第12話 芹澤教授、最後のことば・前

此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜…


ざざん、ざん…

竹本義太夫のしゃがれ声に次いで波の音が、三味線の伴奏のように鼓膜に叩き付けて来る。


これは、曾根崎心中。

遊女お初と醤油屋の手代徳兵衛が信じていた人に裏切られ、この世に生きる甲斐を失い心中へと向かう道行の物語。


私は何処にいるんだろう?

と思いながら森を抜けて砂浜を歩き続けてやっと、晴天のもと初代竹本座の人形浄瑠璃が上演されていて、老人から子供まで10数人ほど観客として集っている中で、空いた座布団を勧めてくれる人が居た。


あ、どうも。と腰を落ち着けて会釈をした相手の顔を見上げて、芹澤儀右衛門せりざわぎえもん


「律子…!」と声を上げて日傘の下で微笑む濃紺の着物姿の亡き妻、律子の白い手を取った。


五年ぶりに逢えたね。私はもう死んでいるのかい?いや、解っているんだ。


ここは私の脳内世界だということを。


400年前の竹本座の舞台で黒子に操られてすすり泣くお初人形を見ている観客は、前列には親父とお袋と、三年前癌で逝った兄貴。


2列めは従姉の初枝ちゃんとその横にお行儀良く座っている娘の貴子ちゃん…神戸の震災前に会って以来だね。


生と死の狭間にいることくらい解ってるんだよ…


「では、芹澤教授は大阪天王寺ご出身なのですね?」


「ええ、父は大阪の商家の次男で、子供の頃から祖父に連れられてよく文楽を観に行っていた。と言ってました…」


と代謝内科医、津背このみと芹澤教授の長女でK大学図書館で司書を務めているたまきさんは秋雨が打ち付ける窓際でお喋りし、


病室のベッドに横たわって眠り続ける芹澤教授と、環さんが膝に抱いている古いお稚児人形を交互に見つめながら、


「ああ、だから教授は文楽が好きで、このお人形が『ひとまろ』のモデルだったのですねえ…」


と7日前に突然痙攣発作を起こして倒れて以来、意識不明の状態が続いている芹澤教授に語りかけた。


「若い頃の芹澤くんは、そりゃ凄いもんだった。

日本じゅうの、いや世界中のどの名医が匙を投げるレベルの脳手術で迅速かつ丁寧に腫瘍を取り出し、血管を繋ぎ、後遺症ひとつ残さなかった。

腕のいい外科医はよく職人に例えられるが私から言わせてもらえば、芹澤くんは芸術家だ」

とK大医学部の岡田学部長は呼び出した小巻医師と長澤准教授の前で

机に両手を付いて頭を垂れ、


「だのに、なぜ芹澤くん自身が脳腫瘍に冒されなきゃならないんだ…!」


と呻いてから何故今まで黙っていた!?とでも言うように目の前の二人を睨み付けた。


「芹澤教授はご自分の病状を全て理解しておいででしたし、他言しないで欲しいという教授のご意思を尊重しました」


と精神科医で「AIひとまろプロジェクト」を提唱した芹澤教授の助手でもある小巻医師は完全に感情を抑制した声で答え、


「担当医師として守秘義務に従い、芹澤教授のQOLの向上に務めたまでです」


と芹澤教授の弟子でもある脳外科医、長澤准教授は分厚い眼鏡の縁をずり上げ、やや怒りを含んだ声で答えた。


「解っている、私も脳外科医だから解っているんだ…」


と学部長は芹澤教授の頭部MRI検査画像をはじめとする全ての検査結果を何度も吟味した上で、

「肺から転移した癌が脳の中枢近くを冒し、芹澤くんが手の震えを感じた時にはもうメスを入れられる状態ではなかった。長澤くん、君の診断は正しい」


と外科医としての敗北を認めた上で顔を上げた。


一年半前、芹澤教授はメスを手離し後進の育成と世界中のほぼ全ての言語を集積したAI「ひとまろ」の作成と実験に残りの時間を捧げたのだった。


今やひとまろは通訳ソフトとしてアプリケーション化され、世界中の人々の携帯端末に入り異国間交流に活躍している。


「今更とは思うんですが」


と、芹澤教授の癌治療を内科的にサポートしていたこのみは床頭台の上に立つ「ひとまろ初号機」と名付けられたお茶汲み人形ロボットを見上げ、


「残り少ない余生で教授は一体何がしたかったんでしょうかねえ…」


と膝の上で握りしめた両手を緩め、


もう自発呼吸をなさっている事じたいが奇跡なんだ。


と倒れる以前の教授の穏やかな語り口や、興奮した時に芝居のように大仰になる身ぶり手振りや、面白い実験の時の子供のような笑い顔を思い出しては…


変な人だ、と思っていたけどあの実験と研究の日々はあまたの人々の会議に騒乱を起こし、迷惑かけまくったけど、


本当に楽しかった。


