第10話 私の騎士

 騎士が、私の薬草採取に同行するようになってから五日が過ぎた。

 

「今日も、夜が来てしまう…………」


 力なくぼやいた私は、ぐったりとテーブルに突っ伏す。

 そう言うとなんだかまるで夜が来る度に村人が一人また一人消されていく、というような極限状態を彷彿とするが、我が家を訪ねてくるのは血に飢えた殺人鬼ではない。

 村人からの見舞いの品を携えた騎士である。

 まあ、それが私にとっては大問題なのだが。

 テーブルに突っ伏したまま深々とため息をついていると、


「はいはい、お嬢手を休めないの」


 なんて叱咤の声が真向いから飛んできた。

 渋々と身体を起こし、作業に戻る。

 少しばかり赤みを帯びた陽の光が窓から差し込む時間帯、私は狩人と共にデリガナと呼ばれる野菜の根取りを行っていた。

 

 デリガナはこのあたりでは一般的な根菜だ。

 一年通して収穫出来るため、食卓に上がることも多い。

 火を通す前はシャキシャキ、蒸せばほくほく、茹でればしっとりと様々な食感の楽しめる万能食材であり、単品ではあまり主張しすぎないほんのりとした甘みのある味わいは、何に合わせても美味しくいただける。

 地域によってはこのデリガナを主食にしていることもあるらしい。

 

 増えやすく、育てやすいのもまたこのデリガナの美点だ。

 

 一株植えれば飢え知らず、なんて言葉もあるぐらいだ。

 が、このデリガナ、その増えやすさが逆に欠点でもある。

 根菜の類はある程度保存がきくのが常なのだが、デリガナは「根取り」という処理を施さないと、あっという間に根が実の栄養を吸って成長し、食べるところがなくなってしまうのだ。

 私もこれまで何度根取りを失敗してデリガナを駄目にしたことか。

 床下の食糧庫にて、石床になんとか根付こうと広がり、それでも駄目で干からびたデリガナの変わり果てた姿を発見する悲しみはあまり繰り返したいものではない。

 

 というわけで、デリガナは収穫した後に丁寧な根取り作業が必要なのである。

 その日で食べてしまうのなら、別段根取りをする必要もないのだけれども。

 今、私の目の前には山のようなデリガナが積んである。

 とてもじゃないが、一人で即日食べられるような量ではない。

 昨日、騎士が届けてくれたものだ。

 村の人たちからのお見舞いの品であるらしい。

 新しいデリガナを手に取り、くるくると手の中で回しながらちょび、と伸びかけた根を丁寧に落としていく。


「騎士さん良い人じゃないの」

「良い人だから困ってるのよ」


 騎士は、私が頼った以上に私のことを助けてくれた。

 夜ごと迎えに来ては、私を森の奥にある薬草園まで連れて行き、そこでの作業を手伝ってまた家まで送り届けてくれる。


「……あの人、畑仕事まで手伝ってくれるのよ」

「へえ」


 感心したように狩人が相槌を打つ。

 それもそうだ。

 基本的に、貴人というのは土に触れないものだ。

 土に触れるような泥臭い作業はあくまで使用人の仕事であり、貴人がするものではない、というのが一般的な常識なのである。

 

 そして彼は騎士とはいえ、歴とした貴族でもある。


 しかも騎士として貴族の位を得た準貴族などではなく、何代も前から王都守護騎士団長を輩出している名門スターレット家のご令息だ。

 だから、私としても土に触れる作業まで頼むつもりはなかったのに。

 彼は何の躊躇いもなく、当たり前のように黒々とした土の上に膝をつき、私の代わりに薬草の世話をしてくれた。


「…………もうね、大変なの」

「何が」

「彼の好感度が」


 ぶっは、と向かいに座った狩人が噴き出す。

 ええい笑いたければ笑うがいい。

 私は大真面目だ。

 彼と過ごせば過ごすほど、私の中で彼の好感度が上がっていくのは本当にどうしたら良いものなのか。問題は深刻だ。

 顔良し家柄良し性格良しなんて無敵すぎないだろうか。

 何か一つぐらい欠点があっても良いと思う。

 いやむしろこの欠点のなさこそが彼の欠点なのか。

 

