第15話

 藤咲加奈子の朝は早い。


 これは彼女が社会人だから意識的にそうしているというわけではなかった。子供のときから朝早く目覚めてしまっていたので、それは癖というか体質なのだろう――いや、癖でもあり体質なのかもしれない。


「……そうだった。これからしばらく出先なんだっけ……」


 見知らぬ天井が目に入って、その数瞬あとにそれを思い出す。


 時計が見当たらないので、自分のスマートフォンで時刻を確認する。朝の六時過ぎ。いつも通りの時間。しかし場所はいつもと違う。家主は普段ここを使っていないので、まだ少し埃っぽい感じがする。


 さて、どうしよう。普段なら外に出て軽くジョギングでもするところだが、仕事とはいえ他人の家に居候している身だ。家主である指針刃がまだ眠っているのに、勝手に鍵を開けて外を出歩くわけにはいかない。


 仮に刃物を持った暴漢が入ってきたところで恐らく――いや、間違いなく彼はものともしないし、余計な心配などする必要はないのだが、そういう問題ではないと思う。なんというか加奈子自身の気持ちの問題である。


 ただでさえ、自分は勝手なことをしているのだ。これ以上勝手なことをするのはとてもじゃないが許せない。自己嫌悪はさらに増えて、もっと嫌な気持ちになってしまう。一般的な客先常駐とはまったく違うが、仕事相手のところに常駐しているのに変わりはない。そのような不愉快なものを仕事相手である刃に見せるのは著しいマナー違反である。やはりこれも許せない。それだけだ。


 自分から申し出たこととはいえ、このような形で仕事をすることに不安がなかったといえば嘘になる。上司というか――そう遠くない日に自分の所属する組織のトップになる水谷竜太のことを信頼していないわけではない。加奈子は彼以上に信頼できる人間はいないと思っている。


 だが、知らない男のもとに行って仕事をするとなったら不安になるのが普通だろう。不安にならないのなら、そいつは少しばかりどうかしているに違いない。


 とは思っていたものの、加奈子が抱いていたその心配は杞憂だった。こちらに来てからまだ一日も経っていないが、指針刃という人間が加奈子に対して害を与えるような者ではない。無害といってもいいくらいだ。だから加奈子はこうしている。そうでなければ、無防備に隣で寝ていた加奈子は無事ではなかっただろう。自意識過剰かもしれないが。


 一度のびをして、できるだけ音をたてないように襖を開けて隣の居間を覗く。


 ここからではよく見えないが、刃はよく寝ているようだった。それを見て、少し加奈子は安心する。


 昨夜、加奈子の予測通りアクションを起こした『邪神の本』と彼は相対したのは間違いない。だが、そのとき彼の身になにがあったのだろう。ここに帰ってきたときの刃は異常といっていいくらい顔色が悪かった。あんな顔をしてなにもなかったとはとても思えない。


 ただ、激しい戦闘を繰り広げたのが原因かもしれない。


 しかし、それほど疲労している様子ではないように見えた。竜太から渡された経歴には載っていないなにかがまだあったりするのだろうか。


 いや、あるだろう。そんなものあって当たり前だ。紙に記載できるような経歴などたかが知れている。そんなものに目を通した程度で知った気になるものではない。


 鋼のように硬く強靭な刃だって、完璧でもなければ万能でもないのは明らかだ。


 もとが強靭であるからこそ、壊れてしまったときに修復できないのかもしれない。そんなように思う。


 鋼のように強靭な刃に対して、『邪神の本』はいったいなにをしたのだろうか。未だに『邪神の本』の持つ力は不透明だ。まだこちらが把握していない力など山のようにあるのだろう。それを考えると恐ろしくなる。自分が相手にしているのはそのようなものなのだという現実を思い知らされて。


 それでも。

 それでも、退くわけにはいかない。それは加奈子がこの一件に首を突っ込むと決心したときに決意したことである。


 竜太は当然だが、恐らく刃も自分の命を案じるのが第一というだろう。それが大事なのは加奈子にもわかっている。


 わかっているし、まったくもってその通りだと思う。恐らく、自分だって関係がないことだったならそう言うだろう。


 だが、加奈子にはそれを言えない事情がある。

 それは疑いようもなく事実で――できることなら否定したかった事実でもある。

 だから、事情を知っている竜太は必要以上に口を出してこなかった。


 刃はどうだ?


