第39話

「いやはや、今回もなんとかなったねえ。よかったよかった。また世界が救われたよ」


 世界が救われた――ねえ。水谷竜太のその言葉は少し大仰すぎないか、と思う指針刃であった。


 でもまあ、確かにそうかもしれない。あの『邪神の本』は使いかたによっては、簡単にいまの人類社会を崩壊させていただろうから。


 そう考えると、確かに世界を救ったと言っていいだろう。


 が――


 ここは水谷総合警備保障の本社にほど近い病院――水谷総合警備が母体の病院だ。いま刃がいるエリアは、基本的に外来患者を受け付けていないため人の姿はほとんどない。


「つーかお前、なにしに来たんだ? 色々やることあるだろ?」


 なにしろ、今回の『邪神の本』の一件は相当数の人間が巻き込まれていた。それを巻き起こした『邪神の本』という存在を闇に葬って隠蔽するのはかなりの労力と金がかかるはずだ。


 竜太の奴は普段からふらふらしてるので、あまり実感が湧かないが、通常でも相当忙しいはずなのだが――


「今回、運悪くも事件に巻き込まれてしまった人たちの様子を見に、だよ。これだって立派な仕事さ。それに毎日のようにお見舞いに来てるきみに言われる筋合いはないね。今日は誰のお見舞い?」

「……何故それを知ってる?」

「そりゃ僕、副社長だし? 可愛い部下たちから色々と話が入ってくるのさ。人望というのはあると損しないよね」


 いつものように軽く笑う竜太である。


 なんだかんだ言いながらこの男、人の上に立つのはとてつもなく上手だ。いや、人の上に立つために生まれてきたと言ってもいい。そういう人間だから、どうすれば下の者から支持を得られるのか充分承知しているのだろう。


「別に……誰だっていいだろ」

「ま、きみの友好関係は針みたいに狭いからすぐわかるけどね」

「……うるさい」


 今日――最近はほぼ毎日であるのだが――刃がここまで見舞いに来た相手は、昨日面会謝絶が解除されたらしい隣人のわかばと未だ意識が戻らない加奈子であった。それ以外に面会するような相手など刃には一人もいないのだが。


「それで、藤咲さんと星野さんの状況は? お前なら知ってるだろ?」

「それは僕に訊くよりドクターに訊いたほうがいいと思うけど――まあいいか。彼女、忙しいみたいだし。ここは暇人の僕が代わりに受け持つとしよう」


 自分で暇人っていうのかよこいつ……と思った刃であったが、竜太のそういった言動にいちいちツッコミを入れていたら、話が一向に進まないためスルーしておくことに限る。


「じゃ、どっちから訊きたい?」

「そうだな……」


 どちらから訊くべきだろうか。


「そうそう。僕は専門家じゃないから、専門的なことが訊きたいんならドクターを捕まえてね」

「わかってるよそんなの」


 刃はため息をついてそう言った。


「まずわかばちゃんのほうから行こうか。もともとあの娘にかけられていたのは強力なものではなかったし、『邪神の本』の完全消滅によって、いまはもうその影響はほとんど残ってない。ま、彼女の問題は別のものだから、それについてしばらく通院してもらうことになりそうだけどね」

「…………」

「なんで黙ってるの?」

「……別に」


 竜太の奴がわかばと仲良さげにしていたからではない……絶対に違う。


「そうそう。彼女のお友達の増田くんは、大本が消えたとは言ってもかなり長く強く『邪神の本』の影響を受けていたから、まだ入院してもらうことになりそうだね」

「お前が殺したそいつの兄貴はどうしたんだ?」


 結局のところ、今回の一件を終わらせたのはこの目の前にいる飄々とした男だ。

『邪神の本』の破壊も、増田の兄の殺害も、そんなものは微塵も感じさせない男がやったことである。


 結局、刃はたいしたことはできなかった。

 それだって、いつもとさして変わらない。


「根回しは全部済んでるよ。少なくとも十年は露見しないだろうね。あとの調査でわかったんだけど彼、家でもかなりトラブル起こしてたみたいだし。日常的に家庭内暴力とかしてたみたい。調べててあまりいい気分はしなかったね。とは言っても、さすがに家族も彼が殺されて感謝しているとは思っていないだろうけど」


 そりゃそうだ。


 増田の家族がどのようなものだったのか刃の知るところではないし、知ったことでもないが、いくら理不尽に暴力を振るう暴君であったとしても、家族が死んだこと(向こうには行方不明になっているはずだが)を諸手をあげて喜ぶとは思えない。


 家族というのは、そういうもののはずだ。


「……それは『邪神の本』を手に入れる前から?」

「調べた限りだと――そうだね」


 増田の兄は『邪神の本』を手に入れておかしくなったわけではなく、手に入れる前からどこかおかしかった――ということか。あれだけ自尊心を肥大化させていたのだから当然化もしえない。そこに『邪神の本』という道具が偶然手に入り、もともと悪質だったものが急速に悪化した――というところだろう。


