ある人魚の話

OPQ

本編

私は海原。水族館で働いている。近年は客足が遠ざかる一方で、人気を取り戻すにはどうちらいいかを話し合うことが増えた。

「いやー、人造入れるしかないよー」

「あたしやだなー、そういうの」

最近は人造細胞を使って空想上の生き物を実際に作り出して目玉にすることがブームだった。動物園でも水族館でも植物園でも、ペガサスだとか恐竜だとかマンモスフラワーとか、そんなものが次々と生み出されては、世間の話題を奪い合う日々だ。人造細胞は元々再生医療用だったのだけど、生産技術の進歩や参入企業の増加等で、医療以外にも使われるくらい広まっている。とはいえ保険の効く医療を除くと未だに高価なのは変わらずで、新しい生き物を丸々1匹作ろうとなったら相当の金額がかかる。遺伝子設計や飼育環境の整備も考えると費用は莫大だ。うちのような大きいとは言えない水族館には無理な話で、ずっとそういったものの投入はしなかったのだけど、ここ最近は大手水族館が次々とやれクラーケンだシーサーペントだとお祭り騒ぎで、お客を完全に奪われてしまっている。

「うちじゃ無理だと思いますよ。お金ないし」

私は言った。実際に面倒を見るのは私の仕事になるし。海の生き物は昔から好きだったけど、化け物みたいな人造生物はどうも好きになれない。もう少しかわいいのを作ればいいのにな。動物園だとカワイイ路線が大流行みたいだけど、水族館と植物園は何故か巨大なゲテモノ路線ばっかりだ。

「だよなー……」


あくる日のこと。私は館長じきじきに呼び出された。何だろう……怖いな。何かやったかな……。会議室には社長のほかにも数人入ってきた。

「実は今度、うちも人造生物を入れようと思ってね」

「え、ついにですか。何を作るんですか?」

人造生物は他のところとは被らない新種にするのが当たり前だった。そうでなければ目玉にならないからだ。だからお金がかかるんだよね。

「人魚だ。うちは人魚でいく」

「……えー。それは……すごいですね」

リアクションに困る。倫理の問題で「半獣」は作らないのがどこの業界でも暗黙の了解みたいになっていたんだけど。人魚に餌を与える自分を想像した。水面から人間そのものの上半身を突き出す人魚たち。その口に「餌」を放り込む自分……。何やらおぞましいものを感じて、背筋が冷えた。フィクションなら人魚はいいけど、リアルで半分人間の生物を「飼育」するのはちょっと……。場合によっては芸も仕込むんだよね?……うわぁー、やりたくないなぁ。担当別の人だといいな。……というかなんで私みたいな平にこんな話をしてるんだろう。

「で、なんで人魚かって話だけど、人魚だと安くあげる方法があるんだよ」

「そうなんですか?どんな?」

「人間を一人人魚に改造するんだ。細胞は半分でいいし、世話のコストもうんと小さくなる。ややこしい人権問題も起きない」

私は驚愕した。まったく突拍子もないアイディアだったからだ。

「ええっ?大丈夫なんですかそれ!?別の人権問題が起きませんか?」

人を改造って……。大丈夫なのそれ?元に戻せるの?というかその人は水槽で見世物になるんだよね?色々と問題が山積なんじゃ……。

「人魚は昔から人気のあるアイコンだし、他の水族館と明確に差別化できる。うちみたいな小さなところではこれしかないんだ」

……確かに、人魚はどこも作っていないけど。それは倫理の問題があったからで……。うーん。

「まあ、当人が納得してサインすれば大丈夫だから。もう弁護士と相談済みだからさ、ね」

総務の方が私の肩に手を置いてそう言った。何やら違和感が……。

「えーっと、その人魚になってくれる人はもう決まってるんですか?」

進んでなるような人はいないんじゃないかなぁ。いや世界は広いし、求人をだせば変わり者は見つかるかも。でもよく考えたら若い美人じゃないと意味がないよね。そんな人いるのかな……。

「えー、我々としては、そのー……」

館長が急に視線をそらし、挙動不審になりながら、私の方をチラチラと見た。まさか……。

「もしよければ……君にやってもらいたいな……と」


「嫌ですっ!絶対にやりませんよっ!!」

「えー、いいじゃない。きっと綺麗な人魚になるよー」

私は即時拒否したが、噂はすぐに広まった。みんなが私をからかったり、人魚になるのを進めたりしてきた。

「海原さん、すごい美人顔だしー、いいと思いますよ」

「いやですよ。見世物なんか」

館長たちは、この水族館の職員の中で一番美人なのが君なんだ、と言って説得してきた。他の同僚たちも大体同じような反応だった。正直言うと私の顔は確かに悪くないと思う。だけど、私は自分の体に自信は持てず、むしろコンプレックスだった。原因は脚。昔からずっと短足で、みっともない、アンバランス、顔はいいのに、そんなことばっかり言われ続けてきた。人前に客寄せパンダとして立つ勇気も自信もあるわけない。鏡や写真で自分の全身を見るたびに、自分がいかに胴長短足であるかを思い知らされるので、全身鏡が大嫌いだった。

「あたしが立候補しようかなー、脚には自信あるし」

「って人魚になったら意味ね―じゃん!」

「あはは、それ」

同僚たちの雑談を聞いた時に、ふっと怒りが一瞬消え去ったような気がした。そっか、人魚になったら脚はなくなるんだ。それなら……「美人」になれるのかも?

「海原さん、やっぱりやりませんかー?」

ビクッと体が震えた。何を考えていたんだ。人魚なんかやるわけないし……。

「い、いや、やりませんよ」

でも、頭の中には長い「尾」を翻して水中を泳ぐ自分のイメージが浮かんでしまった。短足じゃない美人の自分。……いや、鱗が生えてる方が短足よりおかしいよ。私は頭の中のイメージを振り払って、仕事に没頭するようにした。


また数日後、館長たちから再度の交渉が始まった。人魚中は基本給2倍でどうか、という条件で。2倍かぁ……。それだけあったら……と買いたい物や行きたい場所が頭に浮かんだが、人魚になってちゃどうしようもない。

「半年、半年だけだから、ね」

基本給2倍で半年か……。ボーナスも大幅増になるね。よく考えたら半年分の家賃以外の出費もゼロになるのか。かなり貯金できそう。うーん、でも半年も水槽の中で見世物になるのは、やっぱり……。自分には自信がない。ずっと短足がコンプで人前に出るのは辛かった。

「……これが完成図、そっちが……」

まだ館長が話し続けていたことに気づいた。パソコンの画面には、美しく光を反射する水色の鱗で覆われた長くてきれいな魚の尾が、人間の下腹部から伸びている様子が鮮明に描かれていた。短足じゃない。長い脚。綺麗な下半身。図の上半身はのっぺらぼうだったが、私は自分の顔をそこに投影した。長足になれるんなら……私は結構イケるかも……?そもそもそう考えたから館長たちは私を選んでいるのだということにもようやく気づかされた。……だったら自信を……持ってもいいのかな……?

この前までは絶対にやらないと決めていたのに、グラグラとその気持ちが揺らいできた。

「……半年たったら他の人と交代にするから」

半年。半年だけか。それで年収は2,3倍か……。う~ん、でも体をそんな大規模に改造するのは本能的に怖いかも……。

「大丈夫、ちゃんと元に戻せるから。……”元通り”じゃなくてもいいからね」

総務の方が私に意味深にささやいた。それって……脚を伸ばしてもらえるってこと?短足がコンプなのを見抜かれていたことに対する恥ずかしさと、それをニヤニヤしながら女性に指摘してくるキモさが同時に私を襲った。セクハラだし。……でもそれらを上回るほどに、胴長短足じゃなくなった自分の姿が脳内を支配した。人造細胞を使った整形手術は保険適用外なので相当に高価だ。それがタダで受けられるってこと?

