試し読み 第3話

「その驚いた顔、気味が悪くて素敵ですよ。大賢者様」


「カティア……ッ!」


 白い面の女を睨みつけ、怒号を鳴らす。

 やはり、こいつは……!

 嘲笑うような声を発しながら、仮面の下で女が笑う。


 カティア・ウィル・ウィスクラール。

 国王を守護する王宮騎士団の長。

 名門貴族ウィスクラール家の出身であり、秀でた魔法の才能と相まって、二十一歳にして王宮の騎士団長に任命された才女。

 とは言っても、彼女の登用は家の名を考慮した結果であり、実際に団を纏めているのは副団長のエド・ルーフェンであるというのが定説だ。

 勿論もちろん、それでもカティアが有能な人物であるというのに変わりはない。家の名だけで任命されるほど、国王の命を守護する騎士団長の名は軽くない。

 この若さで特A ランクであることが、それを証明している。


 そうか。昨日の襲撃事件。騎士団の中に裏切り者がいたのか。であれば、包囲網を搔い潜るのも容易い。協力者がいれば、包囲網の穴を伝え、その􄼱間を賊がスルリと抜けてしまうのも可能だろう。

 しかし、どういうことだ。戴冠式での反応からわかる通り、カティアはレイアに対して並々ならぬ想いを抱えていることで知られている。

 その上――


「――お前は心の儀……それも、二年前イリスの心眼の前で前王ユークリッドとレイアに対する忠誠を誓ったはず!」


 王宮の騎士団と国の政務を司る賢者、大賢者は任命にあたって必ず当代の聖女によって執り行われる『心の儀』を経なくてはならない。

 聖ウェルフィース教会の頂点である聖女の前で、国王に対する忠誠を誓うのだ。


 王宮の警備体制が万全なのは、これが理由だ。エメリアの騎士たちは、裏切ることがない。

 

 それを――保証されている。

 

 代々聖女に選ばれるのは特殊な目を持った人物であり、その眼力によって発動される最高レベルの鑑定魔法は、その人の本質を見抜くと言われている。聖女の前では、噓偽りは通用しない。忠誠心に疑問がある人物は、騎士になることが出来ない。

 

 それも、心眼とまで言われたイリスの前であれば尚のこと。

 

 ギルバルドが賢者に就任したのはイリスが聖女を辞めた後だ。イリスでなければ心の儀をかわすことも可能……なのかもしれない。

 しかし――


「私は今でもレイア様に対する忠誠を誓っています」

「馬鹿なッ! 国王に牙をいておいて、何が忠義か!」

「忠誠心の、愛の形は様々ですよ。あなたは妻がいないから、それがわからないのではないですか? 三十を超えてまで独身の大賢者様」

 小馬鹿にするように、仮面の下で女が笑う。


「何ッ!」

「……可愛らしかったですね、レイア様……あの苦しまれるお姿……顔を紅潮させ、弱々しく息を吐くお姿……お美しい……愛しています」

 