 この一件に関して、退けない事情があることを話したら、彼はそれを聞き入れてくれるのだろうか。


 なんでもあけすけにすべきとは思わない。加奈子は隠しごとというのが好きでもなければ得意でもなかった。そんな気質だから、話してしまったほうが余計な負担が減るのは確かだろう。でも、あまり気が進まないのも事実である。


 その感情は醜いもので――

 そんなものを加奈子が秘めていると知ったら、刃は幻滅するかもしれないからだ。


 それは少し嫌だった。

 でも、優しい彼はそれ以上なにも口に出さないだろう――そんな風に思える。

 本当にどこまで自分勝手にやれば気が済むのかと加奈子は思う。

『邪神の本』と同じくらい、そんな自分を許せなかった。


 そんな自己嫌悪に陥りつつも、スーツケースから服を取り出して、新しい服に着替えた。脱いだ服を持ってそっと襖を開けて部屋を出る。脱衣所に行くには居間を通る必要があった。寝ている刃を起こさないように、忍び足で居間を通り抜けて脱衣所へ向かう。脱いだ服をカゴに入れ、冷水で自分の顔を一度洗ってから脱衣所を出た。洗濯は刃が起きてからでもいいだろう。再び居間へと戻る。


 加奈子が居間を通過しても、刃はやはり静かに眠ったままだ。そんな彼の眠った顔が加奈子の視界に入る。


 なんだか高校生のようだ。経歴では二十四歳ということだったが、とてもそうは見えない。自分とそれほど変わらないはずだが、もっと若いような気がする。そんな風に思えた。


 ふと、加奈子はそこで彼はいままでどのような人生を歩んできたのだろう。そんな疑問が湧き出してきた。


 あまりにも特殊な体質を持って生まれてしまった彼の人生は、普通の人生を歩んできたいままでの加奈子のそれとはまったく異なり、波乱に満ちたものだったはずだ。


 この国はただでさえ、病気や障害に対する理解が欠けている。そんな国で、彼はどんなつらい思いを味わったのだろうか。


 それは加奈子にはずっとわからない。わかるなんていうのも駄目だろう。普通に大学を出て就職をして、普通に生きていくことができた加奈子には、決して。


 同情している、というわけではないと思う。

 そんなものは必要ない。必要なのは自分にはないものを理解しようという心がけだ。


 それがもう少しできる社会であったのなら、彼のつらい思いはいくらか減っていたのではないかと思う。


 それは、甘い想像なのかもしれないけれど。

 すると、ベッドの方から音が聞こえてくる。そちらに目を向けると、ぼうっとした表情をした刃が上体を起こしていた。


「おはようございます」


 加奈子はいままでのあてのない思索をすべて隅に追いやって、無表情の仮面をつけて、刃に向かってそう言って一礼する。どんな事情があるにせよ、仕事相手である刃の前では最低限取り繕うのが筋だ。


「藤咲さん。……早いね」


 一度あくびをして、刃は眠そうな声でそう言った。


「眠いのならまだ寝ていても構いませんよ。朝食の準備もまだですし。しっかりと休んでください。私に気を使う必要などありません。睡眠不足は害にしかありませんから」

「いや、起きるよ。昨日のことは早めに話しておいたほうがいいだろうし」

「……そういうのであれば強制はしません。ですが、話をするのであればちゃんと目を覚ましてもらわなければ困ります。シャワーでも浴びてきてください。その間に朝食の準備をしておきますので。話はそれからでもいいでしょう」


 すぐにそんなことを言える自分を頭のどこかで少し滑稽に思う。でも、それでいい。それが正しいことなのだ。


「じゃあ、そうするよ」


 まだ眠さの残る顔をしたまま、刃は脱衣所へと向かっていった。

 刃の姿が居間から見えなくなったところで、加奈子はほっとひと息つくと――


「あ、そうだ」


 脱衣所の扉が急に開いて、刃の顔が居間を覗き込んでいた。


「そんなに硬くならなくてもいいんじゃない? 無理はしないほうがいいと思うよ。疲れるでしょ?」

「無理などしていません」

「そう。ならいいけど」


 そう言って、刃はこちらに突き出した顔を引っ込める。


 わざとだったのかどうかわからないが、不意打ちを食らったような気がして、なんだか少し悔しかった。そんなことに悔しいとか思っても仕方ないのだが。


 あの言葉は、彼なりの加奈子に対する気遣いなのだろう。そう思った。


 それにしても。

 この一件にかかわる動機を言うべきだろうか。

 朝食の準備をしながら、そんなことをまた考えた。


 これを言ったからといって、刃のパフォーマンスが向上するわけではない。ただ、加奈子の自己満足である。そうすれば自分の気がいくらか楽になる――それだけのことだ。それ以外なにもないしなにも起こらない。それが現実というものである。


 しかし――

 先ほど刃はもっと楽にしていいと言った。

 無理はしないほうがいいとも言った。

 自分の姿は彼にそんな風に見えているのかもしれない。


 なら――

 少しくらい楽になっていい。


 仕事相手がそれを望んでいる。

 そして、彼の立場は自分のより上なのだ。


 盲従を正しいと思うほど愚かではないが――

 彼の意向を無視するのもまた道理ではない――それは違いないだろう。

 少しくらい気楽になっていいのかもしれない――加奈子はそう思った。

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