に相応しいと思う人生のコースと、彼女自身が選ぶものってのは真逆で、彼女は馬に蹴られて死んでしまうんだ。でもそれも良いと思ってる。彼女の望むことを、叶えてあげられるのは僕だけだもの、彼女の言うとおりにしてやらないとね。だからこうして馬を描いてる」

 そう言い、彼は絵筆を乱暴に馬の上に当てた。馬の胴体が、水を吸ってやや膨らんだ。彼の指の下では、ステパン氏が素敵な美人さんと言ったリーザの姿が完成しており、彼女は八本の足をてんでに空中に投げ出し、馬に蹴られてぶちまけられた内臓の上には、恍惚とした表情が浮かび、彼女の快楽の痕跡のように髪の先は広がり、黄色い小鳥になって歌いながら羽ばたいていた。

(誰にも話していないと言っていたが、)とステパン氏はこんな子供の落書きにも、自身の犯罪の痕跡が現れているのではないかと恐れ、息を詰めて彼の描く絵をいちいち監視しなくてはならない身分になったことを嘆いていた。

(いまは分別のないこの子供、ただ当てつけるように、ぼくにまつわる架空の人間を描くことでしか、他人に訴える術のないこの子供――が、大人になるまで待つことだ。ぼくらのこうした関係は確かに、子供から大人になるまでの、あの微妙な時期を乗り越えるために必要な紐帯だったと。青年期から逆算して、子供時代を考えさせることだ。思い出はみんな美化される、というのも、現在の成果にまつわる意味の他はみんな取り除かれ、記憶からつまみ出されるからだ。ぼくたちが互いに大人になり、この子供の頃から続く友情の意味を考えられるようになったとき、初めてぼくらはこの頃の出来事の価値を理解できるだろう。ぼくらが互いを特別な友人だと認めるために必要な出来事だったと。彼が、自分の子供の頃に意味を持たせる年齢になるまで待つことだ――)

 

 ねえコーリャ、眠れないの、どうして『ぼく』は眠れないの――。

 ステパン氏は彼の保身のために、彼の愛した子供が早く成人してくれることを願ったが、子供というものは早々都合よく早く成長するものではなく、またニコライはこの出来事からの回復をも、成長の過程に組み入れてしまったため、年齢が進むにつれて、ステパン氏をより一層苦しめるようになった。ヒステリーを起こす時の彼は少年というより、子供を産んだばかりの若い婦人のようで、ステパン氏はこんな発作に、若い夫のようにおろおろと付き添うしかなかった。

「コーリャ、きみはどうせ、誰にも僕がしゃべらないと思ってる。でも無駄だよ、僕はいつかきっと話してやる、きみが僕にどんなに卑劣だったか、きみが僕の友達だと言ってしたことがどんなに乱暴なことだったか、きっとしゃべってやる。でも、それはずっとずっと先に、きみにもう食べるところが十分に出来たと判断したときだよ……それまでは僕が隠してやる、きみへの優しさじゃない、きみが僕に話したあの話と同じさ、丸々と太るまで家畜には何でもしてやるんだ、僕がきみの家来になってあげるよ、僕の、コーリャ」

 十歳ばかりの子供がそう言って、夜、彼の首を締め上げている間も、ステパン氏はどこか本式に彼を恐れてはいなかった。ニコライの言う「職業的な態度」というものを、この哀れな学者もその生涯のなかで身に付けてしまっており、こんな風にヒステリー気質の人間に罵られることは、彼にとっては古い書物を読むようにのどかで、慣れきった読書みたいなものだった。

 また彼はニコライを、幼児のころからよく知っていた。彼は元はと言えば従順すぎるぐらいの大人しい子供で、このヒステリーの時でさえ、彼とは似ても似つかない母親の言葉つきの模倣があることを見抜いていた。ニコライが彼自身の殺意を持ち、ナイフを持って自分に襲い掛かるなどということはあるまい。彼はニコライのこうしたヒステリーを、婦人の一時的なもののように片づけて高を括り、彼が青年になるまで風雨を凌ぐようにして凌いだ。

