初夜・5

 ムテの霊山は祈りの場でもあり、薬草の宝庫でもある。

 たくさんの洞窟、沢、丘陵、岸壁があり、さらに高低差よる寒暖が様々な植物を育んでいた。そしてここで薬草採取を許されている者は、ムテの神官に仕える者と癒しの巫女たちだけである。

 エリザも癒しの巫女として村に帰る日がきたら、豊富な知識と薬草を採取する権利をもとに、恵まれた生活が待っていることだろう。

 祈りにも薬草は貴重なものだ。ムテは力を発すると、寿命を削るといわれている。薬草は、ムテの魔力を増幅し、寿命を長らえる働きがあるのだ。


 薄暗い洞窟は、ひんやりしているのかと思えば、風がさえぎられていてむしろ暖かかった。ところどころ、天井に穴が空いていて天然の光が差し込む。水晶の混じった白っぽい岩肌が光を反射させて、洞窟全体を薄明るくしているのだ。

 このようなところが、竜花香の自生には適している。彼らはわがままな花で、日差しが強ければ枯れてしまい、光がなければしおれてしまう。暑さを嫌い、寒さに弱い。

 まるで、最高神官の結界に守られて生きるムテそのもののようだった。

 最近、誰も足を踏み入れていなかったのだろうか? 意外なほど簡単に、竜花香は見つかって、エリザは無我夢中で摘みはじめた。

 たくさんの薬草を持って明るいうちに帰れたら、もしかしたら少しは見直してもらえるかも知れない。そんな期待がエリザの胸の奥に広がっていた。


「今、籠に入れたのは香り苔です」

 突然声が響いた。

 驚いて思わず籠を落としてしまった。

 銀色の影がすっとあらわれて、籠の中身を確かめるように身をかがめた。

 エリザは、その人を仕え人の一人だと思った。おそらく、さすがに気の毒に思ってくれて、助けに来てくれたのだろうと思ったのだ。

 その人は、籠の中身をじっと見つめると、中の薬草をより分け始めた。長すぎるほど長い銀の髪が、彼の顔を隠していた。

 エリザもあわててしゃがみこむと、一緒になって見よう見まねで草をより分けようと、籠の中に手を突っ込んだ。同時に同じ草をとろうとして、二人の指が重なった。

 一瞬の硬直……。

 彼の手は、仕え人たちと同じように白く細く滑らかだったが、ほんのりと温かかった。

 銀色の髪の向こう、透けて見える横顔は、まだあどけない少年に見えた。

 エリザに見つめられているのに気がついたらしく、少年もエリザのほうを向いた。銀色の瞳はやはり仕え人たちと同じであるが、どこかほんのりと温かい。

 エリザの脳裏に、閃光のように昨夜の事件がよみがえった。

 血が逆流するのではないか? と思うほどに心臓が踊った。あっという間に頭に血が上り、エリザは顔から火がでそうだった。

 信じられない。

 最高神官は、今は山の一番高い位置にある祠に篭って、ムテのために祈りを捧げているはずなのだ。ここにいる人が最高神官であるはずがない。


 初めての時も、昨夜もそうだった。

 彼は存在感のある人物なのにもかかわらず、手を触れることのできる距離になるまで、エリザは彼の気配を感じることができなかった。空気のようにそこにいる。

 エリザの戸惑いをよそに、最高神官は再び籠に目を移すと、より分け作業を続行した。

「日に当てると色がまったく違うのですが、ここでは同じ色に見えますね。ですから、葉のつき方に注意して区別するのです。ほら……」

 エリザのほうに、最高神官は二種類の薬草を広げて見せた。

 見た目はまったく同じに見える。しかし、彼はあらゆるところを指先で指し示し、薬草の違いを説明してくれた。

「……竜花香は、このようにか細い葉を持っているとはいえ、苔とは違います。だから、このように、互い違いに葉をつけています。わかりますか?」

 エリザはすぐには答えられなかった。

 説明は聞いていた。だが彼女の目は、薬草よりも、それを反したり広げたりして見せてくれる美しい指先に囚われていたのだ。

 返事がないのはわからなかったからだと判断したのか、最高神官はもう一度薬草を広げて見せた。

「……あ、あの!」

 説明の言葉が始まる前に、エリザは我に返ったように声をあげた。

 この人が最高神官ならば、謝らなければならないことがある。最高神官は、薬草を持ったまま、首をかしげてエリザを見ている。

エリザは緊張していた。言おうとした言葉がなかなかでない。時間が過ぎれば過ぎるほど、この息苦しい時間は長引いてしまう。

 一瞬のことなのに……。エリザはつばを飲み込んだ。

「サリサ・メル様……とお見受けいたしました。私は巫女に選んでいただいたエリザと申します。昨夜は、私が至らぬばかりに、大変なご無礼を働いてしまい、申し訳ありませんでした。以後、気をつけますので……」

 午前中からずっと考えていた詫び文句だ。

 エリザは頭の中の文章を、朗読するように読み上げた。頭が白くなりかけていたが、かなりうまく言えている。

「……よろしくお願いいたします」

 最後の一言を言い終えたあと、エリザは肩の力が抜けて、思わずほっと息をついてしまった。

 最高神官は、何とおっしゃるのだろうか? エリザはうつむいたまま、言葉を待ったが、何の反応もない。さらに怒らせてしまったのだろうか? いても立ってもいられずに、おずおずと顔を上げてみる。