 はっきりと言ってしまうと、刃は増田の兄には一厘も同情する気持ちはなかった。あの夜に聞いた奴の言動からすれば、いま竜太から聞かされた話もかなり信憑性が強いし、そもそも彼は『邪神の本』に積極的に協力し、一切罪のない人間を消失させたり、自分の手駒として操っていたりしていたのだ。あの男はその報いを受けた――そうとしか思えない。


「ま、それについてはこっちがやることだから心配しなくても大丈夫だよ。日本というは金と権力を持ってる人間に対してどこまでも甘いからねえ。利用できる立場のうちは存分に利用させてもらうよ。いいよね、金と権力。持ってると超便利」


 言っていることとは裏腹にいつも通りの爽やかな笑みを見せる竜太である。


 なんともゲスでクズな発言であるが――現段階では、金と権力を持っている者に甘いという事実は、刃にとっても都合がいいのは事実であった。逆の立場になったときのことはあまり考えたくない。それはそうなったときに考えればいいだろう。


 いま必要ないことは考えない。

 それが楽に生きるための鉄則ではないかと刃は思っている。

 できたことなんてないけれど。


「……それで、藤咲さんは?」

「容態は安定してるよ。ただ、彼女にかけられていた『邪神の本』の力は相当強力なものみたいで、意識がいつ戻るかはまだわからないってさ。まあ、『邪神の本』自体は完全に消滅しているから、時間さえ経てば必ずもと通りになるとは言っていたけど」


 よかったね、とこちらを見透かすような笑みを見せて竜太は言った。

 時間が経てば必ずもとに戻る――その診断をしたのは恐らくドクターだろう。ならそれは不確定要素ばかりの希望的観測ではないはずだ。


 だが――


 いずれ意識が戻るにしても、刃の犯した失態によって加奈子があのような目に遭ったという事実を取り消すことはできない。


 彼女の意識が戻ったとき――自分はなにをするべきなのか。どうするべきなのか。


 罪を償えというのはわかっている。

 だが、どのようにすれば罪を償えるのかがまったくわからない。


 謝ればそれで済む――というわけにはいかないだろう。

 彼女があのようになってしまった原因は間違いなくこの自分にあるのだから。

 本当に自分はどこまで無力なのだろう。

 それを思うと、心の底からヘドロのような嫌な気持ちが湧き出してくる。


「そんな風に考えるもんじゃないよ。考えすぎだよホント。それじゃあ女の子から愛が重いって言われるよ。きみが重荷を背負うのは勝手だが、きみの重さを相手にも感じさせるのは違うと思うぜ」


 鼻っ面に一発かましたくなるような腹立つ笑みを見せながら竜太は言う。


「……うるさい」

「この件に首を突っ込めば、こういうことが起こり得ることは彼女だって承知していたはずだしね。僕だって彼女にはその覚悟ができていたと判断したからきみのもとに行かせたんだ。きみがそこまで気を咎めたってなんの得もない。だから、必要以上のことは気にしなくていいんだよ」

「…………」


 そういう、ものだろうか。

 いや、きっとそういうものなのだろう。

 自分の容量以上のことをやろうとしたって、できないことは変わらないのだから。


「彼女がああなったのは、きみにも確かに責任があるだろう。それについて否定はしない。


「だとしても、きみの責任が彼女のものより大きくなることはないよ。この件に首を突っ込まなければ、彼女は確実にああなることはなかったんだから。ならば、これは彼女が責任を取るべきだ。それくらい理解しているさ。自分で負うべき責任を他人に押しつけるような人じゃないからね。それともそんなに信用できない?」

「……そうじゃねえよ」


 そんなのはわかっている。

 けれど、どうしても自分を納得させられないのだ。


「なら、きみは待っていればいいじゃないか。どれだけ後悔したところで起こってしまったことをどうにかできるわけでもないんだから。謝りたければ謝ればいい。だが、必要以上に重い愛を向けられたって相手は迷惑するだけだぜ」

「……そうかな」

「そうだよ」


 そこで、しばらく二人しかいない小綺麗な病院のラウンジが沈黙に包まれる。


「ま、きみがしたいようにすればいいさ。僕にそれを止める権利はないし。それじゃあね。そろそろ戻らないと怒られそうだし」


 そう言って竜太は立ち上がり、足早にラウンジから去っていった。


 やりたいようにやればいい――か。確かにそうだ。人間というものはそうやって生きるものなのだろう。


 必要以上に気張る必要なんてない。自分にできることなんてたかが知れている。他人にはない力があったとしても、巨大な社会においてそれは誤差と見なせるものにしかならない。大抵のことはなるようにしかならないのだ。


 そんなこと、充分理解しているはずなのに。

 本当にままならない。


 加奈子のことは――彼女の意識が戻ってから考えればいい。それだって遅くないはずだ。


 とりあえず、そういうことにしておこう。

 どうせ、刃には祈ることしかできないんだから。


「そろそろ行こう」


 今日の目的は加奈子ではなく、隣人のわかばの見舞いだ。

 あの娘とはあの日以来、まだ顔を合わせていなかった。それに少しだけ訊きたいこともある。


 さっさと行くか。

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