 恍惚として、カティアは声を震わせる。薄ら寒いものを感じ、背筋が寒くなった。

 そうか、この女。

 あの戴冠式。あれは、レイアの負傷を嘆き悲しんでいたわけではない。


 そこにあったのは、揺るぎない忠誠心というより――醜く歪んだ愛。


「狂ったか、カティア……ッ!」

「私はレイア様を愛しています……それも、殺してしまいたいくらいに……私の忠誠心は本物です。噓偽りは、一切ありません」

 小刻みに肩を震わせ、カティアはドロドロに溶けた愛を絞り出すように笑う。

「異常者が……!」

「異常者? それは百年戦争で何万人もの人間を殺してきたあなたではないですか。血でけがれた手で、レイア様に触らないでください、英雄さん」

「……ッ!」


「それより、いいのですか、レイア様は? 昨日の晩から、お姿が見えないようですが」


「何ッ!」

 そうだ。カティアはレイアの警護を任されていたはず。

 奴が裏切り者であれば、レイアの安全は。

 嘲笑するカティア。

 まさかこいつら。レイアを。

 いや、今レイアは騎士団が守護を。エド・ルーフェンは信用出来る男のはず。いや、しかし――

 頭の中に、様々な推測が駆け巡る。

 その時。ほんの刹那。秒にも満たない、時計の針に数えられないほどの僅かな時間。

 俺は、戦いから意識をらしてしまった。


「――あらら、よっぽどレイア様の事が心配なご様子で――後ろが、がら空きですよ?」


 振り返った瞬間、真後ろで笑うギルバルドと目が合う。

 しまった。カティアに気を取られ、奴に意識が向いていなかった。

 ティルヴィングで斬られると、身構えた。だが、奴は直前で剣を左手に持ち替え、俺の背中に手の平を押し込む。稲妻のような一閃が、背中を突く。強烈な痛みに、叫び声があふれ出す。


「ぐあっ……!」

「戦いの最中に気を抜いてはいけませんよ、ゼロの大賢者様」

 

 掌を押し込みながら、ギルバルドは勝ち誇ったように、ニヤリと笑う。

 背に刻まれていく魔法陣。マナが、消えていく。

 これは……魔封じの呪印。

 系統不明魔法である呪いの一種であり、対象者のマナを封じ、魔法を使用出来なくする呪縛魔法。


「……光栄に思ってください。その呪印のコードは、あなたのためにわざわざ長い年月をかけて改良したもの。内だけでなく、外のマナとの接触すら断つ、ありったけのマナを注ぎ込んだ、私の最高傑作。老いぼれと化した今のあなたには解けないでしょう……若返りでもすれば――全盛期のあなたであれば――別ですがね」

 

 自らにかけられた呪いを解く。そのためには、通常の解読の十倍以上の魔力が必要とされる。

 自分自身を手術する方が、他人を手術するよりも遥かに難易度が高いのと同じだ。

 マナの吸収を阻害され、魔法が使えなくなった今の俺であれば、なおさらだろう。


 ……しかし、何故わざわざ呪縛魔法などかける。

 ティルヴィングで殺すことも出来たはずだ。

 一体奴は、何を企んでいる。


「……何故……呪縛魔法を……」

「ふふ、死ねるとでも思いましたか? あなたにはここで死んでもらうわけにはいきません。あなたには国王暗殺の罪を被り、国を裏切った大罪人として死んでもらいます」

「……どういう……ことだ」

「まあ、こっちにも色々と都合というものがあるのです。ここで死ぬより、森で死んでもらった方がありがたいのですよ」

 おのれ……。


「どうせあなたは死ぬんです。遅いか早いか。それだけですよ」


 勝ち誇るギルバルドを睨みあげながらも、俺は脱力し、膝を突く。糸が切れた人形のようにうつ伏せに倒れこみ、冷たい地下室の床が頰に触れる。そんな俺を睥睨しながら、カティアは口元に笑みを浮かべた。


「――ああそうそう、あなた何か勘違いしていましたが、レイア様は今、自室ですやすやとお休み中ですよ? 全く、こんなハッタリに引っかかるなんて……よっぽど昨日の事件が気がかりだったのですね。安心してください、騎士団の裏切り者は私一人です。エド・ルーフェン……襲撃を受け、今彼は物凄く気が立っています。流石の私でも彼の眼を盗んでレイア様を襲うのは不可能ですよ」

 俺の掌を踏みつけ、カティアは笑いをこらえるように口元を手で覆う。


「そもそも、初めから殺すつもりなら、戴冠式の日に殺しているんじゃないですか? 殺したいほど愛しているなんて、ただの比喩表現ですよ。成人の儀を迎える十六歳の誕生日までは、何があってもレイア様を殺させるものですか……ああ、早く大人になったレイア様をこの目で……そして、そんな彼女が壊れる姿を……」


 レイア……。

 そうか、あの子は無事なのか……。よかった。

 カティアはまるで煙草の火を消すように、俺の掌を執拗に踏みにじる。


「ああ、汚らわしい。汚らわしい。どうしてレイア様はこんな男に入れ込んでおられるのでしょう。レイア様が嬉しそうにあなたの名前を呼ぶ度に、何度あなたを疎ましく思ったことか。しかし、そんな苦悩も今日でお終いですね。頼る人間のいなくなったレイア様……信じていたあなたが裏切者だと知ったレイア様。さぞお嘆きになることでしょう。王とはいってもまだ十五歳……私がその心の傷、癒して差し上げなければ」


