第40話

 星野わかばにとって入院生活というのは生まれて初めての経験だった。入院というと、どことなくどんよりとした雰囲気の小汚い病室で、くそまずい病院食を食べるというようなイメージだったが――わかばが入院した水谷総合警備保障の附属病院はまるでそのようなものはまったく皆無だった。


 病院内は新しくできたばかりのオフィスのようで、大きい病院にあるような陰鬱な雰囲気はまるでなく、とても明るい雰囲気に満ちているのはとても意外だった。

 それにわかばは重い病気や怪我での入院ではなく検査入院だったので、ある程度自由に動けるということもそのように感じられたのかもしれない。

 検査――といってもたいしたことをしたわけではなかった。


 脳波チェックと医師とのカウンセリングと、ほかにやったといえば通常の健康診断で行われるような検査だけだ。病院の外に出られないのは退屈に感じるときもあるが、不自由さや窮屈さとは無縁であり、こんないい扱いを受けていいだろうかと思ってしまうことも多々ある。だが、それについては気にしても仕方ないので喜んで享受しよう、と思えるようになったのは三日前のこと。


 それよりも驚いたのはわかばの担当になった医師だ。自分の担当のお医者さんが白衣をきた女子小学生にしか見えなかったらみな驚く――と思う。


 ドクターハル――この病院ではそのように他の医師や看護師、入院中の患者からそう呼ばれて親しまれている。


 見た目が女子小学生だからといって、医師としての能力が欠けている、ということは一切ない。相当優れているはずだ。少し調べてみたら、彼女が医学とそれに関係する周辺分野で広く論文を発表し、その多くが高く評価されていることは、医学など微塵もわからないわかばにも理解できた。


 そんなドクターとの定期カウンセリングは、少し退屈な入院中のいまのわかばには数少ない楽しみの一つとなっている。

 そのドクターが言うには、


『きみの場合、〈邪神の本〉の力でかけられていたのは暗示のようなものだし、一緒に入院することになった彼よりはだいぶ軽いから安心して大丈夫。特に問題がなければ、検査の結果が出たらすぐ退院できるよ』


『とはいっても、きみ自体になにも問題がないかというとそうじゃない。きみの問題は〈邪神の本〉によるものではなく、きみ自身のものが非常に大きい。はっきり言ってしまうけど、きみのそれを治すのは無理だ。これは私の能力の問題じゃなく、現代医学の問題だね。そもそも精神的な疾病の類は完治させるのは非常に難しい。無論、薬やカウンセリングで症状を緩和することはできる。


『けれど、精神的な疾患の場合だと、治った、と思ってもちょっとした環境の変化や加齢などの拍子でぶり返すことも多いんだ。


『特にきみのように問題の根本が深く根付いていると、私が――私じゃなくてもだけど――どれだけ頑張ったところで完治させられないね。申し訳ないとも残念だと思うけどこれが現実だ。もし、今後きみのことを完全に治せるとか言う奴がいたら間違いなく詐欺だからさっさと離れたほうがいいよ』


 はっきりと無理だ、と言われたことにショックを受けなかったといえば嘘になる。

 自分の中にある異形を治すことはできないと、医者から宣言されたのだから。

 だが、それに絶望をすることは一切なかった。

 その宣言は、ドクターが素人であるわかばに対して見せてくれた誠意であることが理解できたからだ。


『治すことはできないけれど、きみのそれとどういう風に付き合っていけばいいのかを教えることはできる。いまままでそれができなかったことを自分が無力だからとは思ってはいけない。


『人間、自分で調べてもわからなかったことは誰かに教えてもらわなきゃわからないし、わからなかったら知らないままだ。知らなければ、できるようになるはずもない。それがどんなことであっても、誰かに教えてもらうことは恥ずかしいことじゃないんだ。


『一つ言うなら、きみはもっと早くに誰かを頼るべきだったんだよ。見た目はどうであれ、私はきみより年長者だし、そもそも専門家だ。遠慮なく相談してくれ。ま、信頼できないというのならしなくてもいいけどね。それは誰にでも許されている自由だから』