 最高神官は、やや不機嫌そうな顔をして、エリザをじっと見つめていた。

 刺すような痛みを胸に感じて、エリザはすくみ上がってしまった。余計な口を利いてしまったに違いない。それなのに、さらに余計な言葉が思わず飛び出てしまった。

「……ごめんなさい! 私……あの、あなたが嫌いなわけではないんです! ただ……その……実は何でもありません!!!」

 なんと間の抜けた説明なのだろう? 何でもないならば、昨夜は何だったのだろう。

 エリザは、昨夜と同じように目をぎっちりと閉じて震えていた。


 突然、くすくすと笑い声が聞こえた。

 意外な反応に、エリザは顔をあげ、目をひらいた。最高神官は口元に手を当てて笑っている。

「……そうでしたか。不愉快な思いをさせてしまいましたね。謝らなければいけないのは私のほうです」

 そういうと、最高神官は少年らしいあどけない表情をみせた。

「昨夜は私にとってもはじめての夜でした。仕え人たちは、私をマサ・メル様と同じような成熟した男として扱うので、ほとほと困っていたのです。あなたのことを拒否して去ったわけではありません。あの人たちの言いなりになって、すべてをなすことが嫌でした」

 そういうと、最高神官は籠を持って立ち上がった。

 あっけにとられて見ているだけのエリザの横を通り過ぎると、かすかに日差しがあたっている岩の上に、籠の中身をひっくり返して広げた。

「こちらはすべて、香り苔です。竜花香は、あなたの足元に置きました」

 エリザはそっと足元を見た。

 そのとたん、思わずがっかりした声をあげていた。籠いっぱいどころか、これでは籠など要らない。手に持って帰ることのできる量だ。

「香り苔も悪くはありません。このようにして干しておいたら、とても安らかな香りが立つ。枕に入れるといいですよ」

 振り返ることもなく、最高神官は香り苔を広げている。落ちてきた光に、銀色の髪がきらきらと光った。それは結界の粒子ではない。

 なぜか、じわりと熱いものがこみ上げてきた。涙で潤む目で見ると、岩に反射した日の光が、まるでムテの結界のように、銀の星に輝く。

 エリザは竜花香を持って走りよると、空になってしまった籠に入れた。そして一緒になって香り苔を広げはじめた。

 日差しにあたった香り苔は、モスグリーンの淡い色を見せ、わずかに香りが立った。籠の中で青みを帯びている竜花香とは、やはり違う植物なのだ。

 日差しの中の最高神官は、整った顔立ちをしているが、やはり人形とは違う。あの仕え人たちともまったくちがう。エリザが一緒になって苔を広げはじめると、彼はうれしそうに微笑んだ。その笑顔が何ともいえない。

「香り苔でもいいのですよ」

 最高神官はそう言ってくれた。


 おつとめは一瞬で終わります……と、仕え人は言った。

 この人と一緒に、ずっといたい……と、エリザは思った。

 もしも昨夜、その一瞬を我慢して耐えたら、そのように思える今はなかったかもしれない。昨夜は本当に怖かった。忘れたい一夜だった。

 それなのに、もしかしたら抱かれていたかもしれない腕や胸に、エリザの視線は時々止まってしまう。まだ成熟していない細い腕と薄い胸だ。

 この腕も胸も、戸惑いがあるのだろうか……? 

 そう思って、エリザは真っ赤になった。心臓が爆発しそうに激しく打つ。

 苦しいはずなのに、この時間が長く続けばいいと思う。

 時間は瞬く間に過ぎ去った。


「私は祈らなくては……」

 差し込む光が弱まってくると、最高神官は寂しげにつぶやいた。

 彼ともう少し一緒にいたかった。しかも、薬草で埋まらない籠をどうしたらいいのか、憂鬱になる。

「大丈夫。あの人たちはわかっています。これ以上摘んだら、竜花香の元株まで無くしてしまうことくらい」

 最高神官の一言に、エリザはあることに気がついた。

 最初から籠は埋まらない。それを承知で、仕え人たちはエリザに無理難題を押し付けたのだ。それでも彼らはエリザの仕事ぶりを見て、冷たい眼差しを送るのだろう。

 彼らは充分過ぎるほど大人で、しかも先代マサ・メル時代からここにいる。急激な変化を好まず、未熟な若者を嫌うのだ。

 エリザが泣いて家に帰るとでも言えば、今の段階ならば新しい巫女姫を急遽選びなおすことが可能であろう。

 それはきっと、最高神官サリサ・メルにとっても、あまりいいことではなさそうだと、エリザは感じた。

「私、負けないです」

 はかなげに見える少女が、突然、勇ましい言葉を口にしたので、最高神官は目を見開いた。エリザは急に恥ずかしくなった。

 いじめられている……と思っているのは、自分の勘違いかもしれないのに。

 そして、同じような思いを最高神官も味わっている……なんて思うのは、浅はかな妄想なのかもしれない。

 でも、言葉以上に、表情は豊かに心を伝える。

 きっと、この人も戦っている。

 この人のためにも負けたくない。

 最高神官は、けなげな少女の決心など気が付いていないのかもしれない。

 絹の長衣にまとわりついた苔のクズを、両手でぱらぱらと払っていた。今、最高神官は祠で祈り続けていることになっている。

「香り苔ですが、明日にはきっと縮んで持って帰れる量になっていますよ。もしも、明日も明後日でも、いつでもここにくることがあったら……」

 そういうと、神官はうつむいて親指の爪に唇を当てた。

「……また、祈りの途中、ここで休んでいることもあるかも知れません。

 だからあなたは少しだけでいいですから、私を探して、もしも眠っていたら起こしてくれてかまいません」

 少しだけ……その言葉に、エリザは切ないきもちになる。

 最高神官の仕事は厳しいのだろう。あえない可能性のほうが高いのだろう。

「一生懸命、お探しさせてもらいます」

 エリザは小さな声で答えた。

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