51-60


51


磯女が追ってくる。藤壺にまみれた顔で。腐った海藻を引っかけて。水を吸って重い着物を青白い乳房に張りつけて。岩場を走る間に切れた足から血を流し、私を追って韋駄天、轟々と走る磯女、私は追いつかれる瞬間に、岩間に足を滑らせて、顔をずたずたに打ちつけ、そこから藤壺が生えてくるのを感じる。



52


死にかけの女が隣室にいる。父と母が拾った行き倒れの女。わたしは耳をそばだてて、女の息を数えていて、いつのまにか自分の息を数えていて、わたしも一緒に死にかけている気がしてきて、でも、まもなく死ぬはずのこの女のことをわたしは何ひとつ知らなくて、吹雪の中、医者はまだこの屋敷に着かない。



53


お山にとられた者たちからは、ときどき村への便りがある。それは笹舟に乗って沢を下ってきたり、迷い込んできた猪の首に結わえつけられていたりする。村では誰も字など知らないから、笑顔の絵などが描かれている。みな一様に幸せそうだ。お山の猿の酷な悪戯、だから村人は彼らを撃てない。



54


同い年の祖母と街に出る。友達同士でそうするみたいに、互いに服を着せあい遊ぶ。祖母は若くなる病気にかかって、一日に一歳ずつ若返る。再来週には卵子に戻る。私の選んだワンピースを着て祖母がその場でひらりと回る。ワンピースの裾が揺れ、少女の顔で祖母が笑う。たぶん明後日にはもう着られない。



55


靴を磨くのは弟の仕事で、鞄を運ぶのは私の仕事、帽子をかけるのは弟の仕事で、コートをかけるのは私の仕事、それから、食卓の用意は弟の仕事で、晩酌の用意は私の仕事。全ての仕事が終わったら、それらを命じた母親と、中身のない背広におやすみなさいを言って寝る。背広に話す母親の声は弾んでいる。



56


100万ドルの夜景が50万ドルの夜景になり、10万ドル、5万ドル、1万ドル、1000ドル100ドルそしてとうとう0ドルの暗闇になったときにも、君は「時代のせいだから」と微笑むだけだった。蝋燭の火を囲み、サイレンに怯えながらも、もう一度二人で100万ドルの夜景を見る日を夢見ていた。



57


校庭のタイムカプセルを掘り起こすと未来からのメッセージが入っていた。「宇宙空間は拡大と縮小を繰り返し、それに伴い時空間も拡大と縮小を繰り返し、即ちあらゆる事象は拡大と縮小の影響下で繰り返されており、このカプセルはその証左である」先生は妙な顔でそれを捨てた。その顔に既視感があった。



58


よくないものを見てしまう。それを友人に打ち明ける。友人は私の背を叩いて笑う。よくないものなど皆見ている、誰でも一度は見るものさ。私は逆上する。そんな尋常なものじゃない、よくないものは今ここに、言い終わる前に友人が私を銃で撃つ。道行く人が私の亡骸を指して、よくないものがと囁き合う。



59


シーソーの端に腰掛ける。夕飯支度の買い物帰り、暮れる無人の公園で、荷物を置いて休んでいると、ふいに両足が浮き上がる。顔を上げる。向かいの端に子供が座っている。いつの間に。西日の影で表情が見えない。シーソーは上がりきったまま動かない。遠くでカラスが騒いでいる。逢魔が時にさしかかる。



60


学校帰り、神社の前で、露天商が品を広げている。並んでいるのは家族写真。何百組もの他人の家族が、枠の中で笑っている。「売れるんですか」呟いた瞬間に奇声が上がる。背後から駆け寄ってきた女が、私を押退け、半狂乱で写真を漁る。「ほらね」立ち竦む私に露天商が呟き、外套の裾を搔き合わせ俯く。


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