 ニコライの元々の内気な、決して他人に暴力をふるったり出来ない気質というものは、彼がステパン氏を「コーリャ」と呼び出した点にも現れていた。これは彼が、ステパン氏に対する迫害を始めた頃に言い出したもので「ぼくときみとはまるで同じ人間のように、考えていることが似ている」と言ったのを引き合いにし、ニコライが自分の指輪を抜いて与えるみたいに、自分の愛称をステパン氏にあだ名として与えたものだった。ステパン氏自身は、こんな子供っぽい拘束をコーリャのヒステリーぐらいにしか考えなかったが、ニコライにとっては、本人がそのすべてを自覚しきっていた訳ではなかったが、別の具体的な意味が含まれていた。

 ニコライは他人を打つとき、相手が迫害者である自分を見返す目を持つことを恐れた。生まれつきの迫害者であったわけではないのに、なぜか彼は被害者に眺め返されるという呪いのあることを知っていた。

 ステパン氏に対して、彼は復讐を躊躇わなかった。確かに暴力とは無縁の揺り籠で育てられたような彼ではあったが、ナイフなど使わなくとも他人の名声、地位、その他心情に傷を負わせることにかけては、遺伝的才能にさえ恵まれていた。そして十分に復讐したい相手に対し、彼自身が呪いへの恐れからつい手心を加えるのを防ぐため、あらかじめ名前を奪うことすら無意識にやっていた。コーリャ、コーリャ。これは、彼にとって、犬よりも打ち易い名前だった。

 

 寝そべっている少女の顔つきは不満げである。まるで花束の花の頭のように、自分の手から少女の顔だけがこぼれている光景を、ニコライは一幅の絵のように自分が見ているのに気がついた。それはまるで、あらかじめそうしていた自分に対し、彼が背後から近付いて袖を通すかのような作業である。この感覚の生まれつきない者に対し、この現象をありのままに説明することは虹を見たことがない人間に、七色の帯の幻を想像させるほどに難しい。……

 ニコライはふと、彼の主人であるマトリョーシャが不満げであるのは、彼に対する不満を浮かべているせいではなく、ただ単に彼女が窒息しかけているからなのだということに気が付いた。彼女は青年の大きな手により首を絞められ、魚が驚いて濁った池のような顔色をしていた。彼が手を離すと、解かれた血液がその短い首の間をさっと通ったが、彼が手を離したのも、そうした現象の色合いの不思議さに心惹かれただけのことである。彼は自分が掴んでいたのが人間の首で、その持ち主がマトリョーシャであるということをかろうじて、彼自身が窒息から解放されように理解していったが、自分が、彼女を絞殺しかけていたということまでは理解しなかった。また、彼女に対し、自分がかつてステパン氏に加えられたのと同じ苦しみを加えたということも、彼は自分で物証を見てさえも信じかねる気がした。彼はその間、自分がそれを行えたはずがないとすら思った。あるとすれば、彼の過去がやってきて彼に袖を通したのである。その間、彼の現在は彼を離れて過去に出かけていた。

 最後に「コーリャ、コーリャ」という声を彼は聞いた。マトリョーシャは自分に訪れた最後の瞬間に、彼を家来の名前で呼んだ。ニコライでもスタヴローギンでも、兄さんでもなく、どんな年長者を呼ぶ呼び方で媚びるでもなく、あくまで飼い犬を叱るように、弟を呼ぶかのように彼を「コーリャ」と呼んだ。それから、しばらく秘密を引きずって生きたが、結局はこの、少しぼんやりして頭の足りないと思われる家来が、やりきれなかった彼女の絞殺という仕事を始末してやるかのように、ひとり首を括って亡くなった。

 母親の悲嘆はここにきて限りもなく、かつてニコライがペンナイフを紛失し、その時にマトリョーシャが居たことだけを理由に、彼女の仕業と決めつけて厳しく叱りつけたことなどを、彼女の自殺の原因ではないかと言い悲しんだ。これは別にニコライを責める積りなのではなく、娘の突然の死の原因を何らかの出来事に片付けて理解したい、というごく自然な動機による言葉に思われたが、ニコライはこの母親の平凡な鈍感さに驚く思いがした。生前のマトリョーシャはあくまでも彼の主人であり、彼の持ち物はみな彼女の物であり、家来の持ち物を盗む必要などはまるでなかったのだが、彼らのそのような関係さえも、この隣人はまるで見ていなかった。母親というものは娘の上に見たい物を見、また見たくない物にかけては、自分が手製でこしらえた物を着せた上で見るのかもしれない、と彼はこの母親の一連の誤解から想像した。