私は悩んだ。悩みに悩んだ。

「頼む、この水族館を盛り上げるにはこれしかないんだ」

館長が土下座に近い姿勢で頭を下げてまで私に頼み込んだ。

「ちょ、ちょっと、頭を上げてください……わ、わかりました、やります!やりますから!」

「おお!本当かね!」

「半年だけですよ」

館長の渾身の土下座に負けて、私はついに引き受けることになった。……不安も大きかったけど、もう引き下がれないし。それに、この水族館も客足が遠ざかって久しい。普通の人造生物では話題性に欠けるうえ、すぐに真似されてしまうから難しい。人魚……。それしかないんだよねやっぱり。ここの人たちはみんな優しくて、ずいぶんお世話になってきたし、少しぐらいなら肌を脱ぐべきかもしれない。


「それじゃあ、服を脱いであのカプセルに入って」

「はい……」

部屋にはスタッフの人が5人ほどいて、3人が男性だった。必要とはいえ、裸になるのは恥ずかしい。でもさっき同意書にもサインしちゃったから、もう後戻りはできない。私は全ての服を脱ぎ、梯子で緑色の液体で満たされた円柱型の透明な容器に登った。5人全員が全裸の私を注視していて、顔から火が出る思いだった。

「はいじゃあ、ゆっくり足から入ってね」

私は恐る恐る足先を入れた。緑色の液体はほんのりと温かく、心地よかった。容器の内側には入るとき、出る時に使う足場が設置されている。足先で場所を探りながら、上半身は手すりにつかまりながら、下半身をゆっくりと一段ずつ容器の底へおろしていった。思ったよりもずっと不快感はなかった。液体に首まで浸かった後、少し怖くなったけど、スタッフの方に促され、意を決して両足を足場から外し、全身を溶液に浸した。1秒ほどで足がゆっくりと底につき、準備が終わった。事前に説明された通り、息もできるし目も開けられた。周囲は緑色に濁り、部屋の様子はぼんやりと薄暗いシルエットだけが確認できる。呼吸の度に、鼻先から溶液が体内に満ちていく。だけどまったく苦しくはならない。液体の中にいるのに息苦しくならないのは奇妙な体験だった。

「口開けてもっと飲んでください」

私は指示に従い、口を開けて溶液を体内に受け入れた。お腹が溶液で満ちていくのがはっきりわかる。これでも不快感がないのはすごいと思う。本能的な恐怖感はずっとあるけど……。5分ほどたつと、

「はい、オーケーです。倒しますねー」

容器の上部が閉じられて、ゆっくりと傾き始めた。1分ほどで90度倒れて横向きに。

「リラックスしてー、全身の力を抜いてくださーい」

いよいよだ……。

「麻酔入りまーす」

もう、あとはもう野となれ山となれだ。


最初の変化は案の定両足だった。ピリッと痺れるような感覚が生じた瞬間、私の意志から離れて動かせなくなった。ゆっくりと、徐々に両足が閉じられ、隙間がまったくなくなるほどピッタリと密着した。接着部分から形を失い、両足が溶け出した。柔らかくなった両足がさらに密着……いや、融合していき、下半身は一つの塊になった。体の内側で骨や筋肉も一体化を始め、私は自分が溶けて死ぬところを一瞬想像し、怖くなった。

(大丈夫、大丈夫……)

そんなことにはならない。ちょっと改造するだけ……。足先も溶けて形を失い、いよいよ私の下半身は三角形の一塊と化した。まずは内部の骨と筋肉が新たな下半身に合わせた形に整形されている。痛みはまったくないけれど、自分の体が蛹の変態みたいに溶けて変わっていくのは気持ちいいとは言えない。奇妙な感覚。下半身の体内が終わりかけた時、上半身の体内も臓器が変容し始めたのに気づいた。

(こっちも……そりゃそうか……)

変態の波は徐々にせり上がり、喉まで達した。溶けてぐちゃぐちゃになる感覚が一層鮮明になり、流石に我慢もできなくなりつつあった。

(うえぇ……無理……)

駄目なのに体を動かそうとしてしまった。……が、体は動かなかった。

(あれ……?)

口内まで溶け出し、私は自分の存在がこのまま溶けて消えてしまうんじゃ、という恐れが再び頭をもたげた。今や全身が変態をしつつあり、自分が人間でなくなってしまうのだということが急に恐ろしく思えてきた。唯一の”オリジナル”を保っている両手が愛おしく思えて、拳をギュッと握った。

(大丈夫、大丈夫……へーき、へーき……)

もう一度自分に言い聞かせて、私は平静を取り戻そうと努力した。

体内改造が終わると、下半身の皮膚をブツッ、ブツッと無数に細かく切り刻まれたかのような感覚が襲った。

(鱗……)

無数の鱗が私の体に生えだした。肌色の気持ち悪い塊になっているであろう下半身を一部の隙もなく埋め尽くさんと、360度あらゆる方向に生えていく。足先だったところには魚の尾が形作られていく。

(あ、尾びれ……)

体内の改造に比べると、表面の変化は大分マシなものだった。落ち着いて自分の変化を追うことが十分可能だった。

(人魚に……なったんだ……本当に……)

そこで私の意識は途切れた。


(ん……)

私が目を覚ますと、ひんやりと冷たい水の感触があった。私は仰向けになっていた。背中側の半身が水に浸かっている。

「起きました」

「おはよう。もう終わったよ」

(ああ……)

私は少しづつ体の感覚を取り戻した。すごい違和感を覚える……ものと覚悟していたが、不思議と新しい感覚はすんなり馴染んだ。変態を体験していたからかな?スタッフの方に助けてもらいながら、ゆっくりと上半身を起こした。私の足だったものは、美しい人魚の尾に変身していた。綺麗な水色の鱗がびっしりと覆い尽くしている。足先……尾の先には、透き通っているかのように綺麗で、大きくて立派な尾びれが生えている。

「…………」

私はぼーっと自分の新たな下半身を眺めていた。綺麗で……長い。自分の下半身を綺麗だと思う日がくるなんて。試しに少し動かしてみた。パシャッ、パシャッ、と尾びれが水を叩いた。美しく澄んだ音に聞こえた。私の短足がこんな綺麗な音を響かせるなんて。……いや、もう足じゃなかったね。

「問題なさそうですね」

私は返事をしようと喋った……つもりだったが、魚みたいに口をパクパクさせるだけで、音がでてこなかった。あー、そうだ。もう喋れないんだっけ。施術前の説明を思い出した。エラをつけずに水中で呼吸できるようにするためには、声帯を犠牲にしなければならなかったのだ。勿論後で戻せるとは聞いてるけど。理解はしていたけれど、実際に言葉が出てこないことを体験すると、やはりショックだった。

一通りの検査が終わると、鏡を見せてもらえた。髪はオレンジ色に近い長髪に。腰……人間と魚の境界部分まで広がるほどの毛髪量。全て見た目を良くするため。胸にはシンプルな水着が着せられている。上半身は見た目はあまり変化はない。顔も私のままだ。でも、鏡に映る人物はあの胴長短足女の自分だとは到底思えないほど、美しかった。私が自分をこんな風に思えるなんて、すごいなぁ……。

「ほら、麻酔がきくから怖くないっていったでしょう?」

年配の女性スタッフが私にそう言った。ああ、そうだ。麻酔で眠るから改造中の意識はなく、すぐ終わるって言ってたっけ。……あれ?意識あったような?私は彼女にたずねた。

(あの……私起きてたと思うんですけど……)

でも、声が出なかった。記憶をたどったが、確かに麻酔は受けたような。そして寝たような気がする……。もしかしてあの改造中の出来事は夢だったのかな?それとも麻酔が足りなかった……?まあいいか。もう終わったことだし。これからが本番なんだ。


病院と研究所には私が満足に泳げる設備はないので、すぐに水族館に移送された。私は水槽ごとトラックに積まれていた。

(ほんと、魚みたい)

だと私は思った。今まで水族館にくる生き物たちはみんなこんな感じだったのかな。

水族館ではみんなが待っていた。トラックから下されると、みんなが私に注目した。

「おお~」

「綺麗じゃ~ん」

狭い水槽に閉じ込められた自分が見世物か何かのように論評されているのを聞いて、恥ずかしくなった。よく考えたら半裸状態だし……。

(もー、そんなに見ないでください!)