 退院したあと、わかばは週末には病院のある丸の内までカウンセリングに来ることになる。たとえ週一でも下宿先から丸の内まで通うのは結構な出費であるが、自分の中に異形と向き合っていくためには必要なことだ。自分がどうしようもなくなったときに引きあげてくれた人のためにも。


 すると、病室の扉がノックされた。誰だろう。まだ健診の時間ではないはずだけど――

 少しだけ訝しげに思いながらもわかばがどうぞ、と言うと――


「――あ」

 入ってきたのは隣人の指針刃であった。

「あっ、ってなんだよ。見舞いに来た相手に」

 彼は少しだけ不服そうな顔をしてそう言った。

「いえ、誰か来るなんてまったく思っていなかったもので」


 今日から誰か面会に来るかもしれないということは看護師から聞いていた。だが、誰も来ないものと思っていた。大学には見舞いに来てくれるほど深い仲の者はいないし、離れた田舎にいる家族にしてみれば、わかばは厄介者でしかない。そのような相手のことを安くない金を出してまで見舞おうとは思わないだろう。それを悲しいとは思わない。たぶん、わかば自身もそんなことどうでもいいのだろう。


「で、なにかないんですか?」

「え?」

「お見舞いに来たんだからなにか持ってきてるわけでしょう。遠慮しないで出していいですよ。メロンとか肉とか寿司とか」

「あ、いや、あの――」

 と、口ごもりながら刃はわかばから目を逸らした。


「もしかしてなにも持ってきてないんですか?」

「……はい」


 消え入りそうな情けない声で刃はそう言った。その姿はあのとき、どうしようもなくなっていた自分のことを救ってくれた人物と同じとはとても思えない。


「まあいいですよ。どうせ誰も来ないと思ってましたから。もし、次も来てくれるのならメロンくださいメロン。高ければ高いだけいいです。赤くてもノーマルでも構いません。一人暮らしだと果物って高くてなかなか買えなくて」

「……わかったよ。次来たらメロン持ってきてやる。で、いつまで入院してるんだ?」

「あと二週間です。検査の結果によっては伸びるかもしれませんけど――どうなるかはまだわかりません」

「……大丈夫そうか?」

「……わかりません」

 わかば少し暗い表情になって言った。

「そうか……」


 病室にしばらく沈黙が流れる。

 規則的な時計の針の音だけが聞こえる。

 しかし、その沈黙は不愉快ではなかった。

 ドクターハルからこんなことを言われたのを思い出す。


『もし、きみがその才能――まあ才能と言われるのは不服かもしれないが、自分のそれを活かしたいというのなら相談してくれ。よさそうなところを紹介してやるから』


『人間を殺すことに痛痒を感じないというのは、結構な才能なんだよ。第二次大戦のアメリカ兵の発砲率の話を知ってるかい? 実はニ十パーセント以下なんだ。あれだけ枢軸国側と対立していたにもかかわらず、それほどまでに低かったんだよ』


『それが問題だとしたアメリカは、訓練のやり方を変えてその発砲率を飛躍的に高めたら、今度は兵士の間でPTSDが多発するようになった。


『きみはなかなか勉強家のようだから、ベトナム戦争に参加した兵士の悲惨な話くらい聞いたことあるだろう? 人が人を殺すことに抵抗感を持つようになった遺伝学的、進化論的要因は解明されていない。


『けれど大抵の場合、人が人を殺すことに相当強い抵抗感を覚えるのは確かだというのはわかってる』


『で、人口の約五パーセントほどの割合で、その抵抗感を覚えない人間いる。一般的にサイコパスって言われてる人たちだね。反社会的で刑務所を出たり入ったりしていることが多い彼らだけど、戦場においては理想的な兵士と言われている』


