第3話 其は真白の本なり

「イザベラ様!」


 バタバタと大きな足音を立てながらメイドのイオネが温室の中へと入ってきた。普段は大人しく淑やかなイオネがここまで慌てることはない。

 いったい、何があったと言うのだろうか。


「あら、イオネ。そんなに慌てていったいどうしたの?」

「イザベラ様っ。伊織いおり様が……、伊織様が戦火に巻き込まれてお亡くなりになられました!」

「えっ……?」

「フェルトリタ大公国へ向かう道中、滞在していた村がセレモンド王国軍に焼かれたとの報告が……」

「そんな、そんなっ! ありえない。伊織が死ぬなんてありえないわ。だって、だってまた来月会おうって約束したのよ!」

「ですが、ですがイザベラ様。伊織様のご遺体が」

「やめて! 伊織が、伊織が死んだなんて嘘よっ!」


 それはイザベラにとって最悪の知らせだった。


 イザベラと伊織が出会ったのは今からもう十年も前のことだ。ハルステア王国のリッドナー伯爵令嬢であるイザベラと、梅廉国の商人一家に生まれた伊織。本来ならばそう簡単に出会うことのないはずの二人が出会ったきっかけは、伊織の父親がリッドナー伯爵家に行商人として出入りしていたことによる。

 当時、まだ十歳になったばかりのイザベラは、年の離れた二人の姉がすでに家を出ていたため、遊び相手がいなくなってしまったことで大好きな読書にのめり込むようになっていた。元々、それほど外に出て遊ぶことの少ない大人しい少女ではあったのだが、さすがに一日中屋敷の中に閉じこもっているのは健康によくないと思われたのだろう。そんな時、リッドナー伯爵がイザベラの前に連れて来たのが、すでに行商人として働き始めていた伊織だった。

 出会ってすぐのころは身分の違いから、伊織はほとんどしゃべることはなかった。しかし、イザベラと同じように読書好きであったため、それほど時間をかけずに仲を深めることとなる。

 イザベラが読む本のほとんどは、ハルステア王国で発行されたものだ。日々の授業で用いるハルステア王国史や生物や植物について収められた事典を始め、童話や詩歌、小説など、ハルステア王国内についての情報やそれに連なるものが多く記されているものばかりで、他の国で発行されている本は両手で数えられるほどしか持っていなかった。

 それに比べて、伊織は行商人として、それ以前からも家族と共に仮拠点を置く梅廉国を始め、ハルステア王国やセレモンド王国、フェルトリタ大公国にベイリーウス王国など幼いころから様々な土地を渡り行商を行っていたため、イザベラよりも様々なことを知っていた。知ったと言うよりも、身に着けたと言うほうが正しいかもしれない。それぞれの国には世界共通語以外にも国別どころか地域別で独自の言語を話す者もいる。イザベラはそれを知識として知ってはいたが、実際に会ったことはなかったので伊織からそれぞれの土地に伝わる歴史や食などについての話を聞いて、それはもう驚いたそうだ

 それから伊織が行商で屋敷に訪れるたび、イザベラはハルステア王国について様々なことを伊織に教えた。その代わりに伊織はイザベラに対して他の国について様々なことを教える。イザベラは等価交換と称していたが、実際は短い期間しか屋敷に滞在しない伊織を長く引き留めるための言い訳だとイザベラのメイドたちは言う。

 そのイザベラ曰く等価交換は、時には簡単な魔法や魔術道具を使用することもあった。魔法や魔術道具にも様々な種類があり、屋内で使えるものや屋外でしか使えないものと分かれていたため、イザベラは屋敷の庭へ出ることも多くなっていたと言う。

 元々、イザベラと伊織の出会いはイザベラの父であるリッドナー伯爵が、屋敷の中に引きこもりがちだったイザベラを心配したことがきっかけだ。リッドナー伯爵は、屋敷の庭へ出て伊織と共に魔法や魔術道具を使用するイザベラの様子を見て、それはもう喜んでいたらしい。

 そんなある日のことだ……。


「イザベラ」

「なあに?」

「今日は君に贈り物を持ってきたんだ」

「贈り物?」

「うん。贈り物だよ」


 イザベラは伊織から小さな錠前のついた真白の本を手渡された。表も裏も、どこもかしこも真白の表紙。それはイザベラが今まで見たことも、手にしたこともない本であった。


「これは、どういう本なの? 日記帳かしら」

「ははっ、違う違う。日記帳なんかじゃないよ。それはちゃんとした本なんだ」

「でも、真っ白よ? 題名も作者の名前も書かれていないなんて、おかしくないかしら?」

「どこもおかしくないよ。まずは実践あるのみってね。はい、とりあえずこの鍵を使ってみて」


 そうして新たに手渡されたのは、小さな錠前の鍵穴にピッタリの細い鍵だった。小さな錠前とセットなのだろう。どちらにも、真白に輝く石が埋め込まれている。

 ――カチ、カチリ。イザベラが恐る恐る鍵を開けたその瞬間、真白の本は全く違う本へと姿を変えていた。


「えっ、ど、どういうことかしら!」

「ふははっ、いい反応をしてくれるね」

「ちょ、笑ってないで説明しなさい! 伊織!」

「あははははっ!」


 それは、魔法の本だった。

 真白の本は、鍵を開けることで世界中の様々な本に姿を変える魔法が施されていると伊織は言う。しかも、それは日替わりで別の本に姿を変えるそうだ。本の内容は様々で、世界中の絵本や童話、詩歌、小説に事典、またある時は地図、海図、絵画集など幼い子ども向けから専門書まで多種多様に変化する。

 イザベラはそのような本を見たことはなく、最初は半信半疑だったようだ。しかし、翌日、鍵を開けてみると真白の本は昨日とは別の本に変化した。それが毎日毎日、一日ごとに変化していくのだ。これには伯爵令嬢として教育を受けているイザベラも信じる他なかった。


 そして、その本は今もイザベラのもとにある。

 ――カチ、カチリ。鍵を開けるたその瞬間、真白の本は鮮やかな色に染まっていた。

 あの日から十年近く経つが、真白の本は今も変わらず一日ごとに真白から様々な色に変化している。

 しかし……。


「こんな時ぐらいっ、伊織と最初に読んだ本に変化しなさいよぉ!」


 真白の本は、魔法の本である。

 鍵を開けると日替わりで世界中に存在する本の一冊を読むことができる不思議な本。欠点は持ち主がその時読みたいと願う本の一冊を選んで変化することはできないという点だ。あの日読んだ思い出の一冊を、今日の気分で読みたいと思ったあの一冊を……、たとえどれだけ願おうとも、その一冊に変化するのはいつになるのか分からない。もう二度と読めないことだってあるのだろう。


「それでも、この本を贈るかいぃ?」

「うん。だって、イザベラは王妃様になるんだ。それなら、たくさん知識を得られたほうがいいだろ?」

「まあ、君がそれでいいって言うならいいんだけどねぇ」

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