「こんなの、好きにならない方が難しくない……???」

「変に気にせず素直に好きになればいいじゃん」

「他人事だと思って」

「実際他人事だからね。むしろ他人事じゃなかった方が大問題でしょうに」


『私、エリオット・スターレットのことが気になってるの』

『実は俺も……』


 なんていうのをつい想像してしまい、神妙な顔になる。


「……それは大問題ね」

「でしょ」


 はあ、と溜息をつく。

 しょりしょり、とデリガナの根を落とす音だけが部屋に響く。




 ――素直に好きになる。

 

 

 

 ただそれだけのことが、私にはこんなにも難しい。

 私の初恋は、割と酷い結末を迎えた。

 あんな思いはもうしたくはない。

 どうせ終わりの決まった恋なのだ。

 彼は、数年後には王都に帰る。

 森の騎士の任期は基本は三年だが、これは大体の目安だ。

 おおよその騎士はそれよりも早く、王都へと呼び戻されていく。

 の場合は二年だった。

 エリオット・スターレットほど優秀な騎士であれば、もっと早く王都に呼び戻されたとしてもおかしくはない。

 むしろそもそも、すでに聖騎士なんていう二つ名を欲しいままにする彼が、今更若手騎士の登竜門的な役職である『森の騎士』になったこと自体がおかしいのだ。

 明日にでも彼が王都に戻ることになったとしても私は驚かない。


 そんな人を、好きになりかけている。

 

 いやもうなんというか。

 こんなことを考えてしまっている辺りでかなり手遅れ感はあるのだけれども。


「お嬢はさ」


 ぽつりと口をひいた狩人の言葉に視線を持ち上げる。


「なんで、騎士さんのこと好きになるのが厭なの?」

「…………、」


 どうして。

 その理由は簡単だ。


「……手に入らないのが、わかっているから」


 好きになれば、苦しむことになるのを知っている。

 最初から終わりの見えている恋だ。

 報われることはない。

 私はまた、騎士が森を去るのを見送ることしかできない。


「……それに」

「ン?」

「……私、彼のこと嫌いになりたくないのかも」

「ハイ???」


 訝し気に狩人がひょいと片眉を跳ね上げた。

 デリガナの根を落としていた手が止まる。


「だって」

「何よ」

「……彼は、とても良い人だと思うの。森の騎士としての役割にも、真面目に対応してくれているし、誠実だわ」

「そうだねえ」

「そんな彼が、私と恋なんかしてしまったらきっとがっかりすると思うのよね」

「??????」


 狩人の頭の上を飛び交う大量の「?」が肉眼で見えたような気がした。

 何言ってんだこいつ、というような顔をしている彼に対して謎のバツの悪さを感じながらも説明を続ける。

 

「恋をして、楽しんで、そしてここを去っていくなんて、と同じじゃない」

「―――…、」


 狩人は、何か言おうとしたようだった。

 言葉に迷うように、唇が動く。

 けれど、結局彼は何も言わずにポン、と私の頭に手を乗せた。

 ふわりとデリガナの青臭さが鼻先で強く香る。


「あのさ、お嬢」

「………何よ」

「それもう結構な手遅れでは??? お嬢もうそれ結構ガチめに騎士さんのこと好きだよね????」

「―――――言わないで」


 私は、彼のことを好きになりたくないと思っている。

 置いていかれたくないから。

 そしてそれと同じぐらい、私は彼が一度は愛し合った女性を置き去りにするような男だとは知りたくないのだ。

 任地の女性と一時の恋を楽しみ、任期があければ何事もなかったかのように王都にしれっとした顔で戻っていくような男ではないと、思っていたいのだ。

 彼には理想の騎士でいてほしい。


 だから、これ以上彼に対する好意のレベルを上げたくない。


 物語の中に登場する騎士に対する憧れのような。

 そんな感情のまま留めておきたい。

 実際に触れて、手が届く恋愛対象であるかのような錯覚はしたくない。

 彼の人となりや仕草に胸をときめかすことはあってもいい。

 けれど、彼を手に入れてしまいたいとは思ってはいけないし、思いたくもない。

 彼から気持ちを返されることを期待してはいけない。

 気持ちの見返りを望んではいけない。

 それはただただ苦しいだけの道だ。


「拗らせてるなー」

「うるさい」


 デリガナの根を投げ返す。

 ひょいと身軽に避けられた。

 ちくしょう。


「俺は良いと思うけどね」

「何がよ」

「お嬢が、恋するの」

「……辛いだけなのに?」

「そこがいいんだよ。そこまで心が動くのって、凄いことだから。安定、なんていったら聞こえは良いかもしれないけど――…、動かなくなった心なんて案外つまらないものだよ」