『私の見たところでは、きみはサイコパスとは違うようだけれど――それでも人を殺すことに抵抗感や痛痒を抱かないのは確かだ。きみのそれは、本来であれば時間をかけて訓練しなければできるようにはならない。である以上、それは〈才能〉と呼べるものだ』


『兵士になれるわけないって顔してるね。そんなことはない。一番コストのかからない兵隊の作り方って知ってる? どこかから子供を攫ってきて、銃の打ちかたを教えること。非常に胸糞の悪い話ではあるけれど、泥沼の戦乱で荒れている国で腐るほど運用されて、子供を兵隊に使う有用性は証明されてしまっている』


『とはいっても、きみの才能を活かすためと言って、そんなところに送り出すのは気が引けるから――そうだね、コロンビアとかメキシコの犯罪組織になるかな。危険なことに変わりないけど、泥沼の戦乱が渦巻くアフリカや中東よりはましだろう。そこには殺し屋とか拷問係とかもいるからね。わかばちゃん、地味だけど可愛いし、需要はあるんじゃないかな。


『もし魅力を感じたのなら、知り合いにコロンビアの麻薬カルテルの幹部がいるから紹介してあげるよ。スペイン語は自分で勉強してね』


 当然、その話は断った。

 そんなことをしたくないからこそ、いま自分はここにいるのだから。

 そうわかばが言うと、ドクターは満開になった桜の花のような淡い笑みを見せて笑ってくれた。

 やっぱり小学生にしか見えなかった。


「一つ、質問していいか?」

 不意にそんな質問をされ、わかばは思わずびくっと身体がはねてしまった。それに少しだけ恥ずかしさを覚えながらも、気を取り直してから「いいですよ」と返す。


「昔、学校の飼育動物を殺したのが見つかって――きみは表だって非難されなかったと聞いた。それについてどう思ってる?」

「そうですね――」

 少しだけ考えてから、

「嫌がらせや非難を受けていたらつらかったのは確かでしょう。でも、悪いことをしたのに非難されないというのもつらかったです。他の人はどうだか知りません。でも、私にとってはそうでした。自分がやったことが悪いことだっていうのは、まわりから言われなくても理解できましたから」


 わかばとしても、どうして自分が嫌がらせや非難を受けなかったのは未だによくわからないということか。でも、あのとき非難や嫌がらせを受けていたらこのようにはならなかったのではないかとも思う。いいか悪いかは別として。過ぎたことをどうこう言ったところでいまが変わることはまったくないけれど。


「……そうか。なら大丈夫そうだな」

「……そうなんですか?」

 わかばはよくわからず、首を傾げた。


「まあ、ただの勘だ。そんなもんあてにするな。あてにするならドクターにしとけ」

「そうですね。そうします」

「そういえば、友達の――増田とか言ったか? 彼はどうなんだ?」

「入院してから顔を合わす機会が少ないのでわからないことが多いんですが、増田くんは夏前くらいまで入院するそうです。前に会ったときは元気そうでしたけど」


 増田の身になにがあったのか、わかばにはよくわかっていない。

 ドクターの話では、自分にかけられていたものよりもずっと強い力らしいということは聞いたが、それ以上のことはよくわからない。ドクターがそれについて説明しなかったということは、わかばにはわからなくていいことなのだろう。


「まあ、ドクターならなんとかするだろ。それじゃ、僕はそろそろ行く。今日は手ぶらで悪かったな。退院する前にもう一度来るからそのときメロンを持ってくるよ」


 そう言って立ち上がって、刃は病室から出て行った。

 メロンというのは冗談のつもりだったのだが、持ってきてくれるというのなら喜んでもらっておくのが礼儀だろう。いまさら冗談だったとは言いづらいし。

 これからきっと自分の身には大変なことが起こるだろう。自分の異形と向き合っていくというのはその多くあるうちの一つに過ぎない。

 それでも今回の件を乗り越えた自分にはなんとかできるという確信がわかばにはあった。


 頑張って生きていこう。

 せっかく助けてもらったのだから。

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