意識が混濁する。景色がだんだんとかすみ、音が遠くなる。


「さて、残りは後処理です……ね」

「安心してくださいギルバルド様。この件はレイア様には知らせず、内密に処理致します。ことが全て終わり、取り返しが付かなくなってから、お知らせすれば問題ありません」

「ふふ、頼りにしていますよ……カティア」

「はい、レイア様はジークフリードに入れ込んでいますからね、途中で知らせると面倒なことになります……ああ、汚らわしい」

 

 畜生……。腐ってやがる。

「ざまあないですねゼロの大賢者。百年戦争を経て、エメリアが今平和を保っているのも、あなたのおかげだというのに……こんな最期ですか……ふふ」

 ギルバルドは笑う。

「ジークフリード。百年戦争の英雄であり、連合国勝利の立役者。戦前、無名の傭

兵に過ぎなかったあなたですが、その功績を買われ、戦後すぐに実質的な政治の頂点である大賢者に登用される。当時は世界そのものが揺れており、数多の国でおぞましい革命が頻発していましたからね、エメリアでもあちこちで暴動が起こっていました。あなたは国民的英雄ですから、国の看板にすることで民の怒りを鎮めようとしたのでしょう」


 含み笑いをしたまま、ギルバルドは俺の前にしゃがみ込む。

「……この内容では、あなたがただの人気取りに利用されたように聞こえますが……あなたが政治家として無能だったとすれば、今のエメリアはあり得ないでしょう。民の不満が静まったのは、英雄であるあなたが大賢者として起用された以上に、あなたが期待を遥かに上回る手腕を振るったからです……汚職を働く貴族の追放、政治システムの見直し……いやはや、ここ十数年で王宮は随分綺麗

になりました――まあ、最期は悲しい末路でしたがね」


 ギルバルドは、ニヤつきを隠そうともしない。

 意識の混濁が深まる。


「さて、ティルヴィングを抜いてしまった以上、こいつの気を抑えなくてはなりません。大賢者様。私の剣はね、燃え盛るあなたの剣のように、分かりやすい特殊能力はありません。あるのはそう、抜いてしまったら必ず一人殺さなくてはならないというある種の呪い」


 薄気味悪く、ギルバルドは笑う。

「なん……だと……」

「知らなかったでしょう? 普段は皆に気付かれぬよう、ひっそりと殺していますから。さて、今回は一体誰を殺しましょうか。ああ、安心して下さい。レイア様には手を出しませんので……そうですね、まあ、あなたを呼びに行って貰った看守にでもしますか。あの方はこの間子供が生まれたそうなので」