水槽の中でそう叫んだ。だけど、出てくるのは泡だけだった。

「あ、照れてる~」

「かわいい~」

(やだ……)

水と自分しかない水槽なので、四方八方の視線から逃れる術は一切なかった。逃げ場のない状況で一挙一動をじっくりと観察されるのは相当恥ずかしかった。

(でも、これからはもっとたくさんのお客さんの前に出ないといけないんだよね……)

やっぱりやめとけばよかったかな……と思ったが、もう水槽から出ることはできない。半年たたないと。


海コーナーの大きな水槽の中で、私は「リハビリ」を開始した。勢いよく尾を振って、水を叩く。体が前に加速し、水を切って進んだ。

(すごい。気持ちいい……)

水がこんなにも心地いいものだったなんて。私はさらに加速した。口を少し開けてみた。体の中に勢いよく入ってくる海水がちっとも苦しくない。それどころか、もっと水で私を満たしたいと思えるほどに、清々しく、安らぎを感じる。人間の時の空気みたいに、それで満ちているのが自然なよう。そして顔から全身を打つ水流。こんなに爽快な気分になったことはない。水を切って泳ぐことがこんなに素晴らしいことだったなんて。私はさらに加速しようとした時、水槽の端に来ていることに気づいた。慌ててターンしようと体をひねったが、減速が間に合わず背中から壁にぶつかった。

(いったぁーい……)

「あははは、ぶつかったよ海原さん」

「もう少し訓練しないとだなー」

水槽の外の通路には、今は水族館関係者しかいない。何を言っているのかよく聞こえないけど、笑っているのはわかった。私はいたたまれなくてその場を泳ぎ去った。

もう一つ嬉しかったのは、自分が育ててきた魚たちと一緒に泳げること。本当の友達になれたような気がする。

(久しぶりー。元気だった?)

ゴポゴポと口から泡が出るだけだったが、話しかけずにはいられなかった。魚たちはすぐに進路を変えて私から離れていった。

(ありゃ……)

まあそのうち皆慣れるだろう。きっと。


餌の時間になり、魚たちが忙しなく動き始めた。私はそれをにやけ面で眺めていた。水中からこの光景を見られるなんて嬉しいなぁ。ドンドン、と水槽を叩く音が聞こえたので、廊下の方を見ると、同僚がごはんを食べるジェスチャーをした後、指で上を指した。……あぁ、私もご飯の時間か。時計が欲しいな。

水面に顔を出すと、久しぶりの空気がこれまた心地よく顔をはたいた。山岡さんが上の通路でお盆を持って待っていた。

(それ私のですかー?)

と聞いたが、相変わらず口をパクパクさせるだけだった。喋れないとわかっているのに、つい話しかけちゃう。

「海原さんのだよ、ほら」

床にお盆を置いて、山岡さんは優しくそう言った。通じた!?

私は梯子をのぼって……行こうとしたが、腕だけだときつい。下半身は人間より重いし……。山岡さんはすぐに気がついて、私を引っ張り上げてくれた。(ありがとうございます……)

肩で息をしながら、お礼を言った……が、言葉は出ない。

「どういたしまして、ほら食べて食べて」

普通の人間の食事内容で、私は一安心した。

(いただきまーす)

山岡さんはこの水族館では結構若い男性で、整った顔立ちと優しい性格で年配の女性陣からは非常に人気があった。男たちからも後輩として可愛がられている。

「上る方法は考えないとだね。僕が言っておくから」

(ありがとうございまーす……)

私は食べ終わっても、まだ腹七分目といった感じだった。

「……足りなかった?……確かに、結構な運動だもんね」

(……うっ)

大食いだと思われたかのように感じ、私は少し恥ずかしくなって視線をそらした。

「明日から少し増やすから」

私が水槽に戻るのを見届けてから、山岡さんは食器を持って歩き去った。あー、恥ずかしかった。山岡さんは優しいけど、ちょっとデリカシーがないかもしれない。


あくる日、私が食事をしていると、山岡さんがジーッと見つめているのに気づいた。

(何ですか?)

「いやー、いい食べっぷりだなって」

(……!)

私はお盆に視線を下すと、自分が食べてきたものに改めて気づかされ、顔が真っ赤になってしまった。そこらの成人男性よりかなり多い量だったからだ。一日中泳いでいたせいだ。

(そんな風に言わないで下さいよ。食いしん坊みたいじゃないですか)

顔を腕で覆いながら心の中で愚痴った。


1週間もすると自在に泳げるようになり、周囲の魚たちも慣れてきたので、いよいよ一般公開することとなった。

(いよいよかぁ……)

緊張してくる。もうすぐ開館だ。通路裏に設置された時計を水面から眺めながら、私は無事を祈った。

しばらくすると、人の波が通路に押し寄せた。すごい人数。こんなに入ったのは久しぶりじゃなかろうか。私は勢いよく水をはたいて、通路側へ向かった。私が通路のガラスに近づくと、どよめきが起こったのが目で見てわかった。

「おおーっ!」

「すっごーい!本物だー!」

「ママ―、人魚!人魚!」

具体的に何を言っているのかはよく聞こえないけれど、顔や仕草を見ていればまあ大体はなんとなく伝わる。私はニッコリ笑って手を振りながら一周し、一旦離脱した。後ろの方から歓声が聞こえた……ような気がした。振動が伝わってきたのだ。受けたみたい。良かった。

適当に笑って泳いで回るだけだけだから、仕事そのものは簡単だった。だけど、あの人だかりの全員が私を見に来たのだと思うと、嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。こそばゆい。見世物感は思ったほど感じなかった。むしろアイドルにでもなったような気がして、割と気分がよかった。前は短足が嫌で嫌で、あまり人前には出られなかったのになぁ。自信がついたのかな。


山岡さん曰く、私の人気は爆発して、水族館には相当のお客さんが連日詰めかけているらしい。それは私も見ているからわかる。

「良かったね、海原さん。みんな綺麗だって言ってたよ」

(そ……そうかな?)

照れるなぁ。

「グッズを出そうって案が出てて……海原さんの許可がいるんだけど、いいかな?」

え?グッズ?私の?……ますますアイドルめいてきた。恥ずかしいし照れくさいけど、断る理由もないよね。私は頷いて許可を出した。

それから1か月ほどで、お土産コーナーに私の写真やイラストを使ったお土産や、私のぬいぐるみが置かれたらしい。実はもっと前から準備を進めていたらしい。

(事後承諾だったのか……)

山岡さん、そんなこと言わなかったのに。……でもまあこの件は山岡さんを責めてもしょうがないか。私が断るに断れない状況まで行ってから許可をとると、最初から決めていたのだろう。正直言って腹が立つし気分が悪いが、今はそれを表明する手立てもないので、胸の奥にしまっておくしかない。半年たってこの仕事が終わってからだ。


半年たったが、いつも通りの人魚生活がなんの変化もなく続くのみだった。私は山岡さんに筆談で訊ねた。

「そろそろじゃないの?いつ元に戻してもらえるの?」

「ん……そういやそうか。僕はまだ何も聞いていないな。後で聞いてくるよ」

「うん。お願い」

私は昼食を食べ終えると、水槽に戻り、お客さんたちの好奇の視線に晒される仕事に戻った。半年もたてば流石に最初期の盛況よりは見劣りするものの、結構な数のお客さんが今も詰めかけている。私は相変わらず手を振ってあげたり、優雅に泳いで見せたりする日々だ。水槽の魚というのも案外やることがないものだ。でもよく考えてみたらほとんどの魚はそんなものだろう。


「思ったよりも海原さんの人気が伸びているから、もう少し人魚でいて欲しいってさ」

(えーっ、困りますよ、私半年だからって引き受けたのに)

契約書も半年だったはずだ。

「海原さんはやっぱ人間に戻りたいか。もう少し人魚でいるのは嫌?」

人魚自体は、その、嫌ってわけではない。でも、この半年どこにも遊びに行けていないし、本も読めないし、ネットもできないしで、なんというか、人間としての文化的生活が送れないのが一番辛かった。水と魚しかない水槽の中はあまりに退屈が過ぎた。

「いや」

私は筆談で端的にそう書いた。

「わかった。僕から掛け合ってみるよ」

私はホッとして、落ち着いた気持ちで水槽に降りた。

(よろしくねー)

水面で山岡さんに手を振った。山岡さんも笑顔で振り返し、歩き去った。

(やれやれ、これでやっと戻れるかー)

私はすっかり安心しきっていて、自分がずっと元に戻れないかもしれない、これが山岡さんと会う最期になるかもしれない、なんてことは考えてもみなかった。


朝食を運んできたのは山岡さんではなく、始めて見る人だった。誰だっけ?この半年で新しく入った人かな?