「あんな化け物みたいに描いたらいやよ、承知しないわ」とマトリョーシャはかつて、ニコライに言った。

「化け物って?」

「頭が羽根になっている女のひと、あなたって何でも上手に描くのに、化け物までも上手なのね。とくに、女のひとは酷い。みんな身体のどこかが馬になっていたり、蛇になっていたりして化け物なんだもの。わたしはあんなものになりたくないのよ、うんと美人に描いてちょうだい」

 そう言って彼女は背を逸らし、ニコライが彼女の首を絞めたベンチの上で、ちょっと身体を横向けて座ると、まるで接吻を待つような顔つきで薄く目を閉じた。

「それじゃあ、せっかくのお顔が分からないよ、素敵な美人さん」とニコライが笑うと、

「いいのよ、これで」と彼女は目を閉じたままで言った。

「だってあんたの絵、みんな横を向いているんだもの。わたしがあんたの目を見ていたら、あんた描けないでしょう」

 彼女の母親が想像するべくもないが、彼女の命が危険に晒された直接的な理由は、スタヴローギンのナイフを盗んだせいでも、母親にひどく叱られたせいでもなく、ニコライに関してこの致命傷を発見したせいだった。ニコライは彼女の顔をよく見ようとして、ちょっとその首に触れた。


 良かった、あなたが居た、とアリョーシャは言い、彼の鼻先に触れた。この少年は、かつてのマトリョーシャとほぼ同じ年齢で、ニコライの手にかけられたのだったが、少女と違っていたのは、彼女より少しばかり体力があり、窒息させるまでに時間がかかったこと、また離された後で蘇生が早かったことだった。ニコライが手を離した後で、彼の首の色を眺めるまでの間もなく、アリョーシャは自ら彼に近づき、猫がするような仕草で彼の顔に触れた。そして目や鼻があることを手で確かめ、「良かった、あなたが居た」と言った。かなりはっきりした発音だったが、ニコライにはそれが、彼が魂を放逐したときの声だということを、短い同居生活のなかで気づいていた。彼は何も、こういう命の危機の場合においてだけこの反応を起こすのではなく、もっと身近な場面でも魂を放り出した。彼が見られないのは子供の死だけでなく、鼠の死でも同じことだった。それから風雨が窓ガラスを叩く音や、夜に枝から葉が落ちる音などを聴くにつけてもやった。それらの雑多な自然現象と、ニコライのこの暴力とのどちらを彼がより恐れているのかは、彼に訊いてみなければ分からないことだった。もっともこんな場合の彼には、どんな質問も無効だということを、ニコライは彼に接触するうちに理解した。初めはかなりはっきり返答するために正気らしく思われたのだが、アリョーシャの方で対話の相手を認識していないことが多かった。彼は自分が、彼の知らない老人に間違えられたことを思い出した。あなたが居た、とは誰であるのか。……

 

 コーリャ、なぜ僕に同じことをしてよこさないの、と言い、彼は師を苦しめたことがあった。

「赤いインクを使って千行に渡って『痛い』って書くみたいな痛みだよ」

「お腹のなかにある一枚の紙を、糸ほどの細さに千切り続けて途切れないように」

「焼けた鉄をのどに押し込まれる拷問のことを考えたことがあるかい」

「生きたまま手足を千切られる虫の溜息を聴いたことがあるかい」

 きみは外国語で書かれた本なんかみんな読めるのに、僕が知っているこんな言葉の意味さえ知らないんだね、自分で値打ちを知らないお金を、お金だとさえも知らずに僕に好きに使っていいって寄越したんだね……。

 彼はステパン氏の頬に接吻して優しい声色で言った。

「だからって二度とするなというんじゃないよ、コーリャ、きみは好色だもの。それが食欲のようにきみに付き纏って離れないんだということは僕も知ってる。僕がきみを可哀想だと思ってやるよ。ずっときみの秘密を分かち合える友達が欲しかったんだろう、僕にそう言ったじゃないか。……どうしたの、コーリャ。今やきみが、僕に示すことの出来る譲歩といえば一つしかないじゃない、僕がそう言ってるのに、僕に軽蔑させてくれないの?」