 さらりと告げられた言葉には、なんだか彼自身の実感が滲んでいるようにも響いて私は手元から視線を持ち上げる。

 しょりしょり、とデリガナの根を削る男は、柔らかな、それでいて苦みを帯びた笑みを口元に浮かべて目を伏せている。


「……………貴方は、恋、しないの?」


 小さく、聞いてみる。

 思えばこの男のそんな話を今まで一度も聞いたことがない。

 随分と長く一緒にいるような気がするのに、私は彼の、私以外との交友関係を何も知らない。

 彼にだって、恋人の一人や二人、否、彼自身の家族がいたっておかしくはないのに。

 あまりにも当たり前のように家族同然の存在として隣に寄り添ってくれているものだから、彼の恋愛事情なんてこれまで考えたこともなかった。

 思考の穴に気付かされたような、不思議な感覚に私は緩く瞬く。


「俺はね」


 穏やかな面持ちで緩く首を左右に振った男の短い答えは、私の問いへの肯定だった。

 手元に落ちた視線が酷く寂しげに見えて、気づいたら口を開いていた。


「私は」

「ん?」

「私は…………貴方のこと、好きよ。貴方の心が、動かなくても」


 恋愛感情では、ないだろうと思う。

 どきどきと鼓動を早くして想うような類のものではないと思う。

 それでも確かに私は今目の前にいるこの男に対して、愛情を抱いている。

 養母を亡くして、一人で生きていかなければと自分自身を追い詰めて何とか一人で立とうと踏ん張る私の傍らにいつでも彼はいてくれた。

 軽口を叩きながら、さりげなく横で支えてくれた。

 今だってそうだ。

 私が弱っているから様子を見に来てくれているし、こうして夕食の支度の準備だって手伝ってくれている。

 

「じゃあさ」


 ふ、と男の口元にいつもの笑みが戻った。

 飄々として、何を考えているのかがよくわからない笑みだ。

 にまり、と私を揶揄うような。


「騎士さんとの恋がダメになって、お嬢がもう恋なんて出来なくなったら、俺の奥さんになる? 」

「え……」


 私も、わざとらしくしかめ面を作って見せる。


「何その嫌そうな顔。今俺のこと好きだって言ってくれた口でその反応は傷つくわー」

「貴方の方こそ、心が動かないなんて言っておきながら傷つくなんて図々しい」

「あっはっは」

 

 軽やかな笑い声に、息を吐く。

 そうして笑い飛ばしてしまえば、なんだか少し肩の力が抜けたような気がした。



 















 迎えに来た騎士とともに、森の奥にある薬草園へと向かう。

 最初のうちは彼の馬に乗せてもらっての道行きだったのだけれども、ここ数日は自分で馬に乗れるほどまでに回復していた。

 薬草園でも、土に足をとられてよろける、というようなこともなくなった。

 そろそろ、彼に手伝ってもらわなくても大丈夫だろう。

 ほっとするような、残念なような気持ちになってしまって、小さく笑う。

 私も随分と現金だ。

 

「魔女殿?」

「いえ、なんでもないの。随分と調子が戻ったな、と思って」

「そうですね。顔色もだいぶ良くなられました」

「それでね」


 改めて切り出そうと思うとなんだか少し緊張してしまう。

 顔を上げると、「?」という顔で私を見下ろす騎士と視線が重なる。

 畑仕事をしているだけだというのに、やはり限りなく顔が良い。

 油断するとただ視線が重なっただけでじんわりと頬が熱くなってしまいそうになる。

 挙動不審にならない程度に深呼吸を挟んで熱を逃すと、私は平静を装いながら言葉を続けた。

 

「明日からは、私一人でも大丈夫だと思うの」

「そう、ですか」

「ええ。今まで手伝ってくれてありがとう。本当に助かったわ」


 彼の手助けがあったおかげで、レニグレラ茸の騒動の翌日には薬草を採取することが出来た。

 レニグレラ茸の解毒薬に使う薬草は調合する前に少し陰干しする必要がある。

 水分を抜くことで、成分を濃縮し、薬効を上げるのだ。

 今頃、最初に摘んだ薬草がちょうど良い具合に仕上がっていることだろう。

 

