偶然もしくは

 ムーが死んだ。嘘だと思いたかった。しかし目の前の小さな体は冷たくなって、微動だにしない。まだふわふわとした柔らかい毛並みの上に、ぽた、ぽたと、雫が零れ落ちる。どうして。現実はあまりにも非情でそして残酷だった。一度溢れ出した涙は止まりそうにもなかった。とめどなく頬を伝う涙。ここにいるだけで、幸せだった頃の記憶が次から次へと私の元へ波打ち、押し寄せる。今の私にそれは耐えることができなかった。心の余裕などあるわけがなかった。悲しみに打ちのめされた私は思わず家を飛び出していた。


 今日は真夏日だ。雲ひとつない青空に、燦々と照りつける太陽。目が眩むほどの快晴。涙のせいでやたらとキラキラと輝いて見える。あまりの暑さに汗が吹き出す。私の顔を覆う雫は汗なのだろうか。それとも涙なのだろうか。わからなくなる程だった。夏の日差しにあてられたためだろう、意識が朦朧とし、視界がぼやけてくる。まだ悲しみを消化できる自信がなく、どうしても家に帰る気にはなれない。帰るとまたあの綺麗すぎる思い出たちに私は打ち負かされてしまいそうだった。仕方なく私はとぼとぼと宛もなく歩き出した。


 ああ、ムーと出会ったのはいつだったっけな。そんなことを考えてしまう。結局どこにいてもムーとの思い出からは逃れられなかった。

 雨の中でか弱く体を震わせる、小さな子猫を拾ったのが全ての始まりだった。親の反対を押し切って、私は子猫をムーと名付け飼い始めた。しかし家の中で飼うことだけはどうしても許されなくて、放し飼いという形だった。それでも間違いなくムーは私の、いや、うちの猫だった。ムーは朝になるとふらっとどこかへ出かけていくけれど、夜になると何食わぬ顔をして必ず帰ってくる。そしてとても嬉しそうにご飯を食べるのだ。ムーがどこに行っているのかは私たちは誰も知らない。それでも遅かれ早かれ、ムーはこの小さな海沿いの街に戻ってこない日など、一日たりともなかったのだ。


 そう考えると、今日のムーは確かに様子がおかしかった。いつもなら日が暮れる前に帰ってくることなんてなかった。それにも拘らず、昼頃にはもう既にうちの庭で遊んでいたのだ。私はちょうどその時は友達と電話をしていた。少しだけその場を離れ、目を離した隙にムーはぱたりとその場に音もなく倒れ込んでいた。本当に突然のことだった。電話を片手に思わず叫んだ。叫ばずにはいられなかった。ムーが倒れた。その事実に私は混乱した。帰ってきた頃には元気そうに見えたのに。いつもと何も変わらず見えたのに。もしかしたらムーは、私に心配をかけたくなかったのかもしれない。どんなに苦しくても、そういう素振りを見せることをせずにぐっと我慢していたのかもしれない。


 どうしても私はこの現実を受け入れることができずにいた。やっぱりムーは死んでしまったのだ。その事実が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 私には「死」というものがよくわからない。生あるものは皆、死ぬために生きているというのだろうか。もし、そうだと言うのならば、どうして生きなければならないのだろうか。生物は皆平等に生まれたその瞬間に、死へのカウントダウンが始まる。一歩一歩着実に、足音を立てずに死は私たちに忍び寄ってくる。そろり、そろりと。それは避けることのできない、定めとも呼べるものだ。死とは、必然だ。