(あの、山岡さんは……?)

口をパクパクさせて訊ねたが、私の意をくみ取ることはまったく不可能らしかった。まあ、声出てないんだから当たり前っちゃ当たり前なのだけども。山岡さんがいつも持ってきてくれた筆談セットもない。朝食を食べ終わるごろにようやく察したらしく、彼は答えた。

「山岡は昨日辞めたよ。今日から俺が担当になったからよろしく」

(……えっ!?なんて!?)

寝耳に水とはこのことだ。何を言っているんだろう。そんなわけないでしょ。山岡さん、そんなそぶりまったく見せなかったし……。

「もうすぐ開園だから、早く戻りな」

彼はそう言って私を力づくで水槽に突き落とした。水面に叩きつけられた私は、結構痛かった。

(ちょっと!何するんですか!)

私はジェスチャーで怒りと抗議の表明をしたが、彼はまったく私の方を見ておらず、さっさと片づけて一顧だにせず歩き去った。山岡さんと比べると随分粗暴な人だ。

(山岡さんどうしちゃったんだろう。何か悩みでもあったのかな……)

急に辞めるなんて。私に話してほしかったな。半年間ずっとパートナーだったのに。

昼頃に、自分の今後について山岡さんに任せていたことを思い出した。そういえばどうなったんだろう?

新しい担当の人は一言も発さず、昼食を顎で指した。嫌な感じ。

(あのっ、ところで私はいつ元に戻してもらえるんですか?)

と聞きたくても声が出ない。山岡さんはいつも筆談セットを用意してくれていたんだけど。私は身振り手振りで筆談の用意はないのかを彼に聞いた……つもりだったが、伝わらなかった、いや、わかったうえで無視されたのかもしれない。彼は昼食を終えた私に、早く水槽へ戻るよう促した。

(ちょっと!私とコミュニケーションする気あるんですか?)

私は水槽に戻らず無言の抗議をジェスチャーで続けたが、暖簾に腕押しだった。その内しびれを切らした彼は私を両腕で抱きかかえた。

(ちょっ!?)

そして、通路からポイッと放り投げ、私を水槽に落としたのだ。

(ひ、ひどい!)

私は怒ったが、通路に独力で上がるのは困難だし、声も出せないので、子供みたいに手と表情だけでしかその感情を表すことはできなかった。彼は私を一切顧みずに去った。

(うー、困ったなぁ……。これからずっとあの人が担当なんじゃ……)

ていうか、”これから”っていつまで?もう半年はとっくに過ぎてるのに、もういい加減にここから出してもらってもいいはずだ。私に続ける意思がないことは山岡さんが伝えたはず……。

思考がそこに至った時点で、恐ろしい考えが浮かんでしまった。もしかして、このまま私を集客できなくなるまでずーっと人魚でいさせ続けるつもりなんじゃ……?山岡さんはそれに反発したせいで……辞めたのではなく辞めさせられた!?

いや、まさか。契約書だってあるんだ。そんなこと……犯罪だ。あるわけない。でも、契約書……今、私見られないか。あれ?もしかして私、自力で外部と連絡できない?

ずっと山岡さんがいたから気がつかなかったことにようやく気がついた。水槽の中には私から使える通信機器はないし、筆記用具も勿論ない。私は声が出せない。そして、水槽から自力で外にも出られない。……私は、自分が能動的に外部と連絡を取ることが不可能であることに今頃気づいた。突然、背筋がゾーッとし、私は怖くなった。もし水族館側がその気ならば、私を一生ここに閉じ込めることはまったく難しくもないということに。私には逃げることも訴えることもできないのだから。私は水槽のど真ん中で、何もない無の空間に放り出されてしまったかのような孤独と恐怖に襲われた。いや、まさか。ないない。きっとない。

その日の泳ぎは精彩を欠いた。


私は新担当と何度もコミュニケーションをとろうと試みたが、驚くような冷たさで、本当に「魚」の面倒をみているかのような応対だった。誰も、何も私に教えてくれなかったけど、8か月目が過ぎるころには、私は最悪の予想が現実となっていることを受け入れざるをえなかった。集客が続く限り、私を基に戻す気は多分ないんだ。私はサボタージュを開始し、わざとお客さんたちの目の前でふてくされてみせたり、逆にガラスから一番遠く離れた場所を陣取り、ほとんど泳がずお客さんたちから見えないようにしたりした。他の魚を攻撃……するのは流石にできなかった。みんな友達だもん。備品も手が出せない。自分の生命線でもある。申し訳なかったが、お客さんたちにガッカリさせるのが唯一の方法だった。


人魚になって10か月になろうかという頃。閉館から2,3時間が経ち、水槽の底にある貝の形をした寝床に入り、蓋を閉じようとした時だった。ドボンと大きな魚が入水した音と振動が伝わってきた。何だろう。私は貝から出て、上へ昇った。鮮やかなピンク色の鱗と輝く長髪を持った新しい人魚が楽しそうに遊泳していた。

(えっ!?人魚!?二人目?)

私と同じくらいの大きさ……。誰?見たことない顔だ。少し遠くから眺めていたが、向こうはこっちに気がつき、真っすぐ泳いできた。私の目の前で止まり、ニコニコ笑いながら私の頭をなでた。

(え?えっと……)

困った。どういう反応を返せばいいのかよくわからない。初対面……多分……だし。とりあえず挨拶か。

(初めまして……海原です)

ゴポゴポと泡が口から出ていくだけだった。あーそっか……。どうやって意思疎通したらいいだろう。ピンクの人魚は、ケラケラ笑いながら私のお腹をツンツン突いてきたり、舌を出して私の頬を舐めたりした。

(ちょっ……ちょっと!?何なんですか!?)

なれなれしい子だな……。というかちょっと気持ち悪い。私は少し距離をとった。なんで二人目が来るなんて聞いていない。あ……でも、新しい子が来たってことは、私は元に戻れるのかな?

そう思うと、目の前がパァッと明るくなったような気がした。でもそしたらこの子はどうなるんだろう。半年かそれ以上一人でこの水槽を泳ぐのだろうか。というか、私の顛末を絶対に知っているはずなのに、よくこの仕事を受ける気になったなぁ……。でも、無邪気に泳ぎ回る彼女の姿に、私は違和感と、表現しづらい嫌悪感を抱いた。この子何かおかしい。パッと見中学生か高校生くらいに見えるんだけど……。行動が幼すぎるような。もしかして、この子人間じゃなくて「本物の人魚」なのかもしれない。100%人造細胞でできている、完全な人造生命体。だとしたら、倫理かなんかの問題で知能が抑えられてこんな感じに……?いや、単純にテンションがハイになっているだけかも?

寝る前にしばらくコミュニケーションを試みたが、「日本語が通じない」と表現すべき結果に終わった。私はこの子が完全な人造生物だと確信した。ひどいよ。人魚は人造細胞で作れないっていうから、私がわざわざ改造されたのに。全部人造でもいいんじゃない。私がこんな目にあってまで人魚になったのは一体なんだったの!?

やり場のないモヤモヤとした思いを抱え、私はその子を入れずに貝の蓋を閉じて、眠りについた。


次の日、いつものように朝食が出された。担当職員は私の今後について一切話題を出さなかった。黙ったまま、私に朝食をとるよう顎で指示するだけだった。だけど、お盆は一つだけ。私は職員が持つバケツに注目した。

(あの子は、やっぱり……?)

職員が笛を吹くと、ピンクの新人魚が水面に顔を出した。職員がバケツから「餌」を放り込むと、新人魚はとても楽しそうにそれを口でキャッチして食べた。

(やっぱり、人造生物なんだ!)

私は職員に向き直った。

(ねえ、もういいでしょう!私を元に戻して!)

身振り手振りで必死に抗議の意志を示したつもりではあったものの、職員はまったく取り合おうともせず、私を水槽に落として歩き去った。えっ……。私、このままなの……?代わりの人魚が来たのに?