「それでね、明日あたり村の方にも顔を出そうと思っているのだけれども……」

「―――、」


 一瞬、彼の表情に迷いが浮かんだような気がした。

 どう応えるのが正解なのかを迷うような、そんな顔。

 が、それはほんの一瞬。

 すぐに彼は表情を取り繕った。


「早く村人たちに姿を見せて安心させてやりたい、というあなたのお気持ちはわかりますが、もう少し休まれた方が良いのでは? 何か村に届けるものがあるとおっしゃるのなら、そちらは私が承りますので」

「――……」


 つらつらと語られる言葉。

 歯切れの悪さなど少しも感じさせない。

 あの一瞬の変化を見逃していたのなら、きっと私は違和感の一つも覚えず、ああ心配してくれているのだな、と受け取ってその通りにしたのかもしれなかった。

 だが、私は運よく見逃さなかったわけで。

 

「…………」

「…………」


 じ、と見つめる。

 彼もまた、まっすぐに私を見つめ返す。

 しばし、視線の攻防戦が続く。


「……何か、隠しているでしょう」

「……………………ええ、まあ」


 嘘をつくつもりはないらしかった。

 問われれば応えるが、出来れば隠していたかった、という風だ。

 両手を腰に当て、視線だけでさあ言ってみろと促す。


「実は、その」

「……何よ」

「………王都より、客人の一行が村に立ち寄っているのです」

「客人?」


 私は訝しげに首を傾げる。

 森に纏わる伝承はこの辺りでは有名だ。

 それ故に、近隣国より噂に名高い魔の森を実際に見てみたいといって訪れる物好きもそう珍しくはない。

 それが一体どうして、私を村から遠ざけようとする理由になるというのか。

 首を傾げたままの私に向かって、彼は歯切れ悪く言葉を続けた。


「その客人というのが――…前森の騎士団団長の友人を含む一行だったもので」

「ッ……」


 思わず、言葉を失った。

 ザアと血の気の引く音を聞いたような気がした。

 実際、ぐらりと足元が揺れる。

 一歩、片足を引いて踏みとどまる。


 ザワザワと賑やかな酒場の喧騒。

 男たちの向ける好奇の眼差し。

 そしての幽霊でも見たように瞠られた双眸。

 

 眼奥でフラッシュバックした光景に動揺する。

 そしてここまで動揺した自分にこそさらに動揺した。

 少しずつ、過去のことに出来ていると思っていたのに。

 に捨てられたぐらいなんでもないと思い込むことに成功しつつあると、そう思っていたのに。

 そしてさらに同じぐらい、今目の前にいる彼が私ととの因縁を知っているらしい、ということが何故だか自分でも驚くほど堪えた。

 