 だから彼らの思い出のうちの後半は、主に、ニコライの主導によって作り上げられたものだった。ステパン氏は最初の過ちはともかくとして、彼が隠ぺいしなければならない秘密を、彼の愛児によって、悪い腫物をいたぶるように悪化させらされて持たされたことになる。

(彼が何かをしたというんじゃない、)

 とニコライは、運河のほとりに来てアリョーシャのことを思い返した。手を下した後、彼はすぐにアリョーシャを医者に連れて行こうとしたが、アリョーシャの方が嬰児を思わせる力の強さで袖をとらえて許さなかった。医者に行ったりすれば、ペテルブルグでの彼の行動の足跡になる。またすぐに養家にも戻されることになるだろう。放心していても、彼はペテルブルグの家族と養家のどちらにも放逐されるだろう、というニコライの予言を忘れずに恐れていた。彼は蒼白になって黙り、暴行のこと以上に、彼を放逐する算段のことを怒っているようだった。

(まだ見ていないかもしれない。ああなってはしばらくの間、尋ねることも出来ないけれど――)

 ニコライ・スタヴローギンさん、という少年の声に、彼は振り向いた。既に運河の水の色は暗かった。彼は背後にいる少年が、手に抱えているものがただの黒い服なのか、濡れた子犬なのか、何かの死骸であるのかすぐには分からなかった。

(アリョーシャの服だ、)と彼がとっさに思ったのは誤解だった。それはもともと、彼の家族が打ち殺した僧の服だったはずだから。それは川底から拾い上げられでもしたのか、どっぷりと水を含んで泥に汚れていた。もともとそれを着ていた人間ごと落ち、溺死体から引き剥がしたと言ってもおかしくないような異臭を放っていた。

「やっぱり、そうだ、」とこの少年は、彼の返事を聴くより前に、彼の僧服に対する眺め方を観察して言った。

「あなたがここへ戻ってきたら、渡すようにと言われたんです」

 そう言って彼は、ニコライの伸ばした手にこの赤ん坊の影のような物体を抱かせた。それは泥水を含んで見た目よりも重く、彼は親切にもニコライがちゃんと抱えるのを助けるような素振りを示した。

 

 ニコライが出会ったとき、アリョーシャは頬を紅潮させ、感激しきったときの身振りを示して「あなたの無関心をほとんど崇拝していると言っていいぐらいです」と言った。それが、彼らのした会話の初めだった。なぜ子供を助けた自分が、子供に無関心だったと言うのかとニコライが言えば「ああいう場合に、無関心でなければ子供を助けられない」と言って彼は微笑んだ。それは彼の経験から導いた答えであったのか、あるいは子供に関心のある人間が最期の留めを刺す現場に何度も立ち会ったためなのか、単に前者ではないかと思ったが彼が正気を失っても恐れる前科があるところを見ると後者かもしれず、現在となっては訊く術もなかった。

(それを訊いておけばよかったな、)とアリョーシャの現在の顔つきを想像してニコライは思った。彼の顔つきは今では、もう全ての物に無関心なようで、橋の上にいるあのときの顔つきに近かった。彼はあそこに居た理由について初め「溺れる子供を助けたいと思ったが、自分の身の危険を想像すると怖くて動けなかった」と説明した。これは全くの嘘ではなく、確かに彼は子供が救われる未来を願っていたのだが、それは彼が他人ではなく、自分自身の未来の姿であるかもしれないからでもあった。彼は近い未来の自分の死を半ば受け入れ、半ば自己犠牲をいとわない大人の手が伸びて救出してくれることを願っていた。それを、ニコライが偶然に叶えてしまったがために、彼はニコライを自分の救い主のように思った。そして自分を救う大人というものは、自分に無関心な人間だとその目印を発見した。

