地獄の名物

あれは確か、夜更かしした夜のことでございました。

気がつけば、薄暗い地に赤く光る不規則な線が走っている場所におりました。立ち尽くす私の周りに、吹き荒ぶ熱風が、ぶわり。身を包まれたところで、漸くこの赤い線が溶岩の流れたそれだと自覚しました。

とりあえず留まっている訳にもいかないので歩きだしますと、少し遅れて大きな悲鳴や小さな怨嗟の声がしてまいりました。果たしてここは何処だろうと思っておりますと、男が一人。それもとびきり人相の悪いやつにございます。暫し逡巡しましたが、他に人の姿は影すら見当たりませんでしたから、諦めて問いかけることにいたしました。

「はて、此処は何処にございますか」

「おお、御客人か。此処は地獄ってんだ。知ってんだろ?あの地獄だよ」

おおよそ善人とは思えぬ顔が、ぐにゃりと歪みます。笑ったようでしたが、私の背筋には戦慄が走るばかり。此処が地獄であるということを本能にまで刷り込まれるような心地でした。

男はそんな私の様子を見て、さらに嬉々とした表情を浮かべます。そしてこう続けました。

「おい、地獄の名物ってヤツを見にいかねぇか?なぁに、二つあるんだがその内一つは近くにある。冥土の土産ってヤツさ」

冥土の土産というのは冥土に持って行く土産であって、冥土から持って帰る土産ではないだろうということや、私の様子から見ればその誘いはもはや脅しではないのかということは、口の中から私の中に颯爽と逃げ帰ってきました。こうして、この如何にも凶悪かつ醜悪な男と、それに無理矢理乗せられた私の旅が始まったのでございます。

慣れた様子で前の男が歩を進めていきますのは、恐らくここでの暮らしが長かったからなのでございましょう。私が手間取りながら溶岩の上を渡るのを、あの恐ろしい顔をぐにゃりと歪ませながら見るのでありました。

そうして暫く歩きますと、見えてきましたのは溶岩の池と、高く聳え立ち、先の細った崖。溶岩に照らされた崖は、その陰影をますますはっきりと美しく主張するのですが、男は全く見向きもせず進んでいきます。どうやら、この崖を逆側から登るようでしたので、仕方なく着いていきました。大小様々の墓らしきものたちが見えましたが、男が無視したので私も無視して進みます。

結局着きましたのは、先程見えていた崖の上。覗き込めば下はあの池なのでしょう。しかし、私の前にはそれより気になるものが一つ。

地獄に、何とも可愛らしい黒猫が一匹。崖の前に佇んでいたのです。

猫が好きな私は、そちらの方に行こうとしました。その刹那、黒猫が走り始めます。手を伸ばしますが、届くはずもございません。それも当然、あの黒猫は崖の先に向けて走り出したのですから。

結果、私が同じくらいの位置に辿り着くよりずっと前に、猫の姿は崖の下へと消えてしまっていたのでありました。

「これが地獄の名物か」

怒りを込めて男に問いかけます。

「違うな。正確には半分正解で、半分間違いだ。まぁ、見てろよ御客人」

けれどあの歪んだ顔を見ると、どうしても逆らう気にはなれず、結果として男に従うこととなりました。

さて何が起こるかと見ていれば、再び猫が現れました。それも黒猫が。暫くじっとしていたかと思えば、その猫はある時ひらりと身を躍らせ、先程の猫と同じく崖下に落ちてしまうのでありました。

「時に御客人。猫には九つの命というヤツが有るらしい。全くあんな獣が贅沢なモンだよなぁ」

じっと見ていた私に、男が話しかけました。

「でも、三歩歩いたら恩を忘れちまうような生き物だし、こんな地獄にゃ酷だよなぁ。やっぱり人間様が一番だぜ」

「それとこれとに何の関係が?」

訳が分からず、問いかけました。自分で思うよりも低く冷たい声が出ましたが、男は全く気にする素振りも見せずに返します。

「アレはな、九つある命を全部投げ捨てて生まれ変わろうとしてんのさ。だけど崖に落ちるまでに忘れちまうから、あんな感じでずっと繰り返してるってワケよ」

「救うには?」

「簡単さ。数えてやればいい。行ってこいよ」

男は吐き捨てるようにしてそう言った後、私に猫の所へ向かうよう促しました。

救いたい一心で猫の元へと向かいました。

「猫さん猫さん、数えて差し上げましょうか?」

猫が崖の上に佇むのを待って、私は話しかけます。

「お願いするよ。僕はすぐ忘れてしまうから」

返事が来ることに少し驚きはしましたが、そのまま数え始めることにいたしました。

ひとつ。ふたつ。みっつ。最初は可哀想に思っていました。

よっつ。いつつ。むっつ。しかしそれも段々と薄れ。

ななつ。やっつ。もはやこの辺りまで来ると、作業と化し。

そして、ここのつ。飛び込んだ後、溶岩の池にぷかぷかと猫の骨だけが浮かび、岸へと流されていきました。

私は急いで崖を降り、流れ着いたそれらを拾い上げました。そうすると、心の底に引っ込んでいた悲しみやら何やらが一気に噴き出し、それを壊れない程度に強く抱きしめました。

それから墓を建てました。墓の行列の隅っこに亡骸を埋めて、その辺りにあった木の棒を建てただけの質素なものですが、確かにそれは墓でありました。

手を合わせて、黙祷を捧げました。ここで男が来ていないことに気がつき、とりあえず崖の上に戻ろうと歩きました。

……そうして戻った崖の上にはまた猫がおりました。

私の顔が歪むのが、はっきりとわかりました。

「……何故?」

長い沈黙の後に、音がしました。それが私の声だったことに、数瞬遅れて気が付きました。

「嗚呼、嗚呼、こりゃいつ見ても傑作だなぁ!やっぱりこっちの方が名物に相応しい!なぁ、御客人!改めて地獄の名物を教えてやろう!」

よく分からない言葉が聞こえてきて、それはこう続きました。

「一つは何度転生しても畜生道に堕ちる黒猫!そしてもう一つは……黒猫を救ったのが無意味だった事を知った時のその顔だ!」

男はそう叫んで、汚い声で私のことを嗤うのでした。

思えば、地獄に墓がある時点でおかしかったのです。それも列をなすほどの量。あれはきっと、その全部があの猫の墓だったのでしょう。

しかし全ては手遅れ、私はただぼんやりと男の嘲笑を聞き流すばかりでございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そんな夢を見たから。 アルタナ @Altana_3_dayo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