71-80


71


顔師の私の顔以外、この浴場に顔はない。湯浴みを終えたはだかのおんなが自分の顔をつるりと撫でる。つるり。隣のおんなも同じくはだか、自分の顔をつるりと撫でる。つるり。むきたまごに似たはだかのおんなが、私の前に群をなし、目鼻口を描く私の筆を、つるりつるりと待っている。



72


間もなく死ぬ女と間もなく産まれる男が産床の夢の淵で出会い、わたしはおまえの母になるのだと女が言うのに答えて男はわたしはおまえの子になるのだと言い、これらの対話を言語を介して行うだけの時間が与えられなかったことを惜しみながら両者がすれ違っていく。



73


女たちが、今日は一日冬ごもりをするというので、昨日夏床を整えたばかりなのにと訝しんで中庭を出ると雪日である。薄雲を透かした白陽が静まり返った街路に沈む。みな冬ごもりをしている。内なる声が、女たちに告げるのだという。私には何も聞こえない。この街の女たちのうち、私ひとりが女ではない。



74


私を負ぶって野をゆく父がむかし私を殺して埋めた男であるのを思い出した。「父さん重いかい」「重かない」今に重くなるよ、と言おうとして咳が出た。父が私を背負い直す。「今に医者に着く、今に治る」腫れた舌の根が張り付いた。しかし罪は罪である。だって丁度こんな晩だったのだ。こんな晩だった。



75


病んだ人よどうぞいらっしゃい。盲いた男、眠りの浅い女、足を引きずるこども、何もかも覚えている老人、信じない聖職者、壁を愛した教師、首の据わらない文筆家、涙の止まらないパン屋、疲れた詐欺師、みんなみんないらっしゃい。眠りなさい。この膝の上で。



76


女らが舟を漕いでいる。この島を出て海を越え、波遠い沖の島へゆく。沖の島で、海を越えてきた男らと睦みあう。やがて女の赤子を抱いて帰ってくる。男の赤子は、男らに抱かれて帰ってゆく。赤子らは女になり、男になり、また海を越えて沖の島へゆき、同じ舟歌を歌いはぐくむきょうだいたちと睦みあう。



77


その瞬間、わたしは、わたしの愛したものたちが、そこに座っているのを見るだろう。わたしの愛した花が、わたしの愛した歌が、わたしの愛した人が、わたしの愛した空が、わたしを覗き込んでいるのを見るだろう。彼らをやさしく引連れて、わたしを永久に憩わせる手を、それでもきっとおそれるだろう。



78


正しい靴を履いて出ていった全ての人がある一点でこの駅に戻ってきて、高架下の煉瓦壁に座る私に靴を磨かせてまた汽車に乗る。自分が正しい靴を履いていること、今日が定められた一点であること、そこに正しく戻ってきてまた出ていくことを、彼らは知らない。だが彼らの履く靴は常にこの上なく正しい。



79


幽霊には足が無い。僕は死んだタップ・ダンサーで、でも死にきれずに幽霊になって、才能も無かったくせに生涯を捧げたタップ・ダンスで、もう一度拍手を浴びられたらそれでよかったのに、幽霊には足が無い。でも、僕を舞台に立たせて今も縛り続けるタップを、恨めしく思う気持ちも不思議なほどに無い。



80


灯台守の家には時折影が訪れる。灌木の間を縫い、滑るようにやってきて戸を叩く。灯台守は影と鍵束と、夕名残の岬をゆっくり歩く。灯台に着き、鍵を開け、階段を上り、灯を入れて、暮れゆく今日を見送る間、灯台守と影は口をきかない。この影に、自分もいつかは加わるのだと、灯台守にはわかっている。



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