 ニコライはニコライで、アリョーシャに対して嘘を重ねた。これはアリョーシャの言う通り、アリョーシャに対して彼が全然、無関係の人間だと考えていたためでもある。彼は、自分の目に映ったアリョーシャの影にしか用がなく、彼自身にはまるで無関心だった。彼と親しく口を利く間柄になっても、馬車で轢くことも出来ただろう。そしてまた、自分のそのような振舞いは、彼に容易く受け入れられるだろうこともよく承知していた。彼はアリョーシャを傷つけること、彼を欺くことに何ら良心の咎めを感じなかった。

 彼がアリョーシャの目の前で子供を救ったことに関しては、死の淵に沈もうとする子供の顔色を見たかった、という嘘をついた。これは全くの嘘ではなかったが、彼にしてみれば本心のごく一部を、その全てであると主張するようなもので、そのためだけにわざわざ水をかぶるなど、狂気の発作としか彼には思われず、完全に正気であった当時の彼には取り得ない行動だった。しかしアリョーシャの言う「子供が死ぬのを楽しんで眺める大人」が彼自身であると言い、彼の関心をくじくためにそう言ったのだが、この不思議な子供に、彼の無関心が本物であると見抜かれただけの結果に終わった。

 最後に、尋問のついでに彼はアリョーシャに「自分の救出の動機は、きみの素晴らしい無関心を打ち砕くためだった」と言った。これは彼にとってかなり本心に近かった。彼が、夢に見るほどに憧れたアリョーシャの白い顔、墓石のように静まりかえった無関心、それは確かに「きれいな蝶々」みたいなもので、彼がつい子供のように純粋に「手のなかでそれらの手足を毟りたくなる」衝動に駆られたというのも、嘘ではなかった。

 しかし彼は実際には、アリョーシャの無関心を壊したかったのではなく、溺れる子供に嫉妬していたのである。このことは彼自身、恐ろしさのために目を逸らしていた事実で、ここで見知らぬ少年に僧服を預けられ、頸部をナイフで切り付けられるという目に遭って初めて、切られることを体験するように有無を言わさない一瞬のうちに理解したことだった。彼は彼の意志と関わりなく、夥しく湧き出てくる苦痛そのもののような血液を手のひらにたっぷりと受けながら、己の傷口を眺めるようにじっと少年を見返した。

 おそらく被害者が、加害者を眺める目になっていたのだろう。少年は彼に見返されたことで狼狽し、まるで彼自身の身体にピストルで穴でも開けられたようなうろたえ方をした。彼の身体の揺れ方だけで、彼は全身から涙を流しているように見えた。声にならない悲鳴、彼が想像のなかでは決してあげなかった悲鳴が、彼の身体の毛穴から汗のように滲み、川の匂いほどに微かにあたりに漂っていた。

「あんな気違いに、あんな気違いなんか、」と彼はかろうじて言っていた。これはニコライに向けられた言葉ではなく、ただ自分の浮力を保つために唱えているまじないのようなものらしかったが、どうやらアリョーシャのことらしいことが彼には知れた。実の兄を馬鹿もの扱いにして、売られそうになったことと言い、また恐らく彼と似たような位置にあると思われるこの朋輩らしい少年の態度といい、彼はずいぶんと活躍していたんだな、とニコライは内心苦笑した。

 哀れな少年は、次にナイフも持たずにニコライに向かって来、彼の胴体にしがみついた。まるで嗚咽しているような彼の抱擁には、彼自身覚えがあった。自分を傷つけた人間に対し、被害者の方が、自分が彼の知覚をすべて支配しきっていると感じるとき、相手に擦り傷さえもつけられないくせにこんな力強い抱擁をするのである。ニコライは少年の力に安堵し、途端にアリョーシャに言ったような、「貧しい人間も老人も、馬車で轢くほどの無関心」を手に入れ、少年を犬のように蹴飛ばした。彼が倒れた後も、その頭を鈍い音のするまで何度か踏みつけた。少年の頭の周りに丸い影が広がった。

(アリョーシャ、痛かっただろうな、僕がいま感じるよりもずっと、)と、彼は僧服を丸めたものを頸部に当てがいつつ急いだ

(コーリャに言ったような、そうだ、千行に渡って続く赤いインク、焼けた鉄を飲みこむ熱さ、錠前を壊す音、そんなものだった、あれは)