 死にたくない。漠然とした思いが胸の中に湧き上がる。しかしムーがいなくなってしまった今となっては、私にさして生きなければならない理由もまた、見つからなかったのだ。


 気がつくと辺りは薄暗くなっていた。日が沈み、あの心地悪い蒸し暑さが次第と失せ、だんだんと涼しくなってきて、涙は枯れ、汗も次第にひいてきた。

 そろそろ帰ろうかな。そう思った時に、私の目の前を一匹の猫が通り過ぎた。ムー?私はそう思ってしまった。そんなはずがないことは分かっていたのに。ムーは確かに死んだ。私自身が十分すぎるほどに確認しているではないか。それでも、あの柄、あの歩き方、あの首輪、すべてに見覚えがあった。ムーだ。ムーそのものだ。絶対に違うと頭では分かっているのに、その猫は私の視線を捉えて離さない。どうしていいかわからないまま、私はその猫を無心に追いかけはじめた。


 どこまでいくの?私はそう声をかけた。人間の言葉など分かるはずもないのに。その猫はこちらを見ようとすらしない。私の声に反応する素振りは少しも見せなかった。どうやらその猫は海の方へ向かっているようだった。猫の後を追い、歩いているうちに次第に見えてきた見慣れた堤防。私の育った街を象徴する、広く、そして淡く灰色がかった海が私を迎える。それなりの高さがあるその堤防を猫らしくしなやかに飛び降り、そのまま白い砂浜をずんずんと進んでいく。私は小走りになってただ後を追う。サンダルの隙間に砂が入る。足先の感覚は歩きすぎたせいでほとんどなかったから気にはならなかった。だんだんと夜が近づいて来る。辺りが少しずつ闇に覆われる。点々とある古ぼけた薄暗い街灯が光っている。猫が歩き終えた頃にはもう真夜中になっていた。


 猫が歩みを止めたそこには、人の背丈よりもうんと大きな岩があった。歩き続けたせいであまりにも疲れが溜まっていた私は岩にもたれかかり、崩れるように座り込んだ。猫は一メートルほど先でこちらをじっと視線を逸らさずに見つめている。やはりあれはムーとしか思えなかった。その背中を追えば追うほどに、そしてこうやって見つめれば見つめるほどに、その気持ちは次第に大きくなる。でもなんだかこれ以上近づいてしまったら、ふと消えてしまいそうで、それが怖くて私はその場から動くことはできなかった。ただひたすらにじーっと猫を見つめ続ける。猫も私を見つめ続ける。そんなことをしているうちにだんだん、自然と瞼が重くなる。穏やかな波の音が私に語りかけてくる。波が奏でる音色はやがて子守唄となり私を夢の世界へと手招きする。そして私はとうとう意識を手放した。


 起きると猫、いや、ムーはいなくなっていた。あれはやはり幻だったのかもしれない。最後に、寂しさに打ちのめされている私にお別れを言いに来たのかもしれない。そんな気さえしてきた。ムーが死んでしまったことすらも、夢だったりしたらいいな。そんなことも考えてしまう。でも私がここにいる以上は、家を飛び出して歩いてきたのは事実であって、きっと、ムーの死も覆すことはできないのだ。もう枯れてしまったと思っていた涙が再び私の両の目からとめどなく溢れてくる。昇ってきた朝日がやけに眩しい。


 泣いて、泣いて、泣いて。これほどかと言うほどに泣いて。そしてそれからどのくらいの時間が経っただろうか。


 「あのっ」、と唐突に声をかけられ、私はゆっくり振り向く。そこには気弱そうな少年が一人立っていた。でも私の方に向けられたその瞳は、気弱そうな見た目とは裏腹に、しっかりと前を見つめていて、強い決意を秘めているように私には見えた。どうしてだろう。その強い彼の眼差しに私は不覚にも、どきっとしてしまった。しかし私が言えたことではないが、いったいこんな時間に何をしているのだろうか。

 こんなところで、そしてこんな時間に、私が彼に出会ったことは偶然、もしくは……。いや、そんなわけあるはずもないか。少々の疑問を胸に抱きながらも、私は彼にそっと笑いかけた。そう、涙の跡を悟られてしまわないないように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空との狭間 九十九緑 @tanseikaiPB

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