「……おの……れ……」

 しかし、こいつらは一体……。

 まさかこいつら――黒い鷹か。

 いや……鷹はもう死んだはず、か。


「あなたの時代は終わったんですよ――大賢者ジークフリード・ベルシュタイン」

 意識が闇に飲み込まれる間際、カティアとギルバルドの笑い声が、やけに耳に響いた。


***


 あれから俺は、還らずの森を彷徨さまよい続けていた。

 日の光が一切届かぬ常夜とこよの森。

 昼なのか夜なのか、それすらもわからない。


 一体、ここに連れてこられてから、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。

 太陽が昇らぬこの森では、時間の感覚が麻痺まひしてしまう。それでも、おそらく一週間は経過しただろう。


 目を覚まし、兵士たちに唾を吐きかけられ、ギルバルドへの雪辱を誓った、あの思い。

 それも、今は遠い昔のことのように感じられる。

 あの後すぐ、俺はオオカミの集団に襲われた。ギルバルドに呪印を施され、魔力が封じられた俺は、逃げるしかなかった。

 人間の倍以上のサイズがある生き物だ。魔法なしでは、勝負にすらならない。


長年の王宮生活でなまった足腰にむちを打ち、ただひたすらに走った。

 だがこの時、体力の衰えに、俺は愕然がくぜんとした。木に登りやり過ごすことで、何とか逃げおおせた。

 しかし、息はあがり、足腰は鉄のように重くなる。

 若い頃はどれだけ動こうと疲れとは無縁だったこの身体。いつまでも若いつもりだった。

 しかし、そうではなかった。老いの苦しみは、誰にでもやってくる。

 ギルバルドに不覚を取り、森でオオカミに襲われ、俺は初めてそれを実感した。

 疲労がどっとあふれ、俺は眠ろうとした。たき火を起こし、木の葉をベッドに木陰で眠る。

 けれど安眠を許してくれるほど、還らずの森は甘くない。眠りに入りそうになる度、立ち現れる魔物の気配。

 獲物が寝静まるのを待っている、何者かの雰囲気だ。大方、ゴブリンかオークだろう。 

 臆病な奴らは、起きている獲物には手を出さない。獲物が眠ってから、牙を剝

き、捕食を開始する。

 その瞬間、俺から眠るという選択肢が、なくなった。

 

 還らずの森に放逐され、一週間。

 最早もはや、限界だった。目はかすみ、頭はぼんやりともやがかかる。

 足腰はもうずたずたで、森の落葉を踏みしめる度、ふくらはぎがずきずきと痛む。

 飲まず食わず、おまけに一睡もせず。体力的にも精神的にも、限界が来ていた。

 

 それでも――俺は最後の瞬間まで、出口を探す。

 それだけは、諦めるわけにはいかない。

 俺のいなくなった王宮。次の大賢者は、おそらくギルバルドだ。

 あいつがレイアの側近として、エメリアを動かしていくのだろう。

 ギルバルドの目的は、わからない。あいつがこの国をどう動かすつもりなのか、俺には見当もつかない。

 だが、ギルバルドはレイアに矢を打ちこんだ真犯人。そんな奴を、あの子の傍

に置くわけにはいかない。


 おまけに、国王を守護するはずの騎士団の長カティアは、ギルバルドの手下だ。

 そして、正体不明の二人。

 一刻も早く王宮に舞い戻り、真実を告げなくてはならない。こんなところで、死ぬわけにはいかないんだ。

 そんな風に、折れそうな自分を、鼓舞した時だった。



「……助けて……ください」



 消え入りそうなくらいかすかな少女の声が、風のない森に響き渡る。

 ふっと息を吹きかければ飛んで行ってしまいそうなほど、その声はか細い。

 初めは、聞き間違いかと思った。還らずの森に、人がいるはずない。

 ついに幻聴が生じたのかと、自分自身を嘲笑しそうになった。



「……お願いします……助けてください」



 今度は、はっきり聞こえた。幻聴などではなかった。

 

 深いしわが刻まれた、樹木。薄気味悪い色の葉っぱを蓄えた、うねる木に寄りかかるようにして、血だらけの少女が。

 美しく長い白に近い銀の髪をした少女が。漆黒の闇を背に、確かにそこにいた。

 

 ずたずたに引き裂かれた華やかなドレスから露出した少女の肌には、鋭利な刃物で切り付けられたような痕。

 胸にも弾丸で撃ち抜かれたような大きな穴が空いており、地面に向かって、全身から血がしたたり落ちている。


 一目見ればわかる。瀕死だ。


 うつろな眼差まなざしで、少女はもう一度懇願した。


「……助けてください」


 どうして還らずの森に、自分以外の人間がいるのか。

 どうして、傷だらけなのか。聞きたいことは、山ほどあった。


 少女は、謎に溢れていた。


 切り傷は、まだわかる。だが、銃で撃たれたような風穴。少女の胸にぽっかりと空いたその傷は、どう考えても魔物にやられたでは説明がつきそうになかった。


 おまけに、明らかな致命傷だ。とっくに絶命していてもおかしくない。

 それなのに、どうして声を発する余裕があるのか。

 ――しかし、一つだけ確かなこと。

 