 彼は自分が初めて師に、彼の愛人に、彼の奴隷に、秘密の共有者に、彼の描いた架空の家族たちを描いて見せたときのことを思い出した。

「それは誰だい?」と、この亜麻色の髪を伸ばした、誰からも忘れられている哀れな学者は、その凄まじい色彩の水溜まりが少年の報復であるらしいことを察知しつつも、彼の次の裁きを受け取るようにそう言った。

「ペトルーシャ、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー、あなたの息子で僕を愛しているひと」とニコライは言った。彼は架空の登場人物でも、はっきりとその氏名や父性までをはっきりと言った。そのために他人が、時には彼自身が、この半透明な人物たちを実在していると思い違えたものである。そのあとに続くリーザや、キリーロフ、シャートフと言った彼の友人たちについても同様だった。彼は現実に彼の生活にかかわる誰よりも彼らと対話し、彼らとよく話したが、彼らの言う言葉が分からないと言って、聴いてきた言葉をステパン氏に通訳させることさえあった。それらはニコライにはまだ教えていないフランス語で、彼らがそれを話す理由は、みなステパン氏の元生徒なり肉親であったりし、彼に教えを受けたからだとニコライは言った。ステパン氏は少年が彼だけの世界で、蟻に砂糖でもやるように自分を千切って与えているところを想像した。

「あの子供は、ぼくの子供にでもなれると思っているんだろうか、」と、ステパン氏がその友人に打ち明けている場面に、ニコライは遭遇したことがある。

「ずいぶん多くの知人を、ぼくは得たようだよ。みんなぼくの教え子だそうだ。ぼくの気を引くためにやっている以上に、あの子には目的があるんじゃないかとぼくは思っている。彼らは一体、何なんだろうね? あれは誰だと思う? 息子? ぼくに息子なんて居たためしはないのに? じゃあなぜあの子は僕にそんなものを持たせようとする? 美しい少女、人殺し、やがて殺される男、ぼくはねえ、あれはみんなあの子がなりたいものじゃないかという気がしているんだ。そして一番に描いたのはぼくの息子なんだ、あの子はぼくのことをどこかで、本当の父親だとでも思って、ぼくの裏切りを責めているんじゃないかと思うんだよ……」

 この酷いうぬぼれはニコライを笑わせたし、彼をしてこの可愛い家畜をますます侮らせるばかりだったが、彼はふとこの老人が漏らした「彼のなりたいもの」という言葉について、ふいに鏡に映った己の顔を見たような気がして再び考えた。彼は傷つけられたことで、自分が何者かに(たとえば処女を失った女のように)変質した、とは考えなかった。ただ夥しく血の出る傷口を持ったことが不快であり、ステパン氏が隠ぺいしようとすることから、何か不名誉な薬がその上に塗られたことに対し、矜持から怒りを発しているばかりだった。

「なりたくなかったものになった」とは、現在の自分を規定しなかったが、確かに本来の自分の姿かたちを捻じ曲げられたように思っていた。またその事件がある前、彼はまったく彼自身であることに満足しており、また大人しい、顔だちの愛らしい、聡明な少年に対し、それ以外の余計なものを注文する人間は居なかったため、自分以外の何かになろうとする必要が全くなかった。しかし、あの老骨が言った「なりたいものになろうとする」という発想は、ただ新鮮なものとして彼の気を惹いた。そして自分のこの描画は、ステパン氏とって「なりたいものになろうとしている」という過程に見える、ということが不思議に彼の気に入った。なりたいもの、なりたいもの、と彼はベッドの中で、半神半獣の架空の生き物の体の輪郭を描くように、口中でその言葉をつぶやいた。

 あ、と彼は発見したようにそれを考えついた。それは発見であり、発想であり、それを考えつかなかったそれまでの彼の死だった。一たびその夢想を描くと、彼は化粧する方法を覚えた女のように、ある理想の姿に向けて忙しく白粉や紅を使う自分を、今度は抑制する必要を持たなかった。