「魔女殿、大丈夫ですか」


 彼の手が、私の腕に添えられる。

 暖かな、大きな手だ。


「どうぞ、こちらへ。顔色が悪い。座った方が良い」


 彼に促されて、木陰へと誘導される。

 ぺたりと下草の上に座り込んで、深々と息を吐いた。

 隣に同じく腰を下ろした彼が気遣わしげに顔をのぞき込んでくれるのがわかるのに、目を合わせられない。

 男を誑かし、利用する悪女というイメージは私に着せられた汚名である一方で、鎧でもある。

 私が咄嗟に作り上げた鎧だ。

 そのイメージを演じることで、私は恋人に捨てられた哀れな女であることを隠した。

 失恋の傷を、人に見られまいとした。

 それを、見透かされてしまった。

 消えてしまいたくなるような羞恥と絶望にキリキリと胸が痛む。


「……村の人たちから、聞いたの」

「いえ」


 きっぱりとした否定に、のろのろと視線を持ち上げる。

 澄んだ蒼の双眸に毅然と強い色を浮かべて、彼は否定の言葉を繰り返した。


「詳しい事情は何も聞いておりませんし、彼らもまたあなたの抱える事情をみだりに語ったりなどはしておりません」

「それじゃあ、どうして」

「部下や村人たちが皆、客人をあなたに会せようとしていなかったからです。皆、客人をあなたから遠ざけようとしていました。だからきっと、その方が良いのだろうと」

「――……もう」


 は、と小さく息が零れた。

 きっと、今の私は泣き笑いめいたぐしゃぐしゃな顔をしている。

 そんな顔を見られたくなくて、ぐすぐすと鼻を鳴らしつつ、私は膝を抱え、顔を埋めた。

 そのままドングリにでもなってしまいたい。

 今こそ共感と同化の魔術の使いどころではないだろうか。


「…………ドングリになりたい」

「ドングリ」


 彼が大真面目に復唱する。

 彼の口からこぼれたどんぐり、なんていう可愛らしい音にこんな時だというのに少しばかり笑いがこみ上げそうになってしまった。


「魔女殿」

「なに」


 膝に突っ伏したまま、彼の声に応える。


「あなたがそう望むのなら、客人の一行にはお帰り願いましょうか」

「―――…」


 彼に、追い返して貰う。

 そうすれば、私はの友人らに顔を合わせずに済む。

 それはとても魅力的な提案なように思えた。

 けれども、魅力的だからこそ、情けない。

 森の騎士の役割が魔女の守護だとしたって、これはいくらなんでも職務外だろう。

 彼の善意、彼の厚意による申し出だ。

 村人たちにしたってそうだ。

 森を訪ねてきた客人たちの相手など、本来は魔女である私の役割だ。

 そういった客人らにも森の理を語り、案内し、森のことを知ってもらうようにするというのも魔女の役割の一つなのだ。

 それなのに、村人たちは私のことを守るために客人の存在を隠そうとした。

 それは、良くないことだ。

 けれど、彼らにそうさせたのは私なのだ。

 私の弱さが、彼らにそうさせてしまった。

 傷ついた私を守るために、彼らは善意と厚意でもって私から客人を遠ざけようとしてくれた。


「……ほんっと、情けない」

 

 深い、ため息とともに自虐の言葉がぽつりと零れた。

 私がもっと毅然とした態度をとれていたならば、村人たちは私に客人の存在を隠そうなどとは思わなかっただろう。

 トマスのことだってそうだ。

 村長の私への気遣いが、トマスを危険に追いやった。

 もし村長が決まり通りに解毒薬の補充をしていたのなら、レニグレラ茸が原因だとわかった時点で解決していたし、彼に危険な森の夜駆けをさせてしまうこともなかった。

 

 もう少しでも遅れていたのなら、トマスは助からなかったかもしれなかった。

 助かったとしても、後遺症が残ったかもしれなかった。

 

 今回トマスが助かったのは運でしかない。

 そんな状況に至る原因が自分の不甲斐なさであることが、何よりも辛くて情けない。

 無力感と自己嫌悪に、へこたれてしまいそうになる。

 

