ロストボイス・ボーイ

甘夢果実

ロストボイス・ボーイ

「美(よ)し!」


 凛と通る声が、高校に併設されている弓道場に響く。


 弓道では、的に矢が中(あた)ると掛け声を発する。

 弓道は武道だ。

 返事や挨拶はもちろん、こういった掛け声一つにも大事な意味がある。


 そんな中で、僕は声が出せない。


 生まれつきというわけでもなく、高校一年生の三月頃に声帯に癌が発覚したからだ。

 幸い、早期発見のお陰もあって大事には至らなかった──けれど。


 手術の日。僕は、声を喪った。

 それから何度、弓道部をやめようと思っただろう。そして何度、弓道を諦められなかっただろう。


 辛かった。苦しかった。声が出せない中で、みんなと共に弓道を続けることは怖かった。

 しばらく、学校には行けなかった。学校に行けるようになっても、部活には行けなかった。


 しばらくして、対話のためにぼくはメモ帳とペンを持ち歩くようになった。


「晴人!」


 それからまた時が経ち、勇気を出して僕が部活に顔を出すと、部長となった僕の幼馴染が驚いたように声を上げた。

 綺麗なポニーテールの黒髪が揺れる。幼馴染の僕が言うのも変かもしれないが、やっぱり相当な美少女だ。


「よかった……もう来ないのかと」


 そんな顔をしないでくれ、なんて言葉ももう発せない。頭一つ分小さい彼女を元気付けられないこの感覚は、あまりに苦しい。

 もどかしさが胸中を渦巻く。その感情をぶつける先もなくて、僕は思わず俯いてしまった。


「……大丈夫?」


 彼女はそう、僕に聞いた。言葉を返せない僕は、その言葉に頷くことしかできない。

 会話できないかわりではないが、メモ帳を彼女に見せる。これが今の、僕の会話手段だ。


『相談があるんだけど』

「相談? ……まさか、部活やめるの?」


 僕のメモ帳を見た彼女のその言葉に、僕は首を横に振って応える。心配なのはわかるけれど、そんなに不安にならないで欲しい。

 僕は弓道も、部活も、──も、好きだから。部活をやめるなんてことはない。少なくとも自分からは。


『ここに居ても、いいかな?』


 僕はそのページを彼女に見せると同時に、思わず涙を零した。鼻をすすり、自分の目から溢れ出す涙を制服の袖で拭う。


「……うん。もちろん」


 彼女はそれだけ返して、泣き噦る僕を慰めるように抱きついた。

 僕が部活に復帰したその日、僕らはしばらくずぅっと、そうしていた。


 その日、家に帰る時。僕の制服の胸には、涙のシミが残っていた。


◇◆◇◆◇


「美し!」


 凛と通る声が、僕らの家から少しだけ離れた弓道場に響く。


「すごい……今日、調子いいね」


 彼女の言葉に、僕はコクリと頷く。

 相変わらず声は出せないけれど、意思疎通はできる。こうして、2人で笑い合うこともできる。


 昔よりは、会話は減ったかもしれない。

 けど、それでも、僕らは昔よりも笑顔だ。


「帰ろっか」


 僕は彼女のその言葉に頷く。時間はもう午後の7時を回っている。明日は日曜日とはいえ、1日の生活サイクルを崩すと大変なことになる。ただでさえ会社には色々と迷惑をかけているのだ、遅刻までした日にはどうなるか。


 帰り道、彼女の話に、相槌を返す。僕にはそれだけしかできないけれど。それだけで十分なことは僕も彼女も知っている。


 手を繋ぎながら僕らは2人、帰途についた。

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ロストボイス・ボーイ 甘夢果実 @kanmi108

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