絶望感に包まれながら水面で呆けていると、ピンクの子が私に抱き着き、顔をくっつけてきた。もー、ベタベタと鬱陶しい。私は潜水してその場を泳ぎ去った。

ガラス越しに通路の開館準備を眺めていると、新しい看板が運び込まれているのに気がついた。偶然にも表がこっちを向いている。あのピンクの子のイラストが描かれているので、あの子の説明なのかな……?だがそれによると、「一人ぼっちで寂しがっていたマリンちゃんに、新しい友達ができたよ!」という文章を発見した。マリンちゃんとは私の人魚名だ。寂しがって……いた?なんのこと?さらに続きを読むと、どうやらここしばらくの私は「友達がいなくて寂しくなり、落ち込みふさぎ込んでいた」ことになっているらしい。そしてそれを癒して心を開かせてくれるのがあの子、というストーリーになっているようだ。勝手に変なこと言わないで!私はガラスをドンドンと叩いて、職員にアピールした。職員はすぐにそれに気づいたが、ニッコリ笑って、「よかったね~」といった感じに口を動かし、上機嫌で離れていった。

(え……えぇ?)

まさか、あの筋書き信じてるの!?何の根拠があって……。私は自分の記憶の糸を手繰り寄せた。そしてすぐに原因に思い当たった。サボタージュ!私のサボタージュがそんな風に解釈されていたなんて!

いや、違う。よもや本気でそんな風に思われていたわけではないだろう。私のサボタージュをうまいこと商業利用したのに違いない。外の情報はまったく入ってこないからわからないけど、きっと「寂しくなって荒れだしたマリンちゃんのために新しいお友達を!」みたいな感動ストーリーをメディアを通じて展開していたんだ。次々と運び込まれるあの子のパネルなどを見る限り、どうやら当たっているみたい。

私は怒りと無力感に同時に苛まれた。勝手に人をお涙頂戴な宣伝材料に使うなんて!……そしてサボタージュですらあっさりと商売に利用するこの水族館の人たちが信じられなくなった。サボタージュも通用しないんじゃ、本当に私はどうしようもないじゃん。まだ無気力プレイを続けたって、「ピンクの子が私の凍てついた心を徐々に溶かしていく感動ドラマ」ということにされてしまうのは目に見えてる。

しっかし、なんでこんなことになっちゃったんだろう。水族館のみんな、いい人たちばっかりだったのになぁ。……私はさっきの職員が自分が人間だった時にはいなかった子だということに気づいた。……もしかして、相当数入れ替わっているの?


それから1か月、私はピンクの子と仲良くなる気もおきず、適当な塩対応をかましていたが、案の定感動的なストーリーの序盤にされているらしいことが、お客さんたちの様子からハッキリと見て取れた。さらに時間がたつと、やることもないのでピンクの子の悪戯や遊びに付き合ってあげるようになった。やはり、ピンクの子が私を癒したという感じになっているらしい。やってらんない。よくもまあすることなすこと都合よく。まるで舞台上の劇、画面の中の役者、見世物みたいだ。……いや、最初からそうだったかな。私は水槽の中に展示されたお魚。お客さんを呼び込むための客寄せパンダ。そもそもそういう企画だったじゃない。私はそれをわかってて人魚になったはず。……なのになんでだろう。涙があふれて止まらないよ。ここから出たい。自分の足で自分の人生を歩きたい。でも、それはかなわない願いになってしまった。


人魚になってから2年目に達しようかというころ、初対面の調教師が私とピンクの子に「芸」を仕込むことになったらしい。私とピンクの子はイルカショーのステージに移送された。久々の水槽の外の世界。でも、そんな感慨にふける暇もなく、私たちは輪をくぐるよう指示された。ピンクの子は楽しそうに水面から跳ねて練習し始めたが、私は怒りで一杯だった。

(ふざけないでよ!そんなこと絶対しないから!)

ジェスチャーで猛抗議したが、調教師はなんの悪びれもなく私を見下ろし、軽く足で顔を小突いてきた。

(いたっ!)

足で人の顔を蹴るなんて信じられない。なんて非常識な。痛みと驚きで私は固まってしまった。すると、調教師はバケツ一杯の「餌」を私に見せ、

「ほーら、輪をくぐったらこれあげるよー。それっ」

彼が投げた餌はピンクの子が見事キャッチした。私はその一部始終を呆れて見つめた。なんだこの人。そんなもの私が食べるわけ……まさかこの人、私が人間だって知らないの!?……まさか。でも初めて見る人だし。2年前はいなかった。いや、流石に聞いているだろう。聞いていないはずない。

私は断固拒否し続けた。すると、調教師が他の職員と困ったように話しだした。

「いやー、話は聞いてたけどこの子頑固ですねー」

「ツンデレなんですよ。慣れると素直になりますから」

「だといいけどねぇ」

えぇ?私がツンデレ!?何それ!?……もしかして、この1年のピンクの子と私の作られたドラマを作った本人たちが信じ込んじゃってるの?というかもしかして、それを見てから入ってきた人たち!?

「2歳でしたっけ?」

「ええ、確か」

いや、27歳だけど。何言ってんだこの人たち。……ああ、人魚として、ってこと?……にしてもなんか、違和感が……。

「人造生物って寿命どれくらいでしたっけ?」

「人魚は3年くらいの予定ですねー」

「じゃ、この子そろそろお終いなんですかー。残念」

「次世代人魚はもっと良くなるって聞きますね」

「もうちょい頭よくなると助かるんですけどね。人の言葉通じたら楽なんだけどなぁ」

調教師はそう言った瞬間、私の方を見た。顔面中から血の気が引いていく。この人たち、私を人造生物だと思っている。人間だって知らないの!?私は水面から上半身を乗り出し、右手で明確にビシッと自分を指さし、大きな口の動きで、

(わ・た・し・は・に・ん・げ・ん・で・す!)

と言った。

「……?何いまの?斎藤さんわかる?」

「あー、この子よく変なジェスチャーするんですよ。お客さんの真似かねぇ」

(……え?……え?)

私はあまりのショックで石になったかのように動けなかった。


その後、その日の訓練が終わり水槽に戻された。夕食を食べに通路に上がり、箸でごはんを口に入れた時に思った。

(この食事出してるんだから、人間だってみんな知ってるよね?)

まさか人造生物だと思われているのならこんなまともな食事出ないだろう。ピンクの子は目の前で投げ込まれる「餌」に食らいついているし。あの二人がこの水族館に来たばかりか、ちょっとおかしいのだろう。そうに違いない。私は昼間の屈辱を慰めながら、黙々と食事をとった。

「うっわ先輩、その子の餌超豪華っすね」

見慣れぬ職員がこっちへ近づいてきた。ピンクの子のやつ?いつもと変わらないような。まあ人魚の餌は割と高価のもの使ってるっちゃ使ってるけど。

「これ俺の晩飯よりいいじゃないっすか。ずりー」

職員は私の食膳を食い入るように見つめてそう言った。私の方!?

「あー、これな。前の担当の人がこうしてたからまあこうしてるんだけど」

「これ時間と経費の無駄なんじゃないっすか?サクラちゃんと一緒でいいんじゃないっすか?」

「んー、確かに、それもそうだな」

(え?ちょっ!?)

私は食べている真っ最中だったので有効な反撃ができず、二人の会話を黙認するほかなかった。いやいや、おかしいでしょ。私の担当している人が私のこと知らないってどうなってんの?引継ぎや情報管理はどうなってるの?というか、完全に人間の食べ方してるんだからわかるでしょ!?……いや、ちょっと待った。今の担当は四人目だけど、いつから私は完全な人魚だと思われるようになったんだろう。最初の山岡さんと、二人目の人は知ってたよね?三人目かこの人で何か情報伝達がおかしくなっている。なんで?私は改めて口の動きで自分は人間だと主張したが、通じなかった。


次の日の朝、恐れていた事態が発生した。人間の食事は運ばれてこず、「餌」が上の通路から投げ込まれるだけだった。

(ちょちょ、ちょっと!)