「私は、魔女なのに」


 私は、魔女だ。

 自ら養母の後継者に臨み、養母に認められて今代の魔女となった。

 元々は何者でもなく、親にすら捨てられた子である私を養母は後継者として選び、育て、全てを託してくれた。

 それなのに。

 それなのに。

 悔しさに鼻の奥がツンと痛む。

 私の不始末は、そんな後継者を育て、選んだ養母の名を穢してしまう。

 養母は立派な魔女だった。

 そんな養母が最期の最期に犯した失態になど、なってはいけない。

 私は、養母の育て、選んだ魔女として恥ずかしくない存在でなければいけない。


「魔女殿」


 とん、と背中に優しく手のひらが触れた。

 膝に顔を埋め、自分ひとりの世界に落ち込んでいた私に自分の存在を思い出させるかのような、優しい接触。


「あなたの気持ちは、よくわかります」

「………うそつき」


 彼は騎士として完璧だ。

 どこにお出ししたって恥ずかしくない立派な騎士だ。

 スターレット家の家名に恥じないだけの栄誉を欲しいままにしている。


「私にだって、若輩だった頃というのはあるのです」

「聖騎士サマなのに?」

「ええ、聖騎士サマですが」


 彼のしれっとした復唱に、思わず小さく笑いが零れた。

 そんな私に、彼の吐く息に少しだけ安堵が滲んだようだった。


「私は、スターレット家の長男として生まれました。魔女殿は、スターレット家をご存知ですか?」

「ええ、知っているわ。騎士の名門でしょう? 代々アセルリア王国の守護騎士団を率いる騎士団長を輩出しているとか」

「ええ、よくご存知ですね」

「貴方は有名だもの」


 から何度もその名を聞かされた。

 若手の騎士たちが皆こぞって憧れる騎士の中の騎士、エリオット・スターレット。


「では、そんな私が幼少の頃は身体の弱い泣き虫であったということは?」

「貴方が?」


 思わず顔を上げた。

 隣に座る彼は、なんだか複雑そうな顔をしている。

 過去を懐かしむような、それでいてどこか気恥ずかしそうな照れの色を含んだ顔だ。

 その表情に、彼の言葉が嘘ではないのだということがわかった。


「本当に?」

「ええ。怖がりでしたし、都で流行る病は一通りマスターしたかと」

「それは――…ご両親も気が休まらなかったでしょうね」

「母親あたりには、未だに生きて成人出来るとは思わなかったと言われます。実際、私には年のそれほど離れていない弟がおりますしね」

「そう、なの」


 後継者を残すのも貴族の役割の一つだ。

 『魔女』は家柄に縛られず、そう望むものが先代の魔女によって鍛えられ、選ばれて成るものだ。

 だから、血のつながりのない私が養母から魔女の名を継いだ。

 だが、貴族はそうもいかない。

 最悪養子という手もありはするのだろうが、何よりも貴族は血のつながりを重く見る。

 そういったことを考えれば彼の両親が彼の弟を望んだ気持ちもわかるし、そうしなければならなかったこともわかる。

 わりはするのだが……なんだかそれは、酷く残酷なようにも思えた。

 

 病気がちで、いつ命を落としてもおかしくない長男と。

 その長男が命を落としてしまう可能性を考えたからこそに望まれた次男。

 

「だから、でしょうか。私がスターレット家に生まれた男子の務めとばかりに騎士を目指し始めた頃も、周囲は大層心配したのだそうです」

「でしょうね」


 私だって、心配する。


「でも、私にはそれが歯がゆかった」

「…………」

「私は、騎士になりたかった。スターレット家の名に恥じぬ立派な騎士に。両親は健康に育った弟が私よりも先に剣を手に取ることを決めた時には諫めなかった。むしろ推奨したほどだ。けれど、私が同じように剣の道を選ぼうとした時には、揃って私を愛しているのだと言って考え直させようとしました。無理に、剣を取らなくても良いのだ、と」


 それはきっと、悪意によるものではなかったのだろう。

 彼のご両親は、彼がスターレット家の長男に生まれてしまったが故に、無理に剣の道を選ぼうとしているのではないか、と危惧したのだ。

 家名に縛られることなく、自由に生きても良いのだという優しさだったのだと思う。

 けれど。


「私が見どころのある男であったのなら、そのような心配をされる謂れはなかったでしょう。頑健な身体に生まれついていれば、そんな気遣いは要らなかった。だから――…私は、周囲の気遣いが、両親の愛情ですらが、憐みに思えて疎ましかった」


 違う。

 そうじゃない。

 貴方は、愛されていた。

 ご両親から、周囲の人たちから、愛されて、大事にされていた。

 喉元までこみ上げた言葉は、そのまま自分自身にも返ってくる。

 

「貴方は……、それで、どうしたの?」

「ひたすらに、鍛錬に励みました」

「―――…」


 度々思うが、この人はわりと脳筋ではなかろうか。

 問題を筋力で捻じ伏せがち、というかなんというか。


「とは言え、体調には人一倍気を遣いました。私が病に倒れるようなことがあれば、いくら意地を張ったところでやっぱりあいつには騎士など務まらなかったのだと思われてしまうのはわかっていましたからね。それに、誰しもが好意的な目で見てくれているというわけでもありませんでしたし」

「そう、なの?」

「スターレット家の男子といえど、騎士に不向きなものもいるのだ、と。さっさと騎士など諦めてしまえという者も少なくはありませんでしたよ」


 大したことではないというかのように、彼はひょいと肩を竦めて見せる。

 私にはライバルになりうる存在がいなかった分、そういった意味では彼の方が私よりも大変な立場にあったのかもしれない。

 