 それは、彼が母親に「見てはいけない」と命じられたものだった。しかし「見る」という行為を、唇も持たないそれが彼に命じるみたいに引き出すことが出来ること自体に、彼は憑りつかれるように魅了された。それはもともと、犬であるらしいことがその投げ出された四肢の姿から分かった。彼は既に鳥にとって、豚の丸焼きも同然のものらしく、目や頬の肉などをさかんについばまれていた。尾を垂れ、四肢を投げ出し口を微かに開けた様は、まるで生きて彼が猛暑のなかにいるようである。しかし彼はもう何も感じない。なぜならこれほど見られ、鳥たちに苛まれても、彼は悲鳴ひとつ上げることなく、彼をついばむものに全身を提供して微動だにしない。……

(あれに、なりたい)

 彼は自分がいずれ死ぬということを、科学的な知識としては弁えていたが、もし仮に自分がこの家のなかでその場面を迎えた場合、到底あれにはなるまいとも想像していた。彼が高熱を出して数日苦しんだとき、母親とステパン氏は彼が帰らぬ子供になると想像して大いに昂奮していたが、その時にも彼は枕頭の大人たちが早くも葬式の支度について話すのを耳にしていた。それは食事や入浴や着替えのような儀式でしかなかった。彼が密かに愛する肉感的な涙や嗚咽、すすり泣きさえも喪服の色や決められた装飾具と同じ棚に陳列され、鑑賞される手順が整えられているようだった。到底、鳥たちに自由に自分をついばませ、悲鳴を上げない涼しい骨になるまで、路上に置いて他人に眺めさせるという風には出来そうにない。……

(僕に、自分をああいうものにするだけの力があったら)

 幼い男の子が、強い英雄に憧れて、彼の格好を真似たりし、自分を英雄のように作ろうとする情熱に、ニコライもまた憑りつかれた。彼は何とかして自分を死なせようと努力をした。その情熱は彼の「家族」たちにも伝染し、リーザや、キリーロフなどが情熱的に己の死を創造しようとするのを、彼は共感と賛成から絵筆でもって手伝ってやった。彼らの生きている場面も多くあるのだが、彼らの鑑賞者の多くは彼らの死骸を、彼らの唯一の肖像のように眺める。ニコライ自身、死骸のほかに自分が残すべき肖像があるだろうか、と思った。

 それには、彼の身体が要るだけではなかった。彼が音も立てない、涼しい骨になるのを、見届ける他人が要る。彼は眺められて初めて、「自分の成りたいもの」になったと言えるのだった。彼が望む誰かは、「見てはいけない」という禁忌の柵の向こう側にいて、彼を眺めなくてはいけない。しかし彼の死を悼むような、彼の達成した領域を土足で汚すような不作法者であってもいけない。ただ彼が作り上げた彼自身の姿というものを眺め、赦し、垂直に承認する眼差しを持っていなくてはいけない。それには、あの完璧な無関心が要る。沈んでいく子供を、死の淵にいるというだけで自分と同じと思い、自分自身の姿だと思いこんで眺めつづけた、あの無関心な視線! それこそ、太陽を見たことのない人間が初めて見た太陽のように燦然と輝く宝石であり、彼が命と引き換えにしても得たいものだった。それを、ただの不注意な子供に奪われるところだった。

(まあ、これぐらいでは届かないだろうけれど、)と彼は、首筋から流れシャツを夥しく濡らし、彼の肌に貼りついて固まっている血液の夥しさや、痺れるような痛みの範囲を考えて、家までの距離を考えるのと同じように、致命傷という傷までの深さをはかった。

(もう少し、あともう少しだけ深く抉れば、届くかもしれない)

 そう考え、彼はポケットにしまっていたナイフを取り出した。かつてマトリョーシャが盗んだ、と濡れ衣を着せられたいわくつきの物だったが、後になってふと、彼女が一時的に自分の目から隠したのではないか、という疑いもニコライにわいた。これまで誰も気づかなかったというのに、肖像画がすべて横を向いていることに気づいた彼女である。ニコライが子供のときに手にして以来、それが凶器となるには貧弱すぎると分かってからも、古い手鏡のように愛用していたその道具を、自分から隠すことで彼の意図を見抜いていると知らせる意図があったのではないか。

 彼女は、ニコライにとって唯一、正面を向いている肖像画になった。彼女が彼に向けた目を描くことは、彼女が成り果てた姿に対する、残された彼の責務であるように彼は思った。