 俺は、この子を助けられない。


「……すまない、あいにく今俺は魔法が使えないんだ。お前に、ヒールをかけてやることは出来ない」


 出来ることなら、今すぐにでも助けてやりたかった。

 暗くてはっきりとは見えないが、おそらく、レイアと同い年くらいだろう。

 弱く息をする十四、五歳の少女。だが、どうしようもない。

 ギルバルドに刻まれた呪印のせいで、俺は今マナを取り込むことが出来ない。

 少女を助けることは不可能だ。しかし、銀髪の少女は小さく首を左右に振った。

「……欲しいのは、魔法でも、ヒールでもありません」

 沈黙の森に、少女の清らかな声だけが響く。


「欲しいのは――あなたの血です」


 少女の赤い瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。

 心臓が、強く脈打った。

 まさか、この子は。


「……お前まさか、吸血鬼か」

「はい――私は闇夜に生きるヴァンパイア……お願いです、あなたの血をわけてください」


 首をもたげ、少女は俺の目を見据える。

 吸血鬼。

 人の生き血を餌とする、怪物。

 日光に弱く、昼間は墓地や棺桶かんおけの中で眠る。

 不死の存在だが、金属のくいや銀の弾丸を心臓に撃ち込まれると死亡する、と言われている。

「……まだ、生き残りがいたのか」

 吸血鬼は、数十年前に絶滅したと聞いている。元々数が少なく希少種だったのに加え、吸血鬼の生き血には、人を不老不死に変える力があると信じられていて、其

れゆえに、多くのヴァンパイアが不死を目指す欲深い人間の犠牲になったからだ。

 俺自身も実際に見たのは、初めてだった。


「お願いします……助けてください……なんでもします……血を……血を……」

「どれくらいの血があれば、助かるんだ」

「助けて、くださるのですか」

 少女の声色が変わった。

 さっきまで絶望一色に染まっていた声に、微かな希望がさす。

「……どのくらいの血が、必要なんだ」

「……」

 そう聞くと、少女は黙ってしまった。

 言えない、ということは、つまりそういうことなのだろう。

「俺が、死んでしまうくらいに、か」

 少女はなおも黙り続ける。無言は肯定を意味していた。

 赤い瞳は、黙って俺の方を見つめ続ける。

 もう頼れる人が俺しかいない。俺に断られたら死ぬしかない。

 そんな、希望と絶望を赤い瞳に混ぜ込んで、すがるように俺を見つめてくる。


 ……残念だが、俺は、ギルバルドを倒さなくてはならない。

「悪いが、俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ」

 きびすを返す。

 吸血鬼の少女を背にして、俺は闇夜の森を進む。

 ……すまない。


「……やはり、そうですよね。でも、良かったです。最後に会話したのが、あなたのような優しい方で」


 後ろから、ささやくような声が聞こえた。

 絶望するでもなく、自分に言い聞かせるでもない。その言葉は、本心から溢

れ出たものだろう。

 何故だか、そう確信した。俺は、立ち止まる。


「……でも、でも……やっぱり……死にたくない……まだ生きたい、生きていたい」


 今度は、涙声。

 はなをすすり、語尾を震わせ、少女は言葉を紡ぐ。


「……死にたく……ない……死にたくないよお……誰か……誰か助けてよお……誰かあ……誰かあ……」


 さっきまでの奥ゆかしい言葉遣いは崩れ去り、少女は子どものように泣きじゃくり始めた。

 死にたくない、死にたくない。悲痛な叫びが闇夜にこだまする。

 自分自身の意思とは無関係に、身体は勝手に動いていた。

 俺は再び踵を返す。

 自分自身に舌打ちをしながら、少女の元まで駆け足で舞い戻る。

「……え?」

 死んだ人間と再会したような顔で、吸血鬼は俺を見上げた。

 腰を屈め、少女と目線を合わせる。

 腰まである、白銀の長い髪。陶器のようになめらかな肌。

 涙で真っ赤に染まった、赤の瞳。ドレスはズタボロで、形の良い胸元が、大きくはだけている。

 彼女の瞳は、驚きとおびえを孕

んでいた。