私は通路へ上り、身振り手振りで抗議した。

「今日からはこっち。ほら、おいしいよ」

担当の人は餌をひとつかみバケツからつかみだして私の口に突っ込んだ。臭い。アンモニア臭が口内に立ち込める。

(こんなもの食べられるわけないでしょ!)

私は吐き出そうと抵抗したが、

「こらこら、好き嫌いするなって」

(んーっ!!)

無理やり押し込められ、そのまま飲み込まされてしまった。

「よしよし、いい子だ」

気持ち悪くてゲロ吐きそうになっている私をなでて、水槽へ戻るよう移動させた。

(んーっ!んーっ!!)

嘔吐と屈辱に耐えながらも、私は抵抗したが、この状態では体力も持たず、水槽に落とされた。水底に沈みながら、私は口から飲み込まなかった残りの餌を吐き出した。涙がでてきた。なんでこんな仕打ち受けなきゃいけないの。唯一の楽しみ、いや、唯一私の人間性を担保していたとも言える食事が奪われてしまったんじゃ、もうどうしていいかわからない。顔をクシャクシャにして泣いていると、サクラちゃんが泳いできて、私をそっと抱きしめてくれた。嬉しかった。でも同時に低知能の人造生物に同類扱いされ慰められている自分がとても惨めに思えてきて、涙が止まらなかった。


昼食と夕食も「餌」だったので無視したが、次の日にはお腹がすいて死にそうだった。何か食べないと……。死んじゃう。でも朝食は「餌」だった。さくらちゃんは水面で投げ込まれる餌を楽しそうにキャッチしては食べ、キャッチしては食べていたが、私にはできなかった。それをしたら自分が人間じゃないこと認めてしまうような気がして。しかし昼頃には本当に動く力もなくなってしまい、私はプライドを捨てて、最後の力で水面まで上がり、職員が投げた「餌」をキャッチしてしまった。両手の中に納まったそれは、アンモニア臭を放ち見た目もお世辞にも人の食べ物とは思えないものだったが、空腹に耐えかねた私はそれを口にした。再び涙が溢れて止まらなくなった。私はすぐにそれを食べきったが、まだ空腹は収まるところをしらない。再び投げ込まれた餌を私は能動的に動いて取りに行った。そして再び食した。

「おー、えらいぞマリンちゃん」

……やっちゃった。もう二度と人間だとは思ってもらえないだろう。でも私は涙にまみれたその餌を食べるしかなかった。生きるためには食べないといけない。食べられるものは水槽の中にこれしかないのだから。動物みたいに餌にたかる自分が恐ろしく惨めで情けなかった。人としてやってはいけない、捨ててはいけない物を捨ててしまったような気がする。超えてはいけない一線を越えてしまったような気がして、私の心は後悔と絶望で押しつぶされそうだった。……でも、食べないと生きてけないんだもん、しょうがないんだよ……。それからというもの、私は食事のたびに、自分への言い訳を自分に言い聞かせながら、サクラちゃんと一緒に鳩みたいに餌に群がるようになった。もうサクラちゃんを笑えないどころか、彼女と自分との違いがわからない。もう証明するものが何もない。けど、だけど、私は人間なんだよぅ……。誰か信じて。私も信じられなくなっちゃう……。


ある日、私は水槽から出され、私がギリギリ入れるくらいの水槽に移された。人魚になってからここに来るときに入っていたのと同じ型だ。

(もしかして、やっと元に戻してもらえるの?)

私は忘れかけていた希望に胸を躍らせた。いや、期待しすぎない方がいいかも。どうせまた変な事が……。膨らむ期待を抑えながら成り行きに身を任せていたところ、私はトラックに積まれて水族館を出た。

(やっぱり!元に戻してもらえるんだ!)

水族館を出たのならもうそれしかないだろう。やっと人間に戻れるんだ……。緊張から解き放たれた私はのんびりとトラックの荷台の中を見回した。他にも多くの水槽があり、その中にいるのが全て人造生物だということに気がついた。

(てことは、やっぱり研究所だよね……?)

というか、3年の間にあの水族館にこんなにたくさんの人造生物が増えていたのか。全然気がつかなかったなぁ。

水槽は私には小さく、身動きはほとんどとれないために、私は静かに待っていることしかできない。耳を澄ますと、運転席の会話が聞こえてきた。

「……じゃあ全部溶かしちゃうんですか?可哀想~」

「もともと寿命だから変わんねえって」

しばらく会話を聞いたあと、信じられない運命が待ち構えていることに気づかされてしまった。私たちは全部、この後溶かされて処分される……らしい。

(え?え?嘘でしょなんで!?ちょっと待ってよ!)

私はドンドンと水槽を叩いた。他の子たちはしょうがないけど、私は違う。私は人間だよ!人造生物じゃない!

「マリンちゃん人気あったのに~」

「人魚は3年で寿命だからな、こればっかりはしょうがねえよ」

(しょうがなくないよ!どうして私のこと知らないの!?記録は残ってないの!?)

死にたくない。嫌だ。このまま溶けて人生終わりだなんて。というか3年って、それはサクラちゃんのことでしょ!私のは医療用の人造細胞だから、普通の人間の細胞と同じだけ細胞分裂できるんだよ!人造生物用の廉価版じゃない!私はまだ生きられるよ!

死の恐怖が私の中で荒れ狂った。あらん限りの力を振り絞り、水槽を叩き、全力で叫んだ。声が出ないことなんて完全に忘れて。

(ちょっと!聞いて!私は!人間!)

嘘……嘘でしょ。このまま勘違いで殺されちゃうの!?いや、お願い助けて。その時だった。突然強い衝撃がトラックを襲い、世界が横転して一瞬の浮遊感の後、強烈な音と衝撃に襲われ、私は失神した。


(……ん……?)

目が覚めると、私は道路に横たわっていた。周囲を見渡すと、へこんだトラックが横向きに倒れ、道路には割れた水槽の欠片が散乱し、路上に放り出された人造生物がうねうねと蠢いていた。事故?

「大丈夫ですか!?大戸さん!?大戸さん!?」

運転席にいた人は片方が怪我したらしい。私は這ってもっと周囲を見渡せる場所に移動した。すぐそこに川があり、その先が海につながっている。川の上流の方には、何かの研究所っぽい施設があったが、私の改造をしたところじゃなかった。……やっぱり、私を元に戻すんじゃないんだ……。どうしよう。逃げられる。川に飛び込めば。でもそのあとはどうすれば?待ってたら人が来るだろうし、誤解も解けるかも?どうしよう。

迷っている間に警察と、見知らぬトラックが到着した。運転手たちはたっぷり詫びた後、人造生物の回収をそのトラックの人たちに依頼していた。あの研究所の職員のようだ。

「じゃあ、予定通り全部溶かしますね」

(…………!)

職員がこっちへ歩き出した。その姿は世にも恐ろしい死刑執行人にしか見えなかった。逃げなくちゃ。全身を貫く恐慌が結論を瞬時に下した。この人たち、きっと話を聞いてくれない。というか私は話ができないじゃん。私は這いずり道路の端へ移動した。職員たちが私が逃げようとしていることに気づいたらしく、走り出した。それを見た時、再び強烈な生への渇望が私の背中を押した。私はガードレールを乗り越え、一気に川へダイブした。

「おおーい!人魚が逃げたぞー!」

「何やってんだ!早く追えよ!」

川の水は水槽と違った。淡水……。水槽の海水とはまた違ったぬるっとした感触。そして水槽にはなかった水の流れが私を押し流した。だけど、逆らう気はまったく起きなかったし、遠ざかっていく研究所が私の選択の正しさを証明しているように感じた。処刑場と死神たちに背を向けて、私は全力で海の方へ泳いだ。無我夢中だった。


少し沖までくると、私はやっと泳ぐのをやめて冷静さを取り戻した。疲れた……。まだ心臓がバクバクいってる。疲労感もあるけど、それを遥かに上回るのは開放感と達成感。ここはもう水族館じゃない。私は自由なんだ!

ひとしきり自由な気分を堪能したあと、これからのことを考えた。砂浜なら字が書けるよね。砂浜に上陸してメッセージを書き、助けを求める。これだ。私は再度泳ぎだした。今度こそ元に戻れる、助かるという希望を抱いて。


ビーチが見えるところまで来たけど、人がいない。今は夏だったはずだけど。まあいいや。誰か通りがかればすぐに騒ぎになってくれるはず。私は砂浜に向かって水を蹴った。だが、すぐにそのビーチ沖を動く黒い三角形の存在に気がついた。一つ二つ……三つ。私は急停止して、軽く潜水した。水中の先にいたのは三匹のサメ。真っ黒な恐ろしい巨体を駆り、獲物を探し求めていた。そして一番近い一匹がこっちへその大きな口を開いて突っ込んできたのだ。何十もの鋭い歯をむき出しにして。

(えっ……ちょっ、嘘……やだやだやだ来ないでぇーっ!)

私は沖へ向かって反転し、全速力で泳いだ。全身全霊の力をこめて水を蹴りまくった。全身に悪寒が走り、本能が死の警報を発していた。さっきの職員とは比べ物にならない、本能的な恐怖が全身を、内臓を覆い尽くした。ビーチ近くにはまだ二匹いる。沖に行くしかない。いや方向とかどうでもいい。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ……。上半身は鳥肌がたち、下半身も鱗全てに冷たい悪寒を感じた。どれくらい泳いだだろう。まだついてきてるのかな。離してる?それとも追いつかれつつある?振り向く余裕も周りに注意を払う余裕もない。お願いお願い助けて。食べられたくない。私は体力が尽きるまで泳ぎつづけた。


私は水面に浮かんでボーッと夜空を眺めていた。気がついたらサメはいなくなっていた。逃げ切ったらしい。辺り一面見渡す限りの大海原が広がっている。陸はどこにも見えなかった。どこまで泳いだんだろう。ここはどこなんだろう。軽く潜水すると、薄暗い水中世界が360度全てに永遠に続いていた。足元……いや、尾元にも。底のない暗黒が静かに佇んでいる。私は怖くなって水面にでた。これからどうしよう。無我夢中で泳ぎ回ったから方角もわからない。どこへ行けば人がいるのか。例えようのない孤独が私を襲った。広い海に独りぼっち。もう一度潜水すると、遠方に巨大な影が蠢いていた。正体はよくわからなかったけれど、全身がすくんだ。離れなきゃ。私はそいつと正反対の方向に少し泳いだ。

泳ぎつかれてまたポケーッと澄み切った夜空を見つめた。たくさんの星々が空一面に輝き、とても綺麗だった。だけど心は曇り空だ。自分の置かれた境遇について考えるとね。サメのような命を脅かす脅威がいつどこにいるかもわからない。陸がどっちにあるのかもわからない。誰もいない恐怖と孤独。星々を眺めながら思うこと。星を見れば方角とかわかるんだっけ……。でも私にはそういう知識がまったくない。昔から魚が好きで、その勉強ばっかりやってきた。どの星をどう見れば今の場所がわかって方向がわかるのか、まったくわかんない。星座とかあるんだっけ……。でもそれもよく覚えてないなぁ。もっとそういうことも勉強しておけばよかったのかな……。私は水面に浮かびながら、いつしか眠りに落ちた。


じっとしていても始まらない。私はとりあえず泳ぎ始めた。正しい方角なのかはわからないけど。しかし問題は方角がわからないことだけじゃなかった。昨日は危機の連続で緊張していたからわからなかったけど、お腹が空いた。昨日から何も食べていないし。だけど見渡す限りの海に、私の食べ物なんてなかった。近くの魚を獲ってみようと試みても、海の魚たちはまったく余裕で私から逃げおおせた。一匹の魚も捕まえられない。そしてそうしているうちにまた方角がわからなくなる……。人魚だなんて所詮はコレだ。魚にもなり切れない半端者。水族館にいた間、私は自分が人間でなくなり魚に成り下がったかのように感じていたけど、実際は魚ですらなかった。私は一体なんなのだろう。……仮に捕まえられたとして、生の魚をそのまま食べられるものか。できないよね。海で生きていけないのなら、やっぱり私は人間なんだ、人間であることの証だと自分を慰める。


潜水してしばらく泳いでいると、エイの群れが前方からこっちへ向かって突進してきた。正面からみる無数のエイたちの顔が目に映った瞬間、私は全身が恐怖で縮みあがり、動けなくなってしまった。その場で丸まり、目をつむった。数秒のちに、前方からすごい水圧が私を襲った。来た。次々とエイたちが私のすぐ近くを通り過ぎていく。心臓が鼓動を早め、私の胸は恐怖で張り裂けそうだった。エイたちは私にかすりもせずに通り過ぎていったらしい。それでも、私は静けさをとりもどした海で、まだしばらく縮こまっていることしかできなかった。

怖かった。怖い。私は目をあけて、深い水底に視線を這わせた。この下にいくともっと暗くなって、もっと怖い生き物たちがウヨウヨしていて、そのさらに下には暗黒の深海がある。そのことについて考えるだけで、気が狂いそうになる。早くここから出たい。陸に上がりたい。昔は、子供のころはエイが好きだったのに。今は純粋な恐怖しか感じない。エイやサメだけじゃない。この海にいる全ての生き物、存在が怖い。また涙があふれ出してきた。逃れられない怖さと、昔の自分への申し訳なさで。昔の自分は魚が大好きで、それが高じて水族館に就職した。それが今はどうだ。私はあらゆる海の生き物を恐れ、怖がり、近づきたくないと思っている。なんでこんなことになっちゃったのかな。すっかり変わってしまった。陸に上がれたら二度と海には戻りたくないし、魚の図鑑すらみたくない。もう嫌だ。嫌。味方が誰一人存在しないこの恐怖の空間から一刻も早く抜け出したい。

エイの群れが去ってから1時間くらいはたっただろうか。ようやく姿勢を緩めて、私は上昇した。水面は相変わらずの青一色……じゃない。船だ。漁船がいる!あっちの方に!

私は船影に猛突進した。一目散に。人だ。人がいる。助かる。「ここ」から出られる。漁船が大分大きくなってくると、私は声を張り上げて叫んだ。……ああ、しゃべれないんだっけ。なんでいつも忘れるのかな。漁船が私から遠ざかる方向へ向きを変えた。私は潜水して、全力疾走……いや泳いだ。待って……いかないで……あとちょっと……漁船の近くにはたくさんの魚の群れが存在していた。もう迂回している余裕はない。魚は怖かったけど、私はその中に飛び込み、漁船を追った。魚の群れを突破したと思った瞬間、視界一杯に広がる網が私を通せんぼした。

(うわっ、なに!?)

こっちは駄目だ。網がそこらじゅうに……。網?周囲の魚の密度がだんだん上昇してきたことに気づいた。これ……漁だ。次第に網が縮まり、私は魚の群れと一緒に網に閉じ込められた。

(んっ、ちょっと!きつ……痛……)

やがて網が引かれて、水面へ昇り始めた。私釣られたの?魚みたいに?背中一面に魚たちの感触が。おしくらまんじゅうみたいにぎゅうぎゅう押してくる。網と魚でサンドイッチになりながらも、私はついに漁船に引き上げられた。空……そして、人だ。

(ぐえ)

網は甲板に叩きつけられた。魚たちに押しつぶされそうだったが、網がとかれ、魚たちは私の上から一斉に広がった。

「うわっ!なんだこれ!」

「うおぉっ!?」

漁師たちは私を見て幽霊でも見たかのように慌てだした。私は助けを求め……ようとした瞬間に、おいしそうな匂いが鼻をついた。空腹が刺激される。少し離れた船のへりで、一人がお弁当を食べていたのだ。ごはん……。私はそれを手に入れるために、甲板を這って突進した。

「え?え?うわっ!こっちくんな!」

私はその漁師のお弁当を強奪した。食器だとかマナーだとかそんなことはまったくどうでもよかったし考えられなかった。手で中の物をわしづかんでは手あたり次第に口へ詰め込んだ。まるで動物みたいに。

「おいおい……」

「食ってる……」

私はお弁当を完食した。あぁ……。餓死せずにすんだ。私は助かったという安堵、安心に包まれ、その場に寝っ転がった。もう泳がなくてもいいんだ……。床があるっていいな……。もう動きたくないや……。漁師たちの喧騒を子守歌にして、私の意識はそのまま闇に落ちた。


(出してください!出して!出してーっ!!)

「じゃあ、全部溶かしておけよ」

「あ、はい」

私は港に着いた後、すぐに引き渡されて一度は逃げおおせたはずの研究所に搬送された。そして今、他の人造生物たちと一緒に処分されようとしている。

ジェスチャーで意思疎通を試みたが、それはここに来るまでの間全て通じなかった。今私にできることは、全身全霊の力をこめてガラスに体当たりし、何度も叩きつけることだけ。

(違う!違う!違うんですーっ!!溶かさないで!!殺さないでーっ!!)

部屋には多数の水槽があり、一つにつき一匹の水棲人造生物が収納されている。私もその一つだなんて。嫌だ。出して。やめて。神様。

職員は上司が出ていくと席に戻り、無言でマウスを押した。カチッ、という小さく無機質な音が響き、水槽内に死を呼ぶ液体が注入され始めた。

(やめて!やめて!)

何度もガラスを叩きつけたが、職員は黙ってパソコンを見つめていた。だんだん水温が上昇してきた。全身がヒリヒリする。

(うっ……)

その感触はすぐに猛烈な痛みにとって代わり、私は水槽の中でのたうちまわった。

(んっ、あぁっ、痛いっ、やめっ……んうっ!?)

ジュウジュウと音を立てながら私の全身から泡が噴出して、水槽内は泡だらけになり、視界は遮られた。この泡は溶けた私の一部なのだと気づくと、私はもう正気を保っていられなくなった。

(出しっ……止め…………嫌……溶け……る……)

他の水槽からもバンバンとガラスをたたきつける音がこだました。全身を襲う激烈な痛みは神経の限界を超えて、体を動かすことができなくなった。熱い。熱い。溶ける。死ぬ。やめて……。誰か助けて……。周囲の水槽が次第に静かになっていく中、私の意識は消えようとしていた。いや……だ……。死にたく……ない……。これで……終わり……なんて……。



パソコンで全行程が終了したことを確認し、俺はヘッドホンを外した。あの断末魔マジで嫌い。大分音量上げてたのに聞こえるし。別室いてもいいだろ。ホントうちはブラックだよな。

水槽内は白く濁り、中は見えない。人造生物は全て死んだ。可哀想だけどしょうがない。どうせすぐに寿命の連中ばっかりだし、野生化すると大問題だからな。俺は一クリックで排水指示を出した。これでおしまい。あとは掃除したら定時までネットサーフィンだ。

だが、排水が終わったことを目で確認した時、水槽一つが溶け残っていることに気づいた。1メートくらいで、原形残ってやがる。番号確認。水族館からきた人魚か。人造細胞は一発で全部溶けるはずなんだが。なんでこんなに残ってんだ?あーめんどくせーことになったなぁ。報告……するまでもないか。もう一回やって完全に溶かせばい。俺はその水槽だけ個別指示を出し溶解プロセスを再始動した。コーヒー入れてこよ。


まだ70センチくらい残っていたので、俺は3回目の溶解指示を入れた。他の水槽の洗浄をしながら、人魚さんの成り行きを見つめていた。めっちゃ丈夫だな。もしかして医療用のやつを使っていたとか?だとしたらもったいねーことするな。設計したやつアホだな。


30センチほどの真っ白な人魚の溶け残りを俺は水槽からつまみ出した。マジで困ったなぁ。どーするよこれ。俺の上司すぐに怒鳴るから極力報告とかしたくねーんだよな。あとこの水槽洗浄したら終わりなのによ。残業になるじゃねーか。はよ帰りてぇ……。

俺は人魚の尾をつかみ、プラプラと揺らした。鱗はボロボロで多数が抜け落ち、灰褐色となり運ばれてきた時の面影は微塵もない。上半身も白い溶けカスがこびりついてベトベトだった。髪も痛々しい白髪で、床に向かって力なく両手と一緒に垂れている。持ち上げて顔を見てみると、表情は死んでいて、目を半分開いて虚空を見つめている。んー、まさかこいつまだ生きてんのか!?

もう片方の手でデコピンすると、プラーンプラーンと振り子のように振れた。同時に、こいつの体からピクッと弱弱しい痙攣を感じた。

怒られるなー、どーしよ……というかもう6時じゃん。だりーなーこれ。どう処分するか……。


俺は定時上がりして、駐車場に来た。誰にも見られないようにこっそり駐車場近くの土手に赴き、足で適当に掘り返した。できた穴に人魚の溶けカスを寝かせた。俺はすぐに足で土を蹴り、適当に上からかぶせ始めた。浅いけどいいだろ。見つからん。下半身に土をかぶせてあと上半分、というところで、人魚から視線のようなものを感じた気がしてビビった。屈んで顔を見たが、半目で虚空を見つめているまま特に変わってはいない。気のせいかな?……まあその奥の瞳が動いたのかもな。もう暗くてわからんけど。俺はまた足で土を蹴って、上半身も埋めた。

同僚たちに見られないように気をつけながら駐車場に戻り、時間を確認した。6時20分。やれやれ、手間どったな。はよ帰ろ。

「おい、お前水槽一つ洗浄してなかったろ」

「は?」

あ、あの人魚のやつか。いけねえ、忘れてた。

「すんません、すぐ」

俺はまた研究所に戻った。あーあー結局残業かよ。あの糞人魚のせいで。マジうぜーわ。死ねよ。死んだけど。





私はボーっと居間のテレビを眺めていた。他に面白いのやってないかなぁ。リモコン操作できないから関係ないけど。ガラスの向こうに見える点けっ放しのテレビを見ることと、同じ水槽仲間のカメをからかって遊ぶのだけがここでの娯楽だった。

日が落ちるとドアを開ける音が聞こえてきた。帰ってきた!

山岡さんが居間に姿を見せた。

「ただいま」

水槽に近づき、私にそう言って隣の部屋へ姿を消した。山岡さんを見るだけで心があったかくなって、安心する。

晩御飯の時間になると、水槽からだして食卓まで運んでくれる。山岡さんがご飯とおかずをちょっぴりわけて食べさせてくれるのだ。私は今30センチくらいしかないから食費もあんまりかからない。

「ごちそうさまでした」

私はすぐに食べ終わって、じっと食事をする山岡さんを見つめた。今は信じられないくらい幸せで平和な日々だ。あの頃に比べれば。私自身の記憶は曖昧だけど、山岡さんが私が投棄された数分後にすぐ掘り出して処置してくれたらしい。入院中には、水族館の元同僚たちが間に合って本当によかったと毎日のように言っていたのを憶えている。みんなは私が好きで人魚をやっていると聞かされていたそうだ。契約期間もいつの間にか3年に書き換えられていたと聞いた。私の人間時代の同僚たちは徐々に水族館から追い出されていたらしい。もっとも最大の転換点は水族館の買収だったか売却だったからしいけど、詳しいことはよくわからないし、正直もうどうでもいい、知りたくもない。今は山岡さんにカメと一緒に自宅で飼われている。下半身はボロボロで、尾びれも無残に溶けて、髪も完全に脱色していて、今の私には往時の面影は残っていない。だけど山岡さんはそんな私もかわいいと言ってくれる。私はその言葉で救われる。元に戻るには溶けて縮んだ分も含めて相当量の医療用人造細胞が必要なので莫大なお金がかかる。訴訟に勝って費用が支払われるまではとてもじゃないけど届かない金額だ。それまではこうして山岡さんに飼われることになったわけだけど、私は正直、ずっとこのままでもいいんじゃないかという気持ちもなくはない。だって……。

「……それでなー、”もういい、疲れた”ってさ。」

山岡さんはまた彼女に振られたらしく、私に愚痴った。もっとも、私は喋れないから、表情とジェスチャーで返すしかないけれど。私がここに来てから、山岡さんは恋愛に失敗し続けている。私はその理由を知っている。

山岡さんが優しく私の頭を人差し指で撫でた。私はだらしない照れ笑いを浮かべて堪能した。

「なんで毎回こうなるんだろう?わかる?」

(……彼女さんより私を優先するからですよ)

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ある人魚の話 OPQ @opqmoru

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