(もう少しで、もう少しで自分がなりたくない大人になることを、赦すところだった)

 とニコライは頭のなかでつぶやき、それが彼自身の考えではなく、橋の上で子供が死ぬのをあやうく眺め終わるところだったという、アリョーシャの告白であったことを思い返した。

 彼は首筋の痛むのも忘れて笑ってしまった。一度笑うと、ひたすらに笑い続けるより仕方のないしびれが全身を襲った。

(二人も続けて、眺め終わってしまった)と、彼は内心思った。

(僕自身が、愉しみのために眺められている子供だったのに、いつの間にか背が伸びて、いつの間にか腕の力が強くなり、先生と話しているために、絞め殺すほどの力がついてしまった。リーザ、シャートフ、僕が暮らしていくために必要だった兄弟たち、みんなもう自分の願ったとおりの死を創造し、肖像画として暮らしている――)

アリョーシャ、起きているかい、と彼は言いながらアパートへ入った。

 

部屋のなかは相変わらずしんとして、物音ひとつなかった。紙屑が夥しいことが変わっているはずはなく、暗闇のなかに半ば水没したようにテーブルの表面が窓からの明かりで浮かんでいる所も何ら変わりはなかった。

テーブルの上には、彼が残していたスケッチブックが開かれていた。また彼が恐れた、奥のページがはっきりと開かれて置かれていた。しばらくアリョーシャは何の反応も示さなかったのだったが、いつの間にか知覚を回復し、ニコライが見られたくない物を探し当てるだけの嗅覚を取り戻していたらしかった。

 マトリョーシャは、まるで裸でいるように、自分の恐ろしい姿に頓着しない様子で絵の中に突っ立っていた。彼女は錆びた金属のように青い肌を持ち、握りこぶしほどの大きな目を顔の真ん中に持ち、背後に彼女の苦悩を表すような鬱蒼とした森を持ち、足の間に彼女の苦痛を示す池を従えて、胸を張って彼女を眺めようとする人間を見返していた。

(マトリョーシャ、きみはちっとも大きくならないんだからなあ、……)

 彼は生前の彼女にするように、彼女の頬や鼻のあたりに手で触れた。彼の手に付着した血痕で彼女の頬が汚れ、ニコライは慌てて手を引っ込めた。それから手の先に、硬い紙片のぶつかるのに気が付いた。彼自身そんな物があることに初めて気づいたように思ったのだが、スケッチブックの間に封筒が挟まっていた。宛先も差出人もなく、開けてみると中には彼の手帳のページを千切った紙片が折りたたまれて入っていた。筆跡は彼が見たことのないもので、悪戯としか思われない短文が書かれていた。


『みんなの家を描いて

わたしがどこにも帰らないで済むように 

みんなで暮らす 大きな家を』


 アリョーシャ、とやや怒気を含んだ声で言った。

「起きてるんだろう、出ておいで、肉屋の絵もみんな見たんだろう、どうしてこんな悪戯をしたりしたんだ」

 ニコライの首を見たペトルーシャが、不安げな表情を浮かべて彼に近づいてきた。血を吸った僧服の塊を心配そうに指先でつついたりしていたが、彼の不安は無論のこと、彼が死骸になることをあきらめてしまうのではないか、という不安である。彼は他の兄弟と違い、彼が来るまで自分は死んだりしないと言ってこの姿を保ち続けていた。

「アリョーシャは? どこにいるんだい? 家に帰ったのか?」

「アリョーシャ?」とこの幽霊は困惑した表情を浮かべた。

「何を言っているの、スタヴローギン。この頃ずいぶんと忘れっぽいんだからな。あの子の名前はマトリョーシャだよ、アリョーシャじゃない。それにここはずっとあの子の家じゃないか、あの一家が引っ越してもきみが居座っているんだから。ここはきみの家だけれど、マトリョーシャの家だ。ほら、あそこのベンチに座っていたんじゃないか」

 彼が指した先には、かつてマトリョーシャが座り、アリョーシャが眠っていたベンチがあった。だがニコライが見たときには誰も座っておらず、その辺りには紙屑さえもなかった。

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