 そりゃそうだ。いなくなったと思った人間が、再び現れたのだから。

 俺は安心させるように、少女の頰に手をやった。

 とくんとくんと、小さな脈動が掌に伝わる。


「……大丈夫だ、安心しろ。お前は死なない」

「それって……」

「ああ、もってけ。……身体中の血液を全部持っていけ」

 少女の瞳が大きく開かれる。

 なるほど、さっきは遠くだったからどういう顔なのかはっきりわからなかったが、こうして近くで見れば見るほど、その美しさに、魅せられていく。


「いいのですか、あなたはまだ……やるべきことが残っているのではないのですか?」

「今ここで生き残っても、どうせ死ぬだけだ。俺だってわかってるんだ。還

らずの森を抜けることなんて、出来ない」

「し、しかし」

「……心残りはある。それも、とてつもなく大きなのがな。だけどな、ここでお前を助けなきゃ、もっと大きな後悔が残ってしまいそうなんだ」

 

 心残りはある。きっと来世でも取り戻せないほどの。

 だが、泣きじゃくるこの子を、どうしても見捨てることはできなかった。

 なぜだろう。



 ――ああ、そうだ。

 その泣き声が。震えるか細い鼓動が。

 昔助けられなかった妹に、とてもよく似ていたからだ。



「……ありがとう、ございます……この御恩、一生忘れません」

 少女の目から涙が溢れ出す。


 そのまま、何度も何度も感謝の言葉を繰り返す。

 声をうわずらせ、少女は泣きじゃくる。さっきよりもはるかに、涙の粒が大きかった。

「落ち着いたか?」

「……はい……お恥ずかしいところをお見せして、すみません」

「さぁ、早くしろ」

「……では、いただきます」

 照れ臭そうに微笑み、俺の首に手を回す。冷え切った身体に、少女のぬくもりが浸透する。

 熱い吐息が頰にかかって、くすぐったい。けれど、どういうわけか、潤んだ少女の瞳には、ためらいが混じっていた。

 そのまま、人間と吸血鬼はしばらく見つめ合う。

「どうした……早くしないと、俺の気が変わってしまうかもしれないぞ」

 冗談めかしてそう言うと、少女は「すみません」と小さく頭を下げ、恥ずかしそうに目線をらす。


 そう言えば、聞いたことがある。

 吸血鬼における、人間の血を吸う行為。


 それは、深い親愛の証。男女の交わりを意味すると。


「……それでは、今度こそ、頂かせていただきます」


 意を決したように、少女は首元まで顔を近づける。

 身体と身体が重なり合う。柔らかな太ももが、俺に絡みつく。

 温もりが、肌に触れる。柔らかな胸を俺に押し付け、少女は荒っぽい呼吸を繰り返す。

 発情しているのか、瞳は遠い虚空を見つめながら、とろんと揺れていた。

 そして不意に、確かに赤く色付いていた少女の瞳が、妖しく金色に輝きだす。


――思い出した。

 そういえば、吸血鬼の身体的特徴は――


 ……いや、まあいいか。どうせ死ぬんだ、余計なことを考えるのはめておこう。


「不思議です。本当はいけないことなのに……とても、幸せな気持ちがします……何故だかあなたとは初めて会った気がしません……昔どこかで、お逢

いしたこと、ありますか?」


 すんでのところで、少女はそう尋ねた。その声は、どこか熱っぽい。

 とくんとくんと、身体を通して伝わる、緊張の入り混じった少女の鼓動。

 破れたドレスの隙間から覗く、少女の身体。

 幼さの残る可愛らしい顔とは不釣りあいなほど、少女の身体は大人っぽかった。

 胸も、レイアのそれと比べるのが失礼なくらい、確かな弾力を持って俺の身体に乗りかかっている。

 いや、この例えはレイアに怒られるか。

 ねるレイアが頭に浮かんで、俺は小さく苦笑いした。


「残念だが、お前のような可愛い娘にあったのは、初めてだよ」

「……そうですか」

 恥ずかしそうに赤く染まる少女の頰が、愛らしい。

 吐息はさっきよりも、熱を増していた。


「……その言葉……一生の宝物にします」


 首筋に、鋭い痛みが走る。

 俺の意識は、急速に急速に、混濁の渦に飲み込まれていった。



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