「だから、魔女殿」


 呼ぶ声に、視線を持ち上げる。

 澄んだ蒼には労りと、柔らかな愛情の色が浮かんでいる。


「私には、あなたの気持ちがとてもよくわかる」

「…………」

「そして、私も、あの時私にとっては疎ましかった人たちの気持ちが、とてもよくわかってしまった」

「…………」


 何も、言えない。

 私だって、わかってしまった。

 彼の話を聞いて、彼の周囲にいた人々の気持ちがわかってしまった。

 家の名に縛られず、重圧に潰されて欲しくないと思う両親の気持ち。

 病弱だった彼のことを心配し、無理をして欲しくないと思う周囲の気持ち。

 私だってその頃の彼の近くにいたのならば、彼が騎士を目指すなどと言い出したらきっと止めていただろうと思う。

 

「あなたは、立派な魔女だ。例えあなた自身ではそう思えなかったとしても」


 そ、と伸ばされた彼の手が、私の頬に触れる。

 親指の腹が、目元に滲んでいた涙を拭っていく。


「あなたの理想に向かって努力し続ける姿勢はとても尊いとも思います。ですが、甘えられるところでは甘えてしまっても良いのです。あなたなら、ちゃんと見極められるはずだ。意地の張りどころを間違えてはいけません。あなたに何かあっては、皆が悲しむ。当然、私も」


 意地の、張りどころ。

 そんな言葉は、ストンと私の胸の収まるべき場所に落ちた。

 考えるより先に、ふと唇から言葉が零れる。


「私ね」

「はい」

「ずっと、貴方なんて好きになるものか、て思ってたの」

「…………、はあ」


 彼は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしつつも相槌を返してくれる。

 律儀だ。


「だって、貴方はいつか王都に帰る人だもの。そんな人を好きになっても苦しむだけだって。また置いていかれるだけだ、って」

「…………」

「でもね、それでもいいかな、って思ったの」

「それは」

「今、この時、貴方を好きだと思う気持ちを楽しむことにするわ。いつか、貴方が王都に帰ったとしても、私は貴方を恨んだりはしない。最初からわかっていたことだから。貴方がこの森を去っても、私は貴方のことを忘れない。貴方のくれた言葉を、大事にしたい。変な意地を張って大事な言葉を受け取り損ねてしまうよりも」

「あの、魔女殿」

「何も、言わないで。ありがとう――私の、騎士」


 そっと、手を伸ばす。

 自分から彼に触れるのは、これが初めてかもしれない。

 男らしく整った輪郭に触れて、引き寄せる。

 途方にくれたような顔をしている騎士は、されるがままだ。

 彼を戸惑わせてしまっている。

 申し訳ないような、笑い出したいような。

 そんな混沌としたテンションのまま、触れるだけの柔らかな口づけを贈る。

 驚きに瞠られる澄んだ蒼の双眸を覗きこみ――、渾身の邪眼を叩き込んだ。

 双眸に魔力を込め、視線を重ねることで発動させるというだけで仕組みとしては同化、共感を軸とした魔女の術とそう変わらない。

 ただ私の人とは違う色をした赤紅の眼は、魔術の媒介としては比較的優秀だったというだけで。

 視覚に頼りがちな生き物、つまりは人間などには効果は抜群だ。


「忘れてね、全部。これは私の勝手な決意だから」

 

 澄んだ蒼に紗がかかるように、その美しい色合いが幽かに曇る。

 それから数度の瞬きを経て、彼は我に返ったようだった。


「魔女、殿?」


 白昼夢でも見ていたかのような曖昧さが声にも僅かに滲んでいる。

 けれど、それも少しの間だけだ。

 きっとすぐに、彼は元に戻る。

 今の、たった数分の記憶だけを深くに封じて。


「さ、帰りましょうか」

「ええ、お送りしましょう。もう、具合の方は?」

「大丈夫よ、ありがとう。で、明日、村に向おうと思うのだけれども」

「良いのですか?」

「ええ。泣き言を吐いたら、すっきりしちゃった。でも……、困ったら、助けてもらっても良いかしら」

「もちろんですとも。いつでも、あなたが呼んでくださるのなら」

「ありがとう」


 私の、騎士。

 そんな言葉は心の中だけで、呟く。

 そうして、私たちは薬草園を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 して。

 送り届けてもらった自宅にて。


「―――彼に告白しちゃった」

「お嬢展開早すぎない?????」

「で、邪眼かけて記憶消してきちゃった」

「何やってんの???? ねえ本当何やってんの?????」


 狩人の突っ込みが夜の静寂しじまに冴え渡った。

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