81-90


81


みんなお気に入りの壁を持っている。私の壁は厚く、冷たく、ざらついており、砂色で、西日が当たればほのあたたかく、光の具合で白にも茶にも色を変える。友人や、家族や、恋人や、町から、そこに帰ると、私達はひとりひとり壁にもたれて頬を寄せる。ただこの壁の前でだけ、私達は何一つ愛さずに済む。



82


運転中、退屈する坊やを見かねて父親がゲームを提案する。「窓にヒトを走らせよう」坊やにルールを説明する。坊やの目にも見えてくる。車窓を流れる家々の屋根を架空のヒトがひた走る。あるとき坊やが言う。「パパ、ヒトが止まった」「ん?」「バイバイしてる」その瞬間、父親がハンドルを切り損ねる。



83


明日鶏そぼろ弁当を食べて死ぬ。だから今夜はそぼろを作る。砂糖とみりんと醤油と酒。鶏の挽肉を炒めつつ、明日の花見の酒を飲む。二月、花にはまだ早い。でも四月まで生きていかれない。桜でんぶは買わなかった、それは待てない色なので。たんぽぽが、明日の土手に咲いているのを期待して、卵を溶く。



84


寂しい男と寂しい女と寂しい子供と寂しい老人ととくに寂しくはない男ととくに寂しくはない女ととくに寂しくはない子供ととくに寂しくはない老人がいた。いろんな人間がそこら中にいて誰も誰とも出会わなかった。



85


博士おやすみなさい。博士、おやすみなさい、おやすみなさい博士、博士、おやすみなさい、博士、博士おやすみなさい博士、おやすみなさい、おやすみなさい、博士おやすみなさい。博士。



86


嘘をつくと、嘘は人の背中に回り、影に溶け込み、そこから人を見ているのだと、影には嘘がたくさん混じっているのだと、影が死ぬまでそこに居るのだと、祖母は私に教えた。五歳の私は怯えたが、今の私は怯えない。ついた嘘が、空中に溶けてどこにも居なくなるほうが、余程恐ろしいことだと知ったので。



87


私は膨らんできた。なので動けなくなる前に裏の駐車場まで歩いていって、空を向いて仰向けに寝そべった。私の体は正しい手順に沿って際限なく膨らんだ。腹の山越しに、膨らまなかった人たちが見えた。みんな手のひらで私を撫でては通り過ぎていった。空は高く、宇宙まで落ちていきそうで少し怖かった。



88


きみはくらげ、くらげ、くらーげー。へんな歌が流行っているので僕らは最近気軽にくらげに変わる。そりゃみんなくらげになりたいだろう。くらげは透明で静かで浮かぶから。僕らは誰かと二人の夜なんかに、この歌をひそひそ歌いあう。そうして朝までくらげになって、流行り歌を二人のための歌にする。



89


常に右から二番目の人物と合コンで知り合った。常に左から二番目の人物である自分ととても気が合うはずだ。二人並ぶと具合が良い。たまに四人で並ぶときなど立ち位置を交換できるので良い。などと左の友人がぺらぺら喋る。友人は右端を狙っている。



90


屋上で、手品師がひとり鳩を出している。くるくると空へ放っていく。廃業、これで廃業。今日手品師は手品師であることをやめた。鳩たちは空に残される。青天に白く鳩が羽ばたき、ざらつくコンクリートに影が落ちる。人に慣れた鳩だから、放されたらきっと生きていかれないだろうと、元手品師は思う。



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