と振り返って規則的な息をする教授の口元を見つめた。


「父はきっと、母と気がすむまで話したかったんだと思います」


と環は五年前に逝った律子夫人と教授の、それはもうはたから見ていて地獄だった介護生活を語り出した。


「母は七年前に脳溢血で倒れて手術を受けて助かりはしたんですが…言葉を司る機能がほとんど失われていて伝えたいことを言語化出来ない状態だったんです」


律子夫人は最初は戸惑い、伝わらないと泣き叫んで暴力で訴え、最期は夫である教授にも心を閉ざしたまま逝った。


「母の暴力に、父は笑って耐えてました…『律子、倒れた時に海外に手術に行っててごめんね』って繰り返し謝って。母が息を引き取った時、父は後を追ってしまうんじゃないか?ってくらい嘆いてました」


「それ、初めて聞きました」


とこのみは環の色白い日本人形のような顔立ちに、ああ、この人はひとまろに似ている。と気付き、


愛する人と話したい。


ただそれだけの気持ちでここまでの事をやって来られたのだな。と思うと胸が詰まり、泣きそうになるのを辛うじてこらえた。


「あのさ、職務外だから泣いていいよ」


とポケットから白いハンカチを出してこのみに差し出したのは…


「小巻さん」


「話が耳に入ってごめんね、僕は教授からその話聞いてた。

最初は馬鹿げた計画だと思って暇つぶしに参加したけど、奥さんとの事聞いたら何がなんでも協力したい、って気になって僕もここまで来た」


白衣を脱いだ小巻英雄は自分も職務時間外、だと主張するようにソファのこのみの隣に割って入りペットボトルのお茶を飲んだ。


「小巻さん、学部長からは…」


この大学病院のヒエラルキーの頂点に立つ人物に睨まれたら、研究の道は断たれる。


と言われている「学部長の呼び出し」から帰って来た小巻をこのみが心配すると、


「はい、自称天才プロファイラーである僕の説明と、教授の主治医長澤さんの提出した検査結果により、学部長から解放されました、と!

あーいう理詰めなタイプのおっさんには検察官のように証拠物件突きつけて黙らせるのがベストですからね」


「じゃあ芹澤教授の病状黙ってたことはおとがめ無し?」


そ、と小巻は両手を広げ、ハンカチで涙を拭くこのみの隣でソファの背にもたれると、


「ほんとうに白い巨塔の住人は疲れる…この人気持ちよさそうに眠ってんな」


と実に羨ましそうに教授の横顔を見つめる。


「小巻さんって服装だらしないし、チャラくて高慢で嫌な人だ。と最初は思ってたけどこの一年半でいい人だって解りましたよ」


と面と向かって言われた小巻は照れ隠しに前髪をかき上げ、


「…人間が本当に解り合えるのは、言葉にならない時間を積み重ねた時だけだからね」


と俯いて言った。


「その通りだよ」


と深く穏やかな教授の声が頭上から降り注ぎ、え?と思わず顔を上げた。


目の前には改良型ひとまろ3号機とそれを抱き抱えるロボット工学の院生、ヘンリック君。北欧出身。

190センチの長身を折り曲げ、血管さえ透けて見えるような白い頬を上気させている。


「やった…やりましたよ。このUSBで前頭葉と言語中枢のみ機能している教授の脳の思考をひとまろで機械音声化する事に成功しました!」

このみはそのUSBに自らプログラム化した教授の思考回路をインストールした事を覚えていた。

「ヘンリック君、じゃあ、今の教授の声は」


「そうです、今ここでの教授のことばです!」


と床頭台に置いてあるひとまろ1号機をひとまろ3号機と取り替え、教授をモニタリングしている機器に接続すると…


「やあ、ここ数日間驚かせてすまなかった。僕が何も言えなくなった時にこの手段を使ってほしい。とヘンリック君にお願いしておいたんだ…津背くんは忘れてるかもしれないからね」


教授の困った笑い声を聞いてその通りです…とこのみは赤面した。


「ヘンリック、録音モード」

緊張した小巻がヘンリックに言いつける。


「そうだね小巻くん…僕の脳のエネルギーももう限界だ。ヘンリック、ひとまろをネット回線に繋いで。

これから言うことは僕の遺言と思って聞いてくれ」


茶運び人形風ロボットひとまろ最期の使命、それは、発明者である芹澤教授の最後のことばを伝えること。


何本ものコードに繋がれた茶運び人形を病室にいる皆、黙